ちはやぶる

八神真哉

文字の大きさ
30 / 91

第三十話  鷲尾三郎義守

しおりを挟む

東対の孫廂に墨をする音が響く。
姫、肝いりの手習いが始まった。
几帳で仕切られ、炭壺がいくつも置かれ暖かい。

だが、そこにはイダテンと、三郎、そしてミコの姿しかない。
強制ではないとはいえ、参加する者がいかにも少なかった。

理由は様々だろう。
畏れ多い。
失礼があってはならない。
着ていく衣がない。

また、貧しい者ほど、幼いうちから親の仕事を手伝っている。
断れぬ立場のはずの喜三郎や九郎たちも、世話をしている幼き者たちが、イダテンを怖がるとの理由で姿を見せなかった。
確かにそれもあるのだろう。

だが、それとは別に、イダテンと親しくなった三郎を許せぬのだろう。
自分が原因だけに、どうしてやることもできなかった。
自分が、この地を離れたのちの和解を期待するしかない。

思いを振り切るように読み書きを学んだ。
自分でも驚くほどの吸収力だった。
一人で学べるよう、いくつかの書物も借りられることになった。

三郎は目を輝かせ、元服したときの名前の相談をしていた。
漢字にしたらどうなるのかと。
「ヨシノモリですか、ずいぶん古風な……ああ、皇子様の供をした先祖の名ですね。立派な名を継ぐのですね」

「名前負けといわれそうですが」
常とは違い、三郎があらたまった口調で答える。

「よい、励みとなりましょう」
姫は、照れる三郎の目を見て微笑んだ。
「そうですね。今であれば……」
筆をとり、いくつもの候補をあげた。
三郎は意味を問い、考え込んだ。

結局、「義守」が気に入ったようだ。
ミコの名は、正式には倫子(みちこ)らしい。
姫の書いた手本を真剣に写している。

それは諱と言うもので、特に男の人に教えてはならないと注意されていたが、
「イダテンにも?」
と、尋ね返し、姫の笑いを誘っていた。

『長恨歌』を書き写していると、姫が丁寧にたたまれた赤墨色の直垂を、イダテンの前に置いた。
なにごとかと顔を見ると、
「袖口がほつれていますよ」
と、微笑んだ。

確かに筆を握った右の袖口にほつれがある。
山に入った時に引っかけたのだろう。

「繕いましょう」
言っている意味がわからない。
「できるのか、という顔をしていますね。料理などはやらせてもらえませんが、衣の仕立ては妻の仕事。これだけは習わせてもらえるのですよ」

仕立てや針仕事が、できるのか、できないかではない。
鬼の子の衣のほつれを直そうという感覚がわからない。
気になると言うなら誰かに任せればよいだろう。

      *
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

征空決戦艦隊 ~多載空母打撃群 出撃!~

蒼 飛雲
歴史・時代
 ワシントン軍縮条約、さらにそれに続くロンドン軍縮条約によって帝国海軍は米英に対して砲戦力ならびに水雷戦力において、決定的とも言える劣勢に立たされてしまう。  その差を補うため、帝国海軍は航空戦力にその活路を見出す。  そして、昭和一六年一二月八日。  日本は米英蘭に対して宣戦を布告。  未曾有の国難を救うべく、帝国海軍の艨艟たちは抜錨。  多数の艦上機を搭載した新鋭空母群もまた、強大な敵に立ち向かっていく。

処理中です...