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58 王国を護るもの - le gardien -
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暗い寝室に、荒く甘い息遣いが響いている。城に帰ってからもう何時間経ったかもわからない。
「…っ、ニナ」
ルキウスは膝の上で腰をくねらせて喘ぐオルフィニナの背をしっかりと抱き、その律動からもたらされる悦楽に堪らず眉を歪めた。
「あっ…!」
豊かな乳房を手のひらで覆い、先端にキスをすると、オルフィニナが甘い悲鳴を上げてルキウスを締め付けた。先刻ヴァレルの屋敷で気丈に見せていた女王の目は、今は快楽に蕩けて蜜色に潤んでいる。
「ここ、いいの?」
「ん…」
しかし今宵のオルフィニナは、いつもと違う。不安や恐怖を振り払おうとするように、いつも以上にルキウスとの行為に溺れようとしているようだった。
オルフィニナが乳房に吸い付くルキウスの頬を両手で挟み、顔を上げさせた。波打つ赤い髪が乱れて白い肌に散らばり、ルキウスの肌をくすぐって触覚を過敏にする。
無言の要求に逆らうことなく、ルキウスはオルフィニナの湿った唇を奪って、繋がったままベッドに押し倒し、膝を担いで奥深くを抉るような強さで何度も突いた。
オルフィニナが強くルキウスを締め付けて喉の奥で悲鳴を上げた直後、ルキウスは腰を打ち付けて何度目かの射精を果たした。愛しい女の肉体に自分の印を刻むように肌を啄むうちに、オルフィニナの乱れた呼吸が柔らかな寝息へと変じた。
柔らかな肢体を腕の中に包んで目蓋を閉じたルキウスの胸に、得体の知れない焦燥が迫った。
愛していると、戦うことなくただ護られていて欲しいと告げてしまいたくなる。それこそオルフィニナにとって最大の侮辱だと知りながら、彼女を自分だけのために存在する、ただの女にしてしまいたい。
「フン」
ルキウスは暗闇の中、オルフィニナの体温を全身に感じながら、小さく毒づいた。
滑稽だ。矛盾している。
自分とオルフィニナを夫婦たらしめるものは、それぞれの王国の相続人であるという一事だ。この前提が崩れてしまえば、オルフィニナを自分の元に縛り付けておけなくなる。
だからこそヴァレルの妄動を阻止しなければならないのだ。
(王位も、オルフィニナも、俺のものだ)
ドブネズミよりも薄汚い簒奪者どもにも、あの忌々しいイェルク・ゾルガにも、なにひとつ渡すつもりはない。
ルキウスは穏やかに眠るオルフィニナの身体を強く抱きしめた。ヴァレルがどういう理屈を使って自分の出生に疑念を持たせようとしているのかは、予想がついている。内臓が煮えくり返るほど憤りを感じているのは、相手が汚い手を使っているからでも、自分の廃嫡を目論んでいるからでもない。母親の憐れで儚い人生を、穢そうとしているからだ。
翌早朝、イェルク・ゾルガが脱獄した。
精鋭の兵二名が命を落とし、王太子の側近バルタザル・ベルトレが左目を失い、左の肩から胸にかけて重篤な刀傷を負った。異変に気付いたクインがすぐさま城を飛び出してイェルクを追い、エデンも全速で駆けたものの、イェルクが運河へ身を投げたためにそれ以上の追跡は叶わなかった。
あの男のことだ。早晩身ひとつでギエリへ生還するに違いない。
東を赤く染め始めたアストレンヌの空に、怒りに震えるクインの咆哮が響いた。
その頃、ビルギッテはイェルクの監視をすり抜けて、軟禁状態にあるイゾルフと連絡を取り合っていた。
方法は、本だ。
イゾルフが毎日女中に本を所望する。外国語、歴史、政治学や、建築、治水など、様々なことに関連するものだ。イゾルフは元より読書好きだから、特にあやしまれることはない。毎晩城が寝静まった後に火の番をするビルギッテが読み終えた本を次に所望する本のメモと一緒に回収し、前に回収したメモに書いてあった本を置いていく。
メッセージのやり取りは、本に書かれた文字に印を付けることで行う。所定の頁に記されている一文字を唾や茶で湿らせて滲ませ、それを何頁かにわたって行うことで、短い文章にするのだ。
この夜、ビルギッテがイゾルフの寝室に置いていった歴史書には「明日の深夜三時十七分に迎えに来る」と言う内容を印として残している。
翌朝、本に目を通したイゾルフは、庭園の散歩に誘うという口実を作って母親の私室を訪ねた。無論、イェルク配下の監視が付いている。
亡きエギノルフ王の妃ミリセントは、美しい麦の穂色の髪と褐色の瞳を持つ健康的な女性だったが、政変以降、その気苦労からか、すっかり痩せてしまっている。唯一手元に残った息子と会うときにもイェルク・ゾルガやその代理者の許可がなければならず、常に監視下に置かれ、城の外に出ることは許されない。世間的にはまだ葬儀も行われていないエギノルフ王の妃であるというのに、八年ものあいだ民の様子を知ることもできないまま、ただ自分と息子の命を繋ぐために、息の詰まりそうな王城での生活を、沈黙の内に過ごしている。
ミリセントは息子の誘いに応じて、監視役の衛兵二名を従えて庭園へ出た。
「母上に見せたかったのです。ちょうど池のそばのスズランが綺麗に咲いているのですよ」
そう言って、イゾルフは母親の手を引いた。向かった先には、言った通り池がある。衛兵は常に三メートルほど離れた位置に控えている。
「ほら、あそこに…」
と、イゾルフは池の向こうを指差した瞬間に足を滑らせて池に落ちた。
「きゃああ!衛兵、衛兵!殿下が池に…!」
ミリセントの声に、衛兵二人は機敏に反応した。自分たちの監視下にある王太子に何かあっては、将軍から罰を受けることになる。それだけは御免だ。
衛兵たちはミリセントがドレスの袖を濡らしてイゾルフを池から引き上げるのを助け、ずぶ濡れのイゾルフが咳き込みながら芝の上に上がったのでほっと息をついたが、これで終わりではなかった。
「何をしているのです!すぐに殿下にお召し物と毛布をお持ちしなさい!」
普段の儚げな様子からは想像できないほどの剣幕で、ミリセントが捲し立てた。慌てた衛兵たちがその場を走り去った後、咳き込み続けるイゾルフに自分のショールを掛けながら、吐息だけの声で囁いた。
「行きましたよ」
ミリセントは賢い女性だ。池に落ちたのがイゾルフの自作自演であることは分かっている。息子の背を労わるようにさすりながら、衛兵二人が城へ入って行くのをしかと見た。
イゾルフは灰色の目を上げ、短く、しかし決然と言った。
「今夜ここを出ます」
母親の眉の下に暗い影が落ちたのを見て、イゾルフの胸に小さな失望が滲んだ。
「では、お別れです」
ミリセントが静かに言った。
「いいえ、母上も一緒に」
「わたくしはエギノルフ王の妃です。ここを離れるわけにはいきません」
イゾルフは母親の骨の目立つ手を握り、顎を奮わせた。
「そんな…、姉さまを信じてください。必ず母上のことも護ってくださいます」
この言葉に、ミリセントは顔色を変えた。細い眉を決し、灰色の光彩に強い光を踊らせ、憤りに歯を食い縛った姿は、まさしく狼の国の妃だった。
「護られるだけのつもりならば、いっそここで死になさい」
イゾルフは母の激しい口ぶりに言葉を失った。氷の飛礫を全身に浴びたような気分だった。
「わたくしは女公殿下――いえ、女王陛下を信じています。彼女ならやりおおせるでしょう。そして王国に忠実な陛下は、あなたがその次に国王となるよう考えているはずです。よいですか、イゾルフ王太子殿下。あなたはその立場に相応しく在りなさい。護られるためではなく、助けとなるために行くのです。あなたも共に王国を護る者となりなさい。そのためならば、母親など打ち捨てなさい。よいですね」
イゾルフの身体が震えた。恐怖とは違う。この少年のうちに眠る狼の血がそうさせるのかもしれなかった。
この灰色の瞳に宿った炎を、ミリセントは悲壮な思いで見た。
「…母上は、ここに残って何をなさるのですか」
「わたくしがなすべきことです」
イゾルフはなおも口を開こうとしたが、叶わなかった。衛兵たちが顔色を無くした侍女たちを引き連れてバタバタと戻ってきたからだ。侍女が二人がかりで火鉢を持ち、別の侍女が着替えを持ち、衛兵が毛布を手に持って駆けて来る。
この直後、庭園は恐慌状態に陥った。ミリセントが突如として激しく暴れ出したのだ。
イゾルフの肩に毛布を掛けた衛兵につかみかかり、侍女たちのドレスに縋りついて、泣き喚き、甲高い怒声を放った。
「わたくしの息子が、この者たちに殺されかけたのです!これはフレデガルの仕業です!わたくしの夫のみならず、息子までも!出てきなさい、薄汚いフレデガル!フレデガルをここにお寄越し!」
狂した。――と、みなが思った。イゾルフまでもが本当に発狂したのではないかと疑わしくなるほどの取り乱しようだった。宥めようとした衛兵を振りほどき、フレデガルの名を絶叫しながら城へ向かって走り出した時には、イゾルフもその裾を掴んで引き留めようとした。
この後ミリセントは衛兵たちによって引きずるように連行され、侍女たちと共に「保護のため」私室へ押し込められた。
侍女たちは、ミリセント妃はイゾルフが池に落ちたのがきっかけで最愛の家族を喪う恐怖に心を壊したのだと涙ながらに訴え、衛兵たちは、この精神状態ではフレデガルに危害を加えかねないとフレデガルに忠告した。
結果、ミリセントに多くの監視が付けられることになった。これまでイゾルフについていた監視の人数が、一部母親に割かれた。
そして夜半、ビルギッテは衛兵の交替の時間を見計らって王太子の寝室へ忍び入った。
無論、昼間の騒ぎはビルギッテの耳にも入っている。精神状態が悪い妃を連れて脱出することは真っ先に諦め、やむなくイゾルフのみを連れて逃げることにした。
イゾルフはひどく躊躇し、寝室から出ようとしなかった。初めて対話した時の大人びた彼からは考えられないほど心許なげな様子は、年相応の少年の姿だ。
母親を残していくことがそれほど心残りだったのだ。ビルギッテは、一秒単位でこの脱出計画の算段をつけている。躊躇が、命取りになる。
ビルギッテが僅かばかりの失望を感じたことは否めない。初めて会った日に感じた畏怖は、幻であったかもしれないと思った。やはりオルフィニナの異母弟であるというだけで、その壮烈な精神までは似ることはないのかもしれない。
想定していた所要時間を過ぎ、見張りの衛兵が戻る時間が迫ったとき、静まり返った城の上階が俄かに騒がしくなった。
チ、とビルギッテは舌を打った。脱出の目論見が露見したと思ったのだ。そうなれば、今夜の計画は断念せざるを得ない。しかし、イゾルフは逆だった。腹を決めたように寝室を飛び出し、ビルギッテの手を取った。
「殿下、今夜は…」
「あれは母上だ」
この言葉で、ビルギッテは全てを察した。
イェルク・ゾルガが不在とはいえ、城の警戒は厳しい。イゾルフが抜け出したとなれば、すぐさま追手が放たれるだろう。ビルギッテの脱出計画は、綱渡りなのだ。ビルギッテ本人もフレデガルの追手を振り切って無事にエマンシュナに密入国できる確率は、五分だと思っている。
その確率を、ミリセントは上げようとしているに違いない。
「行こう、ギッテ」
イゾルフはビルギッテの手を引き、城を駆けた。
王都の外で待つ仲間から馬を受け取って一昼夜西へ駆ければ、ワルデル・ソリアに着く。そこから港へは遠くない。
そして、ワルデル・ソリアの港は、オルフィニナの姉エミリアが嫁いだイェリネク男爵家領にある。
(まずは、港へ――)
暗夜に溶けるように、二人の密行が始まった。
「…っ、ニナ」
ルキウスは膝の上で腰をくねらせて喘ぐオルフィニナの背をしっかりと抱き、その律動からもたらされる悦楽に堪らず眉を歪めた。
「あっ…!」
豊かな乳房を手のひらで覆い、先端にキスをすると、オルフィニナが甘い悲鳴を上げてルキウスを締め付けた。先刻ヴァレルの屋敷で気丈に見せていた女王の目は、今は快楽に蕩けて蜜色に潤んでいる。
「ここ、いいの?」
「ん…」
しかし今宵のオルフィニナは、いつもと違う。不安や恐怖を振り払おうとするように、いつも以上にルキウスとの行為に溺れようとしているようだった。
オルフィニナが乳房に吸い付くルキウスの頬を両手で挟み、顔を上げさせた。波打つ赤い髪が乱れて白い肌に散らばり、ルキウスの肌をくすぐって触覚を過敏にする。
無言の要求に逆らうことなく、ルキウスはオルフィニナの湿った唇を奪って、繋がったままベッドに押し倒し、膝を担いで奥深くを抉るような強さで何度も突いた。
オルフィニナが強くルキウスを締め付けて喉の奥で悲鳴を上げた直後、ルキウスは腰を打ち付けて何度目かの射精を果たした。愛しい女の肉体に自分の印を刻むように肌を啄むうちに、オルフィニナの乱れた呼吸が柔らかな寝息へと変じた。
柔らかな肢体を腕の中に包んで目蓋を閉じたルキウスの胸に、得体の知れない焦燥が迫った。
愛していると、戦うことなくただ護られていて欲しいと告げてしまいたくなる。それこそオルフィニナにとって最大の侮辱だと知りながら、彼女を自分だけのために存在する、ただの女にしてしまいたい。
「フン」
ルキウスは暗闇の中、オルフィニナの体温を全身に感じながら、小さく毒づいた。
滑稽だ。矛盾している。
自分とオルフィニナを夫婦たらしめるものは、それぞれの王国の相続人であるという一事だ。この前提が崩れてしまえば、オルフィニナを自分の元に縛り付けておけなくなる。
だからこそヴァレルの妄動を阻止しなければならないのだ。
(王位も、オルフィニナも、俺のものだ)
ドブネズミよりも薄汚い簒奪者どもにも、あの忌々しいイェルク・ゾルガにも、なにひとつ渡すつもりはない。
ルキウスは穏やかに眠るオルフィニナの身体を強く抱きしめた。ヴァレルがどういう理屈を使って自分の出生に疑念を持たせようとしているのかは、予想がついている。内臓が煮えくり返るほど憤りを感じているのは、相手が汚い手を使っているからでも、自分の廃嫡を目論んでいるからでもない。母親の憐れで儚い人生を、穢そうとしているからだ。
翌早朝、イェルク・ゾルガが脱獄した。
精鋭の兵二名が命を落とし、王太子の側近バルタザル・ベルトレが左目を失い、左の肩から胸にかけて重篤な刀傷を負った。異変に気付いたクインがすぐさま城を飛び出してイェルクを追い、エデンも全速で駆けたものの、イェルクが運河へ身を投げたためにそれ以上の追跡は叶わなかった。
あの男のことだ。早晩身ひとつでギエリへ生還するに違いない。
東を赤く染め始めたアストレンヌの空に、怒りに震えるクインの咆哮が響いた。
その頃、ビルギッテはイェルクの監視をすり抜けて、軟禁状態にあるイゾルフと連絡を取り合っていた。
方法は、本だ。
イゾルフが毎日女中に本を所望する。外国語、歴史、政治学や、建築、治水など、様々なことに関連するものだ。イゾルフは元より読書好きだから、特にあやしまれることはない。毎晩城が寝静まった後に火の番をするビルギッテが読み終えた本を次に所望する本のメモと一緒に回収し、前に回収したメモに書いてあった本を置いていく。
メッセージのやり取りは、本に書かれた文字に印を付けることで行う。所定の頁に記されている一文字を唾や茶で湿らせて滲ませ、それを何頁かにわたって行うことで、短い文章にするのだ。
この夜、ビルギッテがイゾルフの寝室に置いていった歴史書には「明日の深夜三時十七分に迎えに来る」と言う内容を印として残している。
翌朝、本に目を通したイゾルフは、庭園の散歩に誘うという口実を作って母親の私室を訪ねた。無論、イェルク配下の監視が付いている。
亡きエギノルフ王の妃ミリセントは、美しい麦の穂色の髪と褐色の瞳を持つ健康的な女性だったが、政変以降、その気苦労からか、すっかり痩せてしまっている。唯一手元に残った息子と会うときにもイェルク・ゾルガやその代理者の許可がなければならず、常に監視下に置かれ、城の外に出ることは許されない。世間的にはまだ葬儀も行われていないエギノルフ王の妃であるというのに、八年ものあいだ民の様子を知ることもできないまま、ただ自分と息子の命を繋ぐために、息の詰まりそうな王城での生活を、沈黙の内に過ごしている。
ミリセントは息子の誘いに応じて、監視役の衛兵二名を従えて庭園へ出た。
「母上に見せたかったのです。ちょうど池のそばのスズランが綺麗に咲いているのですよ」
そう言って、イゾルフは母親の手を引いた。向かった先には、言った通り池がある。衛兵は常に三メートルほど離れた位置に控えている。
「ほら、あそこに…」
と、イゾルフは池の向こうを指差した瞬間に足を滑らせて池に落ちた。
「きゃああ!衛兵、衛兵!殿下が池に…!」
ミリセントの声に、衛兵二人は機敏に反応した。自分たちの監視下にある王太子に何かあっては、将軍から罰を受けることになる。それだけは御免だ。
衛兵たちはミリセントがドレスの袖を濡らしてイゾルフを池から引き上げるのを助け、ずぶ濡れのイゾルフが咳き込みながら芝の上に上がったのでほっと息をついたが、これで終わりではなかった。
「何をしているのです!すぐに殿下にお召し物と毛布をお持ちしなさい!」
普段の儚げな様子からは想像できないほどの剣幕で、ミリセントが捲し立てた。慌てた衛兵たちがその場を走り去った後、咳き込み続けるイゾルフに自分のショールを掛けながら、吐息だけの声で囁いた。
「行きましたよ」
ミリセントは賢い女性だ。池に落ちたのがイゾルフの自作自演であることは分かっている。息子の背を労わるようにさすりながら、衛兵二人が城へ入って行くのをしかと見た。
イゾルフは灰色の目を上げ、短く、しかし決然と言った。
「今夜ここを出ます」
母親の眉の下に暗い影が落ちたのを見て、イゾルフの胸に小さな失望が滲んだ。
「では、お別れです」
ミリセントが静かに言った。
「いいえ、母上も一緒に」
「わたくしはエギノルフ王の妃です。ここを離れるわけにはいきません」
イゾルフは母親の骨の目立つ手を握り、顎を奮わせた。
「そんな…、姉さまを信じてください。必ず母上のことも護ってくださいます」
この言葉に、ミリセントは顔色を変えた。細い眉を決し、灰色の光彩に強い光を踊らせ、憤りに歯を食い縛った姿は、まさしく狼の国の妃だった。
「護られるだけのつもりならば、いっそここで死になさい」
イゾルフは母の激しい口ぶりに言葉を失った。氷の飛礫を全身に浴びたような気分だった。
「わたくしは女公殿下――いえ、女王陛下を信じています。彼女ならやりおおせるでしょう。そして王国に忠実な陛下は、あなたがその次に国王となるよう考えているはずです。よいですか、イゾルフ王太子殿下。あなたはその立場に相応しく在りなさい。護られるためではなく、助けとなるために行くのです。あなたも共に王国を護る者となりなさい。そのためならば、母親など打ち捨てなさい。よいですね」
イゾルフの身体が震えた。恐怖とは違う。この少年のうちに眠る狼の血がそうさせるのかもしれなかった。
この灰色の瞳に宿った炎を、ミリセントは悲壮な思いで見た。
「…母上は、ここに残って何をなさるのですか」
「わたくしがなすべきことです」
イゾルフはなおも口を開こうとしたが、叶わなかった。衛兵たちが顔色を無くした侍女たちを引き連れてバタバタと戻ってきたからだ。侍女が二人がかりで火鉢を持ち、別の侍女が着替えを持ち、衛兵が毛布を手に持って駆けて来る。
この直後、庭園は恐慌状態に陥った。ミリセントが突如として激しく暴れ出したのだ。
イゾルフの肩に毛布を掛けた衛兵につかみかかり、侍女たちのドレスに縋りついて、泣き喚き、甲高い怒声を放った。
「わたくしの息子が、この者たちに殺されかけたのです!これはフレデガルの仕業です!わたくしの夫のみならず、息子までも!出てきなさい、薄汚いフレデガル!フレデガルをここにお寄越し!」
狂した。――と、みなが思った。イゾルフまでもが本当に発狂したのではないかと疑わしくなるほどの取り乱しようだった。宥めようとした衛兵を振りほどき、フレデガルの名を絶叫しながら城へ向かって走り出した時には、イゾルフもその裾を掴んで引き留めようとした。
この後ミリセントは衛兵たちによって引きずるように連行され、侍女たちと共に「保護のため」私室へ押し込められた。
侍女たちは、ミリセント妃はイゾルフが池に落ちたのがきっかけで最愛の家族を喪う恐怖に心を壊したのだと涙ながらに訴え、衛兵たちは、この精神状態ではフレデガルに危害を加えかねないとフレデガルに忠告した。
結果、ミリセントに多くの監視が付けられることになった。これまでイゾルフについていた監視の人数が、一部母親に割かれた。
そして夜半、ビルギッテは衛兵の交替の時間を見計らって王太子の寝室へ忍び入った。
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イゾルフはひどく躊躇し、寝室から出ようとしなかった。初めて対話した時の大人びた彼からは考えられないほど心許なげな様子は、年相応の少年の姿だ。
母親を残していくことがそれほど心残りだったのだ。ビルギッテは、一秒単位でこの脱出計画の算段をつけている。躊躇が、命取りになる。
ビルギッテが僅かばかりの失望を感じたことは否めない。初めて会った日に感じた畏怖は、幻であったかもしれないと思った。やはりオルフィニナの異母弟であるというだけで、その壮烈な精神までは似ることはないのかもしれない。
想定していた所要時間を過ぎ、見張りの衛兵が戻る時間が迫ったとき、静まり返った城の上階が俄かに騒がしくなった。
チ、とビルギッテは舌を打った。脱出の目論見が露見したと思ったのだ。そうなれば、今夜の計画は断念せざるを得ない。しかし、イゾルフは逆だった。腹を決めたように寝室を飛び出し、ビルギッテの手を取った。
「殿下、今夜は…」
「あれは母上だ」
この言葉で、ビルギッテは全てを察した。
イェルク・ゾルガが不在とはいえ、城の警戒は厳しい。イゾルフが抜け出したとなれば、すぐさま追手が放たれるだろう。ビルギッテの脱出計画は、綱渡りなのだ。ビルギッテ本人もフレデガルの追手を振り切って無事にエマンシュナに密入国できる確率は、五分だと思っている。
その確率を、ミリセントは上げようとしているに違いない。
「行こう、ギッテ」
イゾルフはビルギッテの手を引き、城を駆けた。
王都の外で待つ仲間から馬を受け取って一昼夜西へ駆ければ、ワルデル・ソリアに着く。そこから港へは遠くない。
そして、ワルデル・ソリアの港は、オルフィニナの姉エミリアが嫁いだイェリネク男爵家領にある。
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