49 / 57
act.49
しおりを挟む
夜。
隼人が完全に眠ったのを確認して、羽柴は隼人の家を抜け出した。
その手には、羽柴が旅行鞄に突っ込んできた未開封のエニグマ最新号があった。
どうしてそんな重たい物を荷物に突っ込んできたか自分でもよく分からなかったが、恐らく千帆への近況報告代わりに見せるつもりだったのだろうか。
けれどそのタイミングは逃してしまい・・・というよりはそんな気分になれず、今日まで鞄の底に仕舞われたままだった。
時間はもう深夜3時を過ぎており、流石の大都会東京もシンと静まり返っている。
夜の住宅地に、羽柴の歩く音だけが響き渡った。
羽柴は外灯を探して彷徨い歩き、気付くと児童公園に辿り着いていた。
足がふと止まる。
鉄製ではないが、ドラム缶に似た形状のセメント製の大きなドカンが表面を青いペンキで塗られ、ゴロリと公園の真ん中に転がされていた。
『 ── 公園のあのドラム缶。あそこによく隠れてた』
ふいに耳元でショーンの声がしたような気がした。
羽柴は真っ直ぐドカンまで歩き、中を覗く。
流石に玩具の隠し場所にはなっていなかったが、中は子ども達の落書きで溢れていた。
羽柴はふと微笑むと、その中に入って腰を下ろした。
外灯の光がうまいこと内部まで照らしてくれていて、光量は十分にある。
羽柴はひとつ大きく息を吐き出すと、エニグマを被っているビニールを破いた。
裏返して、表紙をゆっくりと撫でる。
東洋の神秘的な衣装に身を包んだショーンが、射るような瞳でこちらを見ていた。
まるで自分を責めているような視線。
あの日、涙に暮れながらケンカ別れした日のショーンの瞳を思い起こす。
あの何とも言えない、失望感に満ちた瞳。
だからこそ、羽柴は今日・・・いやもう昨日のことになるが、あの大型ビジョンで見たことが信じられなかったのだ。
── どうか、僕を信じてください・・・。
それが意味するものは、なんだろう。まだショーンが、自分に気持ちを残しているということなのだろうか。
あのブロンドの魅力的な女性と新たな人生を歩み始めた訳でなく、まだ自分のことを見つめてくれているというのか。
本来なら、『愛想が尽きた人間』だろうに。
羽柴は、息苦しさを感じながらページを捲った。
いろいろなショーンがいる。
今まで羽柴が見たことのない表情を浮かべているものもある。
「こんな顔をする時もあるんだ・・・」
おそらくキッチンで撮影したものだろう。
試し撮りのポラロイドでは分からなかった細かなディテールまでくっきりと印刷された誌面は、羽柴の目を捕らえて離さなかった。
物憂げな表情。
セクシーでいて、少し寂しげな。
ページを捲ると、同じキッチンの写真でもポーズが違うものが現れる。
泣きそうな顔つきでカメラを見つめている。
まるで苦しげに懇願しているような。
大きな瞳が熱く潤んでいて、その熱気に当てられてしまうようだ。
羽柴は頬を赤らめた。
ショーンのことを子どもだと思うことはもうなかったが、ここまで大人びた顔つきをするとは思ってもみなかった。
全世界のエニグマ購入者が、皆これを見ているかと思うと、何だかいたたまれないような気分になる。
── おいおい、いいのかよ・・・
羽柴は目をシバシバさせ、心の中でそんな冗談をいいながら、ページを捲った。
今度はTシャツにジーンズ姿のナチュラルなショーンの姿が現れる。
それはどれも、羽柴が知っている顔だった。
何となくホッとする。
友人達と話しているうちに自然に零れる笑顔、ギターを抱える俯き加減の顔、寒さに鼻の頭を赤くして震えてる顔、髪の毛を水浸しにして行儀悪くTシャツまでビショビショにしてるやんちゃ坊主の顔。
そして横顔のアップは、ショーンの美しい瞳を最も強調していた。
濃いブラウン色の長い睫、ビー玉みたいな茜色の瞳。
なんとなく寂しげな表情を浮かべているのが自分のせいのような気がして、ズキリと羽柴の胸が痛んだ。
だがしかしその隣のページには、対照的に極上の笑顔を浮かべているショーンの顔のアップがある。
電話で話している時の顔。
── 誰と話してるのかな。
思わず羽柴が勘ぐってしまうほど、生き生きとして花の匂いが薫ってきそうなほど初々しいキュートな笑顔だった。
羽柴もつられて微笑みを浮かべる。
きっとこの写真を見た人なら、等しく同じように微笑みを浮かべただろう。
そんな力が、その写真にはあった。
そして羽柴が、ショーン・クーパー特集記事の最後のページを捲ると、羽柴の笑顔がピタリと強ばった。
その写真だけ、なぜかモノクロだった。
上半身裸のショーン。
あの刺青がばっちり写っている。
腰の付け根についている、上品な天使の羽根。
そして、腕越しに見える大きなショーンの瞳。
その何とも切ない表情を浮かべた瞳と、その腰の刺青が、グイグイと羽柴の心に入ってくるような気がした。
羽柴は、思わず右手で口を覆う。
先程とは比べものにならないぐらい赤面した。
頭にカッと血が登り、額に汗が浮かぶ。
羽柴は、さっき咄嗟に自分の頭に浮かんだ想像に、途轍もない恥ずかしさを覚えた。
そう、まるで・・・まるでそれは・・・。
── 愛してる。
耳元でショーンに熱っぽく囁かれているような気がした。
── こんなに俺は、コウのことを愛してるんだよ。
そう言われているような気がした。
思わず羽柴は、エニグマをバタンと閉じる。
呼吸が乱れて、どうにかなってしまいそうだった。
羽柴は苦しげに顔を顰め、みぞうちを押さえて大きく息を吐き出した。
また少し胃が痛む。
少し落ち着いてくると、何だか涙腺の奥がジワリとした。
決して涙は出てこなかったが、グラグラと感情は揺れていた。
羽柴は、手の中にあるエニグマをチラリと見る。
── 真実は、あのCDに込められてる・・・。
羽柴は、ショーンが言ったことを思い出した。
羽柴が、エニグマの最終ページを開くと、そこに同梱されたCDディスクがあった。
『answer』
そうポツリと書いてある。
── 答え。この中に、答えがあるということか。
羽柴はCDに手を当てた。
生憎この場ではCDを聴くことはできなかったし、まして隼人の部屋で聴く訳にはいかなかった。
このCDは、ひとり切りで聴きたかったからだ。とても人のいる場所で聴く気にはなれなかった。
なぜなら、それを聴いた時、自分がどういう反応をしてしまうのか全く分からなかったから。
けれどきっと絶対に感情的になってしまうに違いないと思った。
丁度、今の自分のように。
羽柴はエニグマを閉じ、額に押し当てると、ハァとまた大きく息を吐き出した。
何だか、CDを聴くのがやたら怖かった。
翌日の午前中、ライブハウス入りしたショーン達は、完全に本番と同じ流れでリハーサルを行った。
バックバンドがスタンバイした後、まずはノートの社員がショーンの経歴を軽く紹介し、ショーンがステージに出る。
飴色のギブソン・ES-355を肩に掛けたショーンは、挨拶代わりに『君が代』をギターで弾いた。そうまるで、ジミヘンが伝説のライブで合衆国国歌をギターで弾いた時のように。
これは昨日のリハーサルでも予定していなかったことなので、スタッフ一同驚いたのだが、逆にそのサプライズで大いに湧いた。
まだお客も入っていない段階から、これほど盛り上がるとは、不思議な雰囲気だった。
「どう? 上手く弾けてる?」
ショーンがホールに立っているスタッフにマイク越し声をかけると、皆口々に「good!」と歓声を上げ、親指を立てた。
ショーンは笑顔を浮かべる。
実は昨夜、ホテルに帰ってから遅くまで練習したのだ。
皆をびっくりさせようと思って。
それは、自分のためにここまで必死に準備してくれた日本のスタッフに対しての感謝の気持ちだった。
これまでのショーンに日本という国は縁遠い存在だったが、羽柴や今回の件を通じて多くの日本人と触れることになり、彼らの温かさを知った。ショーンにとってはもはや、特別な国だ。
「で、ここでショーンに軽く挨拶をしてもらうわね」
司会役の女性がそう言う。「OK」とショーンは返事をした。
今日の入場者は殆どが日本人なので、ショーンの言ったことは司会役のこの女性が通訳することになっている。
「挨拶が終わったら私は舞台袖に引っ込むから、後はショーンの良いようにライブをして」
「曲の間に俺が話すことは、通訳しないんだね」
「ええ、そうね。その度に私が出てくるのは滑稽だから」
「OK、分かった」
「でもライブが終わった後、軽くファンとの交流の時間を設けているから、その時にはまた出てくるわ。何人かファンをその場で選んで、ステージに上がってもらう。そこで質問をしてもらって、ショーンが答えて、握手して終わり。3人ぐらいを予定しているわ。大丈夫?」
「問題ないよ」
「ファン達にとっては忘れられない日になるわね、きっと」
司会の女性がそう言うと、ショーンも「俺にとっても忘れられない日になるよ、きっと」と答えた。
バルーンの一員としてではなく、まさしくショーン・クーパーとして初めて踏み出す第一歩。
そう、まさに記念すべき一日だ。
きっと忘れられない日になる。
どんな結果が出たにせよ。
ショーンは硬く心の中で思った。
その日、羽柴は一日だけ、隼人が通っているホスピスにボランティアとして手伝うことになった。
ここは真一が最期を過ごした特別な場所で、羽柴がここを訪れるのは初めてのことだった。
今まで、ここを訪れることさえ思い浮かばなかったのが不思議だった。
そのホスピスに現在入院している患者は、真一の病気と違い全てガン患者ばかりだったが、人生において最期の時を迎えている状況は、真一と同じである筈だ。
彼らと接するうち、なぜだか羽柴は心の中の変な蟠りが薄らいでいくのを感じた。
自然と羽柴らしい笑顔が戻ってくる。
そのお陰か、真一の前で見せていたやんちゃな少年臭い一面も出てくる。
羽柴と接することで患者が生き生きとしている様子を見て、婦長が羽柴に感謝の言葉を言ってくれたが、逆に羽柴はお礼を言いたい気持ちになった。
こんなにも澄んだ心地になれたのは、久しぶりのことだったから。
その点で言えば、その病院は不思議なところだった。
患者の中には、やはり『死』というものが目前に迫り、得体の知れない恐怖に怯えている患者もいたが、そういう人は入院して間もない人で、殆どの患者は穏やかな表情をしていた。
スタッフに聞くところによると、真一の場合は更に凄くて、他の患者やスタッフ達のよき相談相手となっていたらしい。真一のいた病室が『須賀クリニック』とあだ名されたこともあったらしい。
実に真一らしいと思った。
婦長さんが言うに、「真一さんは心の中が愛で満たされていたから、他の人にも分け与えることができたんでしょうね」とのことだった。
それを聞くと、少しホッとできる。
少なくとも、真一の最期は辛いだけの日々ではなかったということだ。
── むしろ、幸せそうでしたよ、とっても。
そう言われ、心の中が軽くなった。
隼人にも以前そんなことを言われていたが、こういうものは他人が客観的な視線で見てくれて出された結果の方が信頼できるから不思議だ。
その日の午後は、昼間の散歩で仲良くなった斉藤さんの病室を訪れた。
羽柴がジャズ好きと知って、誘われたのだ。
斉藤はまだ40代の大柄な男性で、肝臓ガンを患っていた。この病院にきてまだ三ヶ月というところだそうで神経過敏の状態と看護師は話していたが、羽柴にはそのように感じられなかった。
あれやこれやとジャズ談義に花を咲かせ、大いに笑い合った。
「羽柴さん、これ、聴いてみてくれ」
斉藤は、そう言ってベッド横の引き出しから、ポータブルタイプのCDプレイヤーを取り出した。そのプレーヤーにはイヤホンでなく、高価なヘッドフォンがついてある。
斉藤お気に入りのビル・エバンズトリオの軽快なピアノが流れ出てきた。なかなかのいい音だ。
「斉藤さん、いつもこれで聴いてるの?」
羽柴がそう訊くと、斉藤はエヘンと鼻を鳴らした。
「その方が音がいいんだよ。安っぽいスピーカーがついたデッキで聴くよりもね。ようは、出力機の性能よりもスピーカーの性能の善し悪しが求められる訳だから」
「なるほどねぇ~・・・」
羽柴はそう言いながら、ハッとした。
「あ、ねぇ、斉藤さん。これ、ちょっとの間、貸してくれないかな」
「え? ああ、いいけど」
「ごめん、すぐに返すから」
羽柴はそう言うと、斉藤の病室を出て、一人になれるところを探した。
これが結構難しくて、広い病院内とは言っても、なかなかそういう場所にお目にかかれない。
この病院には昨日来たばかりだし、病院の構造がよく分かってないので、当然と言えば当然だ。
病院内を彷徨ううち、知らない間に中庭に出ていた。
行儀良く並んだポプラの木が印象的な庭だった。
柔らかな日差しが差し込む穏やかな空間で、数カ所にベンチがある。
幸い、そこには誰もいなくて、羽柴は引かれるように一番側にあったベンチに腰掛けた。
そこに座って、何となく上を見上げる。
その時丁度心地いい風がそよそよと吹いて、羽柴の落ち着きをなくした心を穏やかにしてくれた。
── ああ、ここはなんて気持ちのいい場所だろう。
羽柴はしみじみと思った。
これまでの荒くれだった波が凪いでいくような感覚に襲われる。
羽柴は、そっと目を閉じて大きく息を吸い込み、微笑みを浮かべた。
── おっと、本来の目的を忘れるところだった。
羽柴は、不織布のケースからCDディスクを取り出した。
「お、よかった。曲がってない」
なんて言いながら、ポーダブルCDの中身を取り替える。
斉藤のCDディスクは、首にかけていたタオルの上にそっと置いた。
エニグマに同梱されていたCDは、いつかどこかで聴くチャンスがあるだろうかと思って今朝ボディバックの中に突っ込んできたが、意外にもすんなりそのチャンスが訪れて、羽柴は少々拍子抜けしていた。
昨夜はあんなにCDを聴くことが躊躇われたのに、今は全くそんな気持ちは覚えない。むしろ、今が絶好のチャンスとばかりに思えた。
今聴かなくて、いつ聴く。
そんな感じだ。
「『answer』か・・・」
羽柴は、CDのタイトルを呟いて、パタンとCDプレイヤーの蓋を閉じた。
若干震え気味の指先で再生ボタンを押すと、驚くべき事にまずピアノの音が羽柴の耳に飛び込んできたのだった。
隼人が完全に眠ったのを確認して、羽柴は隼人の家を抜け出した。
その手には、羽柴が旅行鞄に突っ込んできた未開封のエニグマ最新号があった。
どうしてそんな重たい物を荷物に突っ込んできたか自分でもよく分からなかったが、恐らく千帆への近況報告代わりに見せるつもりだったのだろうか。
けれどそのタイミングは逃してしまい・・・というよりはそんな気分になれず、今日まで鞄の底に仕舞われたままだった。
時間はもう深夜3時を過ぎており、流石の大都会東京もシンと静まり返っている。
夜の住宅地に、羽柴の歩く音だけが響き渡った。
羽柴は外灯を探して彷徨い歩き、気付くと児童公園に辿り着いていた。
足がふと止まる。
鉄製ではないが、ドラム缶に似た形状のセメント製の大きなドカンが表面を青いペンキで塗られ、ゴロリと公園の真ん中に転がされていた。
『 ── 公園のあのドラム缶。あそこによく隠れてた』
ふいに耳元でショーンの声がしたような気がした。
羽柴は真っ直ぐドカンまで歩き、中を覗く。
流石に玩具の隠し場所にはなっていなかったが、中は子ども達の落書きで溢れていた。
羽柴はふと微笑むと、その中に入って腰を下ろした。
外灯の光がうまいこと内部まで照らしてくれていて、光量は十分にある。
羽柴はひとつ大きく息を吐き出すと、エニグマを被っているビニールを破いた。
裏返して、表紙をゆっくりと撫でる。
東洋の神秘的な衣装に身を包んだショーンが、射るような瞳でこちらを見ていた。
まるで自分を責めているような視線。
あの日、涙に暮れながらケンカ別れした日のショーンの瞳を思い起こす。
あの何とも言えない、失望感に満ちた瞳。
だからこそ、羽柴は今日・・・いやもう昨日のことになるが、あの大型ビジョンで見たことが信じられなかったのだ。
── どうか、僕を信じてください・・・。
それが意味するものは、なんだろう。まだショーンが、自分に気持ちを残しているということなのだろうか。
あのブロンドの魅力的な女性と新たな人生を歩み始めた訳でなく、まだ自分のことを見つめてくれているというのか。
本来なら、『愛想が尽きた人間』だろうに。
羽柴は、息苦しさを感じながらページを捲った。
いろいろなショーンがいる。
今まで羽柴が見たことのない表情を浮かべているものもある。
「こんな顔をする時もあるんだ・・・」
おそらくキッチンで撮影したものだろう。
試し撮りのポラロイドでは分からなかった細かなディテールまでくっきりと印刷された誌面は、羽柴の目を捕らえて離さなかった。
物憂げな表情。
セクシーでいて、少し寂しげな。
ページを捲ると、同じキッチンの写真でもポーズが違うものが現れる。
泣きそうな顔つきでカメラを見つめている。
まるで苦しげに懇願しているような。
大きな瞳が熱く潤んでいて、その熱気に当てられてしまうようだ。
羽柴は頬を赤らめた。
ショーンのことを子どもだと思うことはもうなかったが、ここまで大人びた顔つきをするとは思ってもみなかった。
全世界のエニグマ購入者が、皆これを見ているかと思うと、何だかいたたまれないような気分になる。
── おいおい、いいのかよ・・・
羽柴は目をシバシバさせ、心の中でそんな冗談をいいながら、ページを捲った。
今度はTシャツにジーンズ姿のナチュラルなショーンの姿が現れる。
それはどれも、羽柴が知っている顔だった。
何となくホッとする。
友人達と話しているうちに自然に零れる笑顔、ギターを抱える俯き加減の顔、寒さに鼻の頭を赤くして震えてる顔、髪の毛を水浸しにして行儀悪くTシャツまでビショビショにしてるやんちゃ坊主の顔。
そして横顔のアップは、ショーンの美しい瞳を最も強調していた。
濃いブラウン色の長い睫、ビー玉みたいな茜色の瞳。
なんとなく寂しげな表情を浮かべているのが自分のせいのような気がして、ズキリと羽柴の胸が痛んだ。
だがしかしその隣のページには、対照的に極上の笑顔を浮かべているショーンの顔のアップがある。
電話で話している時の顔。
── 誰と話してるのかな。
思わず羽柴が勘ぐってしまうほど、生き生きとして花の匂いが薫ってきそうなほど初々しいキュートな笑顔だった。
羽柴もつられて微笑みを浮かべる。
きっとこの写真を見た人なら、等しく同じように微笑みを浮かべただろう。
そんな力が、その写真にはあった。
そして羽柴が、ショーン・クーパー特集記事の最後のページを捲ると、羽柴の笑顔がピタリと強ばった。
その写真だけ、なぜかモノクロだった。
上半身裸のショーン。
あの刺青がばっちり写っている。
腰の付け根についている、上品な天使の羽根。
そして、腕越しに見える大きなショーンの瞳。
その何とも切ない表情を浮かべた瞳と、その腰の刺青が、グイグイと羽柴の心に入ってくるような気がした。
羽柴は、思わず右手で口を覆う。
先程とは比べものにならないぐらい赤面した。
頭にカッと血が登り、額に汗が浮かぶ。
羽柴は、さっき咄嗟に自分の頭に浮かんだ想像に、途轍もない恥ずかしさを覚えた。
そう、まるで・・・まるでそれは・・・。
── 愛してる。
耳元でショーンに熱っぽく囁かれているような気がした。
── こんなに俺は、コウのことを愛してるんだよ。
そう言われているような気がした。
思わず羽柴は、エニグマをバタンと閉じる。
呼吸が乱れて、どうにかなってしまいそうだった。
羽柴は苦しげに顔を顰め、みぞうちを押さえて大きく息を吐き出した。
また少し胃が痛む。
少し落ち着いてくると、何だか涙腺の奥がジワリとした。
決して涙は出てこなかったが、グラグラと感情は揺れていた。
羽柴は、手の中にあるエニグマをチラリと見る。
── 真実は、あのCDに込められてる・・・。
羽柴は、ショーンが言ったことを思い出した。
羽柴が、エニグマの最終ページを開くと、そこに同梱されたCDディスクがあった。
『answer』
そうポツリと書いてある。
── 答え。この中に、答えがあるということか。
羽柴はCDに手を当てた。
生憎この場ではCDを聴くことはできなかったし、まして隼人の部屋で聴く訳にはいかなかった。
このCDは、ひとり切りで聴きたかったからだ。とても人のいる場所で聴く気にはなれなかった。
なぜなら、それを聴いた時、自分がどういう反応をしてしまうのか全く分からなかったから。
けれどきっと絶対に感情的になってしまうに違いないと思った。
丁度、今の自分のように。
羽柴はエニグマを閉じ、額に押し当てると、ハァとまた大きく息を吐き出した。
何だか、CDを聴くのがやたら怖かった。
翌日の午前中、ライブハウス入りしたショーン達は、完全に本番と同じ流れでリハーサルを行った。
バックバンドがスタンバイした後、まずはノートの社員がショーンの経歴を軽く紹介し、ショーンがステージに出る。
飴色のギブソン・ES-355を肩に掛けたショーンは、挨拶代わりに『君が代』をギターで弾いた。そうまるで、ジミヘンが伝説のライブで合衆国国歌をギターで弾いた時のように。
これは昨日のリハーサルでも予定していなかったことなので、スタッフ一同驚いたのだが、逆にそのサプライズで大いに湧いた。
まだお客も入っていない段階から、これほど盛り上がるとは、不思議な雰囲気だった。
「どう? 上手く弾けてる?」
ショーンがホールに立っているスタッフにマイク越し声をかけると、皆口々に「good!」と歓声を上げ、親指を立てた。
ショーンは笑顔を浮かべる。
実は昨夜、ホテルに帰ってから遅くまで練習したのだ。
皆をびっくりさせようと思って。
それは、自分のためにここまで必死に準備してくれた日本のスタッフに対しての感謝の気持ちだった。
これまでのショーンに日本という国は縁遠い存在だったが、羽柴や今回の件を通じて多くの日本人と触れることになり、彼らの温かさを知った。ショーンにとってはもはや、特別な国だ。
「で、ここでショーンに軽く挨拶をしてもらうわね」
司会役の女性がそう言う。「OK」とショーンは返事をした。
今日の入場者は殆どが日本人なので、ショーンの言ったことは司会役のこの女性が通訳することになっている。
「挨拶が終わったら私は舞台袖に引っ込むから、後はショーンの良いようにライブをして」
「曲の間に俺が話すことは、通訳しないんだね」
「ええ、そうね。その度に私が出てくるのは滑稽だから」
「OK、分かった」
「でもライブが終わった後、軽くファンとの交流の時間を設けているから、その時にはまた出てくるわ。何人かファンをその場で選んで、ステージに上がってもらう。そこで質問をしてもらって、ショーンが答えて、握手して終わり。3人ぐらいを予定しているわ。大丈夫?」
「問題ないよ」
「ファン達にとっては忘れられない日になるわね、きっと」
司会の女性がそう言うと、ショーンも「俺にとっても忘れられない日になるよ、きっと」と答えた。
バルーンの一員としてではなく、まさしくショーン・クーパーとして初めて踏み出す第一歩。
そう、まさに記念すべき一日だ。
きっと忘れられない日になる。
どんな結果が出たにせよ。
ショーンは硬く心の中で思った。
その日、羽柴は一日だけ、隼人が通っているホスピスにボランティアとして手伝うことになった。
ここは真一が最期を過ごした特別な場所で、羽柴がここを訪れるのは初めてのことだった。
今まで、ここを訪れることさえ思い浮かばなかったのが不思議だった。
そのホスピスに現在入院している患者は、真一の病気と違い全てガン患者ばかりだったが、人生において最期の時を迎えている状況は、真一と同じである筈だ。
彼らと接するうち、なぜだか羽柴は心の中の変な蟠りが薄らいでいくのを感じた。
自然と羽柴らしい笑顔が戻ってくる。
そのお陰か、真一の前で見せていたやんちゃな少年臭い一面も出てくる。
羽柴と接することで患者が生き生きとしている様子を見て、婦長が羽柴に感謝の言葉を言ってくれたが、逆に羽柴はお礼を言いたい気持ちになった。
こんなにも澄んだ心地になれたのは、久しぶりのことだったから。
その点で言えば、その病院は不思議なところだった。
患者の中には、やはり『死』というものが目前に迫り、得体の知れない恐怖に怯えている患者もいたが、そういう人は入院して間もない人で、殆どの患者は穏やかな表情をしていた。
スタッフに聞くところによると、真一の場合は更に凄くて、他の患者やスタッフ達のよき相談相手となっていたらしい。真一のいた病室が『須賀クリニック』とあだ名されたこともあったらしい。
実に真一らしいと思った。
婦長さんが言うに、「真一さんは心の中が愛で満たされていたから、他の人にも分け与えることができたんでしょうね」とのことだった。
それを聞くと、少しホッとできる。
少なくとも、真一の最期は辛いだけの日々ではなかったということだ。
── むしろ、幸せそうでしたよ、とっても。
そう言われ、心の中が軽くなった。
隼人にも以前そんなことを言われていたが、こういうものは他人が客観的な視線で見てくれて出された結果の方が信頼できるから不思議だ。
その日の午後は、昼間の散歩で仲良くなった斉藤さんの病室を訪れた。
羽柴がジャズ好きと知って、誘われたのだ。
斉藤はまだ40代の大柄な男性で、肝臓ガンを患っていた。この病院にきてまだ三ヶ月というところだそうで神経過敏の状態と看護師は話していたが、羽柴にはそのように感じられなかった。
あれやこれやとジャズ談義に花を咲かせ、大いに笑い合った。
「羽柴さん、これ、聴いてみてくれ」
斉藤は、そう言ってベッド横の引き出しから、ポータブルタイプのCDプレイヤーを取り出した。そのプレーヤーにはイヤホンでなく、高価なヘッドフォンがついてある。
斉藤お気に入りのビル・エバンズトリオの軽快なピアノが流れ出てきた。なかなかのいい音だ。
「斉藤さん、いつもこれで聴いてるの?」
羽柴がそう訊くと、斉藤はエヘンと鼻を鳴らした。
「その方が音がいいんだよ。安っぽいスピーカーがついたデッキで聴くよりもね。ようは、出力機の性能よりもスピーカーの性能の善し悪しが求められる訳だから」
「なるほどねぇ~・・・」
羽柴はそう言いながら、ハッとした。
「あ、ねぇ、斉藤さん。これ、ちょっとの間、貸してくれないかな」
「え? ああ、いいけど」
「ごめん、すぐに返すから」
羽柴はそう言うと、斉藤の病室を出て、一人になれるところを探した。
これが結構難しくて、広い病院内とは言っても、なかなかそういう場所にお目にかかれない。
この病院には昨日来たばかりだし、病院の構造がよく分かってないので、当然と言えば当然だ。
病院内を彷徨ううち、知らない間に中庭に出ていた。
行儀良く並んだポプラの木が印象的な庭だった。
柔らかな日差しが差し込む穏やかな空間で、数カ所にベンチがある。
幸い、そこには誰もいなくて、羽柴は引かれるように一番側にあったベンチに腰掛けた。
そこに座って、何となく上を見上げる。
その時丁度心地いい風がそよそよと吹いて、羽柴の落ち着きをなくした心を穏やかにしてくれた。
── ああ、ここはなんて気持ちのいい場所だろう。
羽柴はしみじみと思った。
これまでの荒くれだった波が凪いでいくような感覚に襲われる。
羽柴は、そっと目を閉じて大きく息を吸い込み、微笑みを浮かべた。
── おっと、本来の目的を忘れるところだった。
羽柴は、不織布のケースからCDディスクを取り出した。
「お、よかった。曲がってない」
なんて言いながら、ポーダブルCDの中身を取り替える。
斉藤のCDディスクは、首にかけていたタオルの上にそっと置いた。
エニグマに同梱されていたCDは、いつかどこかで聴くチャンスがあるだろうかと思って今朝ボディバックの中に突っ込んできたが、意外にもすんなりそのチャンスが訪れて、羽柴は少々拍子抜けしていた。
昨夜はあんなにCDを聴くことが躊躇われたのに、今は全くそんな気持ちは覚えない。むしろ、今が絶好のチャンスとばかりに思えた。
今聴かなくて、いつ聴く。
そんな感じだ。
「『answer』か・・・」
羽柴は、CDのタイトルを呟いて、パタンとCDプレイヤーの蓋を閉じた。
若干震え気味の指先で再生ボタンを押すと、驚くべき事にまずピアノの音が羽柴の耳に飛び込んできたのだった。
0
お気に入りに追加
51
あなたにおすすめの小説
元体操のお兄さんとキャンプ場で過ごし、筋肉と優しさに包まれた日――。
立坂雪花
恋愛
夏休み、小日向美和(35歳)は
小学一年生の娘、碧に
キャンプに連れて行ってほしいと
お願いされる。
キャンプなんて、したことないし……
と思いながらもネットで安心快適な
キャンプ場を調べ、必要なものをチェックしながら娘のために準備をし、出発する。
だが、当日簡単に立てられると思っていた
テントに四苦八苦していた。
そんな時に現れたのが、
元子育て番組の体操のお兄さんであり
全国のキャンプ場を巡り、
筋トレしている動画を撮るのが趣味の
加賀谷大地さん(32)で――。
幸せの温度
本郷アキ
BL
※ラブ度高めです。直接的な表現もありますので、苦手な方はご注意ください。
まだ産まれたばかりの葉月を置いて、両親は天国の門を叩いた。
俺がしっかりしなきゃ──そう思っていた兄、睦月《むつき》17歳の前に表れたのは、両親の親友だという浅黄陽《あさぎよう》33歳。
陽は本当の家族のように接してくれるけれど、血の繋がりのない偽物の家族は終わりにしなければならない、だってずっと家族じゃいられないでしょ? そんなのただの言い訳。
俺にあんまり触らないで。
俺の気持ちに気付かないで。
……陽の手で触れられるとおかしくなってしまうから。
俺のこと好きでもないのに、どうしてあんなことをしたの? 少しずつ育っていった恋心は、告白前に失恋決定。
家事に育児に翻弄されながら、少しずつ家族の形が出来上がっていく。
そんな中、睦月をストーキングする男が現れて──!?
噛痕に思う
阿沙🌷
BL
αのイオに執着されているβのキバは最近、思うことがある。じゃれ合っているとイオが噛み付いてくるのだ。痛む傷跡にどことなく関係もギクシャクしてくる。そんななか、彼の悪癖の理由を知って――。
✿オメガバースもの掌編二本作。
(『ride』は2021年3月28日に追加します)
恋した貴方はαなロミオ
須藤慎弥
BL
Ω性の凛太が恋したのは、ロミオに扮したα性の結城先輩でした。
Ω性に引け目を感じている凛太。
凛太を運命の番だと信じているα性の結城。
すれ違う二人を引き寄せたヒート。
ほんわか現代BLオメガバース♡
※二人それぞれの視点が交互に展開します
※R 18要素はほとんどありませんが、表現と受け取り方に個人差があるものと判断しレーティングマークを付けさせていただきますm(*_ _)m
※fujossy様にて行われました「コスプレ」をテーマにした短編コンテスト出品作です
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
Take On Me
マン太
BL
親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。
初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。
岳とも次第に打ち解ける様になり…。
軽いノリのお話しを目指しています。
※BLに分類していますが軽めです。
※他サイトへも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる