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第3部2章
08 兆し
しおりを挟む「公女!」
「あらあら、私には興味なかったんじゃないですか? 殿下」
「誰に似たんだ、その口は……」
あの一件が功を奏してか、殿下は私を頻繁に求めてくるようになった。だが、行為中キスはしないし、愛の言葉は囁かない。体は満たされても、心は満たされず、彼の性欲のはけ口になっているのではないかとも思えてきた。それでも、彼の体が私を求めざるを得ないという優越感は少なからずあって、殿下のどこかに私が残っているならとそれを受け入れた。私も対外だと思う。
しかし、少しずつ兆しはあるというか、興味を引いたのか彼は今日、私の家を訪ねこの間はつまらなそうだったお茶の場も積極的に話しかけてきた。といっても、前の自分にかかわることは避けているようだった。
「誰に似たんでしょうね。私の愛しの人ですかね」
「それは……いや、何でもない」
(ほら、聞かない。なんで聞かないの?)
俺だろ? と、殿下なら言うはずなのに、なぜか彼は避けて通る。まるでそれが禁句とでも言わんばかりに彼は「何でもない」と歯切れ悪く言うのだ。
「だが、本当に不思議だな。俺の呪いが解けたことは」
「殿下にも、人を愛する心があったってことですよ」
「……そんなものとっくに死んだと思っていたがな」
と、彼は紅茶を飲みながらいう。
彼の話はマルティンから聞いているし、私も小説である程度は知っている。だが、それは描写や過去回想シーンが出てきたというだけで、彼の苦しみというのは、彼とかかわっても彼にしかわからないものだと思った。戦争は悲惨なものだ。でも、外側で悲惨というのと、現地の人間が悲惨というのでは重みが違う。それと一緒なのだ。
それにどれだけ寄り添えるか。
殿下は思いが通じ合ってからもしばらく自分の話をしなかった。弱いところを見せたくないという彼のプライド。でも、ヴァイスの一件後は、彼はぽつぽつと自分の中に生まれた弱さ、持っていた弱さについて口にしてくれた。それが、本当に私に心を開いてくれたようでうれしく、またそんな彼の心を守りたいと思った。彼の心の支えが私だというのなら、私は今以上に自分のことを愛してあげなければと、そう思ったのだ。
「公女は本当に変わっている」
「お褒めにあずかり光栄です。殿下」
「ほめて、いるのか? これは」
「ほめてると思いますよ。殿下は思ったことしか口にしないので」
「……」
紅茶がこの間よりもおいしかった。はっきりと味と香りを楽しめる。
少しだけ心に余裕が生まれた証拠だろう。イーリスに聞くと、たびたび彼女のもとを訪れるらしいが、それは彼女の研究者としての一面を買ってのような話であり、彼女に恋愛的興味を占めてしている感じではないらしい。また、イーリスに全くその気がないというのもあって、彼らはいとこのような、兄妹のような関係にも見えるのだとか。
(……本物のヒロインなのにね)
イーリスがいい子過ぎで、彼女をねたんでしまった過去の自分を恥じたいくらい。イーリスが殿下に興味を示さなかったのも、恋心を抱かなかったのもまた不思議な話である。どこでこじれたのか。でも、それは私にとって喜ばしい誤算ではあった。
「……俺は、記憶を失う前、こうして公女のもとを訪れていたのか?」
「え?」
先ほどまで固く閉じていた口を開き、殿下はそう質問してきた。あれほど避けていた質問を自ら……これは、記憶を取り戻そうとしている予兆なのではないかと、胸が脈打つ。
焦ってはだめだとは思いつつも、前のめりに、そして冷静に、迅速に……私は「そうですよ」と答えて紅茶をすする。
殿下は、そうか、といった後、顎に手を当てて何かを考えるそぶりを見せた。
やはり、そう簡単にはいかないらしい。
(100%じゃないとはいえ、ヴァイスの魔法……きっと他にも何かあるんだわ)
イーリスが解除できないのも大きなポイントだろう。手紙を通じて、難解な魔法がかけられていて一つ一つが巧妙に絡み合っていてすぐにはいかないとか。偵察に行った帝国の騎士たちによれば、フルーガー王国は君が悪いくらいに静からしい。いつも通りといえばいつも通りだが、それがかえって戦争の火ぶたが切られる予兆なのではないかともいう。そんな恐ろしいことを言わないでほしいが、ヴァイスがかかわっているのならやはり何かが……
「俺は、ここ二年程の記憶を早急に取り戻さなければならない。それは、俺が皇帝に即位するためにも必要なものだからだ」
「あ……そうですよね。殿下は、皇帝に」
殿下の言葉を聞いて、舞い上がっていた自分の気持ちを上から押さえつけた。
今殿下が焦って記憶尾を取り戻そうとしているのは、皇位を譲り受けるため。もとから現皇帝陛下に不満があり、戦争のない国を作ると目標を抱えた殿下にとって、自分が記憶喪失なことをいいことにその座に居座り続ける陛下が憎いのだろう。親子関係は呪いの一件もあって最悪だし、殿下からすればこんなところで足踏みしているわけにはいかないと。それも、記憶を失っているから二年という月日が経っているのに自分はまだその座につけていないと、もどかしさすら感じているのだろう。
私との関係を取り戻すためでは決してない。
それは二の次であり、必要ではあるが最優先事項ではない。
「どうした、公女」
「いえ。殿下は……殿下は、きっと皇帝になれます。というか、その話も進んでいたんですから」
「だろうな。二年もあって何もないわけがない。なのに俺はその座につけてすらいない。早く今の皇帝を引きずり降ろさなければならない。俺が記憶喪失になった原因もそこにあるだろうからな」
ゲベート聖王国をつぶしたことが原因――と。でも実際は、ヴァイスの好奇心から生まれた戦争のようなもので、私たちは彼の手のひらの上で踊らされているに過ぎない。けど誘いに乗って滅ぼしてしまったのもまた事実。生まれた溝を埋めようと殿下は何度も和平交渉に臨んだが簡単にはいかなかった。結局は力を持っていたいという国同士のプライドが平和を邪魔しているのだ。
(そうね、いま私にできることをしましょう)
殿下が記憶を取り戻したいと望むのなら、私の思いだけではなく、彼を優先しようと思った。私だって、彼の願いを知っているからそれをかなえてあげたいと思う。自分の感情を優先して動いていたが、それだけではだめなのだ。彼の隣に立って支えるとはそういうこと。未来の皇帝の、未来の皇后としての役割は――
「殿下、前にも言いましたよね。必ず殿下の記憶を取り戻して見せると」
「ああ、それがどうした?」
「私はいつだって貴方の味方です。貴方が覚えていなくても、私を愛してくれたという記憶は私の中にあります」
自分に自信が持てなくて、意地を張って彼を拒んでしまった過去もあるけれど。それでも殿下は私を好きでいてくれた。彼の呪いが移ったとはいえ、彼は呪いにかかった私を目覚めさせてくれた。恩を返す、とはまた違う気がするけれど、私は彼に生涯をささげると決めている。
だから、どんな方法を使ってでも、彼の記憶を取り戻して見せる。
「ですから、殿下、私に任せてください。貴方は私が守ります。貴方の記憶を必ず取り戻して見せますから、不安な顔、しないでください」
「俺が不安だと?」
「はい」
たまに殿下は自分の感情に気づかない時がある。それは、彼の情緒が育ち切っていないことにも関係している。
私はすっと立ちあがって彼の前に行くとひざをつき、彼の手を取った。まるで、忠誠を誓うみたいで、殿下も目を丸くしている。
「ドレスが汚れるぞ?」
「そんなこと些細なことです。ただ、私は貴方を安心させたい」
「だから俺は……」
そう言って殿下は自分の手を見た。私握られた手がかすかにふるえていることに気づいてしまったのだろう。殿下はなぜ? と、自分でもわからないような顔をしていた。彼は忘れてしまっているけれど、ゲベート聖王国で弱さを受け入れてくれと私に言ってくれたから……だから、私の前だけでは不安な彼が顔を出すのだ。それは体が無意識に。
「……そうか。俺は……記憶を失う前の俺は、公女のことがそんなに大切だったんだな」
すまない、と絞り出したような声は何を意味していたのだろうか。思い出せないこと? それとも今の自分は違うからということ?
まあ、どちらでもよかった。彼が不安なら、それを包み込むのが私の役目だから。
「はい。私にとって殿下も……アインもとても大切な存在です。だから、安心して。貴方の未来と心は私が守ります。どうにかしますから」
一言では言い切れない、表せない思いを顔に乗せて私は殿下に微笑みかける。
彼の耳がポッと、その美しい真紅の髪と同じ色に染まったのは、見間違えじゃないと私は思いたい。
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