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59 密行 - l’évasion -

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 レグルス城は、静かな朝を迎えた。ルキウスが城の者たちに騒がぬよう厳しく命じたからだ。クインは以前オルフィニナが賞賛したルキウスの統率力を目の当たりにすることとなった。
 イェルク・ゾルガ脱走の報をクインから受けたルキウスは、真っ先に近習へバルタザルの応急処置を命じて軍医を呼ばせ、同時に少数精鋭の追跡部隊を放った。運河に身を投げたのであればどこかで船を奪い海路を取るだろうと見て小舟での追跡を命じ、亡くなった兵士二名の遺体は地下の安置所へ運ばせ、彼らを清拭するよう衛生兵に命じた。ルキウスはこれらの手配りを、報を受けてから十分の間に整えた。
 その直後にルキウスは速やかに城内の人間を広間に集め、怒りを押し殺した表情で、彼らに向かって短く命じた。
「知られるな」
 これを、配下たちは厳重に実行している。
(青二才、存外手際がいい)
 クインは内心でそう認めた。
 オルフィニナが賞賛するルキウスの美点は、こういうところだ。報告から指示までに無駄がない。頭の中で情報を整理するのに時間を要さず、状況に応じていくつもの選択肢の中から最適なものを逡巡せずに選び、実行しているのだ。それも、滾る怒りを押し殺して。――
 ルキウスはクインに暗い視線を移し、口を開いた。
「ニナは起こすなよ」
「すぐに自分から起きてくる」
 クインが白々と言うと、ルキウスは首を振った。
「しばらくは目覚めないさ。随分疲れていたから」
 クインは鼻に皺を寄せてあからさまに嫌な顔を見せ、それきり黙した。眠りの浅いオルフィニナがどういう理由でそれほど深く寝入っているのかは、察しが付いている。
 このままこの男といると殴り掛かりたくなるから追跡部隊に合流しようと思ったが、次のルキウスの言葉でそれを諦めた。
「意見を聞きたい」
「俺の?珍しいこともあるもんだな」
 ルキウスは唇の端を僅かに上げ、声を低くした。
「君の兄、海に出た後の逃亡経路はどう取る」
 クインは思案した。間違いなくこの男は何通りかある逃亡経路の選択肢のうち、最も確率の高いものを想定して兵を放っている。
 わざわざクインに訊ねてきたということは、その選択が適切かどうかの確認をしたいのだ。それも、「海に出た後」――即ち、海に出る前は捕えられないだろうという目算も立てている。そうなれば、イェルクが逃亡中に立ち寄るであろう港に当たりを付けて追手を放つしかない。
 この非常事態にあって、恐ろしく冷静だ。正直、もっと怒り狂って取り乱すと思っていた。
「…軍港から離れた北側の漁港を選ぶだろう。漁夫を殺して船を奪うぐらいは当然するだろうな。あいつは夜目が効く。出るなら真夜中だ。その後は港に寄ることなく、西へ向かう。アミラの周辺はエマンシュナ海軍ナヴァレが警戒しているから、そこを避けて自分にとっての安全圏へ着岸するはずだ」
「安全圏――匿ってくれる場所とか?」
 そう言ったきり、ルキウスは黙した。この時点で二人は、同じ場所を想定している。
「…イェリネク男爵夫人はどの程度知っている」
 と、エミリアの名を口にした。
「エミもイェルクが離反したと考えてる。ただ、‘疑わしい’という程度だ。イェルクが家族の情に訴えれば、黙って領内を通してやるかもしれない。あいつにはイェルクを害する力もなければ、冷酷さもない」
 冷たい言い方のようで、クインの言葉には姉への愛が滲んでいる。善良な庶民の母親のもとで育ったエミリアは、一般的とはほど遠い環境で育たざるを得なかったアドラー兄弟にとっては「中庸かつ善良な感性」の模範でもあった。
「姉妹揃って情深いことだな」
 ルキウスの言葉もそうだ。オルフィニナがどんな思いで昨夜の作戦を決行したか、知っている。
 それだけに、イェルクの逃亡は痛手だ。
 ルキウスは陰鬱なクインの顔を冷たく眺めた。怒りは、深い。
 それはクイン・アドラーに向けられたものではなく、目算を誤った自分自身に対するものだった。二人の兵を失ったのも、誰よりも忠実な側近が片目を失い生死の境を彷徨っているのも、全ては自分の想定の甘さが招いたことだ。
 しかし、もし今この男が殊勝にも自分の責任だなどと口にすることがあれば、何様のつもりだと言い捨てて一発喰らわせる程度には、ルキウスは苛立っている。
 しかし、クインの言葉は違った。
「この借りは、イェルクの首で返す」
 クインの淡い茶色の目は暗く激しい憤りを孕んで、暗く翳っていた。
「君のそういうところは嫌いじゃない」
 ルキウスの緑色の目に愉悦が踊った。

 オルフィニナが目を覚ましたのは、ルキウスが既に北方の漁港へ秘密裏に追手を放ち、ワルデル・ソリア共和国北西部のイェリネク地方へ向けて密使を送った後のことだ。
 オルフィニナは素肌の上に織物のガウンを巻き付けただけの格好で、素足のまま広間へ現れた。後ろにはエデンを従えている。顔は、蒼白だ。何が起きたのか、静かな城内の異様な空気で既に察している。
 ルキウスは足早にオルフィニナへ歩み寄って、その肩に自分の羽織っていたマントを被せ、膝を折って顔を覗き込んだ。
「朝食を取ろう」
「そんな暇はない。まずは状況を知りたい」
 オルフィニナはにベなく言ってルキウスの手を振り払おうとしたが、ルキウスはオルフィニナの肩を掴んで止めた。
「その前に少しでも食べないとだめだ」
「いらない」
「ニナ」
 子供を諭すような口ぶりだ。これではどちらが年上か分からない。が、今のオルフィニナの意地はそれほど軽快な理性で解れるようなものではなかった。
「俺も同感だ。何か食っておけ」
 珍しくルキウスに賛同したクインを見て、オルフィニナは眉を寄せた。
「あなたたち、今朝は仲がいいな」
 皮肉のつもりだ。
「まさか。アドラーのことは嫌いだ」
 オルフィニナの目論見通り、ルキウスは眉をひそめ、クインは鼻に皺を寄せた。
「それも同感だ」
「彼の度胸は認める。まだ押し問答を続けるか?」
 ルキウスが苦々しげに問うと、オルフィニナはフンと不機嫌に笑った。この場で神経質な二人の男との問答に時間を取られるよりは、要求を飲む方が合理的だと考えたのだ。
「あなたたちの友誼に免じて言うことを聞いてあげる」
「感謝します、女王陛下」
 ルキウスはにっこり笑ってオルフィニナの身体を横向きに抱き上げ、不満げな白い頬にキスをした。
「まずは着替えだ。裸足で出てくるなんて――」
 などと過保護な夫らしく小言を言いながら、広間の後方で立つクインに目配せをした。クインは無表情のまま視線を返し、広間を後にした。
 クインにはイェルク追跡の他、いくつか仕事がある。

 ビルギッテがイゾルフと共にギエリを脱して一日が経った。
 イゾルフは、よく耐えている。暗い寝室を出る時に見せた心許なげな様子はあれ以降一切見せることなく、馬上庶民の服と安物の靴で悪路を進んでいる。
 ギエリ城では夜明けとともにイゾルフの失踪が露見し、焦ったフレデガルは何百もの兵を放った。追手は既にギエリの外を出、港町や国境付近に迫っている。
 彼らの目を掻い潜るため、ビルギッテはイゾルフの顔を煤で汚し、目立つ赤毛の頭には帽子をかぶせた。髪の色を完全に隠しきれずとも、ビルギッテも同じ赤毛だ。道中は姉弟ということにしておけば不自然ではない。
 山岳地帯にあるアミラ王国には隣国へ通じる大きな街道がないために、人混みに紛れての逃避行が不可能だ。いやでも人通りが少なく、普段は土地の者しかいないような田舎道を行くほかない。そういう場所では、よそ者は目立ってしまう。
 ビルギッテはやむなく道を逸れて森の中を移動した。途中、フレデガルの斥候と思しき者に気付かれそうになったため、イゾルフを馬から下ろし木の影に隠して、死角から斥候を急襲し、これを討った。
「終わりました」
 ビルギッテは木陰のイゾルフに声をかけて手を差し伸べた。この瞬間、しまったと思った。自分の手が血で汚れたままだ。咄嗟に手を後ろへ隠そうとしたが、イゾルフはビルギッテの手を掴み、それを阻んだ。
 血のついた手を眺めるイゾルフの目は、ひどく悲しそうだ。
「…僕のせいだ」
 イゾルフは血を凝視し、小さく呟いた。
「これがわたしの生業ですから、殿下が心を痛める必要はありません」
「でも、僕が姉上くらい強かったら、君にこんなことをさせないで済むのに。彼らにも…」
 ビルギッテはキッと目を開いてイゾルフの手を払いのけた。
「感染症の危険がありますから、触れないでください」
 ごしごしと黒い外套の裾で手を拭い、ビルギッテは小さく息をついた。
(優しすぎる)
 未来の王となるべきものが、自分のように汚れ仕事を請け負う人間にまで心を分ける必要はない。その優しさまで、崇拝してやまないオルフィニナと同じものを持っているなんて。――
(調子が狂う)
 この先敵を殺すことを躊躇してしまいそうだ。思えば、誰かを守るための任務は今まで経験がなかった。
「…イゾルフ殿下、ひとつだけ約束をしてください」
 ビルギッテは暗い森の中を進みながら、イゾルフを振り返った。
 イゾルフは応えない。返答に躊躇しているのは、内容によっては約束できないと思っているからだ。
「わたしのことは、道具と思し召されませ。汚れようが傷つこうが構ってはいけません。道具が壊れた時に殿下がなさるべきことは、それを捨てて前に進むことだけです」
 オルフィニナもミリセントも、そういう世界に生きている。同じく王家の名を持つイゾルフだけがそのことわりの外に生きていくことはできない。ビルギッテが言っているのは、そういうことだ。
「いいですね」
 ビルギッテは念を押した。イゾルフは石を口に含んだような顔で押し黙り、ビルギッテの目を強く見返した。
「…じゃあ、代わりに君もひとつ約束をして」
「何なりと仰ってください」
「姉上のところに着いたら、君が剣を教えて。僕も誰かを守れるように」
 これは予想外だった。てっきり自分を無事に逃がせと言われるだろうと思っていたが、イゾルフはその先の事を望んでいる。
「わたしは教えるのが得意ではないので、他の指南役を紹介します」
「君がするんだ。それまで死ぬことは許さない」
 ビルギッテはどきりとした。
 またあの目だ。この少年が時折見せる、ニナさまと同じ目。――
「…努力します」
「約束するとは言わないんだね」
 見透かされている。察しの良さも、詰問の鋭さも、彼女と同じだ。だからこそ、真実を話す必要がある。
「不確かな約束はできません」
 が、どれほど大人びていようと少年は少年だ。
「なら僕も約束しない」
 イゾルフはツンと応戦してビルギッテより前に進み出た。
「フン、子供」
 ビルギッテは主君にそう悪態を吐いて前を行った。
 ワルデル・ソリアの国境は目前だ。
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