満腹インフォーマル

狂言巡

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アルコール

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 スツールに腰掛け、黒松歌留多はビールを舐めるような速度で口に運びながら、友人達の下手くそなビリヤードを傍観していた。
 都内のプールバー。コンクリート打ちっぱなしの半地下。薄暗い照明。暗い店内の中に映えるように濃いオレンジの照明で照らされたビリヤード台、台から遠すぎず近すぎずの絶妙な距離感のバーカウンター。その小洒落た雰囲気は、垢抜けたい若者が通いたくなるような、そんな空間であった。
 歌留多は、酒にもビリヤードにも興味はない。今日は従兄で、同じ大学に通う黒松雪之丞くろまつゆきのじょうにたまたま誘われて参加しているだけだった。大学の友人達が全員二十歳を越え、合法的に酒が飲めるようになった記念にと、無理やり連行された。
 それまでも同じ面子でこっそり酒盛りはしていたのだが、全員でおおっぴらに飲み歩けるようになったのを祝っての会とのことで、歌留多は苦い顔をしながらも付き合ってやった。雪之丞とその友人である冬野貫弥ふゆのかんやが、どうしてもというのだから仕方がない。我が道を行く歌留多とて、付き合いくらいは弁えている。ただ、その『付き合い』に付き合ってやるに足る人間が人より少ないだけだ。
 雪之丞も貫弥も、こんな洒落た店を知っているわけがない。雪之丞と食事する時は大抵ファミレスか喫茶店、貫弥とは居酒屋だ。今日の店のチョイスは、歌留多はよく知らない。御伽噺の魔女めいた服を着た、妙ちきりんな女だ。いつもの面子に入ってはいるが、重ねて言う、よく知らない。そして興味もない。
 だが、雪之丞と親しい人間のようなので、歌留多は彼女を最低限ならば付き合ってやってもいい人間と認識していた。今も、名も知らぬ魔女もどきはビリヤード台で貫弥と雪之丞と、はしゃいでいる。

「歌留多はビリヤードをやらねぇの?」
「興味ないわ」

 台から離れ、バーカウンターの隅からゲームを眺めていた歌留多に話しかけたのは、学科が同じでほとんどの講義を同じくする、神無月熊三かんなづきくまぞうだった。講義もゼミも同じためか、日頃から何かと話しかけてくる男で、初めは相手にしていなかった。だが、どれだけ邪険にしても、馬鹿の一つ覚えの如くしつこく話しかけてくるものだから、最近は歌留多の方が根負けして少しぐらいは会ずつ話をするようになっていた。

「歌留多とか、似合いそうな気がすんだよな」

 熊三は笑いながら、ごく自然な動作で歌留多のグラスを手に取り、至極当然といった様子で彼女のビールを飲み干した。

「ちょっと、それは私のお酒よ」
「あ、わりーわりー」

 飲み干し、歌留多に指摘されて気付いた熊三は、申し訳なさそうな顔で謝罪し、しかしすぐに笑みを浮かべると、次に何を頼むかと聞いてきた。歌留多は酒に詳しくはないし、強くもない。普通のビールならば問題ないが、これ以上は酔ってしまう気がした。
 何かソフトドリンクはないかとバーテンダーに聞こうと思うより先に、熊三が勝手にカクテルを頼んでいた。何を頼むかと問うたくせに、熊三は歌留多の意見も聞かずに、にこにことバーテンダーと朗らかに会話している。だが、別にその会話を邪魔してまで飲みたい物があるわけでもない。
 歌留多は黙ったままその様子を、ゲームを眺めるのと同じだけの冷やかさで見やり、カウンターに頬杖をついた。勝手に事を進められ、むすりと不満げな顔を見せた歌留多に、熊三はバーテンダーからカクテルグラスを受け取りながら、曖昧に笑った。脚の長いグラスに満たされた不透明の琥珀色を、歌留多は矯めつ眇めつしながらも、手を付けた。

「甘い……」

 一口飲んでみれば、コーヒー牛乳に少しばかり変わった香りづけがされているような味で、飲みやすい。

「歌留多、コーヒー牛乳とか好きだろい?」

 熊三に聞かれ、歌留多は嫌いな味ではないので何も言わず、再びグラスに口を付けた。しばし、何を話すでもなくゲームの行方を見守る。
 とりあえず恰好つけたい、ビリヤードって大人なカンジでイケてると錯覚している若者達が繰り広げるゲームは、ひたすら冗長で下手くそで。歌留多はスラックスのポケットから携帯電話を取り出し、時間を確認した。遅くまで友人達と戯れていても問題はないのだが、恋人が心配しているかと思い、フラップを開く。午後十一時。思ったよりも、早い。
 念のため、現在地といつ帰れるか分からない旨のメールを送る。恋人は基本夜行性、まだ寝てはいないだろう。伝えたからといって、どうということもない。ただの自己満足。
 送信完了の画面に変わったのと同時に、携帯電話をポケットにしまう。ちらりちらりと、熊三が歌留多の動作を気にしていたのに気付いていたが、歌留多は無視した。グラスを引き寄せ、甘い液体を嚥下する。どろりと絡み付くように喉を通り過ぎ、甘い振りをして喉を焼いていく。少しずつ意識が酒精アルコールで乱される感覚に侵されはじめ、歌留多はグラスを置いた。

(見かけより強いの……)

 歌留多が火照る頬を押さえれば、熊三はにこりと楽しそうに笑った。その笑顔が無性に気に食わず、歌留多は盛大に顔を顰めてそっぽを向いた。

「ちょっと、黒松さん。アナタもやりなさいよ!」

 タイミングよく、よく知らないゴスロリの女に誘われたが、歌留多はその声を聞こえないふりをした。けれど、すぐにほろ酔い気分の貫弥と雪之丞に腕を掴まれ、ビリヤード台に連れて行かれた。
 キューを押し付けられ、歌留多は仕方なしに受け取った。ど素人の貫弥に構え方を、同じく今日がビリヤード初体験の雪之丞に球の突き方を教わり、歌留多はしぶしぶキューを構えた。狙いを定め、唇を赤い舌で舐める仕草が、凛として美しい。オフショルダーの白シャツに黒いスラックスというシンプルな格好の歌留多がキューを構え、緑の台の上に乗り上げる姿はハスラーのようで、洒脱な店によく映える。
 スカッと空気を切るような虚しい音が店内に響く。残念ながら腕の方はハスラーとは到底言えなかった。まともにキューを球にぶつけることすら出来ないからだ。球は全て元の場所に置かれたまま。
 気まずそうに唇を噛む歌留多を、魔女もどきは吹き出し、貫弥と雪之丞がフォローする。二人も、つい先程まで球を突くことすら出来なかったのだ。空振りの後の微妙な空気を身を以て体験している二人は、同じ体験をしてしまった彼女に、ひたすら優しかった。

「下手くそねぇ、黒松さん!」

 歌留多の腕前を嘲笑した魔女もどきは、用済みとばかり追い出して台へと移動し、キューを構えた。しかし彼女も歌留多の腕を笑えるほどの腕ではなく、球に当たりはしたものの、いたずらに緑の上に球を散らかすだけであった。
 いつの間にか、ゲームは歌留多、雪之丞、貫弥対魔女もどき(本名はイキシア・ラナンキュスと言うが、歌留多が覚えているか定かではない)と後から参戦した熊三のチーム戦となっていた。
 まさしく五十歩百歩、まさしく団栗の背比べ。第三者なら恥ずかしくなってくる戦いは、しかし後少しでやっと終わろうとしていた。イキシア・熊三チーム優勢。その性格そのままに慎重にキューを動かし、奇蹟は起こらずに失敗した熊三が、照れて頭を掻きながら歌留多にキューを手渡した。
 ここで歌留多が成功すれば歌留多のチームの勝ちだが、失敗すればイキシア・熊三チームの勝利が決定的なものになる。別に、負けて何かを失うわけではない。何かを賭けているわけでもなく、何が起こるでもない。しかし、後ろに控えている貫弥と雪之丞がこれまで繋いできたゲームを、ここで終わらせるわけにはいかないという意地はあった。
 キューを手に馴染ませるように数度握り直し、台に手をついた歌留多を、背後から親しい声が制する。

「嗚呼、駄目ですよ、歌留多さん。それではうまく球は突けません」

 耳に馴染んだ、そして想定外の声に、歌留多は驚きに目を丸くして素早く振り返った。

「夏樹さん!」

 振り返った先には、バーカウンターに凭れる恋人の姿。名を、清水夏樹しみずなつきという。
 チャコールグレーのスリーピースに、握りの部分に鷹が施されたステッキ。細身だが筋肉を皮膚の内側に着けた線の細い体質により、余計に背が高く見える。日本ではなかなかお目にかかれない英国紳士然としたスタイル。浮世離れした風体の夏樹によく似合っていた。夏樹の姿を見慣れたはずの歌留多でさえ思わず見惚れる程、その様は瀟洒で目を引いた。
 他の面子は、歌留多の同居人である夏樹の突然の登場に、驚く素振り一つ見せなかった。妹分の送迎と称して、大学にも、時には飲み会の席にも顔を出して歌留多を浚っていく彼の過保護を知っているからだ。貫弥と雪之丞はお迎えご苦労様と微笑ましく二人を見守り、イキシアは過保護だと馬鹿にし、熊三だけが苦く笑っていた。
 彼が場に登場すると、歌留多の意識はすぐに夏樹にだけ向けられ、二人の世界が構築される。今日もまた例外ではなく、歌留多の視界から既に他の面子は消え失せていた。

「偶然近くに用事がありましってね」

 車だからとバーテンダーにペリエを頼み、ペリエの瓶とグラス、そのグラスにはライムを添えてもらって、ゆったりとした歩みでビリヤード台の傍に立ち尽くす歌留多に歩み寄った。

「ビリヤードですかい」

 台の横に設置された背の高いテーブルにグラスと瓶を置き、ペリエをグラスにあける。ぷちぷちと泡の弾ける軽い音がして、グラスに無数の気泡が張り付いた。その手を覆う手袋を外し、グラスの縁に飾られたライムを絞り軽くステアして、喉を潤す。ほんの少し口を付けただけで、夏樹はグラスを歌留多に手渡した。同時に、彼女の手からごくさりげない動作でキューを奪う。
 歌留多が渡されたグラスを手にすれば、夏樹は満足そうに目を細め、飲みなさいと告げた。自分のためでなく、少し酔いが回っている歌留多のために注文したペリエ。アルコールで喉が渇いていたのか、いつになく早いペースでグラスを傾ける歌留多の頬を、夏樹は小さく笑んで撫でた。
 夏樹の指に残ったライムの香りに、醒めかけていた酔いがぶり返したように躰が熱くなるのを感じ、歌留多は彼の手から逃れて、グラスのペリエを飲み干した。歌留多のわかりやすい反応に笑みを深めた夏樹は、ゆっくりと台の上の球の並びに視線を動かし、くつくつと笑った。素人丸出しの、散らかしただけの球の並び。球は一つもポケットしていない。

「歌留多さんが勝利を得るには、的確な配置ですね。――でも、この勝負、私に譲って頂けませんか」

 言いながら、夏樹はキューを台の上に置き、上着を脱いだ。上着の下、三つ揃いのスーツのベストは、夏樹の細身の体型にぴったりフィットし、その姿をさらに優雅に見せている。上着を歌留多に渡し、一目で仕立てがいいとわかるシャツを腕まくりすると、フォーマルな雰囲気が一気に失せて、妖しくも野性味を帯びた佇まいに変わる。
場馴れした雰囲気を漂わせる夏樹に、歌留多は渡された上着をぎゅうっと抱えて、睨むように目を眇めた。暗い照明の下、その頬の赤みが少しばかり増しているのは気のせいではない。

「あら、保護者サンの参戦?」

 イキシアの挑発に、夏樹は優雅な愛想笑いで、黙らせた。キューに指を這わせ、身を屈める。その指は女を愛撫するかのように優しく、妖しくキューに触れる。左手を台の上に置き、人差し指と親指の輪の中にキューを通す。低く構えると、ベストの下、肩の周囲の筋肉の動きがよく見えた。
 本職さながらの美しい姿勢に、その場の誰もが息を呑む。先程までの、まったりお遊び気分の空気は失せ、息苦しい程の緊張感が場に満ちていた。誰も言葉を発せぬ、動くことすらできぬ空気の中、一人夏樹だけが悠然と笑みを浮かべている。パステル・ブルーの瞳が鋭く光り、ゆるりと細められる。すっと一つ息を吸うと同時に、肩が盛り上がった。
 一閃。素早く動いたキューは球を狙い通りの場所へと動かし、ばらばらに散らばっていた球はお互いぶつかり合い、弾き合って、次次にポケットへと吸い込まれていく。カラーの的球は全てポケットに収まり、緑の台の上に残ったのは、手玉のみ。

「さて、これで歌留多さんの勝ちですね」

 その圧倒的な技量に目を丸くし、言葉を失っている面面を笑い、夏樹はシャツの袖を元に戻し、他の面子と同じように呆けている歌留多の手から、そっと上着を引き取った。
 上着を羽織れば、つい先程まで纏っていた野性味は失せ、紳士然とした佇まいに戻る。手袋をし、テーブルの脚に立てかけておいたステッキを手に取れば、今しがたスーパーショットを決めたとは思えない程の静けさに変わった。夏樹は、未だフリーズしたままの恋人の背に腕を回し、店の出口へとエスコートする。
 その際、バーカウンターに残されたカクテルグラスに目を止め、夏樹は微かに美しい眉を顰めた。歌留多が飲んでいたカクテル。それを彼女が自分から頼むとも思えない。大方、誰かが彼女のために作らせたのだろう。その誰かとは、未だ固まっている男女の中にいる。歌留多に狂おしい恋情を、夏樹に暗い妬心ジェラシーを橙色の瞳に浮かべる男。自分の力量もしらないで動いていいのは、若者の特権だ。そんな若造が好みそうな、捻っているのかストレートなのか、独りよがりの微妙な手管。

(あの子が知るはずもないのに、よくやるものだ)

 そのカクテルの名は、『オーガズム』。それをこの乙女に望むのは、横恋慕する男には無理なこと。顰めた眉は、しかしすぐに嘲笑の形に変わる。夏樹は空回る若さを嘲笑い、全員分の支払いよりも更に多い額をカウンターに置いて、店を出た。





 結局、夏樹の愛車の助手席に乗せられ、シートベルトを締めてもらうまで、歌留多のフリーズは融けなかった。自分がどこにいるのか解らず、ぱちぱちと目を瞬かせて周囲を見回す歌留多の頭を幼子にするように撫で、夏樹はゆっくりと車を滑らせはじめた。店の傍の駐車場から、すぐに大きな道路へと出る。

「夏樹さん、ビリヤードが得意なの?」

 最近導入された青色の街灯に顔を顰め、歌留多は隣で楽しそうに運転する夏樹に尋ねた。年上の恋人は楽器でも弾くようなタッチでハンドルを叩き、視線は行きかう車に目を置いたまま、緩慢に首を傾げた。

「得手かと問われると困りますが、まあ、昔少しばかり齧っていたので……」

 年下の恋人には隠しておきたい武勇伝のいくつかが頭をよぎり、曖昧に返事をすれば、歌留多は言葉の続きを促すように夏樹の顔を覗き込む。ちょうど信号が赤に変わり、車は静かに停止した。じっと顔を凝視する歌留多に向き直り、夏樹は肩を竦め、ふざけてウィンクしてみせた。

「私だって、昔は結構ヤンチャしていたものです」
「貴男が?」

 夏樹と『ヤンチャ』という言葉がどうしても結びつかず、歌留多は怪訝そうな顔で、笑う夏樹を見据える。

「ええ、私もヤンチャ小僧だったんですよ」

 頷き頷き、夏樹は皮手袋を纏った指で歌留多に近づくように指示を出す。その指の動きに逆らわず、歌留多は運転席の夏樹の方へと身を乗り出した。ほんのり感じる夏樹の香水の残り香にベッドの上でのことを思い出し、歌留多はうっかり身を硬直させた。それをわかっていて、夏樹は一層低めた声で追い打ちをかける。

「今夜は、ベッドの上で、すこぅし、ヤンチャしてもよろしいですか?」

 薄紅に染まった頬を吐息でさらに染めるように、低く甘く囁けば。歌留多は夏樹の思惑とは裏腹に、じっとりと夏樹を睨め付けた。おやと軽く目を瞠ると同時に信号が変わり、夏樹は姿勢を正し、視線を前方へと戻した。

(不発か。残念……)

 誘いに乗ってくれなかった歌留多に少しばかり拗ねて唇を尖らせていると、歌留多は夏樹を睨み付けたまま、口を開いた。

「少しと言わず、盛大にヤンチャされたらいいじゃない?」
「っ!」

 思いがけない歌留多からの大胆なお誘いの言葉をかけられた。夏樹は運転中にも関わらず、つい歌留多の顔を見てしまった。視線が絡み合ったと同時に、歌留多の花びらのような唇に不敵な笑みが浮かぶ。ふふんと顎を上げた彼女に、夏樹は動揺した心を悟られないよう静かに息を吐き、前を向く。

(さて、お許しも出たことだし……)

 動揺させられた事に屈辱を感じ、ならばヤンチャの限りを尽くしてやろうと、変態紳士があれやこれやと考えていることも知らず、歌留多は久しぶりに夏樹に一矢報いたと薄く笑い、恋人から視線を外して、流れていく景色を眺めていた。二人の早い鼓動は収まる事を知らないまま、車は静かに家路を辿っていく。
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