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山の章

霧に煙る川中島

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永禄四年(1561年)閏三月十六日。
長尾景虎は上杉憲政のりまさより関東管領上杉氏を継ぎ、名を上杉政虎まさとらと改めた。これにより、政虎は関東侵攻の大義名分を手に入れた。

「信之から何か知らせはあったか?」
「はい。ご指示通り三百挺の鉄砲を手配出来たと」
「して、信之様はいつ甲府に戻られると?」

皆が固唾をのんで見守る中、義信は困ったように目を伏せた。それは此度の出陣に間に合わない事を意味しており、あちこちから落胆の声が上がる。

「仕方あるまい。三百挺もの鉄砲を紀州からこの甲府まで運ぼうとすれば人足にんそくがどれほどかかるか……」
「上杉との戦い、今まで以上に厳しいものとなろう。皆、気を引き締めよ」

信玄は自分に言い聞かせるように命じたのであった。



一歩、その頃当の信之は甲府への輸送で頭を悩ませていた。

「くっそ! 漸く父上たちのお役に立てると言うに……」

紀州は急峻きゅうしゅんな山地が海岸近くまで迫っている。そのため、陸路では堺から畿内を通り東海道・中山道なかせんどうに出るか、半島をぐるりと回り伊勢いせ志摩しまを通り東海道に出るしかない。悪いことに三河みかわ遠江とおとうみで今川と松平が対立したことにより東海道が通れないかもしれないということであった。

「陸路は益々難しくなりますな」
「孫六殿、何か手はありませぬか?」

信之に策を問われたのは雑賀党・鈴木氏当主・鈴木孫市の弟、孫六である。孫六は腕組みをし、眉間に皺を寄せつつも一つの案を出した。

「ここは船で運ぶが上策でしょう」
「なるほど……」
「ただ一つ、問題がございます」
「ああ、どこに船を着けるか、ですな」

信之の指摘に孫六は頷いた。一番よいのは駿河の焼津であろう。だが、義元という大黒柱を失ったばかりの今川が果たして受け入れてくれるかどうか。それが分からぬ限り、迂闊に海路輸送という訳にはいかなかった。

「三郎!!」

元気の良い声と共に一人の少女が飛び込んできた。

「これ、桔梗ききょう! 信之殿に失礼であろう!!」
「三郎はそんなことで怒ったりしないもん!」

桔梗と呼ばれたその少女は孫六に向かってあかんべぇをする。

「桔梗、俺に何かようか?」
「喜んで! 今川から焼津やいづに寄港出来ることになったよ」
「は?」

桔梗はかねて堺の商人たちの覚えがよく、何かと融通をきいて貰っていた。それで信之が輸送で困っているので手を貸して貰えないか依頼したのだ。

「今井宗久様ばかりか、千宗易せんのそうえき様もお力を貸して下されたの。今川様に許可をいただいたからすぐにでも出発出来るよ」
「桔梗、いつの間に……」

桔梗は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「三百挺の鉄砲、すぐにでも必要なんでしょう?」
「ああ」
「なら、使えるものは全部使わないと!」

桔梗の心遣いが信之に染み渡る。彼女の手を握り、礼を述べたのだった。

「そうと決まれば、早速船に積み込みましょう」
「よろしくお願いします」

こうして、信之は信玄より任された鉄砲三百挺を本国に届け出る任を果たすめどが立った。



五月、信玄は北信濃に向けて甲府を出陣する。

「此度こそ、決着を付けるぞ!」

信玄の並々ならぬ決意は全軍に伝わる。武田の結束は固かった。また、信濃衆への配慮も忘れなかった。塩田城に在城する桃井六郎二郎に見返りの知行を与えたのである。
六月、割ヶ嶽わりがたけ城に攻め寄せ、これを陥落させる。

「虎胤、無事か?」
「申し訳ございませぬ。此度はここまでのようです」
「無理はするな。まだまだそなたに流行って貰わねばならぬ事がある」
「勿体なきお言葉、痛み入りまする」

この戦いで古参の将・原虎胤が重傷を負った。また、辻六郎兵衛ら数人も戦死したのである。

「力ある者が官職を手に入れると絶大にございますな」
「悔しい限りだ」
「ですが、まだまだこれからにございます。信之様も向かわれておるとのこと。何の心配もいりませぬわ」

虎胤は信玄に笑みを浮かべて見せたのだった。

その後、政虎は上野の厩橋城を発ち、越後へと帰国する。信玄はその動向を探りながらも北信濃・上倉城を攻略。さらに越中・加賀の一向宗門徒と連携して越府に乱入する構えを見せた。

「関東での情勢は?」
「上杉は三田に新たな城を築いておるようです」
「氏康殿はいずこに陣を敷いておられるか?」
「今は由井に構えておいでのようで……」
「動きがあれば直ちに知らせるように伝えよ」
「はっ!」

信玄は決戦に向け、打てる手は全て打っておく構えであった。



八月、遂に政虎が川中島に向けて出陣。四度目となる戦いが幕を開けたのだ。
政虎率いる上杉勢はいつもの如く善光寺に着陣。その後、犀川さいかわを渡り川中島に侵攻、妻女山さいじょやまに布陣した。
対して信玄は諏訪から川中島に進出。雨宮の渡しを封鎖するなどの措置を執りながら、海津城へと入ったのだった。

「いよいよですな」
「此度は負けられぬ。如何に攻めるか……」
「決するならこの八幡原はちまんばらでございましょう」

義信が示したのはこれまでも戦いの舞台となった八幡原であった。三度の対峙ではっきりした決着はついていない。まともにぶつかり合えばどちらもただではすまないであろう事は容易に想像出来た。

「恐れながら申し上げます」
「勘助?」
「それがしに一つ策がございます」
「ほう、なんだ?」

勘助は一つの策を披露した。
それはこの闇夜を突いて妻女山の上杉本陣に別働隊を差し向け、八幡原に追い立て海津城を出た本隊と挟み撃ちにするというものであった。

「上手くいくか?」
「やる価値はありましょう」
「父上、私は反対です」

意外にもそれに異を唱えたのは信親だった。普段なら若造の意見に耳を傾ける者はいない。だが、信親は信玄の次男であり、その開かぬ左目には神力が宿ると信じられていた。そんな彼の言葉は重臣の言葉に匹敵するほど重い。

「相手はあの上杉政虎。そのような策、見破っておりましょう」
「確かに……」
「もっと裏の裏を読まねば、返り討ちに遭いましょう」

信親は勘助の策に手を加える。別働隊は妻女山手前で二手に分ける。一つは予定通り背後から迫り、もう一つは妻女山の正面に回り込み、茂みに潜伏し、現れた上杉本隊の横っ腹を突く。

「父上率いる本隊はそのまま八幡原に進んで下さい」
「わかった」
「恐らくは混戦は避けられぬでしょうが、こちらにはまだ切り札があります」
「切り札?」

信親は意味ありげな笑みを浮かべたのだった。

夜半過ぎ、香坂こうさか虎綱とらつな馬場ばば信房のぶふさが別働隊を率いて行動を起こす。そして、朝霧の立ちこめる妻女山山頂を目指し進む。
武田と上杉が雌雄を決するまであと少し……。
どちらが勝者となるか。誰も知るものはいない。

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