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第5章 この腕に帰るまで

159 アーヴァインは君を捨てたよ

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 夢と現実が、交ざり合っていく。

 薄暗い団地の廊下。重いドアを開けた向こうにある、肌寒い……誰もいない、部屋。
 これは夢だと思う自分がいる。
 同時に、ヨーロッパのような街並みの不思議な世界の方こそ、夢だったと思う自分もいる。いったい……どちらが本当の現実……なのだろう。

 呼んでも、誰も応えない。
 たった一人で暗い場所にうずくまっている日々が続く。
 一度はまり込んだなら出られない。もう二度と、日の当たる場所には出られないのだと……言った人は誰だっただろう……。
 笑いながら「もう少ししたら……大人になったら、ウリもできる」と笑った人は……。 

 頭の芯が痺れてくる。
 この……花のような甘ったるい匂いは危険だと……思うのに逃れられない。

 誰かが「手を洗っておきなさい」と言っていた。
 優しく静かに微笑みながら、俺の手を取ってそっと口づけた……あの人は……。

「ヴァ、ン……」

 鎖の音がする。
 足と指先は凍るように冷たいのに、身体の芯は煮え立つように熱く疼き続けている。どこからか笑い声が聞こえてくるような気がする。
 現実か夢の声なのかは判別ができない。
 ギラギラした視線で、「俺の言うことを聞けよ」と言う。

 あれは……俺の鞄を奪った同じクラスの……慎介しんすけと。
 俺とは住む世界の違う、スクールカーストの頂点に居るような奴だ。威圧的で。とにかく何かと俺に手を出してくる。
 自分に手に入れられないものは何も無い……とでも言うように。当たり前のように人の賞賛を浴びて、誰もが自分の言う通りになると、信じて疑わないような……奴。

 何も持っていない俺なんかの……相手をする必要は、ないのに。

 放って置けばいい。

 ……放って?

 あの日、真っ暗な地下道で出会った。

 歩けなくなった俺を軽々と担ぎ上げて、あたたかな家でブランケットに包んで抱きしめてくれた人がいる……。
 放って置いてくれても良かったのに。
 何度も、耳元で囁いた。「大丈夫」と。

「う……」

 震える背中を撫でながら、温かくて大きな手で俺が心から安心していられる場所を作ってくれた。何度も「ここは、安全だから」と。

 大丈夫。安心していい。

 誰も……君を、傷つけることはできない。

 傷つけさせない……。

「ヴァン……」

 明るいお日様のような、クリームイエローの髪と緑の瞳の人。
 国で一、二を争うほどの大魔法使い。お伽噺とぎばなしに出てくる王様みたいに気高くて、魅力的な顔立ち。優しく響く声。温かい腕……。
 俺とは住む世界が違う。
 この国の、宝物のような……人。

「う……ヴァ、ン……んんっ……」

 寒い。いや、燃えるように熱い。
 俺は何故、こんな場所にいるの……だろう。
 記憶が繋がらない。
 思考がバラバラになって、夢の中に囚われているような感覚。

「あぁ……本当にしぶといですね」

 声がした。
 ゆるゆると視線を上げると、薄暗く広い場所に人が……二人、立っている。俺と……あまり歳の変わらないような青年と、もう一人は――。

「……ス、トルアン……」
「まだ意識があるとは驚きです。やはり異世界人は、我々と身体や精神の造りが違うのでしょうかね、興味深い。チャールズ、アレには触れるようにはなりましたか?」
「いいえ、まだ守りの魔法石のガードが効いています」

 床に座り俺を監視していた青年が、立ち上がり手を伸ばす。
 あと少し……の距離で、青年の手は勢いよく弾かれた。痛みがあったのか、軽く指先をさすっている。

「意識はかなり混濁していますが、よほど触られるのが嫌なのでしょう。身体の疼きはそうとう辛いはずなのに、いまだ抵抗し続けています。精神の方から堕とすのは時間がかかるかもしれません」
「ふむ……」

 ストルアンがあごをさする。
 俺は肩で息を繰り返しながら、意識を繋いで睨み上げた。そうだ……俺は、こいつらにさらわれて、ここで鎖に繋がれている。
 俺の力を利用して危険なことをしようとしている。
 この力は……絶対に、明け渡しては……いけない。

健気けなげなものですね」

 ストルアンが口の端を上げて嗤った。

「アーヴァインが助けに来てくれると、信じているのでしょう?」
「……ヴァン、は……」
「来ませんよ」

 静かに、力を込めてストルアンは言った。

 ヴァンは……来ない。

 言葉の意味が俺の中に浸透していくまで、時間がかかった。
 その間に、ストルアンは歪んだ笑みを顔に張り付けて言う。



「大切だ大切だと言いながら、彼は、君を探すことをあきらめました」



 俺を探すことをあきらめた。
 そう……ヴァンが、言ったのだろうか。

 ストルアンは……俺が、どんな反応をするか、面白がるように顔を歪めている。

 俺は感情を消した視線で、次の言葉を待つ。
 その表情を絶望の顔と思ったのか、愉快だと言うように続けた。

「あれだけ手塩にかけていたというのに、消えた子は忘れ、新たな子を自分の横に立たせましたよ。甥っ子のクリフォードを。アーヴァインは愛し子をすげ替えて、大結界再構築の場に向かったのです。……ですから、ここには来ません」

 大結界再構築の場に向かった。

 七夜目が……最後の夜が始まった。
 俺がさらわれてからまだ半日。一昼夜にもなっていない、ということか?

「自分が捨てられたという事実に、声も出ませんか?」

 くくく……と喉を鳴らす。

 ――その言葉に、俺は視線を落とした。




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