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70 王国のもっとも醜いところ - une sombre histoire -

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 クインが監禁された場所は、ギエリ城内の一室だった。かつては客間として使われた部屋で、寝台も調度品も揃っている。ただし、武器になりそうなものは全て取り払われている。囚人の扱いをするつもりはないという意思表示らしいが、そんなものは信用に値しない。オルフィニナを人質にクインの動きを封じていることに変わりはないのだ。
「くそ!」
 クインは鬱屈した気分を爆発させるように壁を殴った。拳の形に穴が空き、漆喰がパラパラと落ちる。
 剥ぎ取られた父親の刺青を見たときから、オルフィニナがこうすることは分かっていた。この賭けは、危険すぎる。
(あいつ、ルキウス・アストル…しくじったら殺してやる)
 オルフィニナが信頼している以上、クインもそうせざるを得ない。と言うより、もはやこの他に手はないのだ。
 この時、殴ったばかりの壁の向こうから激しい衝撃音が響いた。誰かが壁に何かをぶつけて壊そうとしている。
 クインが警戒して一歩下がると、間もなく小さな穴が空いて、向こうから茶色い目が覗いた。
「生きてたか」
 クインは笑いとも呆れともつかない調子で、ハッと息を吐いた。
「あんたこそ」
 声の主は、ビルギッテだ。
「王太子殿下は?」
「無事だ。アストレンヌまで一人で来た。お前の手柄だ。よくやった」
「あんたがあたしを褒めるなんて、気持ち悪い」
「安心しろ。二度と言わない」
 クインはニヤリと笑って、壁の向こうで細まったビルギッテの目を見た。
「あんたの兄貴、イカれてるわよ」
「知ってる」
「きっと半分もわかってないわ。あいつあたしに何したと思う?」
「お前も刺青を剥がれたのか」
「違う。あたしをニナさまの身代わりにして犯したのよ。やってる最中しきりに自分の子を産めって言ってた。譫言みたいに…。しかも、痛くて最悪。あんたの方がずっと巧いわ」
 クインは血が凍る思いがした。ビルギッテへの仕打ちにもひどく憤ったが、それ以上にオルフィニナにしようとしていることには吐き気すら覚える。今はどうあれ、あの頃は確かに兄妹だったはずだ。
「あいつにまともな倫理観なんて期待できないわよ」
 ビルギッテがクインの心を見透かしたように言った。
「ニナさまが近くにいるなら、早く引き離さないと。ここから出るの、協力してよ」
「……まだだ」
 クインは激昂しそうになるのを耐え、奥歯を噛んだ。
「今は機を待て」
「でも…」
「ニナは自分のことは自分で守れる。信じろ」
「その顔で言う?」
 ビルギッテの目が苛立ちを隠さずに細まった。
「俺の顔なんかどうでもいい。ニナの命令だ」
「忠犬」
「女狐」
 クインは悪態をついたビルギッテに向かって中指を立てて見せた。

 イェルクは子羊の肉にソースをつけながら、オルフィニナに訊ねた。
「かつてこの国に平民議会を作ろうとした男がいたのを知っているか」
 オルフィニナは首を振った。
「だろうな。わたしが生まれる前の話だ」
 そう言って、イェルクは子供におとぎ話を聞かせるように話し始めた。

 不作が続き、国民が重税にひどく苦しめられた時期があった。
 貴族の政治に不満を持った平民たちが、自分たちも政治に参加させるよう求め、蜂起した。国内の至る地域で起きたこの変事の中心にいたのは、農村出身のひとりの男だった。
 王国政府は平民の武力行使を阻止すべく、軍を派遣し、蜂起を収め、中心人物となっていたその男を捕縛し、処刑した。
 その後は男の妻が夫の遺志を継いで平民議会設立に奔走した。庶民ながら博識で弁舌の巧みなこの夫婦には、人々を惹き付け、駆り立てる才能があったらしい。支持者は寡婦となった妻の元に集い、再び行動を起こそうとしていた。が、間もなく王国政府に露見した。妻はすぐに捕らえられ、ギエリ城の塔に幽閉された。
 この時、関係者の居場所を吐かせるべく妻を拷問したのが、イェルクの舅であるゴスヴィン・ゾルガ将軍だった。ゴスヴィン・ゾルガは、活動家の妻を繰り返し陵辱し、妊娠させた。

「それがわたしだ」
 オルフィニナの身体中の毛が逆立った。
「知ったのは偶然だった。十四の時だったかな」
 イェルクは食事を続けながら言った。

 秘匿された大罪により塔に幽閉されていた囚人が死んだので、遺体を内密に処理せよと命が下り、当時若手のベルンシュタインだったイェルクが対応することになった。
 ところが塔へ行くと、囚人にはまだ微かに息があった。痩せ細り衰弱したその老女は、イェルクの顔を見るなり突然我に返ったように目を見開き、イェルクを我が子と呼んで、か細い声で由々しき身の上話を聞かせた後、眠るように事切れた。
 イェルクは信じなかった。弱り果て死を迎えようとするものの譫言など、心に留める価値もないはずだ。しかし、何日経っても女の最期の言葉が頭から離れなかった。突飛な話のようで、やけに現実味を帯びて聞こえたからだ。そして、思いがけず看取ることになった女の目は、自分と同じ色をしていた。
 とうとうイェルクは自分で当時の記録を調べ、ルッツとダナにも自分の本当の親が誰なのかを問いただした。
 二人はイェルクを養子だと認めたものの、真実を知らなかった。ただ、蜂起で親を亡くした赤子に情けをかけてほしいと、予想以上に大きかった民衆の犠牲に心を痛めたエギノルフ王から頼まれ、我が子として育てることにしたとだけ教えられた。
 イェルクはその後ゴスヴィン・ゾルガに近づいて過去の情報を探り、女の言うことが真実だと確信した。女の産んだ子がとうに死んだと思っているゴスヴィンに、イェルクが真実を告げることはなかった。

「わたしは王国の最も醜いところから生まれた存在だ」
 イェルクの声が、はるか遠くから聞こえてくる気がした。もうワインさえ口に入れられない。胃の奥から込み上げてくるものを抑えるために、オルフィニナは呼吸を深くした。
「……妹と、知っていて結婚したというのか。スヴァンヒルド・ゾルガと…」
「わたしとお前以外にこの事実を知る者はもういない。それに、スヴァンヒルドとの間に子は作っていない」
 だからそれほどの罪ではないとでも思っているような口ぶりだ。おそらく妻の知らぬうちに避妊薬を飲ませていたのだろう。スヴァンヒルドが不妊に悩んでいるらしいと、風の噂で聞いたことがある。
「言っておくが、ニナ。これは個人的な復讐などではないぞ。使命なんだ」
 イェルクは軽快に笑って見せた。
「わたしが引き継ぐべきものを引き継ぎ、壊すべきものを壊す。相反するようだが、実は矛盾していない。進化の過程には淘汰されるものがあって然るべきだろう。これは開闢かいびゃくだ。そこにわたしたちがいる。素晴らしいと思わないか」
 オルフィニナは唾を呑んだ。そうして押しとどめなければ、胃の中のものが込み上げてきそうだ。
「王国は、変わるべきだ。だがお前のやり方が正しいとは思えない」
 オルフィニナが席を立つと、イェルクも穏やかな表情で立ち上がった。
「監視の必要はない。家族を人質に取られている状況でわたしが逃げるはずがないとわかってるだろ」
「もちろん。だがもう休むなら寝室まで送らせてくれ。わたしは大切な女性を一人で立たせるほど礼儀知らずではない」
 イェルクがエスコートのために曲げた腕に、オルフィニナは手を添えた。
(わたしは今、怪物と歩いている)
 今までに感じたことのない、奇妙な恐ろしさだ。
 この男を怪物にしたのは、業深い秘密か、それとも憎悪と暴力によって混ざり合った血なのか、オルフィニナには分からない。

 寝室の前に着くと、イェルクに腕を引かれ、顎を掴まれた。
 ゾッと身体の奥から恐怖が湧き、オルフィニナは唇が触れ合う前に顔を背けた。心臓が、いやな音を立てている。
「互いに既婚であることは気にするな。どちらも紙の上でのことで、大した問題ではない。幼い頃から家族として過ごしたわたしたちの絆の方がずっと深いだろう」
 低く穏やかな声だ。口付けを拒まれても不機嫌さを微塵も滲ませないイェルクの表情は、オルフィニナにますます恐怖を感じさせる。
「わたしは、不貞はしない」
「まさかあの若造を本気で愛しているのか?」
「神に背きたくないだけだ」
「嘘だな。別にわたしは嫉妬に駆られて相手を殺したりしない。子のことも、お前の心が整うまで待つつもりだ」
 これは優しさなどではない。
 それほど長く待つつもりがないことは、オルフィニナには分かっている。
「……ルキウスとの子ができたかもしれない。少なくともそれがはっきりするまでは待って欲しい」
 この理由付けで稼げる時間は、長くてもひと月だ。が、オルフィニナはそれまでに状況を打破すると、この時決めた。
「いいだろう」
 イェルクはオルフィニナの頬に口付けをし、にっこりと目を細めた。
「お前の胎にアストルの命が宿っていないことを祈る。尊き無辜の命を奪うことは本意ではないからな。おやすみ、大切なニナ」
 オルフィニナは総毛立つ思いでイェルクの後ろ姿を見送った。
 寝室の前には三名の衛兵が立ち、オルフィニナの動向を監視するらしい。

 窓の外では、秋の冷たい雨がギエリの土を濡らしていた。
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