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Ⅰ 春の宴 - la fête du Printemps -

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 ノラは闘志に燃えていた。
 十四歳の春から五年間、やっとの思いで工面した金で王城の宴に相応しい装飾品を手に入れ、念願の王都へやってきたのだ。
 目の前に聳える王城は、いわば戦場だ。
 季節は花香る四月――今まさに、一年のうち最も絢爛な「春の宴」が開かれている。三日間続くこの祝宴に参加するため、毎年国中の有力貴族が自分の持つ中で最も豪華なものを身に纏い、ここ王都アストレンヌへ集まってくる。没落貴族の令嬢であるノラがこの宴に参加するための紹介状を手に入れられたことは、まさに一生に一度の幸運だ。
 そして夏が終わるまでに、ノラは結婚相手を見つけなければならない。
「幸運は強者を助ける。いくぞ、ノラ」
 ノラは眦を決して手綱を引いた。
 夕暮れ時にも眩しいほどに金銀の装飾が施された馬車がズラリと並ぶ中、侍従も連れず自ら馬上の人となって宮殿の門を入っていく令嬢は、ノラただ一人だ。

 そして――
(心が折れそうだ…)
 ノラはすっかり闘志を絶望の沼に沈めてしまった。まだ宮殿に足を踏み入れてから三十分も経っていない。にもかかわらず、もはや今まで味わったことのない美酒を楽しむ以外にすることがなくなってしまった。
 王都での社交に慣れている貴人たちは、見た目だけでなく立ち振る舞いも会話の内容も洗練されていて輝くばかりだ。
 それに比べてノラは、せっかく話しかけられても会話が弾む返事もできなければ、殿方をダンスに誘う気の利いた言葉も出てこない。洗練された貴人を相手に何と声をかけて良いか迷っているうちに、相手は違うパートナーを見つけてしまうのだ。
 ドレスだけは恥ずかしくないものを仕立てて来たが、いくら外見を飾ろうと内面の無骨さは取り繕えない。
(これでは苦労して送り出してくれた両親と紹介状を用意してくれた大伯母さまに面目が立たない)
 自分の情けなさに頭を抱えたくなったが、ノラの持つ美徳のひとつは、どんな時も卑屈にならず次の手を考え続けることだ。


 セルジュ・アベルは染みついた香水の匂いを落とすようにパタパタと袖を払い、馬車に乗り込んだ。
 騎士などと立派な肩書きはあるが、謂わばもっと高貴な人間の使い走りだ。王国という巨大な巣を守る働き蜂のうちの一匹に過ぎない。
 今宵、春の宴に出席したのも、任務のためだった。つい数日前にある男の身辺調査を命じられ、その情報収集のために陽気な男の仮面を被って興味もない夫人や令嬢のダンスの相手をし、気分を良くさせて話を引き出し、男たちとは別段楽しいとも思わないカードゲームや噂話を楽しむ振りをした。
 が、努力の甲斐なく、今のところ問題の人物の有益な情報は得られていない。
(政治はきらいだ)
 無害で社交的な花形の騎士の顔をしているが、その裏でしていることと言えば、主君の政敵を失脚させるためのあら探しだ。
 そしてこのあと屋敷に帰れば、弟も夜遊びが好きだと信じ切っている兄の酒盛りに付き合わされることだろう。
「くそ面倒くさい…」
 しかし、出世のためだ。不平を口にしている余裕はない。
 セルジュは背もたれに深く身体を預けて目を閉じた。馬車の中くらいしか、気を抜ける場所がない。

 この時、馬車が小さく揺れて夜風が頬を撫でた。
 ふと目を開き、なんとなく風の入ってきた方を向いた瞬間、ヒッ、と心臓が口から飛び出そうになった。
 見知らぬ若い女が、まるで自分の家に帰ってきたかのような自然さで、反対側の扉から入り込んできたのだ。
 セルジュが突然の珍事にしばらく言葉を失っていると、女の挙動と同じくらいのんびりとした調子で馬車がガタゴトと動き始めた。
 女は装飾品が少ないながらも襞の美しい青のドレスのスカートを乱れなく整え、背をピンと伸ばしてセルジュの方へ顔を向けた。暗い馬車の中でも、窓から差す月明かりがその目を溌剌と輝かせている。
「突然押しかけて申し訳ない。わたしは通りすがりのデビュタントだ」
 女は朝凪のように落ち着いた声で、しかし凛然と言い切った。
「実は、あなたに折り入ってお願いしたいことがある」
 セルジュは混乱した。
「通りすがりのデビュタント」
 屈辱だ。
 七年前に叙任されて以来、王家に対する反乱分子や違法な取り引きを行っている権力者たちの情報収集を秘密裏に行い、王国の害悪を取り除く仕事をしてきた。必要とあらば何者にでもなり、何が起きても常に冷静でいなければならない立場だ。
 そのセルジュ・アベルが、見たところ自分よりいくつか若い女性に安全圏への闖入を許した挙げ句、声も出せない。

 闖入者はこの沈黙を是として受け取ったらしく、きらきらと目を輝かせて言葉を続けた。
「あなたに、わたしの師になっていただきたい」
「は?……ちょっ、ちょっと待て…待ってください」
 セルジュは頭を抱えた。やっと声は出せたが、とうてい理解が追いつかない。
「ああ、そうだった」
 と、女は軽快に言った。
「わたしはアリエノール・コロンベット。気安くノラと呼ばれる方が慣れている。昨日田舎から出てきたばかりで、王都の作法に疎いんだ。何か無作法な点があれば遠慮なく指摘していただきたい」
小鳩コロンベット?)
 この勇ましさはどちらかというと、鷹という方が似つかわしい。が、今はそんなことを考えている場合ではない。
「馬車に侵入してきたことも指摘すべきかな」
「それはとんでもない無作法をしたと承知している。本当に申し訳ない。だが、どうしてもあなたに頼みたかった。どうかわたしの師として、社交界での立ち回り方をご指南願えないだろうか」
 セルジュの心臓がようやく正常なリズムを取り戻し始めた。
(ものすごく変なのに掴まってしまったな)
 内心ではまだ混乱が続いているが、少なくともいつものように穏やかで人当たりのよい表情を取り繕える程度には、衝撃から立ち直っている。
「何故、わたしなのですか?ノラ嬢。あなたとは今初めてお会いしたばかりでしょう」
「そういうところ」
「は?」
「そういうところだ。無礼にも勝手に馬車に乗り込んできたわたしを追い払わず、話を聞いてくれる。宴でたくさんの人を観察したけれど、中でもあなたに一番好感を持った。言葉を選ぶのが天才的に巧いと思ったんだ。相手を尊重する姿勢を示しつつも、態度や仕草を相手によって微妙に変えて、口数を多くさせたり、心を開かせるみたいな…。とにかく素晴らしい才能だ。あと、すごく目立っていた。服が派手なわけじゃないのに、華があるというのかな。それなのに嫌みっぽさがないって、すごくないか?わたしもあなたのようになりたい」
 この予想以上の勢いに気圧されそうになりながら、セルジュは小さな苛立ちを覚えた。ノラが褒めちぎったのは、出世のために磨き上げた偶像としての自分に過ぎない。それを綺麗事のように言われたのが、どうにも癪に障った。
「好かれる…ね。誰に好かれたらどんないいことがあるのか、教えてもらいたいものですね」
 少し意地の悪い言い方になったかもしれない。しかし、ノラはのんびりとした調子で「そうだなぁ」と腕を組んだ。
「できるだけ多くの殿方に好かれるに越したことはない。夏が終わるとみな領地へ帰ってしまうだろう。だからこの社交期の間に、条件の良い結婚相手を見つけたいんだ。一年で一番大規模な春の宴なら人脈を作るのに打って付けだし、なんとか顔を売ろうと思ってはいたのだが、もうびっくりするぐらいダメダメだった。やはり田舎者のわたしには壁が高すぎる。そこであなたを見つけたんだ。暫く観察して、特定の相手はいないとお見受けした。あと二日、春の宴の間だけでいい。是非あなたに指南役になって欲しい。わたしも最善を尽くす」
 その顔は、結婚相手を探す貴婦人というより、まるで槍試合に臨む好戦的な騎士のように凜々しかった。しかし――
(くそ面倒くさい)
 セルジュには他人の手助けをしている余裕はない。何しろ敵は大物だ。それに、彼女が思うほど善人でもない。
「申し訳ありませんが、生憎わたしには騎士としての務めがありますから、あなたのお力添えはできません。わたしを高く評価してくださったのはありがたいですが、買い被りすぎですよ。別の然るべき方に頼むほうがよろしいでしょう」
 セルジュは慇懃な姿勢を崩さず、適当に理由をつけた。これも敵を作らないための処世術だ。
「やはりだめか」
 ノラは肩を落とした。
「あなたほど師と仰ぎたい方は現れないだろうが、礼も十分にできないわたしが無理強いすることはできない。話を聞いてくれてありがとう。適当なところで馬車を止めてくれれば、すぐ降りる。最後にあなたの名前を教えてくれないか」
「ああ、申し遅れてすみません。セルジュ・アベルです、アリエノール・コロンベット嬢」
「アベル卿。よい夜を邪魔してすまない。話を聞いてくれたこと、感謝する」
 セルジュはノラが差し出した手を、不思議な思いで見、握った。まるで騎士同士の挨拶だ。

 そして、翌日の昼下がり。
 セルジュは馬車に揺られて、王都の最も大きな通りを進んでいた。
 向かいでは、ノラ・コロンベット嬢が姿勢良く座って物珍しそうに窓の外を眺めている。
(妙なことになった)
 セルジュは額を手で覆った。思えば、あの後の軽挙がこの運命を決定した。
 拍子抜けするほどあっさりと引き下がったノラに、少しでも情報を多く得ようとする職業病的な悪癖が働き、つい事情を尋ねてしまったのだ。ただし、セルジュは善意でここにいるのではない。

 男爵令嬢アリエノール・コロンベットは毒にも薬にもならない没落貴族の一人娘で、困窮した我が家を援助すべく裕福な結婚相手を探していた。ここまでは興醒めするほどありふれた話だが、セルジュの興味を引いたのはこの後だ。
「十年前に荘園を失った」
 と、ノラは告げた。
 この荘園が有する鉱山の収入により小さなコロンベット家の所領は潤っていたが、先代が遺したという莫大な借金の担保として荘園を隣の領主に取られてしまってから一族の困窮が始まったらしい。その領主の名は、カンディード・モリアック――何の因果か、セルジュが身辺調査を命じられた人物だ。
(好機だ)
 と思った。同時に疑いもした。こんなに折良く調査中の人物の弱みになりそうな女が目の前に現れるとは、少々話が出来すぎている。彼女の挙動を見る限り何か企んでいるようにはとても思えないが、万が一敵だったとしても捕らえて誰に頼まれたのか吐かせれば、それも手札になる。
 セルジュはすぐに前言を撤回し、ノラの力になることを約束した。
 利用されていることを知らないノラは、セルジュの両手をひしと取って無邪気に大喜びした。
(やはり間者という線はなさそうだな)
 セルジュは窓の外の大通りをきょろきょろしながらあれは何の建物かとかあれはどこの国の装束かとか訊ねてくるノラにいちいち答えてやりながら、内心でおかしくなった。
「あ、そうだ」
 と、ノラが思い出したように窓からセルジュへと向き直った。
「今日はわざわざ迎えにきてくれてありがとう」
「また馬に乗って来られては悪目立ちしますから」
 セルジュが唇を吊り上げると、ノラは頬を赤らめた。
「う、馬の方が楽なんだ。大伯母さまの屋敷に馬車は一つしかないから、居候のわたしが使ってしまっては申し訳ないし…」
 奇妙な女だ。突然馬車に押しかけて来る大胆さを持っていながら、馬に乗って来たことを指摘されただけで恥ずかしそうに顔を赤くしている。
 セルジュは窓に頬杖をつき、穏やかに微笑んでノラの顔を見た。
 昨夜の暗がりではよく分からなかったが、改めてよく見ると声や口調よりも柔らかい顔立ちをしている。やや下向きの睫毛は、伏し目がちに視線を落とすと目元を煙らせ、言動の勇ましさには似つかわしくないほどの艶を纏う。栗色の髪は彼女の心を表しているようにまっすぐで、しなやかに美しい。
 そして最後にドレスを見て、気付いたことがあった。
「…もしかして自分で仕立て直しましたか」
 ドレスの色は昨晩と同じ鮮やかな青だが、襟回りの形が昨日よりも大きくV字型に開いて、襞の美しいスカートにも昨日はなかったレースの装飾が施されていた。
「気付いてくれたか!実はそうなんだ」
 ノラは嬉しそうに顔を綻ばせた。セルジュが何気なくノラの手を取って指先に触れると、貴族の令嬢と言うにはあまりに硬い皮膚をしていた。
「…職人の手ですね」
 つい口に出して、セルジュは自らの失言に気付いた。貴婦人に対して言うべき言葉ではなかった。セルジュはすぐに謝罪しようとしたが、ノラは目を輝かせて「そうか?」と喜色を浮かべた。
「レースはすごく高価だから領内の職人に頼んで作り方を教えてもらったんだ。襟回りも簡単に形を変えられるように布をちょっと多く取って縫製も工夫してみた。それから…」
 ノラは嬉々として作品自慢を続けた。
(本当に職人みたいだな)
 セルジュはおかしくなってしまった。
 レースを編むとなるとかなりの技量が必要だ。それを習得したことにも大いに驚かされるが、本来なら貴族の令嬢が取るべきではない労を自ら取り、逆境を恨むことなく自分の置かれた環境を愛そうとさえしている。最初から不思議な女性だったが、今はもっと不思議に思えた。

 セルジュが宴の前に立ち寄ったのは、ある貴婦人の屋敷だった。
「すごいな!ここは宮殿か?ものすごく高貴な方の住まいではないのかな。急に押しかけて大丈夫なのだろうか」
「大丈夫です」
 と、ノラの心配をよそにセルジュは慣れた様子でバラの蔦が絡むアーチの門を入っていった。屋敷の大きな扉に取り付けられた白鳥の頭の形をした叩き金を鳴らすと、程なくして扉が開き、中から現れた美しい貴婦人がセルジュを見るなり顔中に笑みを広げた。
「ごきげんよう、マダム・ベケット。今日もお美しい」
「あらぁ、蜜蜂アベイユさん!こんなに明るい時間に見えるなんて、素敵な一日になるわ!」
「アベルです、マダム・ベケット」
 セルジュは女性なら誰もがうっとりするような微笑で貴婦人の熱烈な抱擁を受け止め、後ろで目を丸くしているノラを紹介した。
(おお…)
 クレマチスの花を思わせる優艶なマダム・ベケットと、背が高く精悍な肉体に騎士の正装を纏ったセルジュが並ぶと、絵画の中の世界のようだ。二人の輝きに圧倒されて、ノラはセルジュが言ったことを殆ど聞いていなかった。ようやく我に返って耳に入ってきたのは、セルジュがマダム・ベケットに向かって言った「ではよろしくお願いします」の一言だった。
(わたしは今、なにをよろしくお願いされたんだ)
 考える間もなく、上機嫌なマダム・ベケットと、上階からわらわらと集まってきたとんでもなく良い匂いのする美女たちに手を引かれて奥の部屋へ連れて行かれてしまった。


 二時間ほど経って、ノラは屋敷の女たちを相手に茶を飲むセルジュの前に現れた。
(化けた)
 セルジュは目を見張った。
 薄く化粧をして髪を艶やかに結い上げ、首と耳に装飾品を加えただけなのに、もはや覇気旺盛な田舎娘とは別人だ。白い頬は陶器のように輝き、目元は艶やかに彩られ、夏空のような目の色彩がいっそう鮮やかに見える。
「蜜蜂さんたら、あなたらしくないわね。驚いて言葉が出ないのも無理ないけれど。なんて言ったってわたくしとうちの子たちの腕が良すぎるんだもの」
 マダム・ベケットがノラの肩に腕を回すと、ノラは頬を赤くして目を輝かせた。
「マダム・ベケットは本当にすごいんだ。何をされているか全然わからなかったけど、あっという間に髪の毛をつやつやにしてくれるし、どう編んだのか全然わからないけど短い時間で何通りも髪型を試せるんだ。魔法みたいだった」
 ノラは手品を初めて見た子供のように興奮している。セルジュはおかしくなった。見た目を飾っても、中身は気が抜けるほどノラ嬢のままだ。
「当然ですよ。あなたはもともと綺麗ですから、もっと美しくなるのは当然です。マダム・ベケットとお嬢さまがたの手腕が素晴らしいことも勿論ですが」
「まあ!アベイユさんたら」
 マダム・ベケットがころころと笑った。
 いつもの調子が出てきた。任務をさっさと終わらせるために、調子を狂わされたままではいられない。

 王城に向かう馬車の中で、ノラがひどく言いづらそうに「あのう…」と声を掛けてきた。溌剌としたこの娘にもこんな声が出せるのかと思ったほど暗い声だ。
「アベル卿。情けない話だが、昨夜話した通りうちは困窮していて、さっきみたいなものすごい高貴な方にお礼をすることはできないんだ。世話になっている大伯母さまにもこれ以上迷惑を掛けられない」
 セルジュはまたしても言葉を失った。どうやら髪を整えて化粧をしてもらったことに対して自分が報いなければならないと思っているらしい。
(馬鹿だな。何も払わせるはずないのに)
 揶揄ってやろうと思った。昨夜突然目の前に現れた風変わりなノラには振り回されっぱなしだから、少しは困らせてやれば溜飲も下がるだろう。
「困りましたね。無理を言って時間を空けてもらったので、普通より高価なお返しをする必要があるのですが…」
「そ、そうなのか…どうしよう」
 セルジュはノラが淡く色づいた唇を人差し指と親指でつねるのを見た。困ったときの癖なのだろう。
「夫人にはわたしから礼をしておきますから、気にしなくていいですよ」
「そういうわけにはいかない。それなら、わたしはアベル卿に報いるためにどんなことでもすると誓う」
「…わたしが望めば何でもしてくれるんですか?」
「もちろんだ。何でも言ってくれ」
 ノラは必死だ。憐れにも目が潤んで、本気で困っている。ドレスの襟から覗く鎖骨の影が目に入ったとき、セルジュは自分がとんでもなく下劣なことをしている気分になった。
「冗談ですよ」
 セルジュは眉を開いてノラの額をつついた。
「何でもするなんて、男を相手に不用意なことを言っては絶対にダメです。マダム・ベケットとは旧知の仲ですし、男性の厚意に対して報酬なんかを気にするのは寧ろ無粋というものですよ」
「なるほど、そういうものか…」
 馬車が停まった。セルジュは先に馬車を降り、ノラの手を取って、低く笑った。
「ああでも、その話し方はどうにかしましょう。わたしは可愛いと思いますが…」
 口が滑った。こんなことを言うつもりはなかったのに。
 ところが、ノラはちょっと驚いたように目を丸くして、弾けるように笑い出した。
「可愛い?そんなはずはない。それはさすがに嘘だとわかるぞ、アベル卿。でも、そうだな…できる限り気をつけるが、訛りを直そうとするとこうなってしまうんだ」
「では、慣れるまでは無口な令嬢を気取っていてください。見た目通りの神秘的な美女として振る舞う方が受けがいいでしょうから」
 ノラはこくこくと頷いた。

 再び王城の大広間に足を踏み入れたノラは、またしてもこの絢爛さに目が霞む思いがした。美しい大理石の床に、歴代の国王と王妃の肖像画や壮麗な神話の絵、何に使うのかもよくわからない調度品や柱の彫刻に至るまで、ここに王国の格式の全てが詰め込まれている。
「さあ」
 と、セルジュがそれとなく腕を曲げたので、ノラは小首を傾げた。
「わたしはあなたの今夜のパートナーでしょう。腕に手を添えて」
「あ、そうか。失礼する」
「失礼‘いたしします’」
「し、しつれいいたします…」
 ノラはゆっくりとセルジュの発音を真似て、その腕にチョンと指先を添えた。
「それだけ?」
 セルジュはおかしそうにくつくつと笑い、ノラの手を掴んでしっかりと腕に添えさせると、どこか満足そうに目を細めた。
「あなたはもう少し男と触れ合うことに慣れた方がいい」
「し、仕方ないではないですか。あなたのように素敵な殿方の隣にいたのでは、気後れしてしまいます」
 ノラはセルジュの顔を見上げて、頬を膨らませた。頑張って言葉を直してみたものの、訛りが抜け切らない。セルジュが何か言いかけて一瞬黙ったので、何か指摘されるのかと身構えたが、セルジュはすぐに柔和な笑みを浮かべ、ダンスに興じる人々の群れの中へノラを誘った。
「…わたしは今からあなたに夢中な哀れな男になります。あなたをとびきり美しい高嶺の花として扱いますから、あなたはそれに相応しい振る舞いをしてください」
「おお…いきなり難しいな」
「せっかく顔の知られた花形の騎士を捕まえたんですから、ちゃんと有効に使ってくれないと困ります。言葉は少なく、でも黙りすぎては無教養に見えますから短い言葉で会話を転がして。知りたがるものは好奇心を、喋りたがるものは自尊心をくすぐるんです。顎は上げて、背を伸ばす。簡単に笑い返してはいけません。迫られたら冷たくあしらって」
「う、はい」
「ふっ。ちょっと笑ってますよ」
 セルジュがおかしそうに言って、ノラの唇の端をキュッとつねった。
「無表情も無口でいるのも難しい。いつものわたしと正反対だもの」
「困難なことにこそ打ち克つ価値があるのでは?」
「なるほど、そうだな!その通りだ」
「言葉遣い」
 セルジュが柔和な眼差しとは正反対の鋭い声で言い、ノラの腰を強く引き寄せた。
(うっ、心臓に悪い)
 ノラはどっと跳ねた心臓にひどく困惑した。間近で見ると、セルジュの顔立ちはやはり秀麗だ。
 マダム・ベケットがセルジュを蜜蜂さんと呼ぶ理由が分かった気がする。蜜色の髪や柔和な弧を描く目には甘やかな麗しさがあるのに、灰色の目にはどことなく鋭さがある。
 ダンスが始まると、セルジュは貴婦人たちの甘い視線を集めた。ノラは、これが容姿がよいからというだけではないことを知っている。
(さすがの人徳、さすがの品格だ。わたしも負けていられないな)

 ノラはセルジュの緩やかなステップに身を任せながら、しなしなと首を傾げ、甘えるように肩に頭をもたせかけて、顎はそのまま動かさずに視線だけを上げた。
「王都に来て初めてのダンスの相手があなたで嬉しいわ、蜜蜂さん」
 マダム・ベケットの真似だ。セルジュが僅かに唇をひくりとさせた。
(面白がっているな)
 ノラが目だけで笑うと、セルジュの唇が今度ははっきりと弧を描いた。
「光栄です、小鳩さん」
 セルジュはノラの手を強く握って口へ運び、強い視線でノラを見つめたまま、指先にキスをした。ノラは恥ずかしさに手を引っ込めたくなるのを耐え、つんと顎を上げて見せた。
 曲は、折良くゆったりとしたワルツだ。身体を近づけてひそひそ話をするには都合が良い。
「思ったよりダンスが上手ですね、ノラ嬢」
「故郷の村では、テンポの速い曲で男女が入り混じって同じダンスをするのです。曲がだんだん速くなって、足を踏み間違えたら負け。村でわたしと張り合えるのは幼馴染みのファビアンくらいなのですよ」
「その幼馴染みとダンスの練習をしたんですか」
「ええ、たくさん。だからワルツくらいなら楽勝です」
 ふとセルジュが目の奥を暗くした。微笑が、さっきまでと違う。
「あなたをよく知っている男がいると思うと、妬けますね」
 ノラの動揺を楽しむように、セルジュが身を屈めて真っ直ぐに目を覗き込んできた。唇が触れ合いそうになったとき、セルジュが役割を忘れそうなノラに小さく囁いた。
「ほら、あしらって」
 はっ。とノラは我に返り、近づいてくるセルジュの唇を指で塞いだ。
「がっつく男は嫌いよ、蜜蜂さん」
 渾身の高嶺の花っぽい台詞だ。マダム・ベケットを間近で観察した甲斐があった。
 唇を押さえられたセルジュの目がおもしろそうにニヤリと細まると、ノラは気分が高揚して楽しくなってきた。なんだか悪友と悪巧みをしている気分だ。
 もう少し冒険があってもいいかもしれない。ノラはそう思った。

 セルジュが面食らったのは、ノラがキスをしてきたからだ。唇にではない。ノラはセルジュの唇を塞いでいる自分の指に口付けしたに過ぎない。
 が、この瞬間にノラの甘い吐息が頬を撫でるのを、あまりにも生々しく感じてしまった。
 ダンスが終わるのが惜しいと思うほどに。――
(馬鹿なことを)
 セルジュは突飛な考えを振り払うように、ノラに向かって微笑を作って見せた。
「上出来です、ノラ嬢。そろそろ他で実践してみましょう」
「他で?」
「例えば、あの男――」
 と、セルジュはダンスを続けながらこちらに羨望の眼差しを向けてくる男を視線で指した。
「名前はドニ。彼自身は騎士階級ですが実家の所領が塩の生産地で金を持っています。剣より読書が好きで、いつも詩作に耽っているような温厚な男です。会話するなら詩の話題が良いでしょう。候補に入れるなら、目を合わせて、微笑みかけて。口角を少し上げるだけ」
 セルジュの唇がノラの耳に直接響く距離で囁いた後、ノラは顔を赤くして顎を引き、言われた通りにした。
「そう、上手です」
 なんだかとんでもなく恥ずかしい。が、セルジュの指示通りに別人になりきるのは、何だか楽しくもある。
「あっちの男はジュスタン。今はまだ階級が低いですが子爵家の出身で、出世頭です。槍試合ではいつも優勝候補。腕を褒めると喜びます。隣の男は金持ちですが遊び人なので結婚相手には向きません。でも交友関係が広いから知り合っておいて損はない。その右は――」
 と、こちらを見つめる男たちの情報を提供するセルジュにノラはいちいち神妙に頷き、指示されるままに相手に目線を送り、或いはツンと澄まして見せた。
 効果は抜群だ。セルジュとダンスを終えた後、すぐに別の男がノラにダンスを申し込みに来た。ノラは彼らにいちいち応じ、助言通り言葉少なく対応した。
 セルジュがノラに名を教えた男たちは、みな礼儀正しい紳士だった。セルジュは女性に紹介するに値するかどうかを判断した上でノラに名を教えていたのだ。
(さすがだな、アベル卿。顔が広いだけではなく為人まで把握しているとは)
 ノラはすっかり感心してしまった。この恩にどう報いれば良いのか、見当もつかない。
 六人目の紳士と踊った後、少々疲れてきたのでダンスを抜けようと思った矢先に、またしてもダンスの誘いを受けた。ずっとこちらを見ていたが、セルジュが名を教えなかった男だ。ノラは誘いに応じてから、その理由が分かった。
 初対面の婦人の手を強引に引っ張ってねっとりと唇をつけ、まるで自分が誘ってあげたことが光栄だと相手が思っているような態度を取る男だ。ノラは手の甲を清潔な布で拭いたくなるのを堪え、次から次へと語られる男の自慢話を適当な相槌で聞き流していたが、男がセルジュ・アベルについて口にした言葉は聞き流せなかった。
「あれは淫売の子だ」
 男はノラの歩幅よりも大きく足を踏み出し、ノラの腰に腕を巻き付けて回った。
「父親の侯爵が引き取って育てはしましたが、狡猾で淫らな売女の子など人間性は知れている。侯爵家の一員として認められることもなく、正統な兄の影に燻り続ける存在なのですよ。だから誰彼構わず愛想を振りまいて顔を売るか、後ろ暗い仕事を率先してやるかしないと出世もできない。そんな男の隣にいては、あなたの価値まで下がります。明日の宴は、是非僕と一緒に出てください」
 必要以上に顔が近い。ノラは男にニッコリと笑いかけた。精一杯の作り笑いだ。
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