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17 二人のルール - Die drei Stunden Regel -
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最悪だ。
オルフィニナはルキウスとクインの板挟みになった。物理的にも、精神的にもだ。これから始まるのが泥沼の喧嘩でないとすれば、きっと天地がひっくり返る。
クインが顔を上げてルキウスを睨め付けると同時に、ルキウスはオルフィニナの腕を引いて自分の方へ抱き寄せ、ガウンを拾ってオルフィニナの肩に掛けた。
「調子に乗るなよ、お前」
ルキウスが低い声で言った。オルフィニナが制止しようとするのを予見して、彼女を自分の背に隠すように前へ出ると、怒りの形相で見下ろしてくるクインの胸倉を掴んだ。
「調子に乗ってるのはどっちだ」
クインも語気を荒げた。暗殺任務の時でさえこれほど残忍な顔にはならない。
「お前だよ」
と、ルキウスが言った時、オルフィニナは「あっ」と思った。この次に飛び出す言葉を予測したからだ。が、遅かった。
「ニナの夫になる身として言っておく。今後一切ニナの服の下を目にすることは許さないし、着替えや湯浴みの手伝いもさせない。それから、生涯ニナがお前のものになることはない。今、この場で殺されないことを感謝しろ」
(ああ…)
オルフィニナは頭を抱えた。
クインには伝え方を熟考してから話すつもりでいたのに、最悪の状況で、あまつさえ一番不適切な人物の口から告げられてしまった。
「――夫?」
初めて聞く言葉を耳にしたような顔で、クインがオルフィニナを見た。
「一体こいつは何を言ってる?」
怒りを通り越して、困惑のあまり助けを求めているような調子だ。
(まあ、そうなるよな…)
無理もない。
オルフィニナは意を決してガウンの前を帯で締め、ルキウスの腕からするりと抜けクインの前へ出た。
「結婚することにした。これからはフレデガルの王位簒奪を阻止するために協力体制を組む」
マルス語で事務的に言った。ルキウスを夫とすることに決めた以上、その前で本人の理解不能な言語を使うことは、オルフィニナの価値基準では礼儀に反する。
ルキウスはオルフィニナの肩を抱いて髪にキスをし、満足げに笑った。オルフィニナの迷惑そうな顔を気にする素振りはない。
「けっ――」
と、口を開いたまま、クインは凍り付いた。怒りとは違う。あまりの混乱に、全ての感情が蒸発してしまったような感覚だ。
正気か。などとは訊けなかった。オルフィニナは間違いなく正気だ。でなければ、こんな馬鹿げたことを決めてしまうはずがない。
「…何故そうなっ――」
クインはまたしても言葉を失い、大きな溜め息を長くついて、厚かましくオルフィニナの肩を抱くルキウスを睨め付けた後、親指と人差し指と中指を立てて見せ、食いしばった歯の間からオルフィニナに言った。
「……三時間ルールだ、ニナ」
理由など聞いたところでどうにもならない。
クインには全く理解できないが、オルフィニナのことは誰よりもよく知っている。彼女なりの信念と考えの末に決めたに違いないのだから、その理由を否定することは、兄の立場としても、友人としても、無論、騎士としても、できない。
「いいよ。三時間ルールだ」
オルフィニナが頷くと、クインはそれきり二人の顔も見ずに浴室を出て行った。
「三時間ルール?」
扉が閉まった後、ルキウスはオルフィニナの波打つ赤毛を弄びながら訊ねた。
「アドラー家の仲裁方法だ。ひどい喧嘩が始まりそうになると、三時間互いに離れて頭を冷やす。それからまた顔を合わせて話し合う。その途中でまた喧嘩になりそうなら、また三時間どうやって相手を納得させるかをじっくり考える。子供の頃ルッツによくやらされた」
「へぇ」
ルキウスは興味なさそうに相槌を打った。
またオルフィニナとクインの間でだけ通じ合うものだ。正直、ものすごく気に入らない。が、その嫌悪感の正体についてじっくり考えるよりも優先しなければならないことがある。
「今日の仕事が終わったら、今後のことを話そうか。ニナ」
「それよりも今聞きたいことがある。なぜ指輪が額縁に入っていると分かった」
「今更?」
ルキウスはおかしそうに目を細めた。
オルフィニナの頬がみるみる赤くなる。昨夜はそんなことを問う余裕など少しもなかった。そういう意図を悟られないよう表情を変えずにいたつもりだったが、存外自分は取り繕うのが苦手だ。
ルキウスはオルフィニナの頬に触れ、唇を吊り上げた。
「身体が冷えてる。君が湯に入ったら話してやるよ」
果たしてこれも挑発なのだろうかと思ったが、確かに身体はルキウスの肌を離れたときからすっかり冷えてしまった。
急に肌が寒さを思い出したように震えた。
「向こうを向いて」
この要求に、ルキウスは意外にも素直に応じた。オルフィニナがガウンを脱ぐと、ルキウスが後ろ手で指をちょこちょこさせて合図して見せたので、オルフィニナはそこにガウンを預け、肌をひりつかせるほど熱い湯に入った。こんなに心が落ち着かない入浴は初めてだ。背後でルキウスがガウンを衝立に掛ける物音でさえ、神経をピリピリさせる。
「――それで、指輪の話だけど」
ルキウスは機嫌良く言いながら再び浴槽のそばへ戻ってきて花の香りの立つ白い湯に手を浸し、陶の浴槽の縁にこぼれたオルフィニナの髪を梳いた。
オルフィニナは湯気の立つ水面から小島のように覗いた自分の膝を凝視した。肩のあたりにちくちくとルキウスの視線が刺さる。
「あの絵だけ何か違って見えたんだ。手に取ったら音がしたから、壊した。そしたら、指輪を見つけた」
「それだけ?違って見えた?」
「そう。髪型かな。君が髪を結ってないのは珍しいよな。どちらも好きだけど――」
ルキウスはオルフィニナの髪を持ち上げて口付けし、ツと肩に指で触れた。指の軌道をなぞって水滴が滑り落ち、オルフィニナの神経を鋭くさせる。
「ほどけた君の赤い髪が乱れるところはもっと好きだ」
オルフィニナは耐えかねて身体の向きを変え、その手から逃れた。
「…あれは、六歳の弟が描いた十八のわたしだ」
素気なく言うオルフィニナの頬が赤い。これが湯のせいかどうかは、ルキウスにはわからない。が、どちらでもよいことだ。
「じゃあ、君は宝物に宝物を隠したんだな」
ふ。と、オルフィニナは笑い声を漏らし、後ろで髪に悪戯を続けるルキウスを振り返った。この男にしては、なかなか可愛らしいことを言う。
「おかしい?」
「あなたにそんな情緒があるとはね」
「どちらかというと俺は昔から情緒的な方だ」
ルキウスは寛いだ様子で目を細めた。
「そうかもしれないな。あなたは誰にも気づかれなかったイゾルフの絵に微かな違和感を見つけてしまった」
「それは、俺がこの世の誰より君のことを深く知りたいと思ってるからさ」
愉しそうに細まった目の奥で、孔雀石色の瞳が暗くなる。
「あいつは指輪のことを知ってる?」
「知らない。わたしとルッツ以外には」
「それと、俺だけか」
ルキウスが身を屈めてオルフィニナの頬に触れ、唇を重ねてきたとき、オルフィニナの身体の中がひどくムズムズした。
強引に奪うようなそれではなく、慈しむような、触れるだけの口づけだ。それなのに、身体の奥が昨晩から与えられ続けた熱を反芻し始める。
「――じゃあ、また今夜」
唇が離れた後、ルキウスの低い声が唇を舐めた。
オルフィニナがこれを晩餐の誘いと受け取るべきか、またあれをしに来ると言われているのか判断に困っているうちに、ルキウスは嫣然と微笑んで廊下側の扉から出て行った。
オルフィニナは大きく息をついて湯の中に潜った。
(くそ。しっかりしろ)
心中で自らを叱咤した。
あれは巧者だ。男性経験を少しも積んでこなかったことが悔やまれる。
王族の娘として価値の高い政治の道具である自らの貞操を愚直に守ってきたはいいが、年下の放蕩者にここまで翻弄されてしまっては、本末転倒だ。
ざば!と、オルフィニナは湯の中から顔を上げた。今は三時間後にクインと話すべきことを考えておかなければならない。
しかし、身体中に残されたルキウスの痕跡と熱がオルフィニナから集中力を奪う。
まったく、忌々しいことだ。
ルキウスが上半身裸のまま自室に戻った時、続き部屋の浴室の扉の前でバルタザルが主の帰りを待ち侘びていた。
向けられた灰色の目は、どこか非難がましく張り詰めている。
「お前の意見は求めてない」
「わたしは殿下の決定に従います」
バルタザルがルキウスよりも暗い金色のまつ毛を伏せた。
「それにしては不満そうだ」
「滅相もないですよ」
「そうか。じゃあ父上に書状を送るから早馬を手配しろ。結婚することにした」
「承知いたしま…――えっ!?」
畏まって頭を下げようとした途中の格好で、バルタザルは頓狂な声を上げた。頭を上げた勢いは、首の後ろが攣りそうになったほどだ。
浴室へさっさと入ってズボンと下着を脱ぎ始めたルキウスに向かって、恐る恐る発声した。
「けっ――こん…と仰るのは、男女が生涯連れ添うという、あれですよね?神々に誓い、指輪を交換するあれで…その、別れる予定のない――あれのことですよね?」
「当たり前だろうが」
ルキウスはざぶりと浴槽の湯に入り、眉をひそめた。
「そ、それは…彼女が合意したと言うことですか」
「まだ相手が誰とも言ってないだろ」
ルキウスは不満この上ない渋面になった。
「え、オルフィニナ殿下ですよね?だってルキウス殿下は、最初からいたくあの方に執ちゃ――あー、いえ、気にされている様子だったので、相手は彼女しかいないかと…」
ルキウスは鼻で笑った。
「俺とオルフィニナで利害が一致した。…まあ、彼女を気に入ってるのは確かだ」
ルキウスが脱ぎ捨てたズボンや下着を拾いながら、果たしてオルフィニナの方はどうだろうか、と、バルタザルは考えた。彼女がエマンシュナの王太子妃になりたがっているとは思えないし、ルキウスを愛しているとは、もっと思えない。その上、オルフィニナが主君の妻になるとしたら、恐らくはあの騎士どのも常にそばにいることになる。
(あの人、苦手なんだよなぁ)
しかも心底ルキウスを憎んでいる。バルタザルの胃がキリキリと痛んだ。これが国王の耳に入った後に何が起きるかなど、今は考えたくもない。
しかし、実直な男だ。バルタザルはルキウスがオルフィニナとの結婚を発表した後で一番にぶち当たる問題を確認せずにはいられなかった。
「ルキウス殿下」
と、湯の中で寛ぐ主君に呼びかけた。
「なんだ」
気怠そうな声が返ってくる。
「妃の候補に挙がっていた他のご令嬢方には、どのように対処いたしましょうか」
「ああ」
(そういえばそんなのがいたな)
ルキウスはこの時初めて彼女たちの存在を思い出した。そのうち何人かと婚約者の候補として顔を合わせたことがあるということも、すっかり忘れていた。
「破談の報せと一緒に何か見繕って贈ってやれ。あとは適当に頼む」
「承知いたしました」
言いながら、バルタザルは小さく溜め息をついた。全く先が思いやられる。
三時間後、馬場に出て馬に乗り体を動かしていたオルフィニナの元へ、クインが戻ってきた。シャツと革のベストに、黒い細身のズボンと乗馬用のブーツを履いている。武装ではない。
とりあえずルキウスを攻撃するための武器の用意はなさそうだが、生憎この男の一番の武器は自らの手足であることを、オルフィニナは知っている。
「クイン」
オルフィニナは馬から降りようとしたが、クインは手綱を握ってそれをやめさせ、轡を取って広く柵で囲われた馬場を歩き始めた。
芦毛の馬が歩を進めるたびに、乗馬用のドレスの長い裾が鞍の上をヒラヒラと泳ぐ。
オルフィニナが着る乗馬用のドレスは、スカートの軽やかな襞を多くし、足元を捌きやすく作らせたもので、貴婦人が横乗りするために着る物ではない。アドラー家では、女も男と同じように馬に乗る。ドレクセン王家では、主に頭の硬い年寄り連中にはあまり歓迎されなかったが、オルフィニナの振る舞いは常にアドラーの薫陶を受けたものだった。
「…このままどこかに連れて行ってしまいたいが、あんた許さないだろ」
クインが馬上のオルフィニナを慈しむように見上げて言うと、オルフィニナは静かに笑った。
「そうだな」
「俺は納得できない。なぜドレクセンに拘る。あんたを勝手に親父に預けて勝手に王家に戻し、今度は半分しか血の繋がらない弟を必死で守ろうとして敵に囚われたあんたを助けに来ようともしない奴らだぞ。そんなのに守る価値があるのか」
「あるよ」
オルフィニナはきっぱりと言い、右手の親指をクインに見せた。
クインは眉間に皺を寄せてハシバミ色の目を眇め、節の目立つ白い親指に輝く指輪に目を凝らした。咆哮する狼が護る、琥珀の指輪だ。
クインは王の側近の息子だ。王の指輪を見間違えるはずがない。だからこそ、見ているものが信じられなかった。
「――何故、あんたが持ってる」
「そのまま聞いて」
オルフィニナは頬を撫でる冷たい空気に溶けるような声色で言った。
オルフィニナはルキウスとクインの板挟みになった。物理的にも、精神的にもだ。これから始まるのが泥沼の喧嘩でないとすれば、きっと天地がひっくり返る。
クインが顔を上げてルキウスを睨め付けると同時に、ルキウスはオルフィニナの腕を引いて自分の方へ抱き寄せ、ガウンを拾ってオルフィニナの肩に掛けた。
「調子に乗るなよ、お前」
ルキウスが低い声で言った。オルフィニナが制止しようとするのを予見して、彼女を自分の背に隠すように前へ出ると、怒りの形相で見下ろしてくるクインの胸倉を掴んだ。
「調子に乗ってるのはどっちだ」
クインも語気を荒げた。暗殺任務の時でさえこれほど残忍な顔にはならない。
「お前だよ」
と、ルキウスが言った時、オルフィニナは「あっ」と思った。この次に飛び出す言葉を予測したからだ。が、遅かった。
「ニナの夫になる身として言っておく。今後一切ニナの服の下を目にすることは許さないし、着替えや湯浴みの手伝いもさせない。それから、生涯ニナがお前のものになることはない。今、この場で殺されないことを感謝しろ」
(ああ…)
オルフィニナは頭を抱えた。
クインには伝え方を熟考してから話すつもりでいたのに、最悪の状況で、あまつさえ一番不適切な人物の口から告げられてしまった。
「――夫?」
初めて聞く言葉を耳にしたような顔で、クインがオルフィニナを見た。
「一体こいつは何を言ってる?」
怒りを通り越して、困惑のあまり助けを求めているような調子だ。
(まあ、そうなるよな…)
無理もない。
オルフィニナは意を決してガウンの前を帯で締め、ルキウスの腕からするりと抜けクインの前へ出た。
「結婚することにした。これからはフレデガルの王位簒奪を阻止するために協力体制を組む」
マルス語で事務的に言った。ルキウスを夫とすることに決めた以上、その前で本人の理解不能な言語を使うことは、オルフィニナの価値基準では礼儀に反する。
ルキウスはオルフィニナの肩を抱いて髪にキスをし、満足げに笑った。オルフィニナの迷惑そうな顔を気にする素振りはない。
「けっ――」
と、口を開いたまま、クインは凍り付いた。怒りとは違う。あまりの混乱に、全ての感情が蒸発してしまったような感覚だ。
正気か。などとは訊けなかった。オルフィニナは間違いなく正気だ。でなければ、こんな馬鹿げたことを決めてしまうはずがない。
「…何故そうなっ――」
クインはまたしても言葉を失い、大きな溜め息を長くついて、厚かましくオルフィニナの肩を抱くルキウスを睨め付けた後、親指と人差し指と中指を立てて見せ、食いしばった歯の間からオルフィニナに言った。
「……三時間ルールだ、ニナ」
理由など聞いたところでどうにもならない。
クインには全く理解できないが、オルフィニナのことは誰よりもよく知っている。彼女なりの信念と考えの末に決めたに違いないのだから、その理由を否定することは、兄の立場としても、友人としても、無論、騎士としても、できない。
「いいよ。三時間ルールだ」
オルフィニナが頷くと、クインはそれきり二人の顔も見ずに浴室を出て行った。
「三時間ルール?」
扉が閉まった後、ルキウスはオルフィニナの波打つ赤毛を弄びながら訊ねた。
「アドラー家の仲裁方法だ。ひどい喧嘩が始まりそうになると、三時間互いに離れて頭を冷やす。それからまた顔を合わせて話し合う。その途中でまた喧嘩になりそうなら、また三時間どうやって相手を納得させるかをじっくり考える。子供の頃ルッツによくやらされた」
「へぇ」
ルキウスは興味なさそうに相槌を打った。
またオルフィニナとクインの間でだけ通じ合うものだ。正直、ものすごく気に入らない。が、その嫌悪感の正体についてじっくり考えるよりも優先しなければならないことがある。
「今日の仕事が終わったら、今後のことを話そうか。ニナ」
「それよりも今聞きたいことがある。なぜ指輪が額縁に入っていると分かった」
「今更?」
ルキウスはおかしそうに目を細めた。
オルフィニナの頬がみるみる赤くなる。昨夜はそんなことを問う余裕など少しもなかった。そういう意図を悟られないよう表情を変えずにいたつもりだったが、存外自分は取り繕うのが苦手だ。
ルキウスはオルフィニナの頬に触れ、唇を吊り上げた。
「身体が冷えてる。君が湯に入ったら話してやるよ」
果たしてこれも挑発なのだろうかと思ったが、確かに身体はルキウスの肌を離れたときからすっかり冷えてしまった。
急に肌が寒さを思い出したように震えた。
「向こうを向いて」
この要求に、ルキウスは意外にも素直に応じた。オルフィニナがガウンを脱ぐと、ルキウスが後ろ手で指をちょこちょこさせて合図して見せたので、オルフィニナはそこにガウンを預け、肌をひりつかせるほど熱い湯に入った。こんなに心が落ち着かない入浴は初めてだ。背後でルキウスがガウンを衝立に掛ける物音でさえ、神経をピリピリさせる。
「――それで、指輪の話だけど」
ルキウスは機嫌良く言いながら再び浴槽のそばへ戻ってきて花の香りの立つ白い湯に手を浸し、陶の浴槽の縁にこぼれたオルフィニナの髪を梳いた。
オルフィニナは湯気の立つ水面から小島のように覗いた自分の膝を凝視した。肩のあたりにちくちくとルキウスの視線が刺さる。
「あの絵だけ何か違って見えたんだ。手に取ったら音がしたから、壊した。そしたら、指輪を見つけた」
「それだけ?違って見えた?」
「そう。髪型かな。君が髪を結ってないのは珍しいよな。どちらも好きだけど――」
ルキウスはオルフィニナの髪を持ち上げて口付けし、ツと肩に指で触れた。指の軌道をなぞって水滴が滑り落ち、オルフィニナの神経を鋭くさせる。
「ほどけた君の赤い髪が乱れるところはもっと好きだ」
オルフィニナは耐えかねて身体の向きを変え、その手から逃れた。
「…あれは、六歳の弟が描いた十八のわたしだ」
素気なく言うオルフィニナの頬が赤い。これが湯のせいかどうかは、ルキウスにはわからない。が、どちらでもよいことだ。
「じゃあ、君は宝物に宝物を隠したんだな」
ふ。と、オルフィニナは笑い声を漏らし、後ろで髪に悪戯を続けるルキウスを振り返った。この男にしては、なかなか可愛らしいことを言う。
「おかしい?」
「あなたにそんな情緒があるとはね」
「どちらかというと俺は昔から情緒的な方だ」
ルキウスは寛いだ様子で目を細めた。
「そうかもしれないな。あなたは誰にも気づかれなかったイゾルフの絵に微かな違和感を見つけてしまった」
「それは、俺がこの世の誰より君のことを深く知りたいと思ってるからさ」
愉しそうに細まった目の奥で、孔雀石色の瞳が暗くなる。
「あいつは指輪のことを知ってる?」
「知らない。わたしとルッツ以外には」
「それと、俺だけか」
ルキウスが身を屈めてオルフィニナの頬に触れ、唇を重ねてきたとき、オルフィニナの身体の中がひどくムズムズした。
強引に奪うようなそれではなく、慈しむような、触れるだけの口づけだ。それなのに、身体の奥が昨晩から与えられ続けた熱を反芻し始める。
「――じゃあ、また今夜」
唇が離れた後、ルキウスの低い声が唇を舐めた。
オルフィニナがこれを晩餐の誘いと受け取るべきか、またあれをしに来ると言われているのか判断に困っているうちに、ルキウスは嫣然と微笑んで廊下側の扉から出て行った。
オルフィニナは大きく息をついて湯の中に潜った。
(くそ。しっかりしろ)
心中で自らを叱咤した。
あれは巧者だ。男性経験を少しも積んでこなかったことが悔やまれる。
王族の娘として価値の高い政治の道具である自らの貞操を愚直に守ってきたはいいが、年下の放蕩者にここまで翻弄されてしまっては、本末転倒だ。
ざば!と、オルフィニナは湯の中から顔を上げた。今は三時間後にクインと話すべきことを考えておかなければならない。
しかし、身体中に残されたルキウスの痕跡と熱がオルフィニナから集中力を奪う。
まったく、忌々しいことだ。
ルキウスが上半身裸のまま自室に戻った時、続き部屋の浴室の扉の前でバルタザルが主の帰りを待ち侘びていた。
向けられた灰色の目は、どこか非難がましく張り詰めている。
「お前の意見は求めてない」
「わたしは殿下の決定に従います」
バルタザルがルキウスよりも暗い金色のまつ毛を伏せた。
「それにしては不満そうだ」
「滅相もないですよ」
「そうか。じゃあ父上に書状を送るから早馬を手配しろ。結婚することにした」
「承知いたしま…――えっ!?」
畏まって頭を下げようとした途中の格好で、バルタザルは頓狂な声を上げた。頭を上げた勢いは、首の後ろが攣りそうになったほどだ。
浴室へさっさと入ってズボンと下着を脱ぎ始めたルキウスに向かって、恐る恐る発声した。
「けっ――こん…と仰るのは、男女が生涯連れ添うという、あれですよね?神々に誓い、指輪を交換するあれで…その、別れる予定のない――あれのことですよね?」
「当たり前だろうが」
ルキウスはざぶりと浴槽の湯に入り、眉をひそめた。
「そ、それは…彼女が合意したと言うことですか」
「まだ相手が誰とも言ってないだろ」
ルキウスは不満この上ない渋面になった。
「え、オルフィニナ殿下ですよね?だってルキウス殿下は、最初からいたくあの方に執ちゃ――あー、いえ、気にされている様子だったので、相手は彼女しかいないかと…」
ルキウスは鼻で笑った。
「俺とオルフィニナで利害が一致した。…まあ、彼女を気に入ってるのは確かだ」
ルキウスが脱ぎ捨てたズボンや下着を拾いながら、果たしてオルフィニナの方はどうだろうか、と、バルタザルは考えた。彼女がエマンシュナの王太子妃になりたがっているとは思えないし、ルキウスを愛しているとは、もっと思えない。その上、オルフィニナが主君の妻になるとしたら、恐らくはあの騎士どのも常にそばにいることになる。
(あの人、苦手なんだよなぁ)
しかも心底ルキウスを憎んでいる。バルタザルの胃がキリキリと痛んだ。これが国王の耳に入った後に何が起きるかなど、今は考えたくもない。
しかし、実直な男だ。バルタザルはルキウスがオルフィニナとの結婚を発表した後で一番にぶち当たる問題を確認せずにはいられなかった。
「ルキウス殿下」
と、湯の中で寛ぐ主君に呼びかけた。
「なんだ」
気怠そうな声が返ってくる。
「妃の候補に挙がっていた他のご令嬢方には、どのように対処いたしましょうか」
「ああ」
(そういえばそんなのがいたな)
ルキウスはこの時初めて彼女たちの存在を思い出した。そのうち何人かと婚約者の候補として顔を合わせたことがあるということも、すっかり忘れていた。
「破談の報せと一緒に何か見繕って贈ってやれ。あとは適当に頼む」
「承知いたしました」
言いながら、バルタザルは小さく溜め息をついた。全く先が思いやられる。
三時間後、馬場に出て馬に乗り体を動かしていたオルフィニナの元へ、クインが戻ってきた。シャツと革のベストに、黒い細身のズボンと乗馬用のブーツを履いている。武装ではない。
とりあえずルキウスを攻撃するための武器の用意はなさそうだが、生憎この男の一番の武器は自らの手足であることを、オルフィニナは知っている。
「クイン」
オルフィニナは馬から降りようとしたが、クインは手綱を握ってそれをやめさせ、轡を取って広く柵で囲われた馬場を歩き始めた。
芦毛の馬が歩を進めるたびに、乗馬用のドレスの長い裾が鞍の上をヒラヒラと泳ぐ。
オルフィニナが着る乗馬用のドレスは、スカートの軽やかな襞を多くし、足元を捌きやすく作らせたもので、貴婦人が横乗りするために着る物ではない。アドラー家では、女も男と同じように馬に乗る。ドレクセン王家では、主に頭の硬い年寄り連中にはあまり歓迎されなかったが、オルフィニナの振る舞いは常にアドラーの薫陶を受けたものだった。
「…このままどこかに連れて行ってしまいたいが、あんた許さないだろ」
クインが馬上のオルフィニナを慈しむように見上げて言うと、オルフィニナは静かに笑った。
「そうだな」
「俺は納得できない。なぜドレクセンに拘る。あんたを勝手に親父に預けて勝手に王家に戻し、今度は半分しか血の繋がらない弟を必死で守ろうとして敵に囚われたあんたを助けに来ようともしない奴らだぞ。そんなのに守る価値があるのか」
「あるよ」
オルフィニナはきっぱりと言い、右手の親指をクインに見せた。
クインは眉間に皺を寄せてハシバミ色の目を眇め、節の目立つ白い親指に輝く指輪に目を凝らした。咆哮する狼が護る、琥珀の指輪だ。
クインは王の側近の息子だ。王の指輪を見間違えるはずがない。だからこそ、見ているものが信じられなかった。
「――何故、あんたが持ってる」
「そのまま聞いて」
オルフィニナは頬を撫でる冷たい空気に溶けるような声色で言った。
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