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「ただいま」
お世辞にもうまいとは言いがたい外の空気を思い切り肺に吸い込んで、羽柴はにっこりと笑い、一言こう呟いた。
日本に向かって出発する前、比較的ゆっくりと休みを取ったのがよかったのだろうか。
羽柴は何かこざっぱりとした気持ちで日本の土を踏むことができた。
依然としてショーンのことは心に引っかかっていたが、彼が新たな幸せを見つけ、育もうとしていることにホッとしている自分もいて、気分は以前より悪くはなかった。
ただ、物寂しさは付きまとってはいるが。
羽柴はタクシーを捕まえると、真っ直ぐ浅草の真一の実家を目指した。
毎年日本に帰ってきているが、実家の福岡まで帰ることは少ない。逆に東京の浅草が羽柴にとって第二の故郷のようになっていた。
ラジオから流れてくる久しぶりに聞く日本語が、何だかじんわりと身体に染み込んでくる。
この身体の強ばりが解けていく感覚は、やはり自分が日本人だからだろう。
長年英語を話す毎日を送っていても、やはり根っからの『外人』にはなれない。
真一の実家は、あの頃とは違ってシャッターが降りたままの姿でそこにあった。
真一が亡くなってからは須賀テーラー店も廃業となり、今は母親の千帆が一人で暮らしている。
羽柴は勝手知ったるなんとやらで、裏側に回ると、勝手口についているドアベルを鳴らした。
表側のシャッターを上げ下げするのが大変で、今ではこの勝手口が事実上の玄関になっている。
すぐにパタパタと足音がして、ドアが開いた。
「まぁ! 早かったわね」
千帆の弾んだ声が出迎えてくれた。
新しい恋とやらのせいで、また若返ったようだ。
「ただいま帰りました」
羽柴は笑顔でそう返すと、ここはアメリカ流とばかりに荷物を放り出して千帆を優しく抱きしめた。
「まったく、いつから私の息子はこんなに大きな図体に変わっちゃったのかしら」
なんて冗談を言いながら、千帆は羽柴を中に招き入れる。
荷物を持って千帆の後を追う羽柴は、文字通りまるで息子のようだ。
この浅草の家を訪れるのは数えるぐらいしかまだないが、それでも隅々まで懐かしさが染み込んだ愛すべき『実家』だ。
ここにはまだ、真一の面影というか『空気』が、残っている。
羽柴は、その『空気』をゆっくりと肺に染み込ませた。
やはりこの空気に触れると、今でも自分が心の底から真一のことを愛しているのだと実感できる。
そんな羽柴の様子を、千帆はじっと見つめていたらしい。
「思ったより元気そうな顔色してるから、安心したわ」
彼女はそう言いながら、仏間を目指した。羽柴が帰ってくるとまず最初に向かう部屋だ。
仏間には二つの仏壇があった。
一つは真一の父親のもの、もう一つは真一と彼の唯一の妻・淑子のもの。
以前父親のものは千帆の部屋に置いてあったが、千帆の淑子に対する蟠りが消えるに合わせて、ここに移されていた。
羽柴はまず真一の父親に手を併せてから、真一と淑子の位牌に手を併せた。
線香の香りを嗅ぐのも一年振りだ。
「 ── この前はすみませんでした。迷惑な電話をかけてしまって・・・」
羽柴が正座をしたまま千帆の方を振り返ると、千帆は穏やかな表情で羽柴を見つめていた。
「何言ってるの。あの電話がかかってくることを心待ちにしていたって、あの時言ったでしょう」
羽柴はそう言われて胸を撫で下ろすと同時に、妙に恐縮もしてしまった。
やはり面と向かうと恥ずかしい。
あの時の自分は、本当に前後見境がない状態だったからだ。
思わず俯いてしまった羽柴に、千帆は溌剌とした声で言った。
「さて。お墓参りに行きましょうか」
真一の遺骨は、淑子と一緒の須賀家の墓に収められていた。
菩提寺では桜の木が八分咲きで、いつも羽柴が見ている風景とは随分雰囲気が違った。一月と四月では、空気や空の色も違う。
「今年の桜は開花が遅いのよ。だから返って良かったわ。日本の桜を見るのも久しぶりでしょう?」
千帆にそう言われ、羽柴も思わず頷く。
「やっぱりいいものですね」
海外で生活していると、余計に日本的な風景に愛着を感じる。
今も目の前を歩く千帆は白地に裾がほんのり桜色の訪問着を着ているが、そういった和装も素晴らしく美しいと思う。
須賀家の墓は、千帆が月命日に必ず来て掃除をしたり花を生け替えたりしているので、いつも綺麗だ。
以前は真一が淑子の月命日にそれをしていたが、今では千帆が真一の月命日にそれをしている。
4月は温室栽培でないチューリップが花屋の店頭に並ぶ季節で、いつもより多く黄色いチューリップを購入できた。
その花は淑子が愛した花で、真一もまた好んで買っていた花だ。
墓場には些か不似合いな洋風の花だったが、羽柴と千帆は手分けして花を供えた。
墓を水で清め綺麗にし、二人して長い時間手を併せた。
墓は何も言ってくれないが、自分の中の迷いを突きつけられる心持ちになった。
少し心が痛む。
その痛みがどこからくるのか、正直羽柴には分からなかった。
ひょっとしたらそれは、自分がまだショーンに未練を残しているからか。
羽柴は、心の中で苦笑いする。
いくら千帆に全てをぶちまけたとしても、真一の墓の前でショーンのことを考えるのは何だか悪いことのように思えた。どことなく後ろめたい。
今、こうして真一の遺骨が眠る墓の前で佇んでいるというのに、彼の存在を全く感じられないのはなぜだろう。
これまではそんなことはなくて、いつでも手を併せると、そこに真一が座っていて優しく微笑んでいるイメージが浮かんで、ああ真一は今もこうして自分の側にいてくれていると思えたのに。
── ひょっとして真一は、まだ怒っているのだろうか。
だとすれば自分は、まだ『不甲斐ない』ままでいるということか。
それとも、自分の墓の前で他の男のことを思い浮かべたことに嫉妬しているのか。
── 一体、真一は何を望んでいるのだろう。真一の精神は、どこに行ってしまったのか・・・。いや、変わってしまったのは、この俺か。
自分の生き方を見失って、ようやくこの世界に引っかかっている感じ。
気分は一時から見ても随分すっきりとはしていたが、自分の中の不可解に揺れ動く気持ちはいまだ変わりなかった。ただ、その揺れ動くスピードが以前より穏やかになっただけだ。
真一を亡くしてから今まで、いろんな女性と付き合ってきた。けれど、今回ぐらいこれほど後に引きずった経験はない。ましてショーンとは正式に付き合ってもいなかったのに。
自分で自分のことが分からない。
それなのに、真一が今何を思っているかなんて分かる訳がないじゃないか。
目の前にある須賀家の墓が、随分遠く感じた。
これは、自分の真一に対する気持ちが変化している証拠なのか。
こんな気持ちが一生続くことになってしまったら、どうしよう。
この先、ちゃんと生きて行けるだろうか・・・。
気付くと、手を併せる羽柴の横顔を千帆がじっと見つめていた。
けれど千帆は羽柴の心の内には触れず、羽柴が千帆の視線に気付くと、にっこりと笑った。
「帰りに仲見世近くの甘味処にでも寄って帰りましょうか」
千帆は羽柴が意外に和菓子好きだということを知っているのだ。
「いいですね」
羽柴も笑顔を浮かべて、千帆と並んで歩き始める。
浅草寺は須賀家の菩提寺より流石に大きくて、人も多く賑わっている。
仲見世を歩いていると、地元の知り合いが次々と千帆に声をかけてきた。
ここら辺は須賀テーラー店のお馴染みさんも多い。
皆、羽柴を見て「新しい彼氏かい?」と冷やかされた。
もちろん、昔からの馴染みは須賀家の事情も知っていて、羽柴が千帆の亡くなった息子の恋人であることも知っていた。千帆が隠すことをしなかったからだ。皆、それを承知の上で、毎年そうやって冷やかしてくる。恒例の挨拶のようなものだ。
そうやって冷やかされる度に、千帆と二人して笑った。
いつもの自分の調子が戻ってくるのを感じる。
── よかった。この分じゃ、隼人に会っても余計な心配はかけずに済みそうだ。
羽柴はそう思った。
暗い気持ちを引きずったまま隼人に会うのは、正直躊躇っていたのだ。
隼人は敏感だし、ああ見えて面倒見もいいから、参っている羽柴を見るときっと心配する。心配し過ぎて無理をする。
真一と同じ病気を抱えている彼に、ストレスが最も危険な要素であることを知っている羽柴は、それだけが心配だった。
だから今回帰国することも隼人には知らせていなかったのだが。
「この後の予定はどうなっているの? もちろん、夜は家に泊まっていくのよね」
甘味処でその話になり、羽柴は隼人のところに行きたいと伝えた。
「彼にはしばらく会ってないから。1月の件も顔を見て謝りたいし・・・。今夜は多分遅くなると思いますから、隼人の部屋にでも転がり込みますよ」
羽柴の台詞に千帆はさも楽しそうに笑った。
「隼人君にとってはえらく迷惑な話ね。彼の部屋、四畳半よ。あなたが転がり込んだら、窮屈で仕方ないでしょうね」
千帆にとっては隼人も『三人目の息子』みたいなものだ。
隼人は千帆の元を訪れることは少ないようだが、隼人と千帆は共に『真一の最期』という一番濃厚な時間を過ごしてきたので、今でも絆は深い。
千帆は、羽柴が隼人の元を訪れることに大賛成だった。
このところ隼人も自分の行く末に何かと悩みが多いことを、千帆も知っていた。
「あなたに会えば、きっと励まされると思うわ。あの子、意固地になり過ぎて、いつも損してるから」
その後、千帆の家で思い出話に花を咲かせた後、昼食を一緒に取ってから羽柴は隼人の働くホスピスへと向かった。
ライブハウスに入ってまず2時間は、譜面を前にしての打ち合わせに費やした。
石川がショーンのために用意したバックバンドはどれも一流のスタジオミュージシャンで、年齢層は高かったが、英語を話せて、尚かつ腕は確かな連中ばかりだった。
それは初日に打ち合わせをした時にショーン側が要求していたことだった。
こういう新人を売り出すためのプレライブを行う時は、見た目を重視して、若くて格好が良いバックバンドを用意し、音を吹き替えたりする場合が多いのだが、そういうのはしたくなかった。
見た目は関係なく、一日で譜面を完全に理解できる度量のある人間をチョイスして欲しいとの要求に、石川は逆に好印象を抱いたようだ。
ショーンがこのライブに相当の意気込みがあると理解してもらえたのだろう。
ドラムもサブのギターも四十過ぎで地味だがしっかりとしたテクニックのある人達だった。そしてベースに至っては、明らかに六十過ぎの、まるで中国の水墨画に出てくるような仙人顔のおじいちゃんだったが、以前からノートの現場で活躍してきて石川の補佐役である川西がお墨付きを出してきた人物だった。
── ほ、本当にこの人、英語しゃべれるの?
白髪が多量に混じったボサボサの長い髪を後ろで一つに結わえ、細長い顎髭を生やしているそのエキゾチックな仙人は、ひん曲がった銜え煙草で口髭の先を焦がしながら、かけているサングラスをずらした。
「やぁ、どうも」
声は随分としわがれていたが、ルイとショーンが目を剥くほどの流暢な発音だった。
ショーンが目を丸くしているのを見て、川西がハハハと笑う。
「彼は、日本のジャズベーシストの草分け的な人で、二十年ぐらいアメリカで活動していたんだ。今では日本で多くのアーティストのアルバム制作に関わっている。ミスター・オダだ」
「ジャズ・・・?」
ジャズと聞いて、ショーンの胸は少しだけズキリとした。
そのセンテンスを聞くと、どうしても羽柴のことを思い出してしまう。
「まずはとにかく、彼らの腕をチェックしてくれ」
川西がそう言うと、三人の即興演奏が始まった。三人は互いに数回しか会ったことがないようだったが、それでも息はぴったりだった。しかもドラムとギターの二人がベースの尾田を常に気にしながら演奏しているのが分かった。つまり、二人は尾田をリスペクトしているのだ。
実際、演奏は尾田がひっぱっていた。
今度こそ本当にルイとショーンが目を剥くぐらい尾田の演奏はパワフルで、こんなに華奢で年老いた身体のどこにそんな力があるのかと思わせるほどだった。
今のショーンには到達できない円熟した音だった。
これまでバルーンの一員として活動してきて、様々なベーシストの音を聴いてきたが、その中でも尾田の音はショーンの耳に引っかかる良質の音だった。
「凄いな。あそこまでやられると、逆にあの年輩さ加減がメチャクチャ格好いいね」
ルイも尾田の音に引っかかったらしい。彼の声は弾んでいて、まるで宝物を見つけたかのようにウキウキしていた。
音楽というものは、年齢や国籍など関係ない。
つまりそういうことだ。
信頼関係はこれで築けた。
後はショーンの書いてきた譜面を理解してもらうだけだ。
譜面や曲の説明などに、じっくり2時間をかけた。
専門的、技術的な細かいことはルイが、その曲の大きな流れや意味合いについてはショーンが説明した。
今回ライブで披露する曲は全てショーンがオリジナルで書き上げたもので、全部で5曲。あのCDに収めた曲以外は、世界的にも初めて披露する曲ばかりだ。
今回バックバンドを担当する彼らや周囲の技術スタッフも、その記念すべき場に自分が立ち会っていることに酷く興奮をしていた。ただし、尾田だけは最初に会った時と同じマイペースさだったが。
尾田は寡黙な人で、サングラスをかけているので何を考えているか分からないところもあったが、さっきの演奏で彼の音に惚れ込んでしまったショーンは、すっかり尾田に懐いていた。
── 自分にもしおじいちゃんがいたら、こんな人がいいな。
そう思うほどだった。
もっと掘り下げれば、かなりおもしろそうな人である。
打ち合わせを終え、後はひたすら実際に音合わせをして詰めていった。
その作業は、まさにその場で曲を完成させていく作業に似ていて、その場でショーンが譜面を直す場面も見られた。
食事もステージ上で食べるほど熱中し、ルイと技術スタッフに至っては夜になってショーンがステージを降りてもなお、打ち合わせを続けた。
ルイには当日キーボードを担当してもらうことになっているので、ミキシングの指示を細かくスタッフに浸透させたかったのだろう。彼は、会場内の音の返りやスピーカーの微妙な位置まで調整し、完璧に準備を整えた。
ショーンは明日の本番に備え、軽く喉ならし程度に歌ったが、それでもその場にいたスタッフを魅了した。
様子を見に来ていた小山内や石川はもちろん、長年現場でやってきた川西やバックバンドの連中でさえ、今まで隠されてきた天才ギタリストの新たな才能に聞き惚れた。
これでギターの音も素晴らしいのだから、鬼に金棒というところだろう。
半日足らずという短い間だったが、それでもしっかりと準備はできた。
バックバンドも流石皆熟練だけあって、すぐに全曲確実にものにしてもらえたようだ。
この状況は通常のツアーらに比べ、まさにぶっつけ本番といった勢いだったが、それでも絶対に上手く行くような気がした。
当日会場に入れるのは、抽選で選抜されたファン700人とプレスの人々。
CS系のテレビ局がライブの様子を完全収録して後日オンエアすることになっているので、いずれは海外まで配信されるだろう。
いくら怖くったって戻ることはできない。
それに、ここまでチャンスを繋げられるきっかけを作ってくれた羽柴のためにも、物怖じしている場合ではないのだ。
彼に、本当の気持ちを伝えたい。
一生懸命すれば、気持ちは伝わる。きっと。
ショーンは帰りがけ、一人ひっそりとステージにキスをしてライブハウスを後にした。
ライブハウスのあるシブヤから、ショーンの宿泊しているホテルがあるシンジュクまで、ノートが用意した車で移動した。
街は深夜だというのに活気に溢れていて、スモークが貼られた窓ガラス越しでも華やかなネオンサインの派手さが見て取れた。駅と思われる建物からは入る人と出てくる人がまるで川のように列をなしていたし、ビルに設置されている看板は、華やかに瞬いた。ニューヨークでは巨大なポスターを貼り出したビルボードが多いが、日本の場合はテレビみたいになって動くものも多い。何とも言えないパワーを感じた。
以前日本に来た時はろくすっぽ外を眺めるようなこともしなかったので、ショーンは必死になって外を眺めた。
── ここがコウの生まれた国。ひょっとしたらこの街のどこかに、コウがいる。
それを思うと、切なくてたまらなかった。
ショーンは併せた両手を口元に持っていき、まるで寒さに凍えるように手に息を吹きかけながら、夜の街の姿をキョロキョロと見渡した。
けれどあまりにも人が多過ぎて、とてもじゃないけれど個人個人の顔なんか確認できない。
「あ、ショーン、あれ。昨日取材された時の映像じゃないか?」
ルイがふとそう言って指さした。
ショーンが目線を上げる。
信号待ちした車の前に聳える巨大なビル。
そのビルの壁面に掲げられた大型ビジョンに、他でもない自分の姿が映し出されていた。
確かに、昨日の取材の様子だ。
画面の隅に浮かんでいるロゴを見ると、音楽専用チャンネルが行った取材の様子だ。
ショーンが話す度に、日本語の字幕が下に出ている。
多くの人が足を止めて画面を見入いっていた。
── あの中に、コウがいてくれればいいのに・・・。
そんなのは奇跡に近いと思ったが、ショーンはそう思わずにはいられなかった。
隼人と一緒に、真一が生前よく通っていた新宿のバーでお酒を楽しんだ後、羽柴はそのまま駅に向かってぶらぶらと歩いた。
しかし気付くと、羽柴の足は自然と止まった。
さっきまで一緒に歩いていた隼人には置いて行かれる形になったが、そんなことには構っていられなかった。
思わず羽柴は口をポカンと開けて、目の前の大型ビジョンに映し出されたショーン・クーパーの顔を見つめていた。
それは、今までにない映像だった。
白いシャツに黒の細身のズボンを身にまとったショーンは、明らかに日本人のインタビュアーと思しき人間の質問に、一字一句丁寧に答えていた。
── バルーン時代の映像か?
羽柴はそう思ったが、どうもそんな印象は受けなかった。
ごく最近のショーンとあまり変わらない雰囲気だったし、それにショーンはバルーン時代にこんなインタビューは受けていないはずだ。
話の内容が、あのチャリティーコンサートのことまで及んで、羽柴は確信した。
これは最近のものだ。
おそらく、ショーンが羽柴の元を去ってから以後の話。
羽柴は、驚愕の表情を浮かべた。
インタビュアーは、二回目の日本の印象はどうですか? なんて質問をしている。
── 日本? ショーンは今、日本に来てるのか?
まるで信じられない話だった。
夢でも見ているのかと思った。
この空の下のどこかにショーンがいるなんて、まるっきり想像できない。
最後に一言と言われ、ショーンがカメラを見つめる。
あの茜色の大きな瞳が自分を見つめてきた。
『 ── アメリカで報道されていることが真実だと思わないで。本当の僕はここにいるし、真実はあのCDに込められてる。どうか、僕を信じてください』
視界の隅で、いつしか隼人が自分を返り見ていた。
普段見せない羽柴の表情を見て、固まっているのが分かる。
正直隼人には悪いと思ったが、隼人を気遣うことなどできなかった。
── アメリカで報道されていることは嘘? 嘘だって?
ドキリと胸が脈打った。
ロケットが触れている胸元がふいに熱くなった。
なぜだか分からないが、涙が込み上げて来そうになる。
映像は、明日入場者限定のライブが渋谷のライブハウスで行われること、そしてその様子は後日同チャンネルで独占放映させることの告知がされて別の画面に切り替わった。
羽柴は夢から叩き起こされたような気がして、数回瞬きをした。
「・・・なぁ。あんた、本当は凄く悩んでるんじゃないの? だから日本に帰ってきたんじゃないの?」
隼人にそう言われた。
ハッとして隼人を見る。
何とも心配げな顔つきで、隼人が羽柴を見ていた。
前にもショーンを見て思ったが、隼人は何となくショーンに似ている。その雰囲気が。
羽柴は、笑顔を浮かべた。
隼人に余計な心配をかけてしまった。
ストレスは、彼の身体に悪い。時には命取りになることもある。
羽柴は、ショーンにしたように隼人の髪をクシャクシャと掻き乱すと言った。
「実は気付いたことがあって。お願い、聞いてもらってもいいかな・・・」
羽柴が隼人の部屋に泊めてもらいたいと言うと、途端に隼人は顔を顰めてブーたれた。
いつもの隼人が戻ってきて、羽柴はホッとする。
隼人と肩を組んで歩きながら、羽柴は少し後ろ髪を引かれるような気持ちで駅まで向かったのだった。
お世辞にもうまいとは言いがたい外の空気を思い切り肺に吸い込んで、羽柴はにっこりと笑い、一言こう呟いた。
日本に向かって出発する前、比較的ゆっくりと休みを取ったのがよかったのだろうか。
羽柴は何かこざっぱりとした気持ちで日本の土を踏むことができた。
依然としてショーンのことは心に引っかかっていたが、彼が新たな幸せを見つけ、育もうとしていることにホッとしている自分もいて、気分は以前より悪くはなかった。
ただ、物寂しさは付きまとってはいるが。
羽柴はタクシーを捕まえると、真っ直ぐ浅草の真一の実家を目指した。
毎年日本に帰ってきているが、実家の福岡まで帰ることは少ない。逆に東京の浅草が羽柴にとって第二の故郷のようになっていた。
ラジオから流れてくる久しぶりに聞く日本語が、何だかじんわりと身体に染み込んでくる。
この身体の強ばりが解けていく感覚は、やはり自分が日本人だからだろう。
長年英語を話す毎日を送っていても、やはり根っからの『外人』にはなれない。
真一の実家は、あの頃とは違ってシャッターが降りたままの姿でそこにあった。
真一が亡くなってからは須賀テーラー店も廃業となり、今は母親の千帆が一人で暮らしている。
羽柴は勝手知ったるなんとやらで、裏側に回ると、勝手口についているドアベルを鳴らした。
表側のシャッターを上げ下げするのが大変で、今ではこの勝手口が事実上の玄関になっている。
すぐにパタパタと足音がして、ドアが開いた。
「まぁ! 早かったわね」
千帆の弾んだ声が出迎えてくれた。
新しい恋とやらのせいで、また若返ったようだ。
「ただいま帰りました」
羽柴は笑顔でそう返すと、ここはアメリカ流とばかりに荷物を放り出して千帆を優しく抱きしめた。
「まったく、いつから私の息子はこんなに大きな図体に変わっちゃったのかしら」
なんて冗談を言いながら、千帆は羽柴を中に招き入れる。
荷物を持って千帆の後を追う羽柴は、文字通りまるで息子のようだ。
この浅草の家を訪れるのは数えるぐらいしかまだないが、それでも隅々まで懐かしさが染み込んだ愛すべき『実家』だ。
ここにはまだ、真一の面影というか『空気』が、残っている。
羽柴は、その『空気』をゆっくりと肺に染み込ませた。
やはりこの空気に触れると、今でも自分が心の底から真一のことを愛しているのだと実感できる。
そんな羽柴の様子を、千帆はじっと見つめていたらしい。
「思ったより元気そうな顔色してるから、安心したわ」
彼女はそう言いながら、仏間を目指した。羽柴が帰ってくるとまず最初に向かう部屋だ。
仏間には二つの仏壇があった。
一つは真一の父親のもの、もう一つは真一と彼の唯一の妻・淑子のもの。
以前父親のものは千帆の部屋に置いてあったが、千帆の淑子に対する蟠りが消えるに合わせて、ここに移されていた。
羽柴はまず真一の父親に手を併せてから、真一と淑子の位牌に手を併せた。
線香の香りを嗅ぐのも一年振りだ。
「 ── この前はすみませんでした。迷惑な電話をかけてしまって・・・」
羽柴が正座をしたまま千帆の方を振り返ると、千帆は穏やかな表情で羽柴を見つめていた。
「何言ってるの。あの電話がかかってくることを心待ちにしていたって、あの時言ったでしょう」
羽柴はそう言われて胸を撫で下ろすと同時に、妙に恐縮もしてしまった。
やはり面と向かうと恥ずかしい。
あの時の自分は、本当に前後見境がない状態だったからだ。
思わず俯いてしまった羽柴に、千帆は溌剌とした声で言った。
「さて。お墓参りに行きましょうか」
真一の遺骨は、淑子と一緒の須賀家の墓に収められていた。
菩提寺では桜の木が八分咲きで、いつも羽柴が見ている風景とは随分雰囲気が違った。一月と四月では、空気や空の色も違う。
「今年の桜は開花が遅いのよ。だから返って良かったわ。日本の桜を見るのも久しぶりでしょう?」
千帆にそう言われ、羽柴も思わず頷く。
「やっぱりいいものですね」
海外で生活していると、余計に日本的な風景に愛着を感じる。
今も目の前を歩く千帆は白地に裾がほんのり桜色の訪問着を着ているが、そういった和装も素晴らしく美しいと思う。
須賀家の墓は、千帆が月命日に必ず来て掃除をしたり花を生け替えたりしているので、いつも綺麗だ。
以前は真一が淑子の月命日にそれをしていたが、今では千帆が真一の月命日にそれをしている。
4月は温室栽培でないチューリップが花屋の店頭に並ぶ季節で、いつもより多く黄色いチューリップを購入できた。
その花は淑子が愛した花で、真一もまた好んで買っていた花だ。
墓場には些か不似合いな洋風の花だったが、羽柴と千帆は手分けして花を供えた。
墓を水で清め綺麗にし、二人して長い時間手を併せた。
墓は何も言ってくれないが、自分の中の迷いを突きつけられる心持ちになった。
少し心が痛む。
その痛みがどこからくるのか、正直羽柴には分からなかった。
ひょっとしたらそれは、自分がまだショーンに未練を残しているからか。
羽柴は、心の中で苦笑いする。
いくら千帆に全てをぶちまけたとしても、真一の墓の前でショーンのことを考えるのは何だか悪いことのように思えた。どことなく後ろめたい。
今、こうして真一の遺骨が眠る墓の前で佇んでいるというのに、彼の存在を全く感じられないのはなぜだろう。
これまではそんなことはなくて、いつでも手を併せると、そこに真一が座っていて優しく微笑んでいるイメージが浮かんで、ああ真一は今もこうして自分の側にいてくれていると思えたのに。
── ひょっとして真一は、まだ怒っているのだろうか。
だとすれば自分は、まだ『不甲斐ない』ままでいるということか。
それとも、自分の墓の前で他の男のことを思い浮かべたことに嫉妬しているのか。
── 一体、真一は何を望んでいるのだろう。真一の精神は、どこに行ってしまったのか・・・。いや、変わってしまったのは、この俺か。
自分の生き方を見失って、ようやくこの世界に引っかかっている感じ。
気分は一時から見ても随分すっきりとはしていたが、自分の中の不可解に揺れ動く気持ちはいまだ変わりなかった。ただ、その揺れ動くスピードが以前より穏やかになっただけだ。
真一を亡くしてから今まで、いろんな女性と付き合ってきた。けれど、今回ぐらいこれほど後に引きずった経験はない。ましてショーンとは正式に付き合ってもいなかったのに。
自分で自分のことが分からない。
それなのに、真一が今何を思っているかなんて分かる訳がないじゃないか。
目の前にある須賀家の墓が、随分遠く感じた。
これは、自分の真一に対する気持ちが変化している証拠なのか。
こんな気持ちが一生続くことになってしまったら、どうしよう。
この先、ちゃんと生きて行けるだろうか・・・。
気付くと、手を併せる羽柴の横顔を千帆がじっと見つめていた。
けれど千帆は羽柴の心の内には触れず、羽柴が千帆の視線に気付くと、にっこりと笑った。
「帰りに仲見世近くの甘味処にでも寄って帰りましょうか」
千帆は羽柴が意外に和菓子好きだということを知っているのだ。
「いいですね」
羽柴も笑顔を浮かべて、千帆と並んで歩き始める。
浅草寺は須賀家の菩提寺より流石に大きくて、人も多く賑わっている。
仲見世を歩いていると、地元の知り合いが次々と千帆に声をかけてきた。
ここら辺は須賀テーラー店のお馴染みさんも多い。
皆、羽柴を見て「新しい彼氏かい?」と冷やかされた。
もちろん、昔からの馴染みは須賀家の事情も知っていて、羽柴が千帆の亡くなった息子の恋人であることも知っていた。千帆が隠すことをしなかったからだ。皆、それを承知の上で、毎年そうやって冷やかしてくる。恒例の挨拶のようなものだ。
そうやって冷やかされる度に、千帆と二人して笑った。
いつもの自分の調子が戻ってくるのを感じる。
── よかった。この分じゃ、隼人に会っても余計な心配はかけずに済みそうだ。
羽柴はそう思った。
暗い気持ちを引きずったまま隼人に会うのは、正直躊躇っていたのだ。
隼人は敏感だし、ああ見えて面倒見もいいから、参っている羽柴を見るときっと心配する。心配し過ぎて無理をする。
真一と同じ病気を抱えている彼に、ストレスが最も危険な要素であることを知っている羽柴は、それだけが心配だった。
だから今回帰国することも隼人には知らせていなかったのだが。
「この後の予定はどうなっているの? もちろん、夜は家に泊まっていくのよね」
甘味処でその話になり、羽柴は隼人のところに行きたいと伝えた。
「彼にはしばらく会ってないから。1月の件も顔を見て謝りたいし・・・。今夜は多分遅くなると思いますから、隼人の部屋にでも転がり込みますよ」
羽柴の台詞に千帆はさも楽しそうに笑った。
「隼人君にとってはえらく迷惑な話ね。彼の部屋、四畳半よ。あなたが転がり込んだら、窮屈で仕方ないでしょうね」
千帆にとっては隼人も『三人目の息子』みたいなものだ。
隼人は千帆の元を訪れることは少ないようだが、隼人と千帆は共に『真一の最期』という一番濃厚な時間を過ごしてきたので、今でも絆は深い。
千帆は、羽柴が隼人の元を訪れることに大賛成だった。
このところ隼人も自分の行く末に何かと悩みが多いことを、千帆も知っていた。
「あなたに会えば、きっと励まされると思うわ。あの子、意固地になり過ぎて、いつも損してるから」
その後、千帆の家で思い出話に花を咲かせた後、昼食を一緒に取ってから羽柴は隼人の働くホスピスへと向かった。
ライブハウスに入ってまず2時間は、譜面を前にしての打ち合わせに費やした。
石川がショーンのために用意したバックバンドはどれも一流のスタジオミュージシャンで、年齢層は高かったが、英語を話せて、尚かつ腕は確かな連中ばかりだった。
それは初日に打ち合わせをした時にショーン側が要求していたことだった。
こういう新人を売り出すためのプレライブを行う時は、見た目を重視して、若くて格好が良いバックバンドを用意し、音を吹き替えたりする場合が多いのだが、そういうのはしたくなかった。
見た目は関係なく、一日で譜面を完全に理解できる度量のある人間をチョイスして欲しいとの要求に、石川は逆に好印象を抱いたようだ。
ショーンがこのライブに相当の意気込みがあると理解してもらえたのだろう。
ドラムもサブのギターも四十過ぎで地味だがしっかりとしたテクニックのある人達だった。そしてベースに至っては、明らかに六十過ぎの、まるで中国の水墨画に出てくるような仙人顔のおじいちゃんだったが、以前からノートの現場で活躍してきて石川の補佐役である川西がお墨付きを出してきた人物だった。
── ほ、本当にこの人、英語しゃべれるの?
白髪が多量に混じったボサボサの長い髪を後ろで一つに結わえ、細長い顎髭を生やしているそのエキゾチックな仙人は、ひん曲がった銜え煙草で口髭の先を焦がしながら、かけているサングラスをずらした。
「やぁ、どうも」
声は随分としわがれていたが、ルイとショーンが目を剥くほどの流暢な発音だった。
ショーンが目を丸くしているのを見て、川西がハハハと笑う。
「彼は、日本のジャズベーシストの草分け的な人で、二十年ぐらいアメリカで活動していたんだ。今では日本で多くのアーティストのアルバム制作に関わっている。ミスター・オダだ」
「ジャズ・・・?」
ジャズと聞いて、ショーンの胸は少しだけズキリとした。
そのセンテンスを聞くと、どうしても羽柴のことを思い出してしまう。
「まずはとにかく、彼らの腕をチェックしてくれ」
川西がそう言うと、三人の即興演奏が始まった。三人は互いに数回しか会ったことがないようだったが、それでも息はぴったりだった。しかもドラムとギターの二人がベースの尾田を常に気にしながら演奏しているのが分かった。つまり、二人は尾田をリスペクトしているのだ。
実際、演奏は尾田がひっぱっていた。
今度こそ本当にルイとショーンが目を剥くぐらい尾田の演奏はパワフルで、こんなに華奢で年老いた身体のどこにそんな力があるのかと思わせるほどだった。
今のショーンには到達できない円熟した音だった。
これまでバルーンの一員として活動してきて、様々なベーシストの音を聴いてきたが、その中でも尾田の音はショーンの耳に引っかかる良質の音だった。
「凄いな。あそこまでやられると、逆にあの年輩さ加減がメチャクチャ格好いいね」
ルイも尾田の音に引っかかったらしい。彼の声は弾んでいて、まるで宝物を見つけたかのようにウキウキしていた。
音楽というものは、年齢や国籍など関係ない。
つまりそういうことだ。
信頼関係はこれで築けた。
後はショーンの書いてきた譜面を理解してもらうだけだ。
譜面や曲の説明などに、じっくり2時間をかけた。
専門的、技術的な細かいことはルイが、その曲の大きな流れや意味合いについてはショーンが説明した。
今回ライブで披露する曲は全てショーンがオリジナルで書き上げたもので、全部で5曲。あのCDに収めた曲以外は、世界的にも初めて披露する曲ばかりだ。
今回バックバンドを担当する彼らや周囲の技術スタッフも、その記念すべき場に自分が立ち会っていることに酷く興奮をしていた。ただし、尾田だけは最初に会った時と同じマイペースさだったが。
尾田は寡黙な人で、サングラスをかけているので何を考えているか分からないところもあったが、さっきの演奏で彼の音に惚れ込んでしまったショーンは、すっかり尾田に懐いていた。
── 自分にもしおじいちゃんがいたら、こんな人がいいな。
そう思うほどだった。
もっと掘り下げれば、かなりおもしろそうな人である。
打ち合わせを終え、後はひたすら実際に音合わせをして詰めていった。
その作業は、まさにその場で曲を完成させていく作業に似ていて、その場でショーンが譜面を直す場面も見られた。
食事もステージ上で食べるほど熱中し、ルイと技術スタッフに至っては夜になってショーンがステージを降りてもなお、打ち合わせを続けた。
ルイには当日キーボードを担当してもらうことになっているので、ミキシングの指示を細かくスタッフに浸透させたかったのだろう。彼は、会場内の音の返りやスピーカーの微妙な位置まで調整し、完璧に準備を整えた。
ショーンは明日の本番に備え、軽く喉ならし程度に歌ったが、それでもその場にいたスタッフを魅了した。
様子を見に来ていた小山内や石川はもちろん、長年現場でやってきた川西やバックバンドの連中でさえ、今まで隠されてきた天才ギタリストの新たな才能に聞き惚れた。
これでギターの音も素晴らしいのだから、鬼に金棒というところだろう。
半日足らずという短い間だったが、それでもしっかりと準備はできた。
バックバンドも流石皆熟練だけあって、すぐに全曲確実にものにしてもらえたようだ。
この状況は通常のツアーらに比べ、まさにぶっつけ本番といった勢いだったが、それでも絶対に上手く行くような気がした。
当日会場に入れるのは、抽選で選抜されたファン700人とプレスの人々。
CS系のテレビ局がライブの様子を完全収録して後日オンエアすることになっているので、いずれは海外まで配信されるだろう。
いくら怖くったって戻ることはできない。
それに、ここまでチャンスを繋げられるきっかけを作ってくれた羽柴のためにも、物怖じしている場合ではないのだ。
彼に、本当の気持ちを伝えたい。
一生懸命すれば、気持ちは伝わる。きっと。
ショーンは帰りがけ、一人ひっそりとステージにキスをしてライブハウスを後にした。
ライブハウスのあるシブヤから、ショーンの宿泊しているホテルがあるシンジュクまで、ノートが用意した車で移動した。
街は深夜だというのに活気に溢れていて、スモークが貼られた窓ガラス越しでも華やかなネオンサインの派手さが見て取れた。駅と思われる建物からは入る人と出てくる人がまるで川のように列をなしていたし、ビルに設置されている看板は、華やかに瞬いた。ニューヨークでは巨大なポスターを貼り出したビルボードが多いが、日本の場合はテレビみたいになって動くものも多い。何とも言えないパワーを感じた。
以前日本に来た時はろくすっぽ外を眺めるようなこともしなかったので、ショーンは必死になって外を眺めた。
── ここがコウの生まれた国。ひょっとしたらこの街のどこかに、コウがいる。
それを思うと、切なくてたまらなかった。
ショーンは併せた両手を口元に持っていき、まるで寒さに凍えるように手に息を吹きかけながら、夜の街の姿をキョロキョロと見渡した。
けれどあまりにも人が多過ぎて、とてもじゃないけれど個人個人の顔なんか確認できない。
「あ、ショーン、あれ。昨日取材された時の映像じゃないか?」
ルイがふとそう言って指さした。
ショーンが目線を上げる。
信号待ちした車の前に聳える巨大なビル。
そのビルの壁面に掲げられた大型ビジョンに、他でもない自分の姿が映し出されていた。
確かに、昨日の取材の様子だ。
画面の隅に浮かんでいるロゴを見ると、音楽専用チャンネルが行った取材の様子だ。
ショーンが話す度に、日本語の字幕が下に出ている。
多くの人が足を止めて画面を見入いっていた。
── あの中に、コウがいてくれればいいのに・・・。
そんなのは奇跡に近いと思ったが、ショーンはそう思わずにはいられなかった。
隼人と一緒に、真一が生前よく通っていた新宿のバーでお酒を楽しんだ後、羽柴はそのまま駅に向かってぶらぶらと歩いた。
しかし気付くと、羽柴の足は自然と止まった。
さっきまで一緒に歩いていた隼人には置いて行かれる形になったが、そんなことには構っていられなかった。
思わず羽柴は口をポカンと開けて、目の前の大型ビジョンに映し出されたショーン・クーパーの顔を見つめていた。
それは、今までにない映像だった。
白いシャツに黒の細身のズボンを身にまとったショーンは、明らかに日本人のインタビュアーと思しき人間の質問に、一字一句丁寧に答えていた。
── バルーン時代の映像か?
羽柴はそう思ったが、どうもそんな印象は受けなかった。
ごく最近のショーンとあまり変わらない雰囲気だったし、それにショーンはバルーン時代にこんなインタビューは受けていないはずだ。
話の内容が、あのチャリティーコンサートのことまで及んで、羽柴は確信した。
これは最近のものだ。
おそらく、ショーンが羽柴の元を去ってから以後の話。
羽柴は、驚愕の表情を浮かべた。
インタビュアーは、二回目の日本の印象はどうですか? なんて質問をしている。
── 日本? ショーンは今、日本に来てるのか?
まるで信じられない話だった。
夢でも見ているのかと思った。
この空の下のどこかにショーンがいるなんて、まるっきり想像できない。
最後に一言と言われ、ショーンがカメラを見つめる。
あの茜色の大きな瞳が自分を見つめてきた。
『 ── アメリカで報道されていることが真実だと思わないで。本当の僕はここにいるし、真実はあのCDに込められてる。どうか、僕を信じてください』
視界の隅で、いつしか隼人が自分を返り見ていた。
普段見せない羽柴の表情を見て、固まっているのが分かる。
正直隼人には悪いと思ったが、隼人を気遣うことなどできなかった。
── アメリカで報道されていることは嘘? 嘘だって?
ドキリと胸が脈打った。
ロケットが触れている胸元がふいに熱くなった。
なぜだか分からないが、涙が込み上げて来そうになる。
映像は、明日入場者限定のライブが渋谷のライブハウスで行われること、そしてその様子は後日同チャンネルで独占放映させることの告知がされて別の画面に切り替わった。
羽柴は夢から叩き起こされたような気がして、数回瞬きをした。
「・・・なぁ。あんた、本当は凄く悩んでるんじゃないの? だから日本に帰ってきたんじゃないの?」
隼人にそう言われた。
ハッとして隼人を見る。
何とも心配げな顔つきで、隼人が羽柴を見ていた。
前にもショーンを見て思ったが、隼人は何となくショーンに似ている。その雰囲気が。
羽柴は、笑顔を浮かべた。
隼人に余計な心配をかけてしまった。
ストレスは、彼の身体に悪い。時には命取りになることもある。
羽柴は、ショーンにしたように隼人の髪をクシャクシャと掻き乱すと言った。
「実は気付いたことがあって。お願い、聞いてもらってもいいかな・・・」
羽柴が隼人の部屋に泊めてもらいたいと言うと、途端に隼人は顔を顰めてブーたれた。
いつもの隼人が戻ってきて、羽柴はホッとする。
隼人と肩を組んで歩きながら、羽柴は少し後ろ髪を引かれるような気持ちで駅まで向かったのだった。
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