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第二部 絆ぐ伝説
第一話一四章 洞窟の影
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洞窟のなかに一歩、足を踏み入れると、途端にあたりの気温がさがった気がした。
実際、その通りなのだろう。ひんやりとした空気が全身を包み込む。一瞬、ゾクリとし、思わず身震いするぐらいの気温差があった。
水の匂いがする。
空気そのものが湿っている印象だ。
洞窟のなかは気温が低いだけではなく、湿度もかなり高いらしい。この奥にあるという水路は大型船でも通れるぐらい大きなものだそうだから、洞窟内に湿気が溜まっているのはむしろ、当然だろう。ただ、ひんやりしているせいか、湿度が高いと言っても森のなかのようなムシムシした不快感は感じない。
それはありがたかった。
ただ、薄い霧のなかを歩いているようなものだから、長い時間いたら体を冷やしてしまうかも知れない。
――うう~、なんて水っぽい空気だ。毛皮が濡れちまうよ。
ビーブが盛んに手を振りまわしてそう主張している。
ロウワンは思わず苦笑した。
――そうだね。長くいると体に悪そうだ。手早くすませるとしよう。
ロウワンも手を動かしてそう答えた。とは言え――。
うかつに近寄るわけにもいかない。ハルキスの話から海の雌牛が縄張り意識をもっているのはまずまちがいない。となれば、縄張りのなかに入り込んでしまえば問答無用で襲ってくる。問題はその縄張りの範囲がわからないことなのだが……。
――ハルキス先生が言うには洞窟から出たあとは追ってこなかったそうだから、洞窟の外まで縄張りになっていないのは確かだろうけど。もしかしたら、日の光に弱いのかも知れないな。
いざとなったら洞窟の外まで逃げればいい。
そうは思ったが、そもそもの目的は水路の奥深くに隠されている天命船を手に入れることなのだ。洞窟のなかを進めないのでは意味がない。とにかく、進んでみることだ。
幸い、ハルキスの言っていたようにそこかしこにぼんやり光る苔が生えている。その明りのおかげで暗い月夜ぐらいにはあたりが見える。
洞窟のなかは静かだった。
そして、美しかった。
洞窟に付きもののコウモリはこの洞窟にはいなかった。コウモリの飛翔力ではこの離れ小島までたどり着くことは出来ないのかも知れない。そのかわり、と言うべきか、天井いっぱいに小さな虫たちがいた。
闇に住むことに適応した結果か、自ら光を放つ虫たちだ。その虫たちがいっぱいに天井に張りついているために、天井を見上げるとまるで星空が広がっているように見える。
「……きれいだな」
ロウワンは思わず呟いていた。
海の雌牛という脅威さえなかったら、この幻想的な雰囲気の洞窟散策を心行くまで楽しむことができただろう。実際、この洞窟は魅力的な場所だった。ひんやりとした空気に包まれたいかにもな雰囲気といい、天井一面に広がる疑似星空といい、交通の便さえ良ければ貴族や裕福な商人相手の行楽地となってもおかしくない場所だ。
「この島にはヤシの木がたくさん生えている砂浜もあるし、森もある。この奥には洞窟のなかの湖もあるわけだから……うまくやれば本当に、貴族向けの高級保有地になるかもね」
ロウワンはそんなことを考えた。もちろん、ハルキス先生が五〇〇年にわたって研鑽を積みつづけた聖地であるこの島を、そんな俗なことに使わせるつもりはないけれど。
水の流れる音がした。
水が岩肌に打ちつけるチャプチャプいう音も。
シンと静まり返った洞窟のなかなので普段ならば気がつかないような小さな音でもよく響く。
「……近づいてきたな。慎重に進もう、ビーブ。海の雌牛に気付かれないように」
ロウワンはサルの姿の相棒にそう語りかけたあと、手話でも改めてそう注意した。ビーブも『わかってらあ』と、生意気そうに手話で答えてきた。
やがて、水路にたどり着いた。そこはたしかに大きな水路だった。『大河』と呼んでもいいぐらいの幅がある。
「……でも、静かだな。こんなに水路の近くまで来たのになにも現れないし。ハルキス先生の話ではもっと手前で襲われていたはず」
と言うことはつまり、海の雌牛がいるのならとっくに襲われていてもおかしくないと言うことだ。それが襲われていないと言うことは、もしかして……。
――ビーブ。なにかがいる気配は感じるかい?
ロウワンは手話で尋ねた。
音を立てて注意を引きたくないときには手話というものは確かに便利だ。ロウワンは手話を開発してくれたどこかの誰かに深く感謝した。
ビーブは『弟分』に言われてヒクヒクと鼻を動かしはじめた。
――とくになにも感じないな。少なくとも、『船みたいにデッカい』やつの気配なんて感じないぜ。
――そう。
人間よりはるかに鋭敏な野性の感覚でもなにも感じられないとするとやはり、海の雌牛はいないということか。
「五〇〇年の間にどこかに行ったのか。それとも、死んだのか。どっちにしても、いないならその方がいいわけだけど……」
ロウワンがそう言ったそのときだ。
ユラリ、と、水路の表面でなにかが動いた。
それは影だった。
大きな影がゆっくりと水路の先から内部に向かって動いていた。
「おっ……」
大きいっ!
ロウワンは思わずそう叫んでしまいそうになった。ビーブがあわてて飛びつき、口を押さえた。おかげで、それ以上、声を出さずにすんだ。
「キキッ」
両手でロウワンの口を押さえていて手話を使えないので、ビーブは弟分の耳元で小さく、鳴いた。
――気をつけろ! 気付かれるぞ。
そう言っているのははっきりとわかった。
ロウワンはビーブに口を押さえられたまま手を動かして答えた。
――あ、ありがとう。おかげで大声を出さずにすんだよ。でも、すごく大きい。大型のクジラか豪華客船ぐらいあるぞ。あれが、海の雌牛か。
数多の船を沈め、船乗りたちの恐怖の伝説となった海の雌牛。それだけのことをしてのけるにはたしかに、あの程度の大きさは必要だろう。
水面に映る影はユラユラと姿をかえつつ水路の奥へおくへと向かっていく。とりあえずは気付かれずにすんだようだ。
――いったん、帰ろう。
ロウワンはビーブにそう伝えた。
――あそこまで大きいとは思わなかった。あんなのとやりあうなんて無理だ。ちゃんと観察して、行動を把握してからどうするか考えよう。
そう語るロウワンに対し――。
サルの姿の相棒は『キキッ』と、小さく答えたのだった。
それから、ロウワンとビーブは毎日、水路に向かって観察をつづけた。毎日まいにち観察をつづけるうちに海の雌牛――と思われる巨大な影――には、はっきりとした行動上の特徴があることがわかった。
いつも、決まった時間に水路を下り、海に出る。
一度、海に出ると三日間、戻ってこない。
戻ってくると水路の奥に身を潜め、丸一日じっとしている。それからまた海に出る……。
その繰り返し。
――こいつは都合がいいじゃねえか。三日もあればその間に船に乗って海に出れるだろうよ。
ビーブが得意そうにそう語った。
――うん、そうだね。なにもあんなデカブツとやりあう必要はない。いない間に海に出てしまえばいいんだ。戻ってくるときは砂浜に着ければいいんだし。ハルキス先生に伝えて準備をしよう。
ロウワンはこのとき、気がついていなかった。
自分が取り返しのつかない危険に向かって突き進んでいることを。
実際、その通りなのだろう。ひんやりとした空気が全身を包み込む。一瞬、ゾクリとし、思わず身震いするぐらいの気温差があった。
水の匂いがする。
空気そのものが湿っている印象だ。
洞窟のなかは気温が低いだけではなく、湿度もかなり高いらしい。この奥にあるという水路は大型船でも通れるぐらい大きなものだそうだから、洞窟内に湿気が溜まっているのはむしろ、当然だろう。ただ、ひんやりしているせいか、湿度が高いと言っても森のなかのようなムシムシした不快感は感じない。
それはありがたかった。
ただ、薄い霧のなかを歩いているようなものだから、長い時間いたら体を冷やしてしまうかも知れない。
――うう~、なんて水っぽい空気だ。毛皮が濡れちまうよ。
ビーブが盛んに手を振りまわしてそう主張している。
ロウワンは思わず苦笑した。
――そうだね。長くいると体に悪そうだ。手早くすませるとしよう。
ロウワンも手を動かしてそう答えた。とは言え――。
うかつに近寄るわけにもいかない。ハルキスの話から海の雌牛が縄張り意識をもっているのはまずまちがいない。となれば、縄張りのなかに入り込んでしまえば問答無用で襲ってくる。問題はその縄張りの範囲がわからないことなのだが……。
――ハルキス先生が言うには洞窟から出たあとは追ってこなかったそうだから、洞窟の外まで縄張りになっていないのは確かだろうけど。もしかしたら、日の光に弱いのかも知れないな。
いざとなったら洞窟の外まで逃げればいい。
そうは思ったが、そもそもの目的は水路の奥深くに隠されている天命船を手に入れることなのだ。洞窟のなかを進めないのでは意味がない。とにかく、進んでみることだ。
幸い、ハルキスの言っていたようにそこかしこにぼんやり光る苔が生えている。その明りのおかげで暗い月夜ぐらいにはあたりが見える。
洞窟のなかは静かだった。
そして、美しかった。
洞窟に付きもののコウモリはこの洞窟にはいなかった。コウモリの飛翔力ではこの離れ小島までたどり着くことは出来ないのかも知れない。そのかわり、と言うべきか、天井いっぱいに小さな虫たちがいた。
闇に住むことに適応した結果か、自ら光を放つ虫たちだ。その虫たちがいっぱいに天井に張りついているために、天井を見上げるとまるで星空が広がっているように見える。
「……きれいだな」
ロウワンは思わず呟いていた。
海の雌牛という脅威さえなかったら、この幻想的な雰囲気の洞窟散策を心行くまで楽しむことができただろう。実際、この洞窟は魅力的な場所だった。ひんやりとした空気に包まれたいかにもな雰囲気といい、天井一面に広がる疑似星空といい、交通の便さえ良ければ貴族や裕福な商人相手の行楽地となってもおかしくない場所だ。
「この島にはヤシの木がたくさん生えている砂浜もあるし、森もある。この奥には洞窟のなかの湖もあるわけだから……うまくやれば本当に、貴族向けの高級保有地になるかもね」
ロウワンはそんなことを考えた。もちろん、ハルキス先生が五〇〇年にわたって研鑽を積みつづけた聖地であるこの島を、そんな俗なことに使わせるつもりはないけれど。
水の流れる音がした。
水が岩肌に打ちつけるチャプチャプいう音も。
シンと静まり返った洞窟のなかなので普段ならば気がつかないような小さな音でもよく響く。
「……近づいてきたな。慎重に進もう、ビーブ。海の雌牛に気付かれないように」
ロウワンはサルの姿の相棒にそう語りかけたあと、手話でも改めてそう注意した。ビーブも『わかってらあ』と、生意気そうに手話で答えてきた。
やがて、水路にたどり着いた。そこはたしかに大きな水路だった。『大河』と呼んでもいいぐらいの幅がある。
「……でも、静かだな。こんなに水路の近くまで来たのになにも現れないし。ハルキス先生の話ではもっと手前で襲われていたはず」
と言うことはつまり、海の雌牛がいるのならとっくに襲われていてもおかしくないと言うことだ。それが襲われていないと言うことは、もしかして……。
――ビーブ。なにかがいる気配は感じるかい?
ロウワンは手話で尋ねた。
音を立てて注意を引きたくないときには手話というものは確かに便利だ。ロウワンは手話を開発してくれたどこかの誰かに深く感謝した。
ビーブは『弟分』に言われてヒクヒクと鼻を動かしはじめた。
――とくになにも感じないな。少なくとも、『船みたいにデッカい』やつの気配なんて感じないぜ。
――そう。
人間よりはるかに鋭敏な野性の感覚でもなにも感じられないとするとやはり、海の雌牛はいないということか。
「五〇〇年の間にどこかに行ったのか。それとも、死んだのか。どっちにしても、いないならその方がいいわけだけど……」
ロウワンがそう言ったそのときだ。
ユラリ、と、水路の表面でなにかが動いた。
それは影だった。
大きな影がゆっくりと水路の先から内部に向かって動いていた。
「おっ……」
大きいっ!
ロウワンは思わずそう叫んでしまいそうになった。ビーブがあわてて飛びつき、口を押さえた。おかげで、それ以上、声を出さずにすんだ。
「キキッ」
両手でロウワンの口を押さえていて手話を使えないので、ビーブは弟分の耳元で小さく、鳴いた。
――気をつけろ! 気付かれるぞ。
そう言っているのははっきりとわかった。
ロウワンはビーブに口を押さえられたまま手を動かして答えた。
――あ、ありがとう。おかげで大声を出さずにすんだよ。でも、すごく大きい。大型のクジラか豪華客船ぐらいあるぞ。あれが、海の雌牛か。
数多の船を沈め、船乗りたちの恐怖の伝説となった海の雌牛。それだけのことをしてのけるにはたしかに、あの程度の大きさは必要だろう。
水面に映る影はユラユラと姿をかえつつ水路の奥へおくへと向かっていく。とりあえずは気付かれずにすんだようだ。
――いったん、帰ろう。
ロウワンはビーブにそう伝えた。
――あそこまで大きいとは思わなかった。あんなのとやりあうなんて無理だ。ちゃんと観察して、行動を把握してからどうするか考えよう。
そう語るロウワンに対し――。
サルの姿の相棒は『キキッ』と、小さく答えたのだった。
それから、ロウワンとビーブは毎日、水路に向かって観察をつづけた。毎日まいにち観察をつづけるうちに海の雌牛――と思われる巨大な影――には、はっきりとした行動上の特徴があることがわかった。
いつも、決まった時間に水路を下り、海に出る。
一度、海に出ると三日間、戻ってこない。
戻ってくると水路の奥に身を潜め、丸一日じっとしている。それからまた海に出る……。
その繰り返し。
――こいつは都合がいいじゃねえか。三日もあればその間に船に乗って海に出れるだろうよ。
ビーブが得意そうにそう語った。
――うん、そうだね。なにもあんなデカブツとやりあう必要はない。いない間に海に出てしまえばいいんだ。戻ってくるときは砂浜に着ければいいんだし。ハルキス先生に伝えて準備をしよう。
ロウワンはこのとき、気がついていなかった。
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