ビストロ・ルナとねこ又亭〜月下の洋食店と、路地裏の居酒屋〜

中岡 始

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第2話:初めてのねこ又亭 〜居酒屋文化との出会い〜

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 ルナはため息をついた。

 ビストロ・ルナを開店して数日。彼のフレンチは確かに美味い。しかし、期待していたほど客足は伸びず、店内は閑散としていた。

「……おかしいな。料理の質に問題はないはずだ」

 椅子に座り、カウンターに顎を乗せる。窓の外では、夜風が路地を吹き抜けていく。
 そんな中、店の扉を押し開けたのは、常連の一匹になりつつあるブチ猫——マルコだった。

「よう、シェフ。今日も静かだなぁ」

「……ほっとけ」

 ルナは不機嫌そうに尻尾を振ったが、マルコは気にする様子もなくカウンターに座る。

「いいかルナ、お前さんの料理は美味い。だがな、なんつーか……肩の力が入りすぎなんだよ」

「……肩の力?」

「そう。お前はいつもピシッとしてて、完璧な料理を出す。でも、客ってのは料理だけを味わいに来るわけじゃねぇ。気楽にくつろげる場所ってのも、大事なんだぜ?」

「……ふん」

 納得できないわけではなかった。しかし、ルナの誇りは「完璧な料理を提供すること」にある。気楽さだとか、くつろげる場所だとか……それは後回しでもいいはずだ。

 マルコはニヤリと笑った。

「ま、いいからちょっと付き合えよ。いい店、紹介してやる」

「どこへ行く気だ?」

「決まってるだろ。ねこ又亭だよ」

 その名を聞いた瞬間、ルナは思わず眉をひそめた。

「……あの居酒屋か」

「あの、じゃねぇよ。お前さん、まだ行ったことないんだろ? だったら一回、行ってみな。考えが変わるかもな」

 ルナは少し考えた。ねこ又亭はすぐ近くにあり、日々賑わっているのは知っている。だが、彼の目指す店とは正反対の「庶民的な居酒屋」だ。

 ……とはいえ、参考になることがあるかもしれない。

 ルナは静かに立ち上がった。

「……まぁ、一度くらいなら」

 ねこ又亭に足を踏み入れた瞬間、ルナは目を丸くした。

 店内には、マタタビ酒の香りがふわりと漂い、活気に満ちた猫たちの話し声が響いている。どの猫もリラックスし、思い思いに酒を飲み、料理をつついていた。

「……なんというか」

 気取らない雰囲気だった。

 ルナの目には、整然と並ぶワインボトルと、洗練された料理が置かれた自分の店とはまるで違う空間に映った。

「よう、新入りか?」

 カウンターの奥から、無口そうな黒猫がルナを見つめていた。
 金色の瞳が、静かにルナを射抜く。

(……こいつが、又五郎か)

 ルナは、どこか息を呑んだ。見た目はただの黒猫だが、鋭い目つきと落ち着いた佇まいが、ただ者ではない雰囲気を醸し出していた。

「おっと、その前に……」

 マルコが、店の入り口にある一本の柱を指さした。

「ルールその一。入店するなら、爪を研げ」

「……爪を研ぐ?」

「ここじゃ、これが入店の儀式なんだよ」

 ルナは眉をひそめた。フレンチの世界では、厨房に入る前にナイフの刃を確かめるのが基本。しかし、ここでは爪研ぎが入店の作法だというのか……?

「やらねぇなら帰れよ?」

 店の奥から、キジトラの猫——トラ吉が笑う。どうやら、ここでは当たり前のことらしい。

 ルナは小さくため息をつき、しぶしぶ爪を研ぎ始めた。

 ギッ、ギギッ……

 しかし——

バランスを崩し、思いきり転んだ。

「うわっ!」

 ゴロンッと床に転がるルナ。店内の猫たちは、一瞬の沈黙の後——

「……プッ」

「はははっ! 見たか、あの転び方!」

「なんだ新入り、爪研ぎもまともにできねぇのか!」

 一斉に笑い声が響いた。

 ルナは耳を伏せ、バツが悪そうに前足を舐めた。

「……別に、爪研ぎなんて普段やらないからな」

そう言いながらも、前足を繰り返し舐めては顔をこする。
その様子を見て、ミケがクスクスと笑った。

「照れ隠しの毛づくろいね」
「違う!」

(……くそっ、恥をかいた)

 しかし、又五郎は特に笑いもせず、静かにルナを見つめていた。

「……まぁ、座れ」

 その低い声に、ルナは少し驚いた。

(俺を笑わない……?)

 戸惑いながらもカウンターに座ると、目の前に置かれたのは、琥珀色の液体が入った小さな盃だった。

「……?」

「マタタビ酒だ。飲めるか?」

 ルナは、一瞬迷った。しかし、意地を張るのも癪だったので、一口飲んでみる。

 ふわりと広がる芳醇な香り。ほんのり甘く、喉の奥に残る心地よい余韻——。

「……!」

 ワインとはまったく違う世界の酒。しかし、これはこれで悪くない。

「どうだ?」

 又五郎がじっとルナを見る。

「……悪くない」

 正直な感想が口をついて出た。店内の猫たちはまた笑い声を上げたが、ルナはもう気にしていなかった。

 そして、不思議なことに——

 この無骨な黒猫の渋さに、ほんの少しだけ憧れを抱き始めていたのだった。

 その夜、ルナはビストロ・ルナに戻りながら考えていた。

(ねこ又亭の猫たちは、まるで家族みたいだった。)

 ルナは料理人として「完璧な料理を提供する」ことにこだわってきた。だが、ねこ又亭では、料理はあくまで猫たちが繋がる手段だった。

(……俺の店に足りないのは、ああいう空気感なのか?)

 ルナの中で、何かが変わり始めていた。
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