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第5章 この腕に帰るまで
157 拘束
しおりを挟むゆるゆると……深い闇の中から、意識が浮上していく感覚があった。
最初に感じたのは匂い。
甘ったるい、独特な花の匂いはどこかで嗅いだことのあるものだと思った。
それからひやりとした空気。湿気……水の音。ざわざわと何か、人や獣ではない蠢く物の気配。
あぁ……ここは危険だ、と思った。
本能的に。
こんな場所に居てはいけない。
俺のいる場所は違う。温かかくて柔らかな日差しの降り注ぐ場所だ。
優しい……腕のある場所。
耳元で「リク」と囁いてくれる、ヴァンの眼差しのあるところ……。
「っは!」
目を見開いて顔を上げた。
と、同時に、頭上でチャリと鎖の音が鳴った。
一瞬自分がどこにいるのか分からず息を飲む。薄暗い……けれど、まったくの闇ではない。冷たい石の床の上を、俺を中心にして複雑な模様の魔法円が広がり、淡く発光しているせいだ。
その円の中心に、俺は膝立ちでいた。
両腕は上に伸びて、指先が冷たく痺れている。
手首に嵌っているいるのは分厚い革の手錠だろうか。そこから……高い天井に向かって太い鎖が伸びていた。
軽く腕を動かす。
鎖は簡単に引きちぎれるようには見えない。
何故、こんなものが……つけられているのか……。記憶が飛んでいて繋がらない。
最後に覚えている景色は……確か、祭壇のある夜明けの広場。城の屋上近くに作られた、空中庭園ような空間だ。そこで儀式に挑むヴァンを迎えに行った。
六夜目を終えたヴァンが……俺の方を向いて頷いて、そして……。
ハッとして胸元に視線を向けた。シャツの襟の隙間には、首のチョーカーから下がる守りの魔法石が視界の隅ギリギリに見える。
「やっと、目を覚ましましたね。リク様」
聞き覚えのある声が響いた。
ゆっくりと顔を上げる。
そこには、ゆったりとした法衣を身に着けた青年が、柔らかな微笑みを浮かべながら、俺の方に歩いて来ていた。
「……チャールズ」
「魔法にも耐性があるのでしょうか? 意識が戻るまで、もう少し時間がかかると思っていましたのに」
「これは……どういうことだ?」
ゆっくりと立ちあがろうとして、膝に力が入らないことに気が付いた。
軽い魔法酔いの感覚。強力な魔法を強引に掛けられた気配だ。
チャールズを名乗る青年は軽く首を傾げてから、楽しそうに瞳を細めて答えた。
「やっと、偉大な魔法使いの物になれたのです」
「……何を言って……」
「この日を心待ちにしていましたよ、リク様」
チャールズの言葉の意味が分からない。
「俺は、ヴァンの……アーヴァイン・ヘンリー・ホールの側にいる者だ」
「それはもう、過去の話です」
笑顔のまま答えて、人の気配にチャールズは後ろを振り向いた。
薄暗いドーム状の向こう、廊下になっている出入り口側から見覚えのある人が、頭を覆いで隠した数人の貴族……のような人たちを連れて歩いて来た。
「ストルアン……」
魔法院に所属し、国王の補佐官も務めるストルアン・バリー・ダウセット。
能力はヴァンに次いで高く、三大魔法使いの一人と讃えられている者。そして……この六夜、ヴァンと共に大結界再構築に従事していた人物。
そいつがこんな得体の知れない場所で、鎖に繋がれた俺を見降ろしている。
「どうです? 様子は」
「戒めの魔法はほぼ解けています」
「触れますか?」
ストルアンの問いに、近づいてきたチャールズが俺の顔に手を伸ばす。が、手のひら一つ分くらいの距離で、弾かれるように跳ねた。
「守りの魔法石が最大警戒の状態で発動して、今はもう、触れることはできません。両手を拘束したタイミングが、ぎりぎりだったようです」
「ふむ……意識が無くとも発動するとは、その子の自身の判断ではなく、石に込められた術式によるものでしょうね。また複雑なことを……この器用さだけは賞賛に値する」
チャールズとストルアンが、まるて品物を値踏みするかのように俺を見降ろす。
俺は震える足に力を入れて立ち上がった。
鎖の長さは俺の両肩まで。それより下に腕を下ろすことができない。荒い息で二人を睨み返した。
「こいつを、外せ」
ちらり、と視線を合わせるストルアンの冷たい瞳が嘲笑するように細められる。
「外してほしい……と?」
「当たり前だ! ヴァンの所に帰せ!」
「それは諦めて下さい」
二年半前にも聞いた、同じセリフが返った。
「あなたは貴重な素材であり取引材料です。もう、日の下に出ることはありませんので早々に諦めて、その首の守りの魔法石を外すことです」
「これは……ヴァンにしか外せない」
「そうですか」
それほど残念でもなさそうな声で、ストルアンは返した。
むしろ残虐な笑みを浮かべて、俺を見つめ返す。
「……では、あなたの精神が壊れるか魔法石が砕けるまで、責め苦を負わせるだけです。この世に壊れないものなど、ありませんから」
ニヤリ、と唇の端が歪んだ。
悪寒が走る。
本気だ。
本気でこの目の前の男は、一人の人間を壊そうとしている。
ストルアンに引き連れられて来た貴族と思われる者たちは、ぼそぼそとした声で問いかけた。「どのぐらいで手に入るのか?」そんな言葉をやり取りしている。
「王家の秘宝とまで謳われた強力な守りの魔法石ですから簡単にはいきませんが……そうですね、長くて二日あれば堕ちるでしょう。直接触れることができるようになれば、直ぐにゲラウィルの卵を仕込みます」
聞き覚えの無い名前が出て来た。
戸惑う俺を見て、チャールズが微笑みながら説明する。
「魔物ですよ。体内に卵を産み付ける。生まれた魔物は宿主とそっくりの姿と能力を持つようになります。リク様の美しい容姿と魅了の能力を持った魔物……いや、魔人は、帝国に献上され世界を手中に落とす淫魔となるのです」
素晴らしいでしょう?
そう言って微笑むチャールズの目は、正気のものとは思えなかい。
そして俺は、今言われた言葉の意味が飲み込めず、ただ呆然と目の前の人たちを見つめ返した。
俺には絶対の守りがついている。なのにどうやって壊すというんだ。
「チャールズ、香の準備を」
「はい」
頷いて、ホールの隅に用意していたらしい、両手に溢れるほどの大きさの香炉を俺の目の前に置いた。
暗い鉄色のそれは、ずいぶん使い込まれているようだ。
思うと同時に、目か覚めた時にも感じた匂いが鼻先をかすめ、俺は顔をしかめた。チャールズがうっとりとした声で囁く。
「存分に……味わってくださいね」
既に準備は整えられていたのだろう。火種を落とすと紫煙と共に、甘い、花の匂いが立ち上る。チャールズからしていた香りだ。その匂いの濃さに思わず顔を背けた。
背けたところで、完全に匂いを防ぐことはできないのに。
背筋が……ざわざわし始める。
「アーヴァインの防御魔法は鉄壁です。誰にも触れさせないとした術式ならば、一指とも触れることは叶わないでしょう。ですが……どんな魔法も匂いを防ぐことは難しい。そして嗅覚は、人の原始的な本能を刺激する」
ストルアンの声がやけに大きく耳に届いた。
ざわざわする。
肌の表面が痺れるような感覚……と同時に、身体の芯に熱がこもっていく。
喉が渇く。
「催淫の香、気が狂うまで堪能するといい」
足先と指の先が、凍るように冷たくなっていく。なのに身体の芯は燃えるように熱を孕んでいく。じわじわと……疼いていく。
誰にも触れられることなく、自分で触れることもできず。
「あぁぁ……ぁ……」
地獄のような責め苦が始まったのだと、理解した時にはもう……遅かった。
10
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