レーヌ・ルーヴと密約の王冠

若島まつ

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9 退屈凌ぎ - le jeu ennuyeux -

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 オルフィニナは、憤然と城内の廊下を踏み締めた。
 きっかけは、既に無人となっていた訓練場からクインを探して城内へ戻る途中、クインの破けたシャツと上衣の袖を誰が縫うかを決めるために三人の若い女中たちが揉めに揉めていたところに出くわしたことだ。
 彼女たちは裁縫箱とシャツと上衣をそれぞれ手に持ち、自分が一番上手に縫えるからシャツを繕うのは自分だと全員が同じ主張をして、姦しく騒ぎ立てていた。どうやら上衣よりもシャツの修繕の方が人気らしい。理由は、オルフィニナにはよくわからない。
 一向に話が進まない女中たちと何とか担当を調整しようと奮闘するバルタザルに挟まれ、ひどく迷惑そうに眉を寄せながら寒空の下で腕を組む上半身裸のクインの姿を見て、オルフィニナは思わず笑い出した。男が相手ならズケズケと口悪く文句の一つでも言うだろうに、女性相手となると、クインは我慢強い。アドラー家の女たちがその強大な権力のもとでこの次男坊を育てたからだ。
 が、この珍事件を可笑しく思ったのも束の間、バルタザルから事の顛末を聞いたオルフィニナは、さすがに腹に据えかねた。
「料簡が違う」
 と、事務的ながら断固とした口調で本人に文句をつけた。
 この時、ルキウスは自室の続き部屋の浴槽に身を沈めている。
 王太子の入浴の手伝いに来ていた女中たちは、怒れる乱入者とその後ろにくっついてきた大きな狼に肝を冷やしてそそくさとその場を後にし、濛々と湯気の立つ浴室には、花の香りがする白い湯の中に身体を沈めたルキウスと、腕を組んで見下ろすオルフィニナ、それから行儀よく浴室の扉の外に座るエデンだけが残された。
「城主の入浴中に部屋へ押し入るとは、奥ゆかしいんだな」
 ルキウスは前髪をかき上げて浴槽の縁に腕を預け、気怠げに言った。オルフィニナへの苛立ちは、まだ消えないままだ。
「そうだな。どうやらこの城は女が入浴している間に無断で部屋へ入っても咎められないようだから、その習慣に則ったまでだ。郷に入りては郷に従えと言うだろう」
 オルフィニナは冷淡に言った。気にも留めないような顔をしていたくせに、きちんと根に持っているのだ。ルキウスは自分の苛立ちがなんだか滑稽なものに思えた。
「なるほど。殊勝な心がけだ」
「ともかく、クインのことだ。わたしはあなたがクインを訓練場に案内すると言ったから任せたのであって、あなたの手合わせの相手をさせるなど聞いていない。わたしたちが交わした誓書によれば、確かにわたしはあなたの捕虜だが、クインはわたしの従者として同行を認められたに過ぎない。だからあなたにその処遇を決定する権利はないし、行動を強制する権利もない」
「強制も命令もしていないよ。頼み事をしただけだ。彼にとっては簡単なね」
 ルキウスは白々と言った。オルフィニナの瞳が自分への怒りで燃えているのを見て、次第に苛立ちが暗い愉悦へと変質していく。
「互いに反目しているのは知っているが、クインに突っかからないで」
 オルフィニナは苛立って語気を荒げた。
「それはクインが俺に傷付けられると思ってるからか?」
 ルキウスは浴槽の縁に肘をついて頬杖をつき、物憂げに訊ねた。
「クインがエマンシュナの王太子の身体に傷を付けたとき、あいつの腕一本くらいは対価として失いかねないからだ」
「彼を守るのに必死だな。君、妹とか主君と言うより、母親みたいだぞ」
「それがわたしの育ったアドラー家の女の役割だった」
「なんで俺とアドラーが反目し合うか考えたことはあるのか?」
 ルキウスの言葉に嘲りが混ざった。ここまでくると、クイン・アドラーが哀れにも思えてくる。
「クインは臣下の中でもいちばん忠義に篤い。そしてあなたをわたしの害敵だと考えている」
「心外だな。普通の捕虜には考えられないくらいの待遇をしているのに。相手が悪ければ君はさっさと犯されて首を刎ねられてるぞ」
「いいか、ルキウス・アストル」
 オルフィニナはルキウスがゆったりと背を預ける赤みがかった大理石の浴槽の縁に手を突いて、赤銅色の眉を歪め、鼻梁に皺を寄せて、獣が敵を威嚇するような表情を見せた。
 この顔は、初めてだ。ルキウスは唇を吊り上げた。
「わたしのことはいい。だが、クインは、わたしの騎士だ。あなたの捕虜ではない。戯れにあなたの退屈凌ぎの相手をさせないで」
「じゃあ、君が相手をしろよ」
 ルキウスはオルフィニナの手首を掴み、鼻が触れ合いそうなほどに近い距離まで引き寄せた。暗い金色の髪から雫が滴り、オルフィニナの頬を濡らした。
 一瞬、オルフィニナが怯んだように見えた。それだけで、身体に愉悦が走る。
「君が言った通り、退屈なんだ。王都はもっとひどかった。王太子なんて立場はさ。俺を利用して出世しようとか、色目を使って私腹を肥やそうとかする奴らばかりで、腹が立つことばかりだ。だから、そいつらに甘い顔して籠絡されたように見せてあげた後、ここぞというときに背を向けるんだ。薄汚い欲にまみれた人間が甘い夢を奪われたときの顔を見ると、多少溜飲が下がるんだよ」
「下劣」
 オルフィニナは蔑むように言った。
「薄汚い欲にまみれている点で言えば、あなたも同類だ」
「そうかもな」
 ルキウスはひどく暗い笑みを浮かべると、掴んだオルフィニナの手を引いて立ち上がり、細く青い血管の浮いた白い手首に噛み付いた。
 ぞくりとオルフィニナの肌を何かが走った。
 ルキウスの精悍な肉体から滴る湯がオルフィニナのドレスを濡らし、不意に引き寄せられた身体からその筋肉の隆起を感じた。
 緑色の目が妖しく光り、誘惑するような視線で見つめてくる。これが、オルフィニナを動けなくさせた。
「――でも、君といると退屈しない」
 低く甘い声で言って、ルキウスは続けた。
「不思議だよな。ルースの任務が無事に終わればまた王都で面白くもない奴らを相手にその場凌ぎの遊びを楽しむだけの毎日が始まるんだと思ってたのに、君に雪の上に倒されてから、全てが変わった。ここのところは君のことばかり考えてる」
 この言葉の意味をどう受け取ればよいのか、オルフィニナには判断がつかなかった。とても正気と思えない。が、嘘を言っているようにも見えなかった。細まった緑色の目が近付いてくる。ルキウスの唇がオルフィニナのそれに触れようとした瞬間、足元でグルグルとエデンが唸った。
 ルキウスはニヤリと笑って離れ、オルフィニナの手首を解放した。
「あなたに王族としての矜持はないのか」
 オルフィニナの言葉は、軽蔑に満ちている。
 王家の名を与えられたオルフィニナは、国民のしもべにさえなろうと思っていた。民に希望を与え、彼らが充足した生活を送れるように舵を取るのが王族の役目だと、王の側近であったルッツ・アドラーに育てられてきた。そういう君主にこそ、尊敬が集まり、善き臣下がついてくるというものだ。
 しかし、ルキウス・アストルの考えは違う。
「あるよ。だから俺たちを食い物にしようとする奴らに腹が立つんじゃないか。権威ある王族を思い通りに操れると傲慢にも思い上がってる輩が多すぎる。俺は舐められるのは嫌いだ」
「なるほど」
 と、オルフィニナは珊瑚色の唇を僅かに吊り上げた。
「あなたはまだ雪の上に倒されたままか」
 その目から怒りと侮蔑が消えたと思った。理由は、ルキウスにはよくわからない。この小さな混乱に、ルキウスは密かに狼狽した。が、瑣末なことだ。
「…わたしは死も覚悟してここへ来た。わたしをどうしようとあなたの自由だ。だが、クインは違う。わたしは誓約を守る。あなたが誓約を守る限り」
 オルフィニナはそれだけ言って浴室を後にした。
「…なんだよ」
 とルキウスが言ったのは、エデンに向けてだ。
 特に威嚇をするでもなく、オルフィニナとそっくりな金色の目でこちらを観察するように眺めている。ちょっと小馬鹿にしているふうでもある。
「王族がみんなお前の主人のようではないよ」
 エデンが感情の読めない目でじっと見つめてくる。
「責めてるのか」
「エデン」
 エデンは扉の向こうから呼びかけたオルフィニナの優しい声にぴくりと耳を動かし、ルキウスに背を向けて、扉の外へするりと出て行った。すぐに扉が閉まったから、多分エデンが例の如く前脚で閉めていったのだろう。
(躾がいい。狼のくせに)
 ルキウスはおかしくなった。
 狼など、犬のように調教することはまず不可能だ。賢く誇り高い生き物ほど、誰にも従わないものだ。エデンにとってオルフィニナは本当の家族なのだろう。
「似たもの同士というやつか」
 無意識のうちに、声にこぼしていた。
 ルキウスは温くなった湯に再び身体を沈めると、目を閉じてオルフィニナの肌の感触を思い出した。
(彼女をどうする気だって?)
 アルヴィーゼに問われたことは、自分でも問い続けている。彼女があの日、ツークリエンの天幕に現れた時から。
 誓約と権力で言うなりにするだけでは、オルフィニナ・ドレクセンを屈服させるには足りない。
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