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18 託すもの - Der Ring des Wolfskönigs -
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七年前の十二月。乾いた雪が灰のように舞い散る深夜のことだった。
これより三年前にドレクセンの名を与えられていたオルフィニナは、王の庶子という身ながら王族として政務に就き、ギエリ城で暮らしていた。
この夜も、クインがいつものようにオルフィニナの政務が終わるまで同室に侍り、就寝の時分になると軽口を叩いて同じ階の自室へ引き取って行った。
燭台の火を消してから三時間ほど経った頃、オルフィニナの寝室に忍んでやってきた者がいた。
天蓋の閉じ切ったカーテンの外に侵入者が立った時には、オルフィニナは既に目を開け、枕の下から取り出した護身用の剣を手に、カーテンのすぐ後ろで侵入者を待ち構えていた。
カーテンが開き、針のように細い短剣が侵入者の目玉を突く寸前で止まった。
「俺だ、ニナ」
小さく潜めていても、この嗄れ声の主は間違えようがない。育ての父であるルッツだ。
ルッツは白髪混じりの赤みがかった茶色の髪を後ろで束ね、大きく張り出した額に汗を浮かせている。肌を刺すほど寒い冬の深夜に汗ばむほど急いでいたのか、平素は豪胆すぎるほどのこの男を恐怖させる何かが起きたのか、どちらにせよ、ルッツが悪い事態を運んできたのは明白だった。
「ファーティ?どうした」
警戒から安堵へ転じて気が抜けたために、ルッツを‘ファーティ’と呼ぶ往年の癖がつい出てしまった。こういう時、いつもならルッツは「ルッツとお呼びあれ、オルフィニナ殿下」などと慇懃に苦言を呈すものだが、この時ばかりは違った。もはやそんな余裕がなかったのだろう。
「一緒に来い」
オルフィニナは頷いてルッツが持ってきた分厚い織物のガウンを寝衣の上に纏い、燭台も持たずに暗い廊下に出た。暗闇を明かりを持たずに進むのは、ベルンシュタインの基本的な行動原則のひとつだ。
夜目が利くようになるまでは足音や衣擦れなどの微かな音、そして、頭の中にある建物の構造を頼りに進む。二人とも壁や段差、階段、扉や窓の位置を、歩数やその他の感覚によって正確に記憶している。ベルンシュタインの人間にとっては、もはや習性とも言える、初歩的なことだ。
オルフィニナはルッツがどこに向かっているのか、階段を上り始めた時に悟った。自分の寝室よりも上の階にあるのは、国王と王妃のそれぞれの寝室と執務室だけだ。
「陛下に何があった」
などと愚問を発するほど、十八歳のオルフィニナは感性の鈍い娘ではなかった。
が、訊かずにはいられないことがあった。
「何故、わたしを」
ということだ。
元々ひと月前から急激に衰え始めていた父親の容態がこの数日で悪化したことは把握している。それが、今際の際に何故唯一の庶子である自分を召し出したのか。理由が分からない。
「陛下に聞け」
ルッツはそれだけ言って、さっさと階段を一段飛ばしで上って行く。オルフィニナの背を冷たい汗が伝った。
エギノルフ王は、天蓋から垂れる薄いカーテンの向こうに仰臥していた。
広い寝室の中は、サイドテーブルに置かれた燭台の五本の蝋燭が、ベッドの周囲だけを明るく浮かび上がらせ、ベッドの柱に美しく彫り込まれた草木や花、狼や水鳥などの影を、まるで生きているように踊らせていた。
この広い寝室には、国王しかいない。侍医の姿も、侍従の気配もない。人払いしたためだ。
カーテンの奥の国王は、既に腕を上げる力すら失っていた。頬は痩け、眼窩は窪み、皮膚は日照りの続いた地表のように乾き、かつて燃えるような赤色をしていた髪は最早そのほとんどが白く退色し、まだ齢五十余りだというのに八十をいくつも過ぎた老爺のように見えた。
しかし、オルフィニナと同じ琥珀色の双眸だけは爛と光っている。死を迎え入れながら、最後の生を微塵も残さず使い切ろうとしているようだ。
「オルフィニナ」
声はガラガラとひどく嗄れていたが、思いのほか明瞭だった。
「父上」
表情を消して枕頭に立ち、骨ばかりになった手を強く握ってきた娘に向かって、国王は言葉を発した。
「長い間我が娘と公認してやれず、すまなかった。ゲルダと、エミリアにも苦労をかけた。あれほどの女たちはいまい」
と、オルフィニナの生母と父親違いの姉について言い、弱々しい力で娘の手を握り返した。
「父上の王妃陛下へのお心はよくわかっているつもりです。ルッツを養父にしてくださったおかげで、わたしは素晴らしい父親を二人も得ることができました。この善き人生は、あなたの高配のお陰です」
エギノルフは窪んだ眼窩の奥で目蓋を緩やかに細めた。
「…そなたは母似だ」
「みなわたしはあなたに似ていると言いますよ」
「みな目で見えることしか口にせん」
オルフィニナは泣くまいとした。込み上げるものを耐えたために、喉がひりひりと痛くなった。
実の親子として過ごした時間は少ない。
幼少期は何故か時々家にやって来る偉そうなおじさんとしか思っていなかったし、七つか八つの時にそれが本当の父親だと知らされても、まるで実感がなかった。十五でドレクセン家に迎えられた後も、それが変わることはなかった。最近になってようやく国王を父上と呼ぶことに違和感がなくなった程度だ。
互いに政務で忙しく、公的な集まりでもなければ顔を合わせないのだから、家族としての情が希薄でも仕方のないことだ。
しかし、この人物が自分をずっと愛していたことを、このとき突然に理解した。
国王が度々アドラー家を訪れていたのも、側近に預けた娘の顔を見に来ていたからだ。
「…母上の話をもっと聞きたかった。あなたの話も」
「それは叶わんな」
喉の奥から出た咳のような音は、恐らくは笑い声だったろう。これほど弱り、死を纏った人間を見るのは初めてだった。
「ルッツ。娘のこと、感謝する。オルフィニナをそなたに託したことは、我が生涯で最も正しい行いだった」
ルッツは頭を垂れ、顎を震わせた。
「わたしこそ、感謝申し上げます。オルフィニナ殿下を我が娘としてお育てできたこと、身に余る光栄でございました」
オルフィニナは奥歯を噛んだ。みな今交わしている会話が最後になると確信しているようだった。
「そろそろ死ぬ」
エギノルフはオルフィニナの心中を見透かしたように言った。
そんなことはない、などとは言えなかった。死が目前に迫っていることは、誰の目から見ても明らかだ。
エギノルフはオルフィニナが握っている右手の人差し指を力無く伸ばし、「取れ」と言った。
オルフィニナは困惑して小さく震える骨張った指を見、言葉を失った。狼の頭を模した琥珀の指輪が、その指に重たく輝いている。
「取れ」
と、示されているのが指輪であることを、もう一度言われて確信した。
「い――」
反射的に声に出てから、理性でこれはまずいと思った。死にゆく者の最期の言葉を拒絶することは、倫理的ではない。
が、もはや遅かった。
「いりません」
やってしまったと思った。断るならもっと言い方があったはずだ。死の床にある実の父に向かってこれほど冷たい言い方があるだろうか。
しかし、エギノルフは笑った。またあの末期の咳のような音だ。
「否は聞かんぞ。アミラ一国、そなたにやる」
オルフィニナはなおも拒否した。
「わたしには資格がありません」
「ある。生きている国王が認めればよい」
エギノルフはオルフィニナの後ろに控えるルッツに目配せした。
「聞いたな」
「しかと」
ルッツは頷いて懐から筒状に巻かれた書状を取り出し、オルフィニナの目前に跪いて、書状を開いて見せた。
書状には、こうある。――国王エギノルフの権限をもって、第三子オルフィニナ・ディートリケ・ベアトリクス・ロウェナ・ドレクセン王女を次の国王とする。――
書状の下部には国王の公的な署名と証人であるルッツ・アドラーの名が記され、王家の狼の紋章が濃い青のインクで印されていた。
ルッツの署名以外は、全てがエギノルフ王本人の筆跡だった。ペンを持てなくなる前に、準備していたに違いなかった。
「取れ。二人の父からの願いだ」
エギノルフ王は諭すように言った。
オルフィニナは強く握っていた手をほどき、枯れ枝のような父親の指から、小刻みに震えながら狼の指輪を抜き取った。信じ難いほどすんなりと抜けた。嵌まっていたというよりも、引っ掛かっていたという方が相応しい。それほど容易な作業だった。
が、心情はそうではない。
これは正しい行動か。いや、違う。どうしても正しいこととは思えない。
「簒奪者が狙うぞ。あとはそなたのしごとだ」
それきり、エギノルフ王は言葉を発しなかった。
オルフィニナが指輪を握りしめてその重大さに慄いている間に、国王は呼吸を止めていた。
「父上!ファーティ、どうしよう。父上が…」
「狼狽えるな」
恐慌状態に陥りそうになったオルフィニナに向かって、ルッツが一喝した。
「すぐに女中が水を替えに来る手筈になっている。俺たちはすぐに出るぞ」
その後、来た時と同じように暗い廊下と階段を経て寝室へ戻った。水盥を持った女中たちとすれ違ったが、もはや労いの声を掛ける余裕もなかった。
寝室へ戻ると、ひどく理不尽な怒りが雪崩のように押し寄せてきた。ルッツの目も構わず、「こんなもの――」と指輪を暖炉に焼べようとした。が、振り上げた手はその先の行動を拒絶した。
「…あんまりだ」
「ニナ」
ルッツがオルフィニナの肩を抱いて言った。子供の頃、訓練中にクインに負けて悔し涙を流すオルフィニナを、ルッツはよく人目につかないところでこうして慰めていた。
「今は泣いてない、ファーティ」
「目に見えないだけだ」
鼻の奥が痛くなった。手のひらの中の指輪が、鉛よりも、岩よりも重く感じる。
「こんな勝手なことってあるか」
と言葉が口を突いて出た後、怒りをルッツにぶつけずにいられなくなった。
「王の指輪だけ押し付けてさっさと死ぬなんて、身勝手にも程がある!ルッツ、お前、全て知っていたな。簒奪者って何だ。なぜ当事者のわたしが何も知らない!指輪なんか託して、わたしに何をさせるつもりだ!わたしを何にでも従う従順な犬だとでも思っているのか、お前も、父上も!――答えろ、ルッツ!」
ルッツは肩を抱く手に強く力を込めると、やおらその手を離し、表情を消してオルフィニナの足元に跪いた。
「…オルフィニナ殿下」
まるで追い討ちだ。
オルフィニナの頬を涙が伝った。もう‘ファーティ’とは、二度と呼ばせてくれないのだ。
「――恐れながら、エギノルフ国王陛下は弟君フレデガル殿下を簒奪者としてお疑いです」
「…‘でした’だろ。もう死んだ」
オルフィニナは顎を震わせて言った。
「お聞きあれ、オルフィニナ殿下」
ルッツが声を低くして言った。オルフィニナはぼやける視界の中に跪く育ての父の姿を収めた。
「エギノルフ国王陛下が亡くなったとなれば、次に実権を握るのはフレデガル殿下です。このままフレデガル殿下が国王として即位した場合、何が起きるかおわかりか」
「エマンシュナとの戦」
とオルフィニナが答えたのは、フレデガルがその妻と共にドレクセン家のエマンシュナの統治権を長年主張しているためだ。まさかそんな馬鹿げたことが実現するとは到底思えないが、今でも重臣の中には、あの広大な国をアミラ王が掌握すべきだと思っている者たちが多少なりともいる。フレデガルが王位に就いた場合、それが現実的になる。
エギノルフがアミラの国内の統治に尽力し、国を豊かにするという使命を全うしようとしていたことを、オルフィニナは知っている。戦を嫌い、民を愛した父だ。エマンシュナに挑もうなど愚かなことは絶対に許さなかった。
「それこそまさしく王国の崩壊の始まりです。阻止できるのは、あなた以外にいない」
ますますルッツの言うことがわからなくなった。
「…指輪だけ託されたことに意味があるのか」
「もうおわかりでしょう」
「機を見て、自分で王冠を取れと?」
「さよう」
オルフィニナは叫び出したくなった。父が昇ったばかりの天に向かってありとあらゆる罵詈雑言を吐き捨ててやりたい。が、しなかった。そんなことをしたって、何も変わりはしない。
「いつから疑っていた。イェルクをフレデガルの妻の姪に婿入りさせたのも情報を探らせるためか」
「ずっと前から」
ルッツは頷き、太い眉を寄せた。
「だが婿入りはイェルク本人の意志です。今のところ、フレデガルの情報は多くはありませんが」
「それでいい。いくら父上の話でも鵜呑みにはしない。わたしは自分の目と耳で得た情報を真実の基準にする」
オルフィニナの目からはもはや涙は流れなかった。
ルッツは慈しむような顔でオルフィニナを見上げ、頭を垂れた。
エギノルフ王がギエリ城の地下墓地へ密葬された後、オルフィニナはベルンシュタインの諜報部隊を使い、自らフレデガルの周辺を探らせた。程なくしてエギノルフ王の寝所に出入りしていた世話係の女中がフレデガルに買収されていたことを知ることになったが、その時には既に女中はギエリ城の窓から落ちて死んでいた。事故死とされていた。
これと同じ頃、オルフィニナは指輪を額縁に隠した。誰の手も借りず、自ら木枠を開け、釘を打ってそれを閉じた。額に飾る絵には、つい先頃、新しい絵の師に習って弟が描いてくれた自分の肖像画を選んだ。相応しい持ち主の近くに置いておくのが正しいと思ったからだった。
これより三年前にドレクセンの名を与えられていたオルフィニナは、王の庶子という身ながら王族として政務に就き、ギエリ城で暮らしていた。
この夜も、クインがいつものようにオルフィニナの政務が終わるまで同室に侍り、就寝の時分になると軽口を叩いて同じ階の自室へ引き取って行った。
燭台の火を消してから三時間ほど経った頃、オルフィニナの寝室に忍んでやってきた者がいた。
天蓋の閉じ切ったカーテンの外に侵入者が立った時には、オルフィニナは既に目を開け、枕の下から取り出した護身用の剣を手に、カーテンのすぐ後ろで侵入者を待ち構えていた。
カーテンが開き、針のように細い短剣が侵入者の目玉を突く寸前で止まった。
「俺だ、ニナ」
小さく潜めていても、この嗄れ声の主は間違えようがない。育ての父であるルッツだ。
ルッツは白髪混じりの赤みがかった茶色の髪を後ろで束ね、大きく張り出した額に汗を浮かせている。肌を刺すほど寒い冬の深夜に汗ばむほど急いでいたのか、平素は豪胆すぎるほどのこの男を恐怖させる何かが起きたのか、どちらにせよ、ルッツが悪い事態を運んできたのは明白だった。
「ファーティ?どうした」
警戒から安堵へ転じて気が抜けたために、ルッツを‘ファーティ’と呼ぶ往年の癖がつい出てしまった。こういう時、いつもならルッツは「ルッツとお呼びあれ、オルフィニナ殿下」などと慇懃に苦言を呈すものだが、この時ばかりは違った。もはやそんな余裕がなかったのだろう。
「一緒に来い」
オルフィニナは頷いてルッツが持ってきた分厚い織物のガウンを寝衣の上に纏い、燭台も持たずに暗い廊下に出た。暗闇を明かりを持たずに進むのは、ベルンシュタインの基本的な行動原則のひとつだ。
夜目が利くようになるまでは足音や衣擦れなどの微かな音、そして、頭の中にある建物の構造を頼りに進む。二人とも壁や段差、階段、扉や窓の位置を、歩数やその他の感覚によって正確に記憶している。ベルンシュタインの人間にとっては、もはや習性とも言える、初歩的なことだ。
オルフィニナはルッツがどこに向かっているのか、階段を上り始めた時に悟った。自分の寝室よりも上の階にあるのは、国王と王妃のそれぞれの寝室と執務室だけだ。
「陛下に何があった」
などと愚問を発するほど、十八歳のオルフィニナは感性の鈍い娘ではなかった。
が、訊かずにはいられないことがあった。
「何故、わたしを」
ということだ。
元々ひと月前から急激に衰え始めていた父親の容態がこの数日で悪化したことは把握している。それが、今際の際に何故唯一の庶子である自分を召し出したのか。理由が分からない。
「陛下に聞け」
ルッツはそれだけ言って、さっさと階段を一段飛ばしで上って行く。オルフィニナの背を冷たい汗が伝った。
エギノルフ王は、天蓋から垂れる薄いカーテンの向こうに仰臥していた。
広い寝室の中は、サイドテーブルに置かれた燭台の五本の蝋燭が、ベッドの周囲だけを明るく浮かび上がらせ、ベッドの柱に美しく彫り込まれた草木や花、狼や水鳥などの影を、まるで生きているように踊らせていた。
この広い寝室には、国王しかいない。侍医の姿も、侍従の気配もない。人払いしたためだ。
カーテンの奥の国王は、既に腕を上げる力すら失っていた。頬は痩け、眼窩は窪み、皮膚は日照りの続いた地表のように乾き、かつて燃えるような赤色をしていた髪は最早そのほとんどが白く退色し、まだ齢五十余りだというのに八十をいくつも過ぎた老爺のように見えた。
しかし、オルフィニナと同じ琥珀色の双眸だけは爛と光っている。死を迎え入れながら、最後の生を微塵も残さず使い切ろうとしているようだ。
「オルフィニナ」
声はガラガラとひどく嗄れていたが、思いのほか明瞭だった。
「父上」
表情を消して枕頭に立ち、骨ばかりになった手を強く握ってきた娘に向かって、国王は言葉を発した。
「長い間我が娘と公認してやれず、すまなかった。ゲルダと、エミリアにも苦労をかけた。あれほどの女たちはいまい」
と、オルフィニナの生母と父親違いの姉について言い、弱々しい力で娘の手を握り返した。
「父上の王妃陛下へのお心はよくわかっているつもりです。ルッツを養父にしてくださったおかげで、わたしは素晴らしい父親を二人も得ることができました。この善き人生は、あなたの高配のお陰です」
エギノルフは窪んだ眼窩の奥で目蓋を緩やかに細めた。
「…そなたは母似だ」
「みなわたしはあなたに似ていると言いますよ」
「みな目で見えることしか口にせん」
オルフィニナは泣くまいとした。込み上げるものを耐えたために、喉がひりひりと痛くなった。
実の親子として過ごした時間は少ない。
幼少期は何故か時々家にやって来る偉そうなおじさんとしか思っていなかったし、七つか八つの時にそれが本当の父親だと知らされても、まるで実感がなかった。十五でドレクセン家に迎えられた後も、それが変わることはなかった。最近になってようやく国王を父上と呼ぶことに違和感がなくなった程度だ。
互いに政務で忙しく、公的な集まりでもなければ顔を合わせないのだから、家族としての情が希薄でも仕方のないことだ。
しかし、この人物が自分をずっと愛していたことを、このとき突然に理解した。
国王が度々アドラー家を訪れていたのも、側近に預けた娘の顔を見に来ていたからだ。
「…母上の話をもっと聞きたかった。あなたの話も」
「それは叶わんな」
喉の奥から出た咳のような音は、恐らくは笑い声だったろう。これほど弱り、死を纏った人間を見るのは初めてだった。
「ルッツ。娘のこと、感謝する。オルフィニナをそなたに託したことは、我が生涯で最も正しい行いだった」
ルッツは頭を垂れ、顎を震わせた。
「わたしこそ、感謝申し上げます。オルフィニナ殿下を我が娘としてお育てできたこと、身に余る光栄でございました」
オルフィニナは奥歯を噛んだ。みな今交わしている会話が最後になると確信しているようだった。
「そろそろ死ぬ」
エギノルフはオルフィニナの心中を見透かしたように言った。
そんなことはない、などとは言えなかった。死が目前に迫っていることは、誰の目から見ても明らかだ。
エギノルフはオルフィニナが握っている右手の人差し指を力無く伸ばし、「取れ」と言った。
オルフィニナは困惑して小さく震える骨張った指を見、言葉を失った。狼の頭を模した琥珀の指輪が、その指に重たく輝いている。
「取れ」
と、示されているのが指輪であることを、もう一度言われて確信した。
「い――」
反射的に声に出てから、理性でこれはまずいと思った。死にゆく者の最期の言葉を拒絶することは、倫理的ではない。
が、もはや遅かった。
「いりません」
やってしまったと思った。断るならもっと言い方があったはずだ。死の床にある実の父に向かってこれほど冷たい言い方があるだろうか。
しかし、エギノルフは笑った。またあの末期の咳のような音だ。
「否は聞かんぞ。アミラ一国、そなたにやる」
オルフィニナはなおも拒否した。
「わたしには資格がありません」
「ある。生きている国王が認めればよい」
エギノルフはオルフィニナの後ろに控えるルッツに目配せした。
「聞いたな」
「しかと」
ルッツは頷いて懐から筒状に巻かれた書状を取り出し、オルフィニナの目前に跪いて、書状を開いて見せた。
書状には、こうある。――国王エギノルフの権限をもって、第三子オルフィニナ・ディートリケ・ベアトリクス・ロウェナ・ドレクセン王女を次の国王とする。――
書状の下部には国王の公的な署名と証人であるルッツ・アドラーの名が記され、王家の狼の紋章が濃い青のインクで印されていた。
ルッツの署名以外は、全てがエギノルフ王本人の筆跡だった。ペンを持てなくなる前に、準備していたに違いなかった。
「取れ。二人の父からの願いだ」
エギノルフ王は諭すように言った。
オルフィニナは強く握っていた手をほどき、枯れ枝のような父親の指から、小刻みに震えながら狼の指輪を抜き取った。信じ難いほどすんなりと抜けた。嵌まっていたというよりも、引っ掛かっていたという方が相応しい。それほど容易な作業だった。
が、心情はそうではない。
これは正しい行動か。いや、違う。どうしても正しいこととは思えない。
「簒奪者が狙うぞ。あとはそなたのしごとだ」
それきり、エギノルフ王は言葉を発しなかった。
オルフィニナが指輪を握りしめてその重大さに慄いている間に、国王は呼吸を止めていた。
「父上!ファーティ、どうしよう。父上が…」
「狼狽えるな」
恐慌状態に陥りそうになったオルフィニナに向かって、ルッツが一喝した。
「すぐに女中が水を替えに来る手筈になっている。俺たちはすぐに出るぞ」
その後、来た時と同じように暗い廊下と階段を経て寝室へ戻った。水盥を持った女中たちとすれ違ったが、もはや労いの声を掛ける余裕もなかった。
寝室へ戻ると、ひどく理不尽な怒りが雪崩のように押し寄せてきた。ルッツの目も構わず、「こんなもの――」と指輪を暖炉に焼べようとした。が、振り上げた手はその先の行動を拒絶した。
「…あんまりだ」
「ニナ」
ルッツがオルフィニナの肩を抱いて言った。子供の頃、訓練中にクインに負けて悔し涙を流すオルフィニナを、ルッツはよく人目につかないところでこうして慰めていた。
「今は泣いてない、ファーティ」
「目に見えないだけだ」
鼻の奥が痛くなった。手のひらの中の指輪が、鉛よりも、岩よりも重く感じる。
「こんな勝手なことってあるか」
と言葉が口を突いて出た後、怒りをルッツにぶつけずにいられなくなった。
「王の指輪だけ押し付けてさっさと死ぬなんて、身勝手にも程がある!ルッツ、お前、全て知っていたな。簒奪者って何だ。なぜ当事者のわたしが何も知らない!指輪なんか託して、わたしに何をさせるつもりだ!わたしを何にでも従う従順な犬だとでも思っているのか、お前も、父上も!――答えろ、ルッツ!」
ルッツは肩を抱く手に強く力を込めると、やおらその手を離し、表情を消してオルフィニナの足元に跪いた。
「…オルフィニナ殿下」
まるで追い討ちだ。
オルフィニナの頬を涙が伝った。もう‘ファーティ’とは、二度と呼ばせてくれないのだ。
「――恐れながら、エギノルフ国王陛下は弟君フレデガル殿下を簒奪者としてお疑いです」
「…‘でした’だろ。もう死んだ」
オルフィニナは顎を震わせて言った。
「お聞きあれ、オルフィニナ殿下」
ルッツが声を低くして言った。オルフィニナはぼやける視界の中に跪く育ての父の姿を収めた。
「エギノルフ国王陛下が亡くなったとなれば、次に実権を握るのはフレデガル殿下です。このままフレデガル殿下が国王として即位した場合、何が起きるかおわかりか」
「エマンシュナとの戦」
とオルフィニナが答えたのは、フレデガルがその妻と共にドレクセン家のエマンシュナの統治権を長年主張しているためだ。まさかそんな馬鹿げたことが実現するとは到底思えないが、今でも重臣の中には、あの広大な国をアミラ王が掌握すべきだと思っている者たちが多少なりともいる。フレデガルが王位に就いた場合、それが現実的になる。
エギノルフがアミラの国内の統治に尽力し、国を豊かにするという使命を全うしようとしていたことを、オルフィニナは知っている。戦を嫌い、民を愛した父だ。エマンシュナに挑もうなど愚かなことは絶対に許さなかった。
「それこそまさしく王国の崩壊の始まりです。阻止できるのは、あなた以外にいない」
ますますルッツの言うことがわからなくなった。
「…指輪だけ託されたことに意味があるのか」
「もうおわかりでしょう」
「機を見て、自分で王冠を取れと?」
「さよう」
オルフィニナは叫び出したくなった。父が昇ったばかりの天に向かってありとあらゆる罵詈雑言を吐き捨ててやりたい。が、しなかった。そんなことをしたって、何も変わりはしない。
「いつから疑っていた。イェルクをフレデガルの妻の姪に婿入りさせたのも情報を探らせるためか」
「ずっと前から」
ルッツは頷き、太い眉を寄せた。
「だが婿入りはイェルク本人の意志です。今のところ、フレデガルの情報は多くはありませんが」
「それでいい。いくら父上の話でも鵜呑みにはしない。わたしは自分の目と耳で得た情報を真実の基準にする」
オルフィニナの目からはもはや涙は流れなかった。
ルッツは慈しむような顔でオルフィニナを見上げ、頭を垂れた。
エギノルフ王がギエリ城の地下墓地へ密葬された後、オルフィニナはベルンシュタインの諜報部隊を使い、自らフレデガルの周辺を探らせた。程なくしてエギノルフ王の寝所に出入りしていた世話係の女中がフレデガルに買収されていたことを知ることになったが、その時には既に女中はギエリ城の窓から落ちて死んでいた。事故死とされていた。
これと同じ頃、オルフィニナは指輪を額縁に隠した。誰の手も借りず、自ら木枠を開け、釘を打ってそれを閉じた。額に飾る絵には、つい先頃、新しい絵の師に習って弟が描いてくれた自分の肖像画を選んだ。相応しい持ち主の近くに置いておくのが正しいと思ったからだった。
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