文バレ!③

宇野片み緒

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第十章 それぞれの理由

「大丈夫だよ」

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 日生大の保健室には俺たちの他に、美々実さんと欅平さん、歌仙の六人、そして古井先生も駆けつけていて、ソウルの一家も祈るような顔で立っていた。俺の母さんも訪れている。万葉高校は来なかった。万葉との遭遇を避けて客席にいなかった聖コトバも、この事件は知らないままだ。ニチセイのメンツは、この大学の付属高校ということもあり会場に留まる任がある。俺はソウルのベッドにすがりつき、声を殺して泣いていた。
「先生、山ノ内くんは大丈夫なのかね」
 古井先生の不安げな声が、かすかに聞こえる。
「ええ、ただの貧血です。しばらく休めば大丈夫ですよ」
 日生大の保健の先生はソウルについてそう優しく述べ、内田の足の手当てに移った。
「あーらら、痛そう。文芸バレーボールってそんなに激しいスポーツなの?」
「違います。卑怯なやつに転ばされてこのザマです。くたばれ万葉ですよね」
「まー、ひどいことする子がいるのねー」
 聞こえる音は全て、どこか異世界を転がっていくように感じられた。突っ伏した背中を越えて右から左に流れていく。わずかに目を上げて、状況を伺う。幼少期から顔なじみであるソウルの家族が暗い顔で、目覚めない少年を見つめていた。祖父母と、父母と、兄、姉、妹。
 俺の母さんは、ボーイズラブ専門の漫画家・キャサリン花子その人だが、さすがに今ばかりは自重していて、そうゆう言葉を口走ることはしない。だがショッキングピンクの余所行きワンピースと縦ロールの黒髪はどうにもならず、この部屋では非常に感じが悪かった。母さんはサングラスを外して、育ちの良さを感じさせる仕草で襟ぐりに引っ掛けた。
「心配ですわ。あのときのようなことに、ならなければいいのだけれど」
 憂いのある顔でうつむく。念のため言うが、家での口調はもっと普通だ。
「ちょいとマトペさん、泣きすぎ泣きすぎ。通夜みたいで縁起悪いよ」
 からかうようにジョージが笑って頭を撫でてきたが、うるせえ、といつものように言い返す気は沸かなかった。恐怖が治まらない。
「いくら幼なじみでも、うろたえすぎなんだぜキャプテン」
 速見が元気づけるように背をバシッと叩いてきた。それでも、怖い、と口をついて出た。弱気になるのは俺らしくないのに、とまらなかった。
「だって、もしソウルが、今回は、もう俺のこと、思い出してくれなかったら……」
 大丈夫だから言うなという約束を、破ってしまった。もう限界だ。
 あんな過去がある幼なじみが、文芸バレーボール部に入りたいと言ったとき、もちろん俺はとめようとした。高校一年生の春、昼休みの教室での会話。
「文バレ部にむりやり入部させられた?」
 ぽかんとした表情までも、ソウルは穏やかだ。白い肌にそばかすで、少食そうな印象に似つかわしくない大きな弁当箱をつつきながら、肩を震わせて大笑いしていた。
「そういえば、そんな新球技もあったな。なんで小野が勧誘されてるんだよ」
「この文系っぽい名前のせいだよ。なんか顧問の、古典の先生が必死になって部員を集めてるらしい。最低でも六人いないと全国大会に出れないんだと」
 まあ入れられたからには本気でやるけどな、と付け足した。「勧誘理由!」とソウルはさらに笑う。何がそんなに面白いのか、いつも本当によく笑う。それから、
「小野がいるなら、俺も文バレ部にしようかな」
 突拍子もない発言をした。つい反射的に返す。
「え、おい、運動部だぞ」
「それでも文芸だろ。実は興味あった。俺一人ならちょっと行きづらかったけど……」
「やめとけよッ、お前は真剣勝負あぶないだろ!」
 あ、言ってしまった、と顔色を窺うと、ソウルは苦笑して薄い色の瞳を曇らせた。
「そんなの、もう昔の話じゃないか」
「まあ、そうだけど」
 頷いてみせると、幼なじみは安心する笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。それに競技かるたと違って、文芸バレーボールはチームプレーだろ。きっと小野がいつも助けてくれるから、俺にピンチは来ない」
「それは他力本願すぎるだろ」
 色素の薄い髪を軽く叩くと、やつは朗らかに目尻を下げた。それから、
「うん。半分は冗談だけど」
 と前置きをして、大きな弁当を机に置いた。
「頼んだ小野」
 楽しげに伸ばされた手を、強気な笑みで取った。
「任せろソウル」
 その約束は、半分は本気だった。

 あんなに頼ってくれていたのに。俺は、守れなかった。
「キマシタワー! げふんげふん、おほほ失礼!」
 おい母さん! ソウルはベッドに横たわったまま意識が戻らない。
「山ノ内、起きろなんだぜ!」
 急に速見がベッドごと勢いよく持ち上げた。
「うっわ」
 すがりついていた俺は引き離されて、しりもちをつく。寝床が激しく揺れている。ソウルの家族が揃ってメガネを光らせ顔を真っ青にして、うろたえながら手を伸ばす。
「ややや、やめ、やめ」
「今こそ記憶が消えていっている最中に違いないんだぜ。全員手を貸してくれ。急いで起こすぜ、手遅れになる前に山ノ内を助けるんだぜ!」
 速見は懸命に言った。なんだその勝手な設定。欅平さんが首根っこを持ち吊り下げ叫ぶ。
「立て、立つんだ山ノ内。おめえのソウルはそんなもんか」
 おいこらやめ、首がしまってますやめろ! ジョージが肩を両手で掴んで派手に揺らした。
「ねえソウルさん、どっきりなんしょ。実はタイミング悪く気絶しちゃっただけなんしょ。ねえ、早く目え覚ましてくだせえよ」
 痛めている右手は添えているだけなので、左にばかり激しく押される。
「起きないと体操服ひん剥くぞコラア!」
 美々実さんが女子とは思えないセリフを口走りズボンに手をかけていた。ソウルの親御さん(他、兄弟姉妹祖父母全員)が見ていることを考慮してください先輩。
「う、うあ、起きてくださいよ、びええーっ」
 キリが泣き出したのをきっかけに、歌仙の全員が号泣しだした。
「もう僕も泣きますからね、うっわあああーん!」
「お、起きてくれないんですけど、こんなに呼びかけてるのに」
「もうショックです。この届かない思いにショックですよ」
「これで終わりなはずないの! 先輩は! ここで! 終わるような人じゃ」
「そーるさーん! そ、う、る、さあーん!」
 下手なバックコーラスみたいでうるさい。
「なぜ聞こえないんだ山ノ内」
 胸ぐらをつかみヒイロが叫んだ。お前まで。
「キャプテン泣かせといて、いつまでも寝てんじゃねえですよお!」
 内田がソウルの顔を容赦なく平手で打った。パアンと高い音が響く。
「てめえら、とどめ刺す気かーッ!」
 さすがに怒鳴って駆け寄ると、花道を空けるように皆が退いた。ベッドからずり落ちかけて、ソウルはゆっくりと目を開く。その瞳には穏やかな色が戻っていた。
「あれ、ここは」
 いかにも空っぽな雰囲気で呟いたから、怖くなって思いきり抱きついた。
「なあソウル、わかるよな。忘れてないよな」
 幼なじみはきょとんと目を丸くして、
「小野、なんで泣いてるの。コンタクトずれた?」
 通常運転すぎて拍子抜けする返事をしやがった。
「バカ、ふざけんなよ。俺コンタクトじゃねえよ」
 伝わってくる体温で、生きていると思った。そうだっけ、とやつは笑う。
「あ、そうだ。試合はどうなった。もしかして俺、途中で倒れたのか」
 幼なじみは慌てて言う。この声を、とても懐かしく感じた。
「お前のせいで勝った」
 この一言だけでソウルは、何があったかを理解したらしい。長いため息をつき、メガネに触れるような仕草をしてから、苦笑した。
「そうか。でも良かった。今回は記憶が飛ばなかった」
「うん、ソウル、もう二度と、戻ってこないかと、思っ、た」
「小野、大丈夫だよ。そんなに泣くなよ」
 子供をあやすように俺の背を撫でる。
「だって、だって」
「泣き虫まだ治ってないの?」
 カシャ、と機械音が響いたので我に返って顔を上げる。
「おい。今撮ったろ」
 立ち上がって母さんの手元から一眼レフを奪い取った。油断も隙もない。
「ごめんあそばせ。仕事で使う資料のためですのよ」
 おほほ、と貴婦人っぽく肩を揺らし器用に取り返してきやがった。
「資料って言ったらなんでも許されると思うなよ」
「便利な言葉よね。資料」
「自重しろ!」
 普段通りの空気が戻っている。もう安心だと笑って、保護者たちは客席へと帰っていった。時計を見ると、五時半過ぎを指していた。今は、唄唄いと万葉の三位決定戦の時分か?
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