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山の章

八幡原の激闘

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武田の別働隊が妻女山さいじょさんを目指す。上杉本陣の背後を突くためだ。率いるのは馬場ばば信房のぶふさ香坂こうさか虎綱とらつなだ。

「虎綱、ここから先は俺が率いていく」
「承知した」
信親のぶちか様の言われた通り、お前の隊はこの先で潜伏して様子を見ろ」
「信房殿は如何いかがする?」
「俺は予定通り、本陣を突く」

その言葉に虎綱は頷く。信房はそのまま自分の部隊を率いて上杉本陣へと向かった。



「信親、我々はどう動く?」
「敵も決戦は八幡原はちまんばらと思うておりましょう」
「この辺りは霧が深うございます。霧は音も遮ります。こちらも気付きませぬが。それはあちらも同じ事」
「そこに勝機があるか……」
「何よりこちらには【切り札】がございます」
「切り札か……」
「信親よ。アレは間に合うと思うか?」
「心配には及びません。信之なら必ずやってくれます」

その時、信親の明かないはずの左目が開く。その金色に輝く瞳は勝利を確信しているようであった。

「信親は諏訪大明神の加護を受けておる。今はそれを信じ、我らの出来ることをするのみ!」

信玄は右の拳を高々と掲げるのだった。



明朝辰の刻たつのこく(午前8時頃)、信玄率いる武田本隊は八幡原に鶴翼かくよくの陣にて展開する。

「妻女山はどうであるか?」
「動きは見られませぬ」
「ということは……」

その時、前方から鬨の声が上がる。どうやら戦端が切られたようである。

「申し上げます! 上杉の軍勢、車懸くるまがかりの陣にて攻め寄せております!」
「来たか!!」

信玄は立ち上がり、皆に指示を出す。

「馬場と香坂の別働隊が後方を突くまで何とか持ち堪えよ」

矢継ぎ早に出される命令に一気に慌ただしくなる。だが、戦況は芳しくない。別働隊に多くの兵をさいたせいだ。
とはいえ、歴戦の強者が率いる軍である。早々押し込まれることはない。信繁が、勘助が、檄を飛ばして押し返す。

「押せ! 押せ! 何としても馬場たちが戻ってくるまで持ち堪えろ!!」

それに励まされた足軽たちが咆哮を上げ、上杉に向かっていく。

「我が策が見破られるとは……。だが、信親様の心眼により被害は最小限に出来るはず! 何としても持ち堪えるぞ!!」

勘助は悔しさを滲ませながらも檄を飛ばし続ける。だが、そこに一本の矢が飛んできた。それはグサリと勘助の右足に突き刺さる。

「ぐはっ!」

馬上から転げ落ちる勘助。何とか起き上がるが、すぐそこに上杉の兵が迫っていた。万事休す。敵の刃が頭上に煌めく。勘助は覚悟を決め、目をつぶった。

ヒュンッ

空を切る音が鳴り響き、上杉の兵がバタリと倒れた。その背中には深々と矢が刺さっている。

「何が起きた?」

勘助が呆然と座り込んでいると、蹄の音が近づいてくる。今までに聞いたこともない大きな嘶きと共に、巨大な影が頭上を飛び越えた。

「な、なんじゃ!?」

それは馬であった。甲斐の黒駒など比べものにならぬほど大きな馬である。その馬に乗るのは見たこともない緑の瞳に金の髪の大柄な男だ。その男は勘助に何事か呼びかけるが、何を言っているのか分からず、ただ見あげるだけだった。

「や、山本様、どうやらお味方のようです」
「そ、そうか」
「さ、今のうちにこの場を脱しましょう」

勘助は何とか危機を出したのである。



その頃、左翼では信繁のぶしげ柿崎かきざき景家かげいえに押し込まれていた。

「くっ、さすがは上杉一の猛将」
「信繁様!!」
「この信繁、ただでは転ばぬぞ!!」

だが、防戦一方の武田が抗えるはずもなく、ジリジリと押し込まれていく。こちらも勘助の隊と同じく崩れるのは時間の問題であった。
今まさに敵の足軽の槍が信繁の胴を突き刺そうとしたとき、朝靄を切り裂いて巨大な黒馬が割って入る。それに乗った若者が足軽の首を刎ねる。

「我こそは武田信玄が三男、西保三郎信之なり! 我と思う者はかかってこい!!」

槍を掲げて名乗りを上げたのは紀州から駆けつけた信之だった。

「信之!?」
「叔父上、援軍を連れて参りました」
「まさか……」
「間もなく雑賀の鉄砲隊が到着します」
「でかした!!」

信繁は傷を受けた左肩をかばいながらも刀を振り上げる。

「俺が敵を引きつけます故、傷を負ったものを下がらせて下され」
「わかった」

信之は馬首を返して、上杉の本隊へ向かって駆け出す。信繁はその姿を誇らしげに見送ったのだった。

「信繁様……」
「傷を負ったものは海津城かいづじょうへ引き上げさせろ。何としても生き残るぞ」
「ハッ」
「動ける者は敵を押し返せ! 我らは諏訪大明神の加護がある!! 上杉なんぞ何するものぞ!!!」

信繁は傷を押して立て直しを図る。



「ノブユキ、大丈夫か?」
「俺は大丈夫だ。コナー、お前こそ無事か?」
「こんなもの、肩慣らしにもならんさ」
「だが、相手は戦上手の上杉政虎。気を抜くなよ」
「任せておけ」

信之がコナーと呼んだその戦士は黒髪に焦げ茶の瞳をした異国の戦士だった。年の頃は兄・義信と同じくらいであろうか。その戦士は見たこともない格子柄の布を腰に巻き、諸刃の直剣を手にしていた。
そして、手綱を操り、再び上杉の軍勢に突っ込んでいく。

「な、なんだ?」

見たこともない巨大な馬が迫り、上杉の兵たちは驚きの余り棒立ちとなる。コナーは躊躇ためらいもなく剣をいだ。すると、二つ三つと首が飛ぶ。余りのことに、声の出ない上杉勢。

「フッ、他愛もない」

コナーはそう呟くと、馬首を返して次々と首を刎ねていった。
突然乱入した異国の戦士に動揺が広がる上杉勢。それまでの勢いがそがれ、遂には逃げ出すものが出始める。その様子は本隊の政虎の元にも届いた。

「何事か!?」
「わ、分かりませぬ……」
「分からぬ?」
「急に……」

だが、そこから先の言葉は続けられることはなかった。何故なら、そのものの首が政虎たちの足元に転がったからだ。

「お前が大将か?」

政虎は声のした方を仰視する。そこには見たこともないほど大きな馬に乗った異国の戦士。その手に握られた剣は多くの敵を斬ったのであろう血で赤く染まっていた。

「御実城様、ここはそれがしに……」

家臣の一人が割って入るがすぐにその首は刎ねられた。まるで、大根でも切り落とすかのように首が飛ぶ。
さすがの政虎もゴクリと唾を飲み込んだ。だが、この程度の死線、何度も乗り越えてきた。その経験が政虎の体を動かす。その場に突き刺さっていた槍を手に取り、ヒュンと薙いだ。すると、相手の乗った馬が突然嘶きを上げて立ち上がる。
政虎は彼の乗る馬を傷つけたのだ。これに驚いた馬は混乱して暴れようとしたのだ。そのすきに政虎はその場を脱した。

「チッ」

その男・コナーは愛馬を宥めることに気を取られてしまう。そのうちに足軽たちに囲まれてしまい、形勢が逆転する。このままでは自分が骸になりかねないと悟り、再び手綱を引くとその場を後にする。



「おお、既に混戦となっておるか!」

遂に妻女山に向かっていた別働隊が八幡原に戻ってきた。上杉の横っ腹を突くつもりでいた香坂隊は入れ違いになってしまい、結局馬場隊と合流して八幡原に向かうことになった。

「どうやら間に合ったか……」

これにより形勢は武田有利に傾いた。

「馬場と香坂が来たぞ! それ、押し返せ!!」

別動隊の合流に気付いた信玄の号令一下、武田が押し返す。別働隊が現れたことで挟み撃ちとなった上杉勢は徐々に後退を始めた。

「深追いはするな。逃げるに任せるのだ!」

既にかなりの戦力が削がれている武田勢に追い打ちをかける余裕など無かった。

「父上、上杉を犀川さいかわまで押し返しましょう」
「じゃが、この戦力では……」
「いえ、兄上の軍がまだ無傷です」
「義信の赤備えか!」

信親が頷き、笑みを浮かべた。信玄は義信に早馬を出し、上杉が一休みしたところを急襲するように命じた。

「父上、信親兄上、ご無事ですか!?」
「おお、信之か!」

そこへ現れたのは巨馬を操る信之だった。

「戦況は?」
「何とか押し返した。今、義信に追い打ちを命じたところよ」
「なるほど……」

信玄は犀川の手前当たりで一休みするとにらみ、義信にそこを襲うように命じたことを話す。それを聞いた信之が再び馬首を返す。

「信之、どこへ行く?」
「総仕上げをしに参ります」
「なんだと?」
「父上は海津城にて吉報をお待ち下され」

それだけ言い残して信之は再び馬を走らせたのだった。
幼き頃は病気がちであった三男の雄々しい姿に信玄の目に熱いものがこみ上げてくる。

(あの頃は何故子供らに不幸がと思っておったが、アレは試練であり、子らの成長に必要だったのであろう)

そう思うと信玄の心は晴れやかであった。

「父上、まだ戦は終わっておりませぬ」
「そうだな。後のことは義信たちに任せ、我らは海津城へ引き上げるぞ!!」

こうして、武田は八幡原の激闘をしのぎきり、海津城へと引き上げたのであった。



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