ビストロ・ルナとねこ又亭〜月下の洋食店と、路地裏の居酒屋〜

中岡 始

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第3話:マタタビ酒 vs ワイン!

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 ルナは店のカウンターでワイングラスを磨いていた。外では夜の風が静かに路地を吹き抜け、遠くからねこ又亭の賑やかな笑い声が聞こえてくる。

 この数日で、ルナは何度かねこ又亭に顔を出すようになっていた。最初は半ば強制的に連れて行かれたが、なんとなく足が向くようになってしまったのだ。

「……別に、あの店が好きなわけじゃない」

 グラスに映る自分の顔を見つめ、そう呟く。
 あくまで研究のため。自分のビストロと何が違うのかを知るため。

 ただ、それにしても——

「……あいつら、マタタビ酒ばっかり飲みすぎじゃないか?」

 ルナは呆れたように尻尾を振った。

 ねこ又亭に通って驚いたのは、猫たちの酒への執着だった。彼らは料理も食べるが、それ以上にマタタビ酒を楽しんでいる。

(酒に頼らず、料理そのものを味わえばいいのに……)

 ルナにとって、料理とはワインとともに楽しむものだ。
 ビストロ・ルナのメニューは、どれもワインとのペアリングを考えて作られている。カツオのポワレにはシャルドネ、鶏の香草焼きにはピノ・ノワール——それが洗練された食事の形だと思っていた。

 しかし、ねこ又亭では——

「このマタタビ酒に合う料理って何だ?」
「この肴で、あと三杯はいけるな!」

 そんな会話ばかりが飛び交っている。

「……どう考えても、おかしい」

 ルナは眉をひそめ、再びグラスを拭き始めた。

 そのとき、店の扉が軽く押し開けられた。

「よっ、新入り」

 現れたのは、灰色の長毛猫——ゴンだった。

 ゴンはゆっくりと店内を見回し、ニヤリと笑った。

「相変わらず、小綺麗な店だな」

「……当然だ。ビストロだからな」

 ルナは静かに答えたが、ゴンは気にせず席に座る。

「で、ちょっと試したいことがあるんだがな」

「試す?」

 ゴンは持ってきた包みをテーブルに置いた。中から取り出したのは、新鮮なサバ。

「今日はな、ねこ又亭の厨房でちょっと工夫してみたんだ。マタタビをほんの少し使って、魚の旨味を引き出す方法を試してみた」

「……ふん」

 ルナは興味なさげに鼻を鳴らした。

「悪いが、うちの店にはワインに合う料理しかないんだ。マタタビの匂いが染みついた魚なんて、料理とは言えない」

 その言葉に、ゴンはニヤリと笑った。

「お前さ、料理にプライド持つのは結構だが、食わず嫌いは良くないぜ?」

「……っ」

 ルナの尻尾がピクリと動いた。

「じゃあ、こうしよう」ゴンは言った。「俺が作ったこの魚の料理と、お前が選んだワインを合わせてみろ。もしお前が納得できなかったら、それ以上マタタビ酒をバカにしないってことでな」

「……」

 ルナは少し考えた。ゴンの挑発に乗るのは気に入らないが、料理人として挑戦を受けたままではいられない。

「……いいだろう。俺のワインが、お前の料理の未熟さを証明するだけだ」

 ルナはゴンの作ったサバ料理を皿に盛り、ワインセラーを開いた。

「このサバなら……酸味のある白が合うはずだ」

 シャルドネのボトルを開け、慎重にグラスに注ぐ。黄金色の液体が、静かに揺れた。

「さぁ、試してみるか」

 二匹はそれぞれフォークを持ち、サバを口に運ぶ。

 ——うまい。

 サバの脂が程よく乗り、マタタビの香りがほんのりと広がる。ルナは一口ワインを含んだ。

 ……悪くはない。だが、どこか味がぶつかる。ワインの酸味が、サバの旨味を完全に引き立てるわけではないのだ。

(……?)

 何かが違う。ルナは首をかしげた。

 そのとき、ゴンが言った。

「じゃあ、次はこっちを試してみろ」

 差し出されたのは、ねこ又亭特製のマタタビ酒。
 ルナは、一瞬ためらったが、グラスを手に取り、一口飲んでみた。

——芳醇な香りが口の中に広がり、サバの旨味が引き立つ。

 今までにない感覚だった。ワインとは違うが、料理と驚くほど相性がいい。

「……っ!?」

 ルナの目が驚きに見開かれる。

 ゴンは満足げに頷いた。

「な? 言っただろ?」

「……ワインとは違うが、これはこれで……」

 正直に言えば、ルナの料理の価値観が揺らいだ瞬間だった。

 ルナはしばらく黙っていたが、やがて小さく息をついた。

「……認めるよ。確かに、これはこれで料理を引き立てる」

 ワインだけが料理の最高のパートナーだと思っていたが、マタタビ酒にはマタタビ酒にしか出せない味わいがある。

「お前、少しは分かってきたみたいだな」

 ゴンが笑う。ルナは少しむっとしたが、言い返す気にはなれなかった。

 (料理とは、単に技術の問題ではない。食べる猫が満足することが、一番大事なのかもしれない)

 ねこ又亭の猫たちは、マタタビ酒とともに、くつろぎながら料理を楽しんでいた。そこには、ビストロ・ルナにはない空気があった。

 ルナは、グラスの中のマタタビ酒を見つめながら、小さく呟いた。

「……まだ、知らないことが多いな」
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