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 そんな彼女が玄関先で自転車ごと転倒した。彼女はいつも自転車で仕事をしに外出しているのだ、なぜか転んでなかなか起き上がれずにいた。膝でも擦りむいたか。

 いつ雨が降ってくるか分からないからね。だから絶対に外に出たらだめだ。兄ちゃんはいつもそう言ってきた。今にも雨が降り出しそうな空だ、灰色の雲に覆われている。雨に当たったら死ぬ。

 それなのに僕の足はそろりそろりと動き出し、ついに玄関を開けたのだった。ふわりと、風が肌に当たった。家の窓を開けて換気をする時僕はいつだって押入の中に入れられていた。そっと押入を開けて風を浴びることもあったがそれは兄ちゃんの目を盗んでごくたまにしかしなかったからこうやって真っ向から風を浴びるのは初めてのことだった。息を潜めながら外階段を降りた。彼女の背中が近くなった。やはり足に怪我をしていた、そこを彼女はしきりにさすっていたが不意にこちらを振り向いた。

 絶対に人に会ってはならないよ。兄ちゃんの言葉が蘇る。

 あなたは? 高い声が僕の耳をくすぐった。それは彼女の唇から転がり出てきた。潤った唇だ、そしてその目は大きく見開かれていた。地面に投げ出されているのは彼女の脚というもので、硬そうなスカートとやらが随分と上のほうまで持ち上がって白い肉がどこまでも露になっていた。

 思わず僕は駆け出した。自分の家に向かって、一直線に。一気に外階段を駆け上がり、音を立てて玄関を閉めた。鍵もかけた。

 息が上がっていた。雨に当たったら死んじゃうよ、との兄ちゃんの言葉を思い出したのは随分後になってからのことだった。





 彼女はなぜあんな声をしていたのだろう。透き通るように響いた。兄ちゃんはあんな声を出さないし、それに脚なんかは焼けた色だ、そして硬い。彼女のそれは透明とも言えるほどの白さをたたえ、そしてひどく柔らかそうだった。

 自然に手が伸びてゆく。それは石のように硬くなっている。迷ったのちに手を引っ込める。悪いことをしている。

 どうしたの、と兄ちゃんは言った。今日の夕飯はハンバーグだ。いつものように兄ちゃんが器用に玉ねぎをみじん切りにし、肉をこねて作ってくれた。

 どうもしないよ、と僕は答えた。ハンバーグのかけらが口からこぼれ落ちた。すかさず兄ちゃんがそれを自分の箸で掴んで僕の口に運ぶ、いつものように。思わず僕は顔をそむける。彼女の視線を思う。絵本に出てくる優しい女の人。彼女はまさにそうであった。

 兄ちゃんの箸が僕の前で静止している。だから僕は言う、僕はもう子供じゃないんだ、だからもう、あーんはしないよ、と。

 しばらくしたのちに、そうか、と兄ちゃんは言った。箸も僕から離れていった。静寂が流れた。さわさわと、雨音だけが聞こえた。

 約束を破ったんだよね。不意にそんな言葉がやってきた。だから僕は兄ちゃんを見た。その目は僕の目を真っすぐに見ていた。笑わない目だった。それで思い出すのだ、僕を見る時の兄ちゃんの目はいつも穏やかに笑っていたことを。

 破ってない、と僕は言った。その声が震えた。

 だしぬけに兄ちゃんが笑った。ふっと、息を漏らすように。しかしながらその目はやはり笑わないままだった。

 今日も一緒にお風呂に入ろうね。兄ちゃんはそう言った。それから淡々と夕飯を口に運んだ。

 皿の上の物がどんどんなくなってゆく。風呂の時間が近づいてくる。



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