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第二部 絆ぐ伝説
第一話一二章 一年後
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「ロウワンよ。お前の目的はなんだ?」
「人と人の争いをなくすことです」
ハルキスが問い、ロウワンが答える。
離れ小島に広がる森のなか、木々と三本の剣を握って木から木へと移るサルの群れに囲まれた家のなか、白骨死体と大きすぎる服を着た少年とが向かいあい、問答を交わしている。
傍目にはさぞかし珍妙な光景に見えたことだろう。しかし、本人たちはもちろん大真面目だったし、交わしている問答の内容もこれ以上ないほど真面目で真剣なものだった。
「人と人の争いをなくす。それがお前の目的か」
「そうです」
「よろしい。では、そのためになにをする?」
「生まれた国に縛られることなく、誰もが自分の望む暮らしを作れる世界を築きます」
「どうやって、そんな世界を築く?」
「目的を語り、賛同する仲間を集め、『こうした方がもっと幸せになれる』と世界中に証明します」
「その世界の基盤となる理念はなんだ?」
「最古の三法です」
「最古の三法とはなんだ?」
「すべての人間が従うべき三つの則。人類三原則。
第一法。
生命の本質は広まること。故に生命を広める行為を正とし、狭める行為を邪とする。
第二法。
人類は信頼によって文明を発展させてきた。信頼なき世に文明はなく、人の暮らしもない。故に人への信頼を増す行為を正とし、信頼を損ねる行為を邪とする。
第三法。
我々がこの世界に暮らしていられるのは先人たちが世界を破壊しなかったためである。すべての人間はその恩義を負っている。故に、この世界を未来の世代に託すために保つ行為を正とし、損ねる行為を邪とする」
ロウワンはそれだけのことを、一度もつかえることなくなめらかに口にした。いったん、言葉を切ってさらにつづけた。
「補足条項。
以上、三法を厳守すべき掟としてではなく、自らの立ち位置を知るための物差しとして利用すること」
「それはどういう意味か?」
「最古の三法、あるいは、人類三原則。
それは、普通の人間が厳守するにはむずかしすぎます。そこで、自分がその則からどれぐらいはなれているかを確認することに使い、なるべくその則に沿った生き方をするように使う。そういうことです」
「よろしい」
ハルキスは満足げに答えた。これが生きた人間の身であれば大きくうなずくところだ。残念ながら何百年も前に朽ち果てた白骨死体の身ではわずかなりともうなずくことなど出来なかったけれど。
「忘れるな、ロウワン。人が惹きつけられるのは『なにを目的としているか』という点だ。その目的が数多くの人間の支持を得るものであれば、多くの仲間が出来る。誰も共感しないものであれば、仲間など出来ん。常に目的から語れ。目的はなにか。なんのためにそれらの行動をするのか。その点を語り、人々に知らせろ。それをすればお前の目的に共感し、お前を支えてくれる人間――仲間たちが現れる」
「はい」
ロウワンは真摯にうなずいた。
力強い視線。
引き締まった表情。
全身から感じられる強靱な知性。
それはもはや『少年』のものではなく、れっきとした『若者』のものだった。
この島に流れ着いてから一年。その一年の間にロウワンはすっかり成長していた。
背も伸びたし、肉もついた。なによりもその目と表情から感じられる知性は、もはや『少年』の範疇におさまるものではなかった。
この島にやってきてからの鍛錬と学びの日々。
その日々がロウワンを急速に少年から若者へとかえようとしていた。
「成長したな、ロウワン」
ハルキスが言った。そこにはまぎれもなく、弟子の成長を認める師としての感慨があった。
「いえ、まだまだです。もっともっと多くのことを教えもらわないと」
「うむ。それはその通りだ」
臆面もなく言葉でうなずくハルキスだった。
「だが、ロウワンよ。お前がこの島にきてからすでに一年。このあたりで一度、この島を出た方がいい」
「えっ? でも、僕は先生からまだまだほんの少しのことしか教わっていません」
「当たり前だ。この私の五〇〇年に及ぶ研鑽。そのすべてを受け継ごうと思えば優にその二倍の時間がいる」
そう言うハルキスの口調にはまちがいなく、生徒相手に自分の有能さを強調して悦に入る教師の響きがあった。
「だが、ロウワンよ。あまりに長い間、世間からはなれるのは良いことではない。まして、私は五〇〇年前までのことしか知らん。いまの人の世のことなどなにひとつ知らんのだ。あまりにも長く私のもとにいればお前は人の世から遅れてしまう。まして――」
ハルキスはいったん、言葉を切った。
「お前が言うにはこの五〇〇年、人間たちはずっと争いをつづけてきたのだろう?」
「……はい。僕もくわしく知っているわけではありませんが」
ロウワンの頬にスッと朱が差したのは、自分の生きてきた世界のことを満足に語れないことへの恥ずかしさを覚えたからだ。
「もちろん、五〇〇年の間ずっと戦争がつづいていたわけではありませんけど……戦争と和解を繰り返しながらも争いはつづいてきました。いまも――正確には一年前まで、ですが――表面的には落ち着いてはいても、いつ戦乱が起きるかわからないという状態でした。そのために野盗や海賊たちが野放しになっていて……」
「そう。そのような状態であれば、この一年の間に戦端が開かれていてもおかしくはない。人の世では今頃、血で血を洗う大戦乱が巻き起こっているかも知れん。そんなときに、こんな離れ小島にひとり、潜んでいてどうする。それでは、せっかくに身につけた剣技も、知識も、使いようがない。一度、人の世に戻り、お前の目的のために存分に行動してくるがいい。この家にあるものはなんでももっていってかまわん。どう使おうがお前の自由だ。そして、必要となったら戻ってこい。私の知識と経験が役立つならいくらでも助言しよう」
「……はい」
自分を思い、送り出そうとする師の心意気に感謝しながら、ロウワンはそう答えた。
「でも、どうやって人の世に戻ったらいいんでしょう?」
ここは大海に浮かぶ離れ小島であり、他の陸地からも、船の航路からも大きくはなれている。島の外からやってくるものと言えば、繁殖場所を求めて飛んでくる海鳥たちと、同じく、隠れ家を求めてやってくる海賊ぐらい。島をはなれ、人の世に戻る手段がなかった。
「地図を」
ハルキスが短く言った。
家のなかの見えざる手が一枚の地図を運んできた。
「これは私が生きている頃に描いたこの島の地図だ。一歩いっぽ、自分自身で歩いて測定し、描きあげた。正確さはこの上ないぞ」
わざわざそんなことを付け加えるあたり、意外と自己顕示欲の強いハルキスだった。
「さて。見てみるがいい。島の北側には砂浜が広がっている。そこが一年前、お前が漂着した場所だ」
「はい」
「だが、それ以外の三方向は山が並び、断崖絶壁が連なっている。そして、島の西側を見てみろ」
ロウワンは言われたとおり、島の西側を見た。そこには深い切り込みが描かれていた。
「この島の西側には深い洞窟があり、海とつながる水路となっている。そして、その奥、この島のほぼ中央に当たる部分には洞窟奥の湖とでも呼ぶべき場所がある。そこに、船が置いてある。私の乗ってきた天命船がな。その船を使え」
「でも……」
と、ロウワンは口答えする口調で言った。
「その水路には海の雌牛が住み着いているんでしょう?」
海の雌牛。
正確には『万の子を宿せし海の雌牛』。
好んで船を襲い、船を食らうと言われる怪物。
古くから船乗りたちの間で怖れられ、語り継がれてきた存在。
その正体がなんなのかは誰も知らない。なぜ『海の雌牛』と呼ばれるのかさえわからない。とにかく、昔からその名で呼ばれてきた。そして、船について異常な執着をもつと伝えられてきた。
「突然、海を割ってデッカい影が現れてきたと思ったら、いきなり船目がけて突っ込んできたんだ。そりゃあ、仰天したさ。
こいつは噂に聞く海の雌牛にちがいねえっ!
そう思って必死に逃げたさ。けど、風任せの帆船なんぞで逃げられる相手じゃなかった。あっという間に追いつかれて大波食らってザバーン。船は沈められ、バリバリと音を立てて食われちまったよ」
海の雌牛に襲われ、乗っていた船を沈められたという漂流者のそんな証言も残されている。
そして、五〇〇年前、ハルキスの生命を奪った相手でもある。
そんな存在が水路に住み着いているというのだ。その場に近づくことに恐怖と不安、ためらいを感じるのはまったく自然なことだった。
「……海の雌牛。どんな相手なんです?」
「わからん」
弟子の質問に――。
ハルキスはあっさりとそう答えた。
「わからん?」
さすがに眉をひそめる弟子に対し、ハルキスは尊大な師匠らしい口調で答えた。
「なにしろ、不意をつかれ、一撃で致命傷を負わされたからな。どんな相手か確認している余裕もなかった」
言っておくが、油断していたわけではないぞ。水路にそんな怪物が住み着いているなどとは知らなかった。知っていればそのような不覚はとらなかった。
聞かれてもいないのにわざわざ、そう付け加えるハルキスだった。
「この家の奥にある山肌のなかに、湖につながる洞窟がある。その洞窟をたどって天命船の点検に向かったところ突然、水路から現れて吹き飛ばされた。その一撃で内臓はグシャグシャ。目もろくに見えん。わかったのは恐ろしく巨大な気配と底知れぬ力だけ。あれが本当に海の雌牛だったのかはわからん。だが、そう呼びたくなるほどに強大な存在であったことはまちがいない。私は這いずりながら洞窟を出るのが精一杯だった。身動きとれなくなった私をサルたちが見つけてくれてな。この椅子に座らせてくれたのだ。そして、私はそのまま死に、こうして白骨となって座りつづけているというわけだ」
五〇〇年の間、な。
ハルキスはそう付け加えた。
「天命の理で怪我を治すことは出来なかったんですか?」
「天命の理は魔法ではない。そんな都合のいものではない。天命の理を使って人体の欠損を治すためには、そのための天命を与えてくれる別の人間がいる。当時、この島には私以外の人間は誰もいなかった」
「……あ」
「そう言うわけで私は、自分の体を治すこともできず、死ぬしかなかった。朦朧とする意識のなか、最後の力を振り絞って天命の理を使い、魂を骨に植え付けるのが精一杯だった。そして、私は待ち続けたのだ。私の研究成果を受け継ぎ、人の世に戻してくれる人間が訪れるのをな。そして、ロウワン。五〇〇年かけてようやくお前が現れたのだ」
「……天命船は無事なんでしょうか? 海の雌牛に壊されていると言うことは?」
「それは大丈夫。海賊どもに見つからないよう、湖に入る水路は岩で閉ざしておいた。海の雌牛が住み着いていたのは水路の側。岩が破壊されれば私にはわかる。そのために天命の理をかけた特殊な岩だからな。その岩はいまも無事。と言うことは、天命船も無事だと言うことだ」
「五〇〇年も前の天命船がきちんと動くんですか?」
「問題ない。我々『もうひとつの輝き』が心血を注いで作りあげた天命船だ。五〇〇年どころか五千年たとうと新品のままだ」
さすがにそれは言い過ぎ、大言壮語というものだったろう。とは言え、ロウワンにその言葉を疑う理由もない。なにしろ、騎士マークスの魂が乗り売った幽霊船は千年の間、海を渡りつづけてきたのだ。それを思えばその半分の時間でどうこうなりはしないだろう。
「……でも、水路に向かえば海の雌牛に襲われる危険はあるわけですよね?」
「むろんだ」
きっぱりと――。
ハルキスは弟子の不安に答えた。
「しかし、それがなんだ? 危険を怖れて一生、この島に隠れ住んでいるか? 人の世に戻ることなく、せっかく身につけた剣技も、知識も、生かす機会を得ることすらなくただひとり、老いさらばえて死んでいきたいか?」
「い、いいえ……!」
ロウワンはあわてて首を横に振った。さすがに、そんな死に方は迎えたくない。なにより、自分にはやるべきことがある。
「僕は誓ったんです。人と人の争いをやめさせ、亡道の世界との戦いを終わらせ、天命の巫女さまを人間に戻すと。そのために剣の稽古をし、ハルキス先生から学んだんです。僕は人の世に戻り、僕のやるべきことを必ずやり遂げます」
「ならば、水路に迎え! そもそも、あやつが水路に住み着いたのは五〇〇年も前のことだ。いまではもうどこかに行っているかも知れんしな」
「まだ、いたら?」
「なんとかしろ! その程度のことも出来んようでは、人の世をかえるなど痴者の夢だぞ」
「……わかりました」
ロウワンはうなずいた。
いまさら、なにをたじろぐ。なんのために〝鬼〟を相手に喧嘩を売った?
〝鬼〟に挑むことが出来れば、この世のどんな脅威にも挑むことが出来る。
そう思ったからではないか。
そして、自分は〝鬼〟と戦い、この世でただひとり、〝鬼〟を従わせた人間になったのだ。その自分が海の雌牛などを怖れていてどうする。
「……明日、水路に向かいます」
「人と人の争いをなくすことです」
ハルキスが問い、ロウワンが答える。
離れ小島に広がる森のなか、木々と三本の剣を握って木から木へと移るサルの群れに囲まれた家のなか、白骨死体と大きすぎる服を着た少年とが向かいあい、問答を交わしている。
傍目にはさぞかし珍妙な光景に見えたことだろう。しかし、本人たちはもちろん大真面目だったし、交わしている問答の内容もこれ以上ないほど真面目で真剣なものだった。
「人と人の争いをなくす。それがお前の目的か」
「そうです」
「よろしい。では、そのためになにをする?」
「生まれた国に縛られることなく、誰もが自分の望む暮らしを作れる世界を築きます」
「どうやって、そんな世界を築く?」
「目的を語り、賛同する仲間を集め、『こうした方がもっと幸せになれる』と世界中に証明します」
「その世界の基盤となる理念はなんだ?」
「最古の三法です」
「最古の三法とはなんだ?」
「すべての人間が従うべき三つの則。人類三原則。
第一法。
生命の本質は広まること。故に生命を広める行為を正とし、狭める行為を邪とする。
第二法。
人類は信頼によって文明を発展させてきた。信頼なき世に文明はなく、人の暮らしもない。故に人への信頼を増す行為を正とし、信頼を損ねる行為を邪とする。
第三法。
我々がこの世界に暮らしていられるのは先人たちが世界を破壊しなかったためである。すべての人間はその恩義を負っている。故に、この世界を未来の世代に託すために保つ行為を正とし、損ねる行為を邪とする」
ロウワンはそれだけのことを、一度もつかえることなくなめらかに口にした。いったん、言葉を切ってさらにつづけた。
「補足条項。
以上、三法を厳守すべき掟としてではなく、自らの立ち位置を知るための物差しとして利用すること」
「それはどういう意味か?」
「最古の三法、あるいは、人類三原則。
それは、普通の人間が厳守するにはむずかしすぎます。そこで、自分がその則からどれぐらいはなれているかを確認することに使い、なるべくその則に沿った生き方をするように使う。そういうことです」
「よろしい」
ハルキスは満足げに答えた。これが生きた人間の身であれば大きくうなずくところだ。残念ながら何百年も前に朽ち果てた白骨死体の身ではわずかなりともうなずくことなど出来なかったけれど。
「忘れるな、ロウワン。人が惹きつけられるのは『なにを目的としているか』という点だ。その目的が数多くの人間の支持を得るものであれば、多くの仲間が出来る。誰も共感しないものであれば、仲間など出来ん。常に目的から語れ。目的はなにか。なんのためにそれらの行動をするのか。その点を語り、人々に知らせろ。それをすればお前の目的に共感し、お前を支えてくれる人間――仲間たちが現れる」
「はい」
ロウワンは真摯にうなずいた。
力強い視線。
引き締まった表情。
全身から感じられる強靱な知性。
それはもはや『少年』のものではなく、れっきとした『若者』のものだった。
この島に流れ着いてから一年。その一年の間にロウワンはすっかり成長していた。
背も伸びたし、肉もついた。なによりもその目と表情から感じられる知性は、もはや『少年』の範疇におさまるものではなかった。
この島にやってきてからの鍛錬と学びの日々。
その日々がロウワンを急速に少年から若者へとかえようとしていた。
「成長したな、ロウワン」
ハルキスが言った。そこにはまぎれもなく、弟子の成長を認める師としての感慨があった。
「いえ、まだまだです。もっともっと多くのことを教えもらわないと」
「うむ。それはその通りだ」
臆面もなく言葉でうなずくハルキスだった。
「だが、ロウワンよ。お前がこの島にきてからすでに一年。このあたりで一度、この島を出た方がいい」
「えっ? でも、僕は先生からまだまだほんの少しのことしか教わっていません」
「当たり前だ。この私の五〇〇年に及ぶ研鑽。そのすべてを受け継ごうと思えば優にその二倍の時間がいる」
そう言うハルキスの口調にはまちがいなく、生徒相手に自分の有能さを強調して悦に入る教師の響きがあった。
「だが、ロウワンよ。あまりに長い間、世間からはなれるのは良いことではない。まして、私は五〇〇年前までのことしか知らん。いまの人の世のことなどなにひとつ知らんのだ。あまりにも長く私のもとにいればお前は人の世から遅れてしまう。まして――」
ハルキスはいったん、言葉を切った。
「お前が言うにはこの五〇〇年、人間たちはずっと争いをつづけてきたのだろう?」
「……はい。僕もくわしく知っているわけではありませんが」
ロウワンの頬にスッと朱が差したのは、自分の生きてきた世界のことを満足に語れないことへの恥ずかしさを覚えたからだ。
「もちろん、五〇〇年の間ずっと戦争がつづいていたわけではありませんけど……戦争と和解を繰り返しながらも争いはつづいてきました。いまも――正確には一年前まで、ですが――表面的には落ち着いてはいても、いつ戦乱が起きるかわからないという状態でした。そのために野盗や海賊たちが野放しになっていて……」
「そう。そのような状態であれば、この一年の間に戦端が開かれていてもおかしくはない。人の世では今頃、血で血を洗う大戦乱が巻き起こっているかも知れん。そんなときに、こんな離れ小島にひとり、潜んでいてどうする。それでは、せっかくに身につけた剣技も、知識も、使いようがない。一度、人の世に戻り、お前の目的のために存分に行動してくるがいい。この家にあるものはなんでももっていってかまわん。どう使おうがお前の自由だ。そして、必要となったら戻ってこい。私の知識と経験が役立つならいくらでも助言しよう」
「……はい」
自分を思い、送り出そうとする師の心意気に感謝しながら、ロウワンはそう答えた。
「でも、どうやって人の世に戻ったらいいんでしょう?」
ここは大海に浮かぶ離れ小島であり、他の陸地からも、船の航路からも大きくはなれている。島の外からやってくるものと言えば、繁殖場所を求めて飛んでくる海鳥たちと、同じく、隠れ家を求めてやってくる海賊ぐらい。島をはなれ、人の世に戻る手段がなかった。
「地図を」
ハルキスが短く言った。
家のなかの見えざる手が一枚の地図を運んできた。
「これは私が生きている頃に描いたこの島の地図だ。一歩いっぽ、自分自身で歩いて測定し、描きあげた。正確さはこの上ないぞ」
わざわざそんなことを付け加えるあたり、意外と自己顕示欲の強いハルキスだった。
「さて。見てみるがいい。島の北側には砂浜が広がっている。そこが一年前、お前が漂着した場所だ」
「はい」
「だが、それ以外の三方向は山が並び、断崖絶壁が連なっている。そして、島の西側を見てみろ」
ロウワンは言われたとおり、島の西側を見た。そこには深い切り込みが描かれていた。
「この島の西側には深い洞窟があり、海とつながる水路となっている。そして、その奥、この島のほぼ中央に当たる部分には洞窟奥の湖とでも呼ぶべき場所がある。そこに、船が置いてある。私の乗ってきた天命船がな。その船を使え」
「でも……」
と、ロウワンは口答えする口調で言った。
「その水路には海の雌牛が住み着いているんでしょう?」
海の雌牛。
正確には『万の子を宿せし海の雌牛』。
好んで船を襲い、船を食らうと言われる怪物。
古くから船乗りたちの間で怖れられ、語り継がれてきた存在。
その正体がなんなのかは誰も知らない。なぜ『海の雌牛』と呼ばれるのかさえわからない。とにかく、昔からその名で呼ばれてきた。そして、船について異常な執着をもつと伝えられてきた。
「突然、海を割ってデッカい影が現れてきたと思ったら、いきなり船目がけて突っ込んできたんだ。そりゃあ、仰天したさ。
こいつは噂に聞く海の雌牛にちがいねえっ!
そう思って必死に逃げたさ。けど、風任せの帆船なんぞで逃げられる相手じゃなかった。あっという間に追いつかれて大波食らってザバーン。船は沈められ、バリバリと音を立てて食われちまったよ」
海の雌牛に襲われ、乗っていた船を沈められたという漂流者のそんな証言も残されている。
そして、五〇〇年前、ハルキスの生命を奪った相手でもある。
そんな存在が水路に住み着いているというのだ。その場に近づくことに恐怖と不安、ためらいを感じるのはまったく自然なことだった。
「……海の雌牛。どんな相手なんです?」
「わからん」
弟子の質問に――。
ハルキスはあっさりとそう答えた。
「わからん?」
さすがに眉をひそめる弟子に対し、ハルキスは尊大な師匠らしい口調で答えた。
「なにしろ、不意をつかれ、一撃で致命傷を負わされたからな。どんな相手か確認している余裕もなかった」
言っておくが、油断していたわけではないぞ。水路にそんな怪物が住み着いているなどとは知らなかった。知っていればそのような不覚はとらなかった。
聞かれてもいないのにわざわざ、そう付け加えるハルキスだった。
「この家の奥にある山肌のなかに、湖につながる洞窟がある。その洞窟をたどって天命船の点検に向かったところ突然、水路から現れて吹き飛ばされた。その一撃で内臓はグシャグシャ。目もろくに見えん。わかったのは恐ろしく巨大な気配と底知れぬ力だけ。あれが本当に海の雌牛だったのかはわからん。だが、そう呼びたくなるほどに強大な存在であったことはまちがいない。私は這いずりながら洞窟を出るのが精一杯だった。身動きとれなくなった私をサルたちが見つけてくれてな。この椅子に座らせてくれたのだ。そして、私はそのまま死に、こうして白骨となって座りつづけているというわけだ」
五〇〇年の間、な。
ハルキスはそう付け加えた。
「天命の理で怪我を治すことは出来なかったんですか?」
「天命の理は魔法ではない。そんな都合のいものではない。天命の理を使って人体の欠損を治すためには、そのための天命を与えてくれる別の人間がいる。当時、この島には私以外の人間は誰もいなかった」
「……あ」
「そう言うわけで私は、自分の体を治すこともできず、死ぬしかなかった。朦朧とする意識のなか、最後の力を振り絞って天命の理を使い、魂を骨に植え付けるのが精一杯だった。そして、私は待ち続けたのだ。私の研究成果を受け継ぎ、人の世に戻してくれる人間が訪れるのをな。そして、ロウワン。五〇〇年かけてようやくお前が現れたのだ」
「……天命船は無事なんでしょうか? 海の雌牛に壊されていると言うことは?」
「それは大丈夫。海賊どもに見つからないよう、湖に入る水路は岩で閉ざしておいた。海の雌牛が住み着いていたのは水路の側。岩が破壊されれば私にはわかる。そのために天命の理をかけた特殊な岩だからな。その岩はいまも無事。と言うことは、天命船も無事だと言うことだ」
「五〇〇年も前の天命船がきちんと動くんですか?」
「問題ない。我々『もうひとつの輝き』が心血を注いで作りあげた天命船だ。五〇〇年どころか五千年たとうと新品のままだ」
さすがにそれは言い過ぎ、大言壮語というものだったろう。とは言え、ロウワンにその言葉を疑う理由もない。なにしろ、騎士マークスの魂が乗り売った幽霊船は千年の間、海を渡りつづけてきたのだ。それを思えばその半分の時間でどうこうなりはしないだろう。
「……でも、水路に向かえば海の雌牛に襲われる危険はあるわけですよね?」
「むろんだ」
きっぱりと――。
ハルキスは弟子の不安に答えた。
「しかし、それがなんだ? 危険を怖れて一生、この島に隠れ住んでいるか? 人の世に戻ることなく、せっかく身につけた剣技も、知識も、生かす機会を得ることすらなくただひとり、老いさらばえて死んでいきたいか?」
「い、いいえ……!」
ロウワンはあわてて首を横に振った。さすがに、そんな死に方は迎えたくない。なにより、自分にはやるべきことがある。
「僕は誓ったんです。人と人の争いをやめさせ、亡道の世界との戦いを終わらせ、天命の巫女さまを人間に戻すと。そのために剣の稽古をし、ハルキス先生から学んだんです。僕は人の世に戻り、僕のやるべきことを必ずやり遂げます」
「ならば、水路に迎え! そもそも、あやつが水路に住み着いたのは五〇〇年も前のことだ。いまではもうどこかに行っているかも知れんしな」
「まだ、いたら?」
「なんとかしろ! その程度のことも出来んようでは、人の世をかえるなど痴者の夢だぞ」
「……わかりました」
ロウワンはうなずいた。
いまさら、なにをたじろぐ。なんのために〝鬼〟を相手に喧嘩を売った?
〝鬼〟に挑むことが出来れば、この世のどんな脅威にも挑むことが出来る。
そう思ったからではないか。
そして、自分は〝鬼〟と戦い、この世でただひとり、〝鬼〟を従わせた人間になったのだ。その自分が海の雌牛などを怖れていてどうする。
「……明日、水路に向かいます」
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