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60 水の底 - au fond -
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早朝、ヴァレル・アストル大公の屋敷は俄に騒がしくなった。
ヴァレルは、屋敷の中の異様な空気に気付いてはいたものの、昨晩の深酒のためにまだベッドから下りられないでいる。
「忙しいようだな、ヴァレル・アストル大公」
目を閉じたまま、はっきりとその声を聞いた。――王太子が来ている。
ヴァレルは飛び起きそうになったが、己を律して鷹揚に起き上がり、ベッドを下りて寝衣のまま王太子に対する礼をした。不意打ちにあっても無様な姿を見せることは、この男にとっては絶えられないほどの屈辱だ。
「王太子殿下、急なご訪問ゆえ、かような姿でお目汚しすること、許されたい」
「もちろん、許そう」
正装のルキウスは戸口に立ったまま左肩に掛けたマントを靡かせ、嫣然と笑った。目は、唇ほどには笑っていない。
「なあ、大公」
言いながら、ルキウスはまるで自分の屋敷で寛ぐようにヴァレルの部屋の一番大きなソファに腰掛け、脚を組んだ。
「忙しくしている理由は俺の廃嫡に足る証拠の捏造で忙しいからかな。例えば、母と君の兄の関係とか」
「一体何を仰っているやら――」
「イェルク・ゾルガが話したぞ。彼は我々が捕らえた」
ルキウスは視線を上げた。表情こそ変わらないが、ヴァレルは明らかに狼狽えている。
「そんなはずはない。ゾルガ将軍は友好的な目的で見えたわたしの賓客です。一体殿下に何の権利があって捕縛されたと仰るのか」
「俺の暗殺を目論んだ」
「有り得ません」
堂々たる嘘だ。見え透いている。
ルキウスは嘲るように言って唇を吊り上げた。
「まあ聞けよ。ゾルガの目的は、君に俺を殺させた後で国王となった君を操ることだ。知ってたか?」
ヴァレルは表情を変えまいとしているが、こめかみに浮き出た青筋のせいで努力が台無しだ。
「舐められたものだよな。ゾルガはボンクラのフレデガル・ドレクセンと同じ程度に君を扱いやすいと思ってる。一体どんな外交をしたらそうなるんだ?」
ルキウスは立ち上がり、直立するヴァレルへゆっくりと近付いて、乱れた寝衣の襟を指でピシリと直した。ヴァレルの静かな怒りが、肌を刺すのを感じる。が、気にもとめずルキウスは続けた。
「王国随一の軍才を誇る野心家のヴァレル・アストル大公ともあろうものが、まさかアミラの若い将校の思い通りにされるなんて、あってはならないことだと思わないか。ギエリに駐屯している君の部隊は、本当に君に忠実か?もうあの男に取り込まれているんじゃないだろうな」
ヴァレルは自分よりもやや上にあるルキウスの顔を無礼とも思えるほどにまっすぐに見、細めた。怒りと憎しみを露わにした瞬間だ。
「俺の出自に疑いがあるという理由で廃嫡を目論んでいるそうだな。知らぬふりは無駄だ、大公。俺たちは暗殺計画に対する弾劾裁判の準備をしている。ゾルガが証言すれば君の関与は皆が知るところとなるぞ」
これはハッタリだ。が、ヴァレルはイェルクの逃亡を知らない。ヴァレルの思惑を知るなら、この機を逃せない。ルキウスはヴァレルの薄い灰色の目を凝視した。
「俺を廃嫡してどうする気だ?自分が王になった時、あの若造の傀儡となったアミラと友好的な関係を築けると思うか?そんな浅はかさで、この大国を背負うつもりかよ」
ヴァレルの唇が歪んだと思った瞬間、その口が大きく息を吐き出し、大笑した。部屋中に乾いた声が響き、壁に反響した。
ルキウスは、父親の従弟が心底気味悪くなった。少なくとも牽制などしたところで引き下がるなどとは思っていなかったが、少なくとももっと冷静な男だと信じていた。この傲岸さは、どこか狂気じみている。
「ステファン・ルキウス・テオドリック・レオネ・エヴァン!」
ヴァレルは無遠慮にルキウスの全ての名を呼び捨てた。じわじわとルキウスの胸に不快感が広がっていく。
「幾人もの偉大な王の名を受け継いだ、生まれながらの王太子!」
ルキウスは眉間に深々と不機嫌な皺を刻んでヴァレルを睨め付けた。
「そうだ。君とは違う」
「どうかな。わたしの握っている証拠によれば、あなたは国王の息子ではなく、わたしの兄の子ということになる。果たしてあなたはその名に相応しいか?ステファン」
ステファン――とヴァレルが王太子を呼んだ目的は、挑発だ。ルキウスは正式に王位継承者として定められる少年期まで、この名で呼ばれていた。暗に「何者でもないステファン」と呼び捨てたことになる。
ヴァレルはルキウスの怒りを楽しむように、黒い髭の下で唇をニイっと引き伸ばした。
「母の名を貶めることは許さない。俺の父はレオニード王だ。正統な血を引いて次の王になるものは俺以外にいない」
「断言できるのか?ステファン。知っているだろう。母親が誰を最後に選んだか。誰を、愛していたか」
頭の中で、血の気が失せていく音が聞こえた。
腹が立つほど真っ青な空と、ジバル・アストルと抱き合いながらテラスから落ちて消えていく儚い母親の姿が真っ先に思い浮かんだ。ヴァレルの口ぶりはまるで、あの光景を見たかのようだ。あれが澱のように心にわだかまっていることを、この男は見透かしているのではないか。
「ジバルの横恋慕だと思っていたのか?」
ヴァレルは嘲笑った。
「いやいやこの国に嫁いできたダフネ王妃を誰が慰めたと思う?死んだ妻を忘れられず、新妻を愛せない国王か?いや、違う」
ヴァレルは愉快そうに言いながら、ルキウスの目を覗き込んだ。
「文書が残っている。あなたが生まれる前に交わされたものだ。如何にあなたが父親や曽祖父に似ていようと、王の名を持とうと、婚外子とされれば正統性はなくなる。よく知っているだろう」
「罪は暴かれるぞ、ヴァレル」
頭に血が上って今にも爆発しそうだ。が、ルキウスは耐えた。頭の片隅で、オルフィニナが「落ち着け」とサインを送っているからだ。不思議な感覚だった。どうしようもなく感情が揺れたとき、オルフィニナの存在を感じるだけで心が柔らかくなる。
如何に望まぬ結婚だったとは言え、母ダフネは賢く誇り高い女だった。後継者を生み、夫と別居した晩年のことはいざ知らず、嫁いできて早々に不貞を犯すような軽挙に及ぶとは思えない。
(そんなことは有り得ない)
ルキウスは顎を上げ、侮蔑を込めてヴァレルの顔を見下ろした。
「暴くぞ、ヴァレル。お前の思い通りにはならない。俺も、この国も」
「国王に相応しいのはわたしだ。かの偉大なオーレン王から引き継いだ血が、わたしを駆り立てるのだよ。才ある者こそ、その才に相応しいものを手に入れるべきだと」
ヴァレルが暗く笑った。
「安心召されよ。アミラとの友好関係の維持に王との婚姻が必要だというなら、わたしが妻にしましょう。庶子というのは欠点だが、あの美しいオルフィニナ・ドレクセンの気の強さは、なかなかそそるものが――」
この瞬間、不快感が激怒に変じた。ルキウスが気付いたときには、目の前に立っていたヴァレルの身体が床に倒れていた。
ルキウスは右手の痛みで自分の行動を理解した。たった今、大公の骨張った頬を殴りつけたのだ。
心身が怒りに完全に支配されるということがどういう状態か、ルキウスは身をもって知った。なるほどこれは、制御できるものではない。最も大切な名が、誰よりも侮蔑する男から吐き出されては。――
「その汚らわしい口で二度と妻の名を呼ぶな、クソ野郎」
ルキウスは唸るように言って倒れたヴァレルを見下ろした。
ヴァレルは血を床にペッと吐き出し、猛獣のようにギラギラとした目でルキウスを睨め付けた。
「裁判を準備しているのはあなただけではないぞ、ステファン。廃嫡が決まれば、すぐにこの償いをすることになる」
「言ってろ、卑怯者」
ルキウスは憎しみを込めて吐き捨てた。
「償いをするのは、お前の方だ」
この日の夜半のことだ。
「それで、そのまま帰ってきたのか」
オルフィニナはくすくす笑ってワイングラスに口を付けた。
膝の上には、ルキウスの頭がある。
ルキウスは不機嫌そうに眉を寄せ、ソファに横たわったまま腕を組み、首を真上へ向けた。
長い赤毛が、野原のヒナゲシのように揺れてオルフィニナの白い頬を隠している。
「認める。殴り倒したのはやり過ぎだった。でも我慢できなかったんだ」
「お母上を侮辱されては、無理もないな」
「いや、そうじゃなくて…」
ルキウスは口を噤んだ。亡き母の名誉を穢そうとしていることも腹が立つが、それ以上にルキウスが我を失ったのは、オルフィニナを道具のように扱われたためだ。
(その上、俺から奪おうなど――)
許せない。ルキウスは奥歯を噛んで苛立ちに耐えた。我を忘れて相手を殴った上、まだ気分を害したままだと知られては、オルフィニナの手前格好がつかない。
彼女もまた、イェルクへの憤りと焦燥を堪えて自分のやるべき仕事をしていたのだ。
「…君の方は?」
オルフィニナはワインを置き、膝の上のルキウスに視線を落として、唇を上げた。
「離宮で日記を見つけた」
オルフィニナが手をヒラリとさせて合図をすると、部屋の隅からスリーズが進み出て小さな本を手渡した。無題の革張りの表紙に、金の箔押しで刻印が施されている。‘DAPHNE’――母の名だ。
数時間前まで、オルフィニナは晩年ダフネ王妃が暮らしていた離宮にいた。ルキウスが相続して以来、警備と手入れする者以外は立ち入ることは許されていない。
ルキウスにとっては、忌まわしい場所だ。一時期はこの場所を元々存在しなかったようにしてしまいたいとさえ思った。しかし、母の存在した痕跡を消してしまうこともできない。
ここに、生前の王妃の行動を知るために立ち入らせて欲しいというオルフィニナの要求を、ルキウスは存外あっさりと承諾した。
ここにある王妃の私室は、ルキウスの意向で手つかずのままになっている。王妃の死後、使用人以外でこの部屋に入ったものは、オルフィニナだけだ。
絵画、調度品、リネンに至るまで、全てが一国の王妃のものとは思えないほどに質素だった。小綺麗で洗練されてはいるが、一つ一つにそれほどの価値はないものばかりだ。
もとよりそれほど目利きが上手くなかったというよりも、大国の王妃という立場への反抗が、それらに表れていたのかもしれない。ダフネという一人の女の、意地をそこに見た気がした。
「何冊かあったが、どれも中は見ていない」
オルフィニナが日記をルキウスに見せると、ルキウスは身体を起こして座り直し、それを手に取った。
「あなたが最初に見るべきだ」
「…今?」
「対策は早い方がいい」
ルキウスは表情を変えず、無言のまま日記をサイドテーブルに戻した。
「もし――」
心許なげに開いたルキウスの唇を、オルフィニナは見た。
「もし、本当に俺がレオニード王の子でなかったら、この婚姻は無効になるか」
この男が弱い部分をさらけ出すのは、珍しい。おそらくはこんな姿を見せるのは自分にだけだろう。そう思いつくと、罪悪感にも似た感情が水に油を流したように心に広がった。その水底に何があるのか、覗いてはいけない。そんな気がする。
「あなた、結婚証明書に‘国王レオニードの息子’と署名したのか?」
オルフィニナは軽快な調子で訊ねた。
「まさか。見ていただろ」
「もちろん。この婚姻はステファン・ルキウス・アストルとオルフィニナ・ディートリケ・ドレクセンの間で結ばれた契約だ」
契約――いやな言葉だ。自分の言葉がちくりと胸に刺さる。
ルキウスは依然として黙したままオルフィニナの顔を見ていた。愁いを帯びた金色のまつげが目元に伸び、不安を隠そうとするように、長い指が唇に触れている。
「それに、仮にあなたが亡きジバル・アストル大公の息子だとしても、ヴァレルはその弟だ。序列で言えばあなたの方が継承順位が高いはず。どちらにせよこちらの優位は変わらない」
「そうでもない」
ルキウスは憂鬱そうに言った。
「僭称と見なされれば王族としての立場を無くす。例え国王が望んだところで、俺を後継にはできなくなる」
そうなったら、自分はこの男をどうするだろうか。オルフィニナはルキウスの横顔を眺めながら考えた。
王太子でなければルキウスと結婚した意味がないと言ったのは、イェルクを欺くためだった。しかし、半分は真実だ。そして残りの半分は、縋るべき希望のようにも思えた。この男と離れずに済む理由を、無意識のうちに探している。
「…それなら、わたしたちがすべきことは決まっている」
オルフィニナは日記の表紙を開き、ルキウスの目の前に置いた。
ヴァレルは、屋敷の中の異様な空気に気付いてはいたものの、昨晩の深酒のためにまだベッドから下りられないでいる。
「忙しいようだな、ヴァレル・アストル大公」
目を閉じたまま、はっきりとその声を聞いた。――王太子が来ている。
ヴァレルは飛び起きそうになったが、己を律して鷹揚に起き上がり、ベッドを下りて寝衣のまま王太子に対する礼をした。不意打ちにあっても無様な姿を見せることは、この男にとっては絶えられないほどの屈辱だ。
「王太子殿下、急なご訪問ゆえ、かような姿でお目汚しすること、許されたい」
「もちろん、許そう」
正装のルキウスは戸口に立ったまま左肩に掛けたマントを靡かせ、嫣然と笑った。目は、唇ほどには笑っていない。
「なあ、大公」
言いながら、ルキウスはまるで自分の屋敷で寛ぐようにヴァレルの部屋の一番大きなソファに腰掛け、脚を組んだ。
「忙しくしている理由は俺の廃嫡に足る証拠の捏造で忙しいからかな。例えば、母と君の兄の関係とか」
「一体何を仰っているやら――」
「イェルク・ゾルガが話したぞ。彼は我々が捕らえた」
ルキウスは視線を上げた。表情こそ変わらないが、ヴァレルは明らかに狼狽えている。
「そんなはずはない。ゾルガ将軍は友好的な目的で見えたわたしの賓客です。一体殿下に何の権利があって捕縛されたと仰るのか」
「俺の暗殺を目論んだ」
「有り得ません」
堂々たる嘘だ。見え透いている。
ルキウスは嘲るように言って唇を吊り上げた。
「まあ聞けよ。ゾルガの目的は、君に俺を殺させた後で国王となった君を操ることだ。知ってたか?」
ヴァレルは表情を変えまいとしているが、こめかみに浮き出た青筋のせいで努力が台無しだ。
「舐められたものだよな。ゾルガはボンクラのフレデガル・ドレクセンと同じ程度に君を扱いやすいと思ってる。一体どんな外交をしたらそうなるんだ?」
ルキウスは立ち上がり、直立するヴァレルへゆっくりと近付いて、乱れた寝衣の襟を指でピシリと直した。ヴァレルの静かな怒りが、肌を刺すのを感じる。が、気にもとめずルキウスは続けた。
「王国随一の軍才を誇る野心家のヴァレル・アストル大公ともあろうものが、まさかアミラの若い将校の思い通りにされるなんて、あってはならないことだと思わないか。ギエリに駐屯している君の部隊は、本当に君に忠実か?もうあの男に取り込まれているんじゃないだろうな」
ヴァレルは自分よりもやや上にあるルキウスの顔を無礼とも思えるほどにまっすぐに見、細めた。怒りと憎しみを露わにした瞬間だ。
「俺の出自に疑いがあるという理由で廃嫡を目論んでいるそうだな。知らぬふりは無駄だ、大公。俺たちは暗殺計画に対する弾劾裁判の準備をしている。ゾルガが証言すれば君の関与は皆が知るところとなるぞ」
これはハッタリだ。が、ヴァレルはイェルクの逃亡を知らない。ヴァレルの思惑を知るなら、この機を逃せない。ルキウスはヴァレルの薄い灰色の目を凝視した。
「俺を廃嫡してどうする気だ?自分が王になった時、あの若造の傀儡となったアミラと友好的な関係を築けると思うか?そんな浅はかさで、この大国を背負うつもりかよ」
ヴァレルの唇が歪んだと思った瞬間、その口が大きく息を吐き出し、大笑した。部屋中に乾いた声が響き、壁に反響した。
ルキウスは、父親の従弟が心底気味悪くなった。少なくとも牽制などしたところで引き下がるなどとは思っていなかったが、少なくとももっと冷静な男だと信じていた。この傲岸さは、どこか狂気じみている。
「ステファン・ルキウス・テオドリック・レオネ・エヴァン!」
ヴァレルは無遠慮にルキウスの全ての名を呼び捨てた。じわじわとルキウスの胸に不快感が広がっていく。
「幾人もの偉大な王の名を受け継いだ、生まれながらの王太子!」
ルキウスは眉間に深々と不機嫌な皺を刻んでヴァレルを睨め付けた。
「そうだ。君とは違う」
「どうかな。わたしの握っている証拠によれば、あなたは国王の息子ではなく、わたしの兄の子ということになる。果たしてあなたはその名に相応しいか?ステファン」
ステファン――とヴァレルが王太子を呼んだ目的は、挑発だ。ルキウスは正式に王位継承者として定められる少年期まで、この名で呼ばれていた。暗に「何者でもないステファン」と呼び捨てたことになる。
ヴァレルはルキウスの怒りを楽しむように、黒い髭の下で唇をニイっと引き伸ばした。
「母の名を貶めることは許さない。俺の父はレオニード王だ。正統な血を引いて次の王になるものは俺以外にいない」
「断言できるのか?ステファン。知っているだろう。母親が誰を最後に選んだか。誰を、愛していたか」
頭の中で、血の気が失せていく音が聞こえた。
腹が立つほど真っ青な空と、ジバル・アストルと抱き合いながらテラスから落ちて消えていく儚い母親の姿が真っ先に思い浮かんだ。ヴァレルの口ぶりはまるで、あの光景を見たかのようだ。あれが澱のように心にわだかまっていることを、この男は見透かしているのではないか。
「ジバルの横恋慕だと思っていたのか?」
ヴァレルは嘲笑った。
「いやいやこの国に嫁いできたダフネ王妃を誰が慰めたと思う?死んだ妻を忘れられず、新妻を愛せない国王か?いや、違う」
ヴァレルは愉快そうに言いながら、ルキウスの目を覗き込んだ。
「文書が残っている。あなたが生まれる前に交わされたものだ。如何にあなたが父親や曽祖父に似ていようと、王の名を持とうと、婚外子とされれば正統性はなくなる。よく知っているだろう」
「罪は暴かれるぞ、ヴァレル」
頭に血が上って今にも爆発しそうだ。が、ルキウスは耐えた。頭の片隅で、オルフィニナが「落ち着け」とサインを送っているからだ。不思議な感覚だった。どうしようもなく感情が揺れたとき、オルフィニナの存在を感じるだけで心が柔らかくなる。
如何に望まぬ結婚だったとは言え、母ダフネは賢く誇り高い女だった。後継者を生み、夫と別居した晩年のことはいざ知らず、嫁いできて早々に不貞を犯すような軽挙に及ぶとは思えない。
(そんなことは有り得ない)
ルキウスは顎を上げ、侮蔑を込めてヴァレルの顔を見下ろした。
「暴くぞ、ヴァレル。お前の思い通りにはならない。俺も、この国も」
「国王に相応しいのはわたしだ。かの偉大なオーレン王から引き継いだ血が、わたしを駆り立てるのだよ。才ある者こそ、その才に相応しいものを手に入れるべきだと」
ヴァレルが暗く笑った。
「安心召されよ。アミラとの友好関係の維持に王との婚姻が必要だというなら、わたしが妻にしましょう。庶子というのは欠点だが、あの美しいオルフィニナ・ドレクセンの気の強さは、なかなかそそるものが――」
この瞬間、不快感が激怒に変じた。ルキウスが気付いたときには、目の前に立っていたヴァレルの身体が床に倒れていた。
ルキウスは右手の痛みで自分の行動を理解した。たった今、大公の骨張った頬を殴りつけたのだ。
心身が怒りに完全に支配されるということがどういう状態か、ルキウスは身をもって知った。なるほどこれは、制御できるものではない。最も大切な名が、誰よりも侮蔑する男から吐き出されては。――
「その汚らわしい口で二度と妻の名を呼ぶな、クソ野郎」
ルキウスは唸るように言って倒れたヴァレルを見下ろした。
ヴァレルは血を床にペッと吐き出し、猛獣のようにギラギラとした目でルキウスを睨め付けた。
「裁判を準備しているのはあなただけではないぞ、ステファン。廃嫡が決まれば、すぐにこの償いをすることになる」
「言ってろ、卑怯者」
ルキウスは憎しみを込めて吐き捨てた。
「償いをするのは、お前の方だ」
この日の夜半のことだ。
「それで、そのまま帰ってきたのか」
オルフィニナはくすくす笑ってワイングラスに口を付けた。
膝の上には、ルキウスの頭がある。
ルキウスは不機嫌そうに眉を寄せ、ソファに横たわったまま腕を組み、首を真上へ向けた。
長い赤毛が、野原のヒナゲシのように揺れてオルフィニナの白い頬を隠している。
「認める。殴り倒したのはやり過ぎだった。でも我慢できなかったんだ」
「お母上を侮辱されては、無理もないな」
「いや、そうじゃなくて…」
ルキウスは口を噤んだ。亡き母の名誉を穢そうとしていることも腹が立つが、それ以上にルキウスが我を失ったのは、オルフィニナを道具のように扱われたためだ。
(その上、俺から奪おうなど――)
許せない。ルキウスは奥歯を噛んで苛立ちに耐えた。我を忘れて相手を殴った上、まだ気分を害したままだと知られては、オルフィニナの手前格好がつかない。
彼女もまた、イェルクへの憤りと焦燥を堪えて自分のやるべき仕事をしていたのだ。
「…君の方は?」
オルフィニナはワインを置き、膝の上のルキウスに視線を落として、唇を上げた。
「離宮で日記を見つけた」
オルフィニナが手をヒラリとさせて合図をすると、部屋の隅からスリーズが進み出て小さな本を手渡した。無題の革張りの表紙に、金の箔押しで刻印が施されている。‘DAPHNE’――母の名だ。
数時間前まで、オルフィニナは晩年ダフネ王妃が暮らしていた離宮にいた。ルキウスが相続して以来、警備と手入れする者以外は立ち入ることは許されていない。
ルキウスにとっては、忌まわしい場所だ。一時期はこの場所を元々存在しなかったようにしてしまいたいとさえ思った。しかし、母の存在した痕跡を消してしまうこともできない。
ここに、生前の王妃の行動を知るために立ち入らせて欲しいというオルフィニナの要求を、ルキウスは存外あっさりと承諾した。
ここにある王妃の私室は、ルキウスの意向で手つかずのままになっている。王妃の死後、使用人以外でこの部屋に入ったものは、オルフィニナだけだ。
絵画、調度品、リネンに至るまで、全てが一国の王妃のものとは思えないほどに質素だった。小綺麗で洗練されてはいるが、一つ一つにそれほどの価値はないものばかりだ。
もとよりそれほど目利きが上手くなかったというよりも、大国の王妃という立場への反抗が、それらに表れていたのかもしれない。ダフネという一人の女の、意地をそこに見た気がした。
「何冊かあったが、どれも中は見ていない」
オルフィニナが日記をルキウスに見せると、ルキウスは身体を起こして座り直し、それを手に取った。
「あなたが最初に見るべきだ」
「…今?」
「対策は早い方がいい」
ルキウスは表情を変えず、無言のまま日記をサイドテーブルに戻した。
「もし――」
心許なげに開いたルキウスの唇を、オルフィニナは見た。
「もし、本当に俺がレオニード王の子でなかったら、この婚姻は無効になるか」
この男が弱い部分をさらけ出すのは、珍しい。おそらくはこんな姿を見せるのは自分にだけだろう。そう思いつくと、罪悪感にも似た感情が水に油を流したように心に広がった。その水底に何があるのか、覗いてはいけない。そんな気がする。
「あなた、結婚証明書に‘国王レオニードの息子’と署名したのか?」
オルフィニナは軽快な調子で訊ねた。
「まさか。見ていただろ」
「もちろん。この婚姻はステファン・ルキウス・アストルとオルフィニナ・ディートリケ・ドレクセンの間で結ばれた契約だ」
契約――いやな言葉だ。自分の言葉がちくりと胸に刺さる。
ルキウスは依然として黙したままオルフィニナの顔を見ていた。愁いを帯びた金色のまつげが目元に伸び、不安を隠そうとするように、長い指が唇に触れている。
「それに、仮にあなたが亡きジバル・アストル大公の息子だとしても、ヴァレルはその弟だ。序列で言えばあなたの方が継承順位が高いはず。どちらにせよこちらの優位は変わらない」
「そうでもない」
ルキウスは憂鬱そうに言った。
「僭称と見なされれば王族としての立場を無くす。例え国王が望んだところで、俺を後継にはできなくなる」
そうなったら、自分はこの男をどうするだろうか。オルフィニナはルキウスの横顔を眺めながら考えた。
王太子でなければルキウスと結婚した意味がないと言ったのは、イェルクを欺くためだった。しかし、半分は真実だ。そして残りの半分は、縋るべき希望のようにも思えた。この男と離れずに済む理由を、無意識のうちに探している。
「…それなら、わたしたちがすべきことは決まっている」
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