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2.名刺に雫
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堂貫と補佐の長友聡士がエレベーターの前で立ち止まったところに、智奈は間に合った。
「あの!」
呼びかけた声は、意外にエレベーターホールから廊下へと響き渡った。
堂貫たちがおもむろに振り向き、智奈は少し身をすくめると、すみません、と一礼をした。
「あの、話しておきたいことがあるんですけど、お時間を少しいただけますか」
「いま?」
堂貫は首をひねりながら問う。
「はい。いまのうちに考え直してもらったほうがいいと思うので……」
「考え直す? 何を?」
せっかちなのか、時間が惜しいのか、堂貫は智奈をさえぎった。
「わたしは、会社をやめることになると思います。だから……」
「川上課長は、そんなことはひと言も云っていなかったが……『やめることになる』というのは、きみの意志じゃないということか?」
智奈は密かに驚く。堂貫は智奈の言葉を正確に捉えていた。
迷ったのはつかの間。そんな堂貫だからこそ、隠してもそう時間を置くことなく耳に入ったり、調べたりして情報を得るだろう。智奈はそう考え至って、うなずいた。
リソースA企画は人材の仲介業メインの会社で、そこそこ信用を得て経営がうまくいっている。それなのに買収された理由は何なのか――と、それはさておき、智奈は経理の仕事を預かっている。去年まではほかの社員と同様、普通に働けていたのに、今年に入って智奈の環境だけ一変した。会社に居づらくなっている原因は、会社のせいでないのはもちろんのこと、智奈のせいでもないはずだ。けれど、無関係とは決して云えない。
「わたしの父は犯罪者です。会社から辞めるようには言われてませんけど、辞めないといけないと思っています。だから、さっきの話はほかの方にするべきです」
今度はさえぎらないどころか、堂貫は意表を突かれたようにわずかに顎を上げたまま、沈黙してしまった。エレベーターホールは建物の隅にあって、堂貫は、採光のための窓ガラスを背にして立っている。智奈からは逆光になって、堂貫の目はまったく見えず、喜怒哀楽の大まかな感情さえ窺えない。
犯罪者の父親がいることを知って、引いてしまったのかもしれない。そうだとしても、智奈が辞退しているのだから、堂貫は気を遣うこともなく人事を変えればすむ。もっとも、堂貫がそんなことで怯む人だとは思えない。そんな社員がいることを嫌うことはあっても。
「どんな犯罪だ。父親はどんな罰を受けてる? いま刑務所か?」
「いえ……父、三枝行雄は税理士でした。ニュースでご存知かもしれません。フロント企業と関わっていたそうです。警察の家宅捜索が入ったあとに心臓発作を起こして、そのまま亡くなりました」
任意同行から始まって、被疑者死亡、書類送検という言葉は耳にしたことがあるけれど、目の前に並べ立てられても智奈は理解できなかった。いまでも詳細が知らされることなく、よくわかっていない。
ただ、フロント企業と云えば犯罪組織――ただの犯罪組織ではなく、暴力があたりまえの組織であることは明白で、表の人間ならだれでもが手を引きたがる。関わりたくないからこそ、きっと会社もはっきり辞めろとは言いだせない。智奈も裏の社会と繋がっていると疑われているのだ。けれど。
「きみが犯罪者ならともかく、辞める必要はない。たとえ、会社から辞めろと云われてもな。転職したいとか、きみに辞めたいという意志があれば別だが。ずうずうしく生きたほうが勝ちだ。一見は真っ当なクリアな世界であろうと、極めてグレーな上に成り立っている。おれは清廉潔白な人間を期待してなどいない。話はそれだけか?」
まったく大したことのないように堂貫は云った。裏を返せば、無駄な時間だったと云っているようにも聞こえる。
「はい。時間を取ってすみませんでした」
再び一礼をすると足音が聞こえだした。頭を上げる間にそれは近づいてくる。
目の前に立った堂貫は、「長友、ペンを」と云いながらジャケットの内ポケットに手を入れ、カードケースを取って開いた。カードを一枚取りだしている間に、長友が傍に来て、どうぞ、とペンを差しだした。堂貫はそれを受けとると、するするとペンを走らせて何かを記し、それから智奈に差し向けた。
智奈は反射的に受けとり、カード――名刺を見た。印刷された文字の隙間に、明らかに携帯番号だとわかる数字が並んでいる。
「何か面倒なことに巻きこまれたり、巻きこまれそうになったり、あとは相談事でもいい。そういうときは連絡してくれ」
思いがけない言葉だった。智奈が驚いて返事もできないでいる間に堂貫は身をひるがえす。エレベーターの扉を開いたままにして待つ長友と一緒に乗りこんだ。
「ありがとうございます、お疲れさまでした」
智奈が慌てて声をかけると、堂貫はかすかにうなずき、一瞬後に扉が閉まった。
気を張っていたけれど、堂貫に云うべきことを伝えられたことで気が抜けたようにほっとした。それとは別に――
堂貫はおざなりで行動を起こす人には見えない。見下ろした名刺にぽたりと雫が落ちて、数字が少し滲んでしまう。
堂貫と話したのははじめてで、遠い人のはずが、智奈は父の事件が発覚して以来、頼れる人がいることの安心感を覚えた。
「あの!」
呼びかけた声は、意外にエレベーターホールから廊下へと響き渡った。
堂貫たちがおもむろに振り向き、智奈は少し身をすくめると、すみません、と一礼をした。
「あの、話しておきたいことがあるんですけど、お時間を少しいただけますか」
「いま?」
堂貫は首をひねりながら問う。
「はい。いまのうちに考え直してもらったほうがいいと思うので……」
「考え直す? 何を?」
せっかちなのか、時間が惜しいのか、堂貫は智奈をさえぎった。
「わたしは、会社をやめることになると思います。だから……」
「川上課長は、そんなことはひと言も云っていなかったが……『やめることになる』というのは、きみの意志じゃないということか?」
智奈は密かに驚く。堂貫は智奈の言葉を正確に捉えていた。
迷ったのはつかの間。そんな堂貫だからこそ、隠してもそう時間を置くことなく耳に入ったり、調べたりして情報を得るだろう。智奈はそう考え至って、うなずいた。
リソースA企画は人材の仲介業メインの会社で、そこそこ信用を得て経営がうまくいっている。それなのに買収された理由は何なのか――と、それはさておき、智奈は経理の仕事を預かっている。去年まではほかの社員と同様、普通に働けていたのに、今年に入って智奈の環境だけ一変した。会社に居づらくなっている原因は、会社のせいでないのはもちろんのこと、智奈のせいでもないはずだ。けれど、無関係とは決して云えない。
「わたしの父は犯罪者です。会社から辞めるようには言われてませんけど、辞めないといけないと思っています。だから、さっきの話はほかの方にするべきです」
今度はさえぎらないどころか、堂貫は意表を突かれたようにわずかに顎を上げたまま、沈黙してしまった。エレベーターホールは建物の隅にあって、堂貫は、採光のための窓ガラスを背にして立っている。智奈からは逆光になって、堂貫の目はまったく見えず、喜怒哀楽の大まかな感情さえ窺えない。
犯罪者の父親がいることを知って、引いてしまったのかもしれない。そうだとしても、智奈が辞退しているのだから、堂貫は気を遣うこともなく人事を変えればすむ。もっとも、堂貫がそんなことで怯む人だとは思えない。そんな社員がいることを嫌うことはあっても。
「どんな犯罪だ。父親はどんな罰を受けてる? いま刑務所か?」
「いえ……父、三枝行雄は税理士でした。ニュースでご存知かもしれません。フロント企業と関わっていたそうです。警察の家宅捜索が入ったあとに心臓発作を起こして、そのまま亡くなりました」
任意同行から始まって、被疑者死亡、書類送検という言葉は耳にしたことがあるけれど、目の前に並べ立てられても智奈は理解できなかった。いまでも詳細が知らされることなく、よくわかっていない。
ただ、フロント企業と云えば犯罪組織――ただの犯罪組織ではなく、暴力があたりまえの組織であることは明白で、表の人間ならだれでもが手を引きたがる。関わりたくないからこそ、きっと会社もはっきり辞めろとは言いだせない。智奈も裏の社会と繋がっていると疑われているのだ。けれど。
「きみが犯罪者ならともかく、辞める必要はない。たとえ、会社から辞めろと云われてもな。転職したいとか、きみに辞めたいという意志があれば別だが。ずうずうしく生きたほうが勝ちだ。一見は真っ当なクリアな世界であろうと、極めてグレーな上に成り立っている。おれは清廉潔白な人間を期待してなどいない。話はそれだけか?」
まったく大したことのないように堂貫は云った。裏を返せば、無駄な時間だったと云っているようにも聞こえる。
「はい。時間を取ってすみませんでした」
再び一礼をすると足音が聞こえだした。頭を上げる間にそれは近づいてくる。
目の前に立った堂貫は、「長友、ペンを」と云いながらジャケットの内ポケットに手を入れ、カードケースを取って開いた。カードを一枚取りだしている間に、長友が傍に来て、どうぞ、とペンを差しだした。堂貫はそれを受けとると、するするとペンを走らせて何かを記し、それから智奈に差し向けた。
智奈は反射的に受けとり、カード――名刺を見た。印刷された文字の隙間に、明らかに携帯番号だとわかる数字が並んでいる。
「何か面倒なことに巻きこまれたり、巻きこまれそうになったり、あとは相談事でもいい。そういうときは連絡してくれ」
思いがけない言葉だった。智奈が驚いて返事もできないでいる間に堂貫は身をひるがえす。エレベーターの扉を開いたままにして待つ長友と一緒に乗りこんだ。
「ありがとうございます、お疲れさまでした」
智奈が慌てて声をかけると、堂貫はかすかにうなずき、一瞬後に扉が閉まった。
気を張っていたけれど、堂貫に云うべきことを伝えられたことで気が抜けたようにほっとした。それとは別に――
堂貫はおざなりで行動を起こす人には見えない。見下ろした名刺にぽたりと雫が落ちて、数字が少し滲んでしまう。
堂貫と話したのははじめてで、遠い人のはずが、智奈は父の事件が発覚して以来、頼れる人がいることの安心感を覚えた。
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