レーヌ・ルーヴと密約の王冠

若島まつ

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71 祈りと血 - le vent du sang -

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 夕闇が東の山から発して未練がましく漂う日の名残を覆い始めた頃、香を燃やした煙が亡霊の影のように細くうねりながら、夜の湿気を帯び始めたアストレンヌの空にのぼってゆく。
 国王レオニードは祭祀のために、神官と同じ白い祭服を身に纏って、前夜から身を清め酒を断ち、一人神殿にこもっていた。
 太陽が天頂にのぼってから月が沈むまでのあいだ、同じ動作と文言を繰り返してこの国の祖である太陽神と月神に繰り返し祈りを捧げ、悲運の死を遂げた二番目の王妃ダフネの魂が安らぎを得られるよう祈願するというものだ。

 ヴァレル・アストルの支持者がその邸宅を急襲して監視役を制圧したのは、これより数時間前のことだった。ヴァレルは軍容を整え、自らの兵を率いて出陣した。
 予てより示し合わせていた通り、ヴァレルを支持する貴族たちは王都近郊でヴァレルの隊列に合流しながらその数を増やし、日没前にこの大神殿を包囲した。
 数日前から王太子ルキウスは国王軍と王太子軍の主力を率いてアミラ王国へ進軍し、今王都には三分の一程度の兵力しか残されていない。有能な指揮官も、殆どがルキウスに従って西進している。
 大神殿で国王の警護に当たっているのは、武力を持たない神官たちと、少数の騎士たちのみだ。
 この機に乗じて国王を斃し、自ら王冠を被れば、ルキウスが事態の急変を知って戻って来る頃にはアミラとの戦いで戦力は削られ、戦局は意気盛んなヴァレル軍に有利に働くだろうというのが、ヴァレルの目論見だった。

 ヴァレルは大神殿を取り囲むと、瞬く間に護衛の騎士や神官たちを全員捕らえて神殿の門を打ち壊し、この変事を知ってなお祈祷を続けるレオニード王の背後に迫った。
「簒奪に来たぞ、従兄どの。命惜しくば玉座を空けよ」
 ヴァレルの剣が首を狙っても、レオニード王は祈祷を続けている。
(諦念の表れか。いや……)
 レオニードの祈祷は、揺らがない。
 野心に燃えていたヴァレルの心が、小さな氷の飛礫つぶてを浴びたようになった。
「レオニード!」
 神殿に反響するほどの声でヴァレルが叫んだとき、レオニード王の祈りが途絶えた。
 レオニードの背が上下に小刻みに動き始め、それまで祈りの言葉を繰り返し発していた口から、突然空気を裂くような大笑が放たれた。
 笑い声は大神殿の円い壁を反響し、ヴァレルの耳を震わせた。
「自ら簒奪者を名乗るとは、なかなかに潔い」
 レオニードは鷹揚に振り返り、自身に向けられた刃を掴んで立ち上がった。レオニードの目に、僅かばかりの恐怖が映る。
「だが、よもやそなた、わたしが命惜しさに玉座をくれてやると思っているのか」
 指から流れる王の血が手を伝って白い祭服を汚した。が、レオニードは気に留める様子もなく、刃を握ったままヴァレルの目を見つめている。
「よかろう。民の前でお前の首を刎ね、誰が新たな王になったか知らしめてやる」
 ヴァレルがゆっくりと剣を引いて下ろすと、兵士たちが槍を構えてレオニード王を取り囲み、じわじわと距離を詰め始めた。
「まったく、そなたは――」
 レオニード王は呆れたように首を振った。
「それだから王の器ではないのだ。己の兵を全て把握しているか?」
「なに?」
「途中で合流した兵の数はどうだ。多すぎるとは思わなんだのか。逆賊となったそなたに、それほどの兵が集まると、本気で思ったのか?」
 ヴァレルの目が泳いだ。自分の状況に、初めて疑いを持ったのだ。
 ――が、遅かった。
 後方から一斉に矢が射かけられ、レオニード王を取り囲んでいたヴァレルの私兵が声を発する間もなく斃された。時同じくして、怒号と剣戟の激しい音が神殿の外から聞こえ始めた。混乱が始まっている。
「おいおい、わたしに当てるなよ」
 レオニード王は、落ち着いている。慌てた様子など微塵もなく、ヴァレルの遙か後方に向かって軽快に言った。
「射手はみな王国一の手練れですからご安心を」
 返ってきた声に、ヴァレルは耳を疑った。
(まさか――)
 しかし、斥候にも王太子ルキウスが自ら軍を率いて西へ進軍したと報告を受けている。十日前にはすべての兵がアミラとの国境付近に到達したはずだ。この短期間で軍を率いて戻って来られるはずがない。
たばかったな!」
 ヴァレルは激昂し、剣を振り上げた。この刹那、猛然と一騎の騎馬兵が躍り上がって神殿の奥へ猛進し、長剣を一閃した。ヴァレルの右腕は剣を握ったまま宙へ飛び、噴き出した血が神殿の白い床に流れた。
 蹲って呻くヴァレルの目の前で騎兵は下馬し、兜を頭から取った。兜の下から現れたのは、涼しげな目をした王太子ルキウスの顔だ。
「かつてのお前なら王太子に両眼があるか確認させる抜かり無さがあったろうに、薄汚い野心で目が曇ったな」
 この時にはもはやヴァレルを救出に来る兵はいない。
 ヴァレルは顔色をなくした。

 ルキウスの甲冑を着たバルタザルに従って西進していた兵のうち半数が夜陰に紛れて隊列を離れ、王都近郊に潜んでヴァレルの決起を待ち、合流するヴァレル派の兵士たちに少しずつ紛れ込んでいたのだ。
「そなたを謀ったのは王太子だ、ヴァレル」
「君の支持者たちは調略に弱いな。俺の兵を潜ませるのに苦労しなかった」
 ルキウスは屈辱と怒りに打ち震えるヴァレルの血走った目を見下ろした。
小倅こせがれ!」
 ヴァレルは憎悪に満ちた叫びを上げ、左手で腰の短刀を抜き、跳躍してルキウスの首を目がけて斬りかかった。
 ルキウスは剣でそれを受けた。鍔際ではじき返して鳩尾を肩で打撃し、床に打ち崩れたヴァレルに覆い被さり、腕で首を圧迫した。ヴァレルの左手が力を失って、短刀を落とした。
「片腕だけになっても俺を殺そうとする気概には感心する。だが生憎俺はひどく腹を立てているんだ」
 ヴァレルの目が血走り、顔がみるみる赤くなっていく。喉からゴロゴロと奇妙な音が鳴った。
「真実を教えてくれ、ヴァレル。俺の母を道連れに来世で結ばれろと、お前がジバルをけしかけたのか」
 ヴァレルは頷いた。今にも泡を吹きそうな口は、奇妙に笑っている。
「そうだ……」
 喉を潰されたヴァレルの声は、風が鳴るような摩擦音だった。
「兄は王妃に恋い焦がれるあまり死を望んだ…だが意気地がなくて一人で死ねなかった。だから王妃もこの世に絶望していると教えてやったのだ。兄は死を、わたしは兄の地位を望んだ。あれは正当な取り引きであり、救済だった」
「この、奸賊――!」
 ルキウスが首を締める腕に力を込めた時、レオニードがルキウスの肩を掴んでヴァレルから引き離した。レオニード王は冷たい石の床に身体を横たえて激しく咳き込むヴァレルの胸倉を掴み、拳で顔を殴りつけた。指の間から血が流れ、王の手を真っ赤に染めていた。
「わたしは英雄だ!自分の力で地位を勝ち取った!下層から成り上がった英雄は、王になるべきなのだ!」
 ヴァレルは血だまりの中で蹲りながら叫んだ。黒い髪は血を吸って闇よりも黒くなり、その目には狂気が躍っている。
「それは違うな。英雄は国を救うものだ。国を乱すものは、ただの悪党だ。子供でも知ってるぞ」
 ルキウスは惨めな狂人を見下ろし、後方の兵たちに合図をしてヴァレルに縄を打たせた。

 程なくしてヴァレル軍の制圧が完了し、神殿は静寂を取り戻した。
 清掃された神殿の中で香を焚き、レオニード王は再び祈りを捧げた。ルキウスは、甲冑姿のままその傍らに座している。
「神域を血で汚してしまった。我々は罪深いな」
「意外です。父上は信心深いお人だったんですね」
「我々は太陽と月の間に生まれた子の末裔だ。先祖は敬わねば」
 レオニード王は祭壇の太陽神と月神の像を見上げた。
「…不甲斐ない夫だった。ヴァレルに付け入る隙を与えさせてしまったのは、わたしの責任だな」
「いいえ、父上。母上の手記を読んで気付きました。母上はもうずっと抑鬱状態だったんです。心の病が、彼女に死をもたらした」
「それでも、寄り添うべきだった。ダフネの夫はわたしだけだったのだから」
「まあ、そうかもしれませんね。でも、息子も俺だけでした。だから、あなたに罪があるとすれば、俺も共犯だ」
 ルキウスは肩を竦めて立ち上がり、両手を組んで短く祈りの言葉を唱えた。こんなことで母への慰めになるとは到底思えないが、その儚い人生に報いる方法があるとすれば、それは自分が使命を果たすことだ。
「ステファン」
 レオニード王は子供の頃の愛称で息子を呼んだ。
「あれはまた逃げ出すぞ」
「でしょうね。未だにヴァレルに英雄の幻影を見ている者たちは、たったひとりで遁走する隻腕の無様な男を見ることになる」
 レオニード王はくつくつと笑った。ルキウスを見る目は、どこか誇らしげだ。
「なかなかやる」
「父上――」
 ルキウスは神殿の扉へ足を向けた。本当なら今すぐに飛び出してアミラへ向かい、妻を取り戻したい。以前の自分なら怒り狂って軍を率い、一直線にギエリへ進軍していたかもしれない。しかし、今は違う。
 オルフィニナはイゾルフを残して自ら去った。この意図を正しく理解し実行できるのは、この世にルキウス・アストルだけだ。
「俺は愛するものを手放しません」
 ルキウスは神殿の前で整然と並ぶ兵士たちの前に足を踏み出した。
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