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1.やり手のアラサー男
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週末にさしかかる三月最初の金曜日、終業時間の六時まであと三十分というとき、オフィス内が俄にざわめいた。三枝智奈は釣られるように顔を上げる。首を巡らしていると、ざわめきのもとはすぐに見つかった。
その男性は背が高く、ネクタイをくずし、スーツをラフに羽織った姿でもだらしなさは皆無で、かえって様になる。来社したときはきちんとしていたから、会議を終えてリラックスしているのだろう。
智奈が男性を見かけたのはこれまで十回にも満たない。常にモスグリーンの眼鏡をかけていて、それはサングラスみたいに濃く、視線が合っているとわかる程度で、笑ったり怒ったり、そんな感情は覗けない。素顔を見た人はいないけれど、端整な印象だ。近づきがたくて抜かりない、そんな雰囲気も相まって、彼――堂貫京吾はひと際目立つ。
堂貫は、智奈が勤めているこの会社、リソースA企画のオーナーになったばかりだ。アラサーという若さでどれだけやり手なのか、つい二週間前の二月の末、会社は買収された。
オフィスは十階建てのビルに入り、三階と四階を占めていて、智奈が所属する総務課は四階にある。三室ある会議室のスペースから出てきて立ち止まった堂貫は、オフィス内を見渡すそぶりを見せた。サングラスのせいで、どこに視点を当てているのか定かではない。その視界の中に入りそうになって、智奈は何気なさを装ってパソコンに向き直り、画面に目を落とした。
踵を鳴らして歩く音がだんだんと近づいてくるように感じたのは気のせいではなく、本当に近づいてきて、智奈の間近でぴたりと止まった。近くであるからこそ、顔を上げるには露骨すぎてできない。
「川上課長」
ほぼ頭上から聞こえる声は、低音なわりにこもることなくよく通る。“見かけた”というとおり、これほどまで近づいたことがなければ、声をまともに聞くこともなかった。
総務課長のデスクは、智奈の席から少し空けて斜め前にある。五十代の川上はすぐさま腰を上げ、二十歳以上も下の堂貫に、なんでしょうか、と畏まった様子で問うた。もっとも、今時は年功序列も無効だろうが。
「このさき、私への経理関係の報告は彼女に任せたいのですが」
は? と間の抜けた声を出した川上に、智奈は思わず目を向けた。驚いた川上の目と目が合ってしまう。なんだろう、と無自覚に疑問が浮かぶ間に、川上は視線を上向けた。
「三枝に、ですか」
怪訝さとためらいが入り混じった声音で川上は堂貫に訊ねた。
突然、自分の名が挙がったことに智奈の思考は俄に混乱してしまう。
「何か問題でも?」
堂貫は平坦な声で問い返す。淡々としすぎて、かえって口を封じる威力が滲みでてくる。
「あ……いえ、まだ勤めて二年と若いので……」
川上は動揺しつつも無難にしのいだ。本当に云いたかったこととは違う。それは智奈にもほかの社員にも見当はついている。本当の理由を口にしたところで、川上に害が及ぶわけでもないのに、いや、むしろ云っておくべきことかもしれないのに、それができなかったのはやはり堂貫が醸しだす威圧感のせいだろう。
「未熟なほうが貴重なんですよ、新参者の私には。いろんな状況を偏見なくフラットに把握したいので、素直に疑問を疑問として捉えられる人材のほうがありがたい。社員のデータを見るかぎり、三枝さんが適任と判断しました」
堂貫は見解を述べると、川上の返事を待たずに、三枝さん、と呼びかけた。
混乱がおさまって平常心に戻りつつも事態は把握できていない。智奈は名を呼ばれて慌てふためいた。
「は、い……」
背後を振り仰いで痞えた返事をしている間に、広い手のひらが智奈の視界に入った。
「よろしく頼みます」
その言葉で握手を求められていると気づき、智奈はぱっと腰を上げた。いま起きていることすべてが不意打ちで、考える間もなく大きな手のひらに自分の手を重ねた。すると、挨拶としての握手にしては不自然なくらい、ぎゅっと握りしめられた。
「打ち合わせはまたあらためて」
問うように堂貫の首がかしぐと、はい、と、半ば反射的に智奈はうなずいていた。同時に手は自由になり、堂貫は川上を向いた。
「では、今日はこれで失礼します」
お疲れさまです、という川上の労いを皮切りに、あちこちから同じ言葉があがり、堂貫はかすかにうなずくというしぐさで応じながら出入り口へと向かう。そんななか、堂貫のみならず智奈にまで視線がちらほらと向けられる。
智奈に何も問題がなければ、羨望か嫉妬かと解釈するところだ。明らかに力を持って乗りこんできた新人のトップに付けること、あるいは、堂貫を異性として見る人からすると、財力とか手腕とか相まって、やはりその端整な印象であること。理由はそんなところだ。けれど、智奈には問題があるゆえに、そんな種類の意味合いではきっとない。
堂貫は、出入り口で待っていた補佐と合流すると、うなずき合ってから出ていく。
「ちょっと席を外します」
智奈は堂貫がドアの向こうに消えるのを待って言い、出入り口に向かった。
その男性は背が高く、ネクタイをくずし、スーツをラフに羽織った姿でもだらしなさは皆無で、かえって様になる。来社したときはきちんとしていたから、会議を終えてリラックスしているのだろう。
智奈が男性を見かけたのはこれまで十回にも満たない。常にモスグリーンの眼鏡をかけていて、それはサングラスみたいに濃く、視線が合っているとわかる程度で、笑ったり怒ったり、そんな感情は覗けない。素顔を見た人はいないけれど、端整な印象だ。近づきがたくて抜かりない、そんな雰囲気も相まって、彼――堂貫京吾はひと際目立つ。
堂貫は、智奈が勤めているこの会社、リソースA企画のオーナーになったばかりだ。アラサーという若さでどれだけやり手なのか、つい二週間前の二月の末、会社は買収された。
オフィスは十階建てのビルに入り、三階と四階を占めていて、智奈が所属する総務課は四階にある。三室ある会議室のスペースから出てきて立ち止まった堂貫は、オフィス内を見渡すそぶりを見せた。サングラスのせいで、どこに視点を当てているのか定かではない。その視界の中に入りそうになって、智奈は何気なさを装ってパソコンに向き直り、画面に目を落とした。
踵を鳴らして歩く音がだんだんと近づいてくるように感じたのは気のせいではなく、本当に近づいてきて、智奈の間近でぴたりと止まった。近くであるからこそ、顔を上げるには露骨すぎてできない。
「川上課長」
ほぼ頭上から聞こえる声は、低音なわりにこもることなくよく通る。“見かけた”というとおり、これほどまで近づいたことがなければ、声をまともに聞くこともなかった。
総務課長のデスクは、智奈の席から少し空けて斜め前にある。五十代の川上はすぐさま腰を上げ、二十歳以上も下の堂貫に、なんでしょうか、と畏まった様子で問うた。もっとも、今時は年功序列も無効だろうが。
「このさき、私への経理関係の報告は彼女に任せたいのですが」
は? と間の抜けた声を出した川上に、智奈は思わず目を向けた。驚いた川上の目と目が合ってしまう。なんだろう、と無自覚に疑問が浮かぶ間に、川上は視線を上向けた。
「三枝に、ですか」
怪訝さとためらいが入り混じった声音で川上は堂貫に訊ねた。
突然、自分の名が挙がったことに智奈の思考は俄に混乱してしまう。
「何か問題でも?」
堂貫は平坦な声で問い返す。淡々としすぎて、かえって口を封じる威力が滲みでてくる。
「あ……いえ、まだ勤めて二年と若いので……」
川上は動揺しつつも無難にしのいだ。本当に云いたかったこととは違う。それは智奈にもほかの社員にも見当はついている。本当の理由を口にしたところで、川上に害が及ぶわけでもないのに、いや、むしろ云っておくべきことかもしれないのに、それができなかったのはやはり堂貫が醸しだす威圧感のせいだろう。
「未熟なほうが貴重なんですよ、新参者の私には。いろんな状況を偏見なくフラットに把握したいので、素直に疑問を疑問として捉えられる人材のほうがありがたい。社員のデータを見るかぎり、三枝さんが適任と判断しました」
堂貫は見解を述べると、川上の返事を待たずに、三枝さん、と呼びかけた。
混乱がおさまって平常心に戻りつつも事態は把握できていない。智奈は名を呼ばれて慌てふためいた。
「は、い……」
背後を振り仰いで痞えた返事をしている間に、広い手のひらが智奈の視界に入った。
「よろしく頼みます」
その言葉で握手を求められていると気づき、智奈はぱっと腰を上げた。いま起きていることすべてが不意打ちで、考える間もなく大きな手のひらに自分の手を重ねた。すると、挨拶としての握手にしては不自然なくらい、ぎゅっと握りしめられた。
「打ち合わせはまたあらためて」
問うように堂貫の首がかしぐと、はい、と、半ば反射的に智奈はうなずいていた。同時に手は自由になり、堂貫は川上を向いた。
「では、今日はこれで失礼します」
お疲れさまです、という川上の労いを皮切りに、あちこちから同じ言葉があがり、堂貫はかすかにうなずくというしぐさで応じながら出入り口へと向かう。そんななか、堂貫のみならず智奈にまで視線がちらほらと向けられる。
智奈に何も問題がなければ、羨望か嫉妬かと解釈するところだ。明らかに力を持って乗りこんできた新人のトップに付けること、あるいは、堂貫を異性として見る人からすると、財力とか手腕とか相まって、やはりその端整な印象であること。理由はそんなところだ。けれど、智奈には問題があるゆえに、そんな種類の意味合いではきっとない。
堂貫は、出入り口で待っていた補佐と合流すると、うなずき合ってから出ていく。
「ちょっと席を外します」
智奈は堂貫がドアの向こうに消えるのを待って言い、出入り口に向かった。
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