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3巻
3-2
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今のダメージで、リキオーのHPは四分の一ほど減った。
しかし、リキオーはまだ何もする気はないらしい。【分身】で避けながら直撃を避け、さらに自身へのダメージを蓄積させていった。
ハヤテのほうにやって来た個体は、ハヤテの【咆哮】を受け、飛行を維持できなくなってバタバタと落ちていった。そうして弱点である横腹をさらすと、マリアの剣やハヤテの爪の攻撃を受け、あっけなく倒される。
その間も、リキオーはこまめに自らのステータスを表示させて酸の毒が回らないように気を配りながらHP量を調整していた。
(そろそろいいかな。あともう少しか。くぅっ……いいか、キター!)
そして、とうとうHPの残量が総量の四分の一を下回ったところで、リキオーは行動を開始した。毒消しを口にし、ある技を発動させる。
「【覚醒】ソードダンサー!」
リキオーは刀を左手だけで持ち、右手に重く長い槍を握って肩に担いだ。この槍は買ってはみたものの、ずっとインベントリに入れたまま放置しておいたものだ。いつか使いたいと思っていたのである。
冷静に見てみると、彼の装備はおかしい。
両手刀である正宗を片手で保持できるはずがないのだ。また、もう一本取り出した槍も正宗同様に右手一本で振り回せる重量ではない。
リキオーが、槍を右手で握りしめると、彼の体全体がボウッと青い炎をまとった。
彼にトドメを刺そうと群がっていたフライスキッドたちは「キュィィ!」と悲鳴を上げると、警戒して弾けるように後方へと仰け反った。
リキオーがこれまでの鬱憤を晴らすように、大音声で吠える。
「散々いたぶってくれたなあぁ! 今度はこっちから行くぜぇぇ!」
リキオーは正宗を振りかぶり叩き下ろした。
一切の溜めもなく、瞬間的に【刀技必殺之壱・疾風】を放つと、フライスキッドの群れの一角をズバァと引き裂いた。
普段なら、群れで襲ってくるモンスター相手に刀技は不利だ。硬直時間に攻撃されたらお仕舞いだからである。
しかし、そうはならなかった。
インターバルなしに、リキオーが次の【刀技必殺之弐・導火】を放った。
ゴォッと炎のエフェクトが現れる。技が連携し、特殊効果を発揮した証である。返す槍の穂先で、他の個体を撫でるように斬り飛ばす。大きな振りであっても隙は見せない。
まだ終わらない。
すかさずリキオーは、【刀技必殺之参・楼水】を撃つ。
大きな爆発の幻影が現れるとともに、ドッカーンと爆音が響きわたり、衝撃波を伴ってフライスキッドを弾き飛ばした。
リキオーの周囲にいたモンスターはすべて肉片となって飛び散り、その場には残骸すらも残っていなかった。
尋常ならざる戦い方をするリキオーに、マリアは目を奪われていた。だが、その一瞬が命取りとなる。
フライスキッドの漏斗から撃ち出された液胞がマリアを直撃する、と思われた瞬間。
スパーン! という音が響いて液胞が打ち払われた。それと同時に、フライスキッドの姿は斬り飛ばされる。
マリアの目の前には、青い炎をまとったリキオーの背中があった。
「ご、ご主人……」
ニィッと凶悪そうな笑みを浮かべたリキオーが振り返る。
次の瞬間、マリアの前からリキオーの姿が掻き消えた。
離れた場所で再び爆音が響きわたり、形勢不利と悟って逃げようとしていたフライスキッドの群れが蹴散らされた。
それは戦闘と呼べるものではない。
虐殺。そう呼ぶのが相応しい一方的な展開だった。
すべてが終わったとき、アネッテは精霊術の両手の構えを解くことさえ忘れて呆然としていた。
「な、何が……マスター」
リキオーの全身を覆っていた燃えるような青い火が消える。
リキオーは、右手に持っていた槍を地面にブッスリと刺して手を離した。そして左手一本で握っていた正宗の刀身を左右に振り切ると、刃の腹を眺める。
水の生活魔法を発動すると、頭からジャブジャブと浴び、正宗の刀身にもかけて酸を洗い流した。そして、酸でダメになった革の胸当てを外してインベントリへと仕舞った。
リキオーは槍も水で洗ってインベントリに戻し、正宗のみを下げると、ハーッとため息を吐いて呟く。
「あー、疲れた。これやるとメチャクチャ腹が減るのが、難点といえば難点だな」
腰に手を当て、取り出したポーションを口につけ、ゴクッゴクッとラッパ飲みする。
アネッテが、念のためにリキオーに状態回復魔法【レストレーション】と、回復魔法【ショートヒール】をかけてから尋ねる。
「マスター、説明をお願いします。さっきの指示がどういう理由だったのか」
マリアは星をキラキラと瞬かせた瞳を主人に向けている。自分がいま見た光景に興奮したようであった。
アネッテのかけてくれた【ショートヒール】で、細かな傷や火傷の痕も綺麗に消えていく。それを気持ちよく感じながら、リキオーは彼女たちを振り返った。
「ん、まあ、これが、俺が侍の上位職に転職しない最大の理由だな。今やったのは【覚醒】というすべてのジョブに共通する隠しスキルだ。侍の場合は『ソードダンサー』という。これを行うと、隠しステータスのスタミナを消費する代わりに、様々な能力値の限界を超えて行動できるんだ。この【覚醒】はジョブによって異なる効果がある。侍のソードダンサーの場合は、武器を左右両方の片手で扱える【二刀流】が使えるようになる。さらに、待ち時間なしで刀技を発動できるようにもなるんだ。加えて、【縮地】だな。目的地までの間に障害物がないときに限り、超高速で移動できる」
一気にそこまでしゃべると、リキオーはゴクッゴクッと水筒の水を飲んだ。
「続きな。侍の場合はソードダンサーだが、上位職である『剣豪』の場合は盾が持てるようになり、守りがかなり硬くなるんだが、【縮地】や【二刀流】は使えないんだ。戦い方としては、刀技だけを連発する要塞のような感じになる。これがかっこよくないんだよ」
最終的にかっこよさの問題となり、なんだか説明の後半は情けない感じになってしまった。聞いていたアネッテも段々馬鹿らしくなってきたようであった。
「守りを固めるのはマリアの仕事だから、俺に防御力は必要ないんだ。それにな、【二刀流】はロマンなんだよっ。いや、あの、アネッテ、ごめんなさい。ともかく、これを発動するのは条件が厳しいんだ。必要なスキルを取ってないといけないし、HPを四分の一以下にしないと発動できない。アネッテは優秀だから俺がそんな状態になるまでほっとくわけないだろ。だからあの指示は必要だったんだよ」
さらにアネッテの表情が段々険しくなっていく。説明を聞き終えて、彼女はフウッとため息を吐くと、自分の主人を険しい眼差しで見据えた。
「まあ、いいですけど。でもマスター、悪いと思ってませんよね。さっきの技はよっぽどのことがない限り、禁止です。いいですね」
「はい……ごめんなさい」
アネッテは眉を吊り上げて叱責するのであった。目が怖かった。なので、リキオーは素直に謝罪した。
一方、マリアの反応は、アネッテと真逆だった。
「す、すごいな! ご主人、あんな強いの、私は初めて見たぞ!」
どうやら脳筋に火をつけてしまったらしい。リキオーは少し後悔した。
先に言ったが、【覚醒】はすべてのジョブにあるので誰でも使える。しかし、強すぎるので発動には条件がいろいろと課されている。
例えば侍の場合は、【二刀流】を発生させるための条件として、一方の武器が正宗でなくてはならない。そのうえで、30レベル以上で、使用する刀技を獲得していること、全体HPの四分の一以下であることが【覚醒】の使用条件となっている。
発動中はまさに無双で鬼のように強くなる。ウェポンスキルは瞬時に発動するため、リキャストタイムは発生しないし硬直もない。強力な移動手段である【縮地】も使える。
しかし、メリットばかりではない。
条件の一つである全体HPが四分の一以下であるということは、戦闘中ではとくに危険である。また【覚醒】使用によりスタミナがなくなると、スキルとして持っている【自動HP回復】も効かなくなるし、スタミナが全回復するまでは、休息してもHPもMPもまったく回復しなくなってしまう。つまり諸刃の刃なのだ。なお、【覚醒】は一日一回しか使えない。
もっともこの条件は、リキオーがVRMMOである『アルゲートオンライン』をプレイしていたときのものなので、この世界でも正しいかどうかの確証はない。
マリアは休憩をとっている間も、ずっと興奮冷めやらぬ様子で、自分もできるのか、どんなふうになるのかなどリキオーをしつこく質問攻めにした。
ちなみに聖騎士の【覚醒】は「ヴァルキリー」という。これもすごく強いのだが、これ以上マリアを興奮させても鬱陶しいので、リキオーは黙っていることにした。
4 火竜山の主
マリアはなおも執拗にリキオーに絡みついてきて、彼の知っていることを聞き出さんとする。そんなマリアをテキトーにいなしたり、なだめたりすかしたりしながら、リキオーたち一行は山道を歩いて行った。
やがて景色が変わってきた。森が切れて山肌が露出し、ゴォォと火口から何かの音が響いている。熱の気配でも感じているのだろうか、アネッテは心配そうにリキオーの背中を見つめていた。
「マスター、どこまで行くんですか」
「もうそろそろだな。別に火口に入ろうってわけじゃないから安心してくれ」
リキオーは明確な目的地はわかっていなかったが、だいたいの見当をつけて歩いていた。
目指すのは火口近くの洞窟だ。洞窟のサイズはかなり大きいはず。そうでないと、ドラゴンの巨大な体を収めることはできないだろう。
しかし、とリキオーは考え直す。イェニーのように人の形態をとっている可能性がある。そのほうが生活においては楽なので、火竜山の主もそうしているのかもしれない。
「お、それっぽいのを見つけたぞ」
しばらくして一行は目的地を見つけた。
禍々しいわけではない。しかし強い威圧感を覚えた。リキオーたちが覗きこんでいる巨大な洞穴からは圧倒的な存在感が流れ出てきて、全員の肌をチクチクと刺激していた。
ここに至るまでには、フライスキッドや他の強力なモンスターたちもいたが、この威圧感に比べれば、これまでのものは楽なものだと言えた。
やや緊張した面持ちでリキオーが呟く。
「どうやら当たりだな」
「ご主人、本当に入るのか? ドラゴンがいたらどうするんだ」
「いいじゃないか。ドラゴンに会いに来たんだから」
「……時々、ご主人がわからなくなるよ」
マリアはここまで来た目的を改めて思い出し、今さらながらに荒唐無稽だと感じはじめていた。
そんなマリアをよそに、リキオーは躊躇することなく洞窟へと足を踏み入れていく。アネッテがそのあとを追い、ハヤテも彼女のそばを離れずに付いていく。
「ああ、もう!」
マリアは、もうどうにでもなれ! と諦めた。そうして、彼らから遅れないように追いかける。
洞窟の中で、リキオーたちは不思議な感覚に囚われていた。そもそも洞穴自体が信じられないほど大きいのだ。木の肌を思わせる洞窟の壁は奥へ向かうほど広がっていく。
リキオーたちが威圧感に耐えて進んでいると、荘厳な雰囲気がさらに濃厚になっていった。ここには魔物はおろか、他の何者の存在もなかった。
やがて一行の前に現れたのは、そんな雰囲気にふさわしくない、どこにでもありそうな平凡な木の扉だった。
扉は渋い光沢を放っていた。白い壁面が広がる洞窟内にこんな扉があるのは明らかに異常だった。
アネッテとマリアがゴクッと息をのんで立ち止まる中、リキオーだけは平然としていた。そして、気負うこともなく木のドアに近づいてノックした。返答はすぐにあった。
「お入り」
声の感じからすると若い男のようだ。
はたして中にいるのは人間なのか。それとも竜なのか。はたまた馬鹿な人間を捕らえるための罠なのか。
リキオーがドアノブに手をかける。
「失礼します」
ドアを開けると、キィとかすかなきしみとともに、ドアの向こうが見えた。巨大な本棚が奥まで延々と続く不思議な部屋だった。床には赤い絨毯が敷かれている。
リキオーは再び「失礼します」と告げて足を踏み入れた。
アネッテとハヤテもそのあとに続く。マリアは置いていかれたら生きて帰れないというぐらいに悲壮感を漂わせて彼らのあとを追った。
後ろでパタンと静かな音を立ててドアを閉めたのは、いつからそこにいたのだろうか、黒い獣だった。
キラキラした瞳をマリアに向けて「ミャオゥ」と鳴くと、その獣は足音も立てずに、赤い絨毯の先にあるテーブルセットで優雅にお茶を飲んでいる主の元に走っていった。
主の頭髪は青く、開かれた胸元からは白っぽい素肌を覗かせている。黒スーツを着こんでおり、背は高い。男性ながら「美人」と呼べるような存在だった。
その主が口を開く。
「フフ、ここに人間の客が来るなんて何年ぶりだろう。いらっしゃい、お客人。私はここの主、フェルガロン。そう、レッドドラゴンさ」
「お暇でしたら良かったのですが。突然の訪問をお許しください。私は渡界者でリキオーと申します。こちらは私のパートナーのアネッテ、ハヤテ、マリアです」
リキオーは初めから自分が渡界者であることを告げて、フェルガロンの前でも物怖じせずに自己紹介をした。そしてさらに続ける。
「以前に、ブルードラゴンでいらっしゃるイェニー様に会いました。この付近をたまたま寄った際に、レッドドラゴンがいることを思い出しまして、ご挨拶にと伺った次第です」
「ああ。知っているよ。イェニーは元気だったかい? あの娘は人が好きだからね。ん……いや、失礼した。人に長らく会わないでいると礼儀を失う」
フェルガロンがパチリと指を鳴らすと、直前まで何もなかったテーブルの上に人数分のティーセットとお茶うけの菓子が突然現れた。
「どうぞ、お客人。立ち話も何だ、お茶でも飲んでいきたまえ」
「ありがとうございます」
フェルガロンが差し出した手の先には、すでに引かれた椅子があった。そこにリキオーは躊躇いもなく座った。
一方アネッテは硬直したように動けないでいた。
アネッテばかりではない。ハヤテも同様だ。毛を逆立てるでもなくごく自然体で立っているのだが、瞳さえ動かすことができないようだ。
マリアもさっきまで平気だったのに、フェルガロンの姿を認めた瞬間凍りついたように動けなくなっていた。
「大丈夫だよ。アネッテ、ハヤテ、マリア。こっちに来てお茶を御馳走になろう。フェルガロン様は怖い方じゃない」
彼らが硬直しているのは緊張しているからだと思い、声をかけたのだが途中で気づいた。
これはそういう次元の問題ではない。
リキオー以外の者はフェルガロンの存在にのまれていて動けないのだ。汗一つ掻くことができず、彫像のように固まっていた。
「フフッ、君は面白いねえ。リキオー。私は実際のところ、あまり人間には興味がないのさ。だが、イェニーが妙に君に入れこんでいる様子だから気になってね。渡界者、なるほどね。面白い存在だ」
フェルガロンは傍らで「みゃあ」と鳴く黒猫に「ん」と応えて頭を撫でてやると、リキオーに視線を戻した。
「まあ、君のパートナーたちは少し放っておきたまえ。私という絶対者を前にすれば、この世界にいるものならば誰でもそうなってしまうのもむべなるかな、といったところだよ。だからこそ君は面白いと言える」
リキオーは、この世界の住人がドラゴンという生物的上位者、絶対的強者に抱くプレッシャーの存在に気づいた。そして、目の前で優雅にお茶を飲んでいる姿からは想像できない正体がそこに秘められていることを理解した。
それでもリキオーには彼から敵意を感じられなかった。もちろん悪意もである。
「やはり渡界者だからでしょうか。私には特段、上位存在であるあなたから、私への威圧感は捉えられません」
「ふむ、まあ、そんなことはどうでもいいじゃないか。ともかくここは叡智の図書館といったところさ。その昔、ここまでやってきた人間には試練を与え、無事達成すれば求める知恵を与えていたそうだ。酔狂な話だよ。でもまあ、せっかくここまで来てくれたんだ。古のしきたりに従い、試練を与えねばな」
そう言ってフェルガロンは、細い指先を振ってパチリと鳴らす。
刹那、リキオーは白い空間に立っていた。
「な!?」
振り返るが、白い空間にいるのは彼だけのようだ。
前後左右どころか踏みしめているはずの地面さえ確証が持てず、上も下もただ真っ白な空間が広がっているだけだった。
「心配しなくともいい。ここにいるのはリキオー、君だけだ。何、ほんの余興に付き合ってもらおうと思ってね。すぐに元の場所に戻してあげるから大丈夫だよ。ただし、君が私の試練に耐えられたならな」
リキオーの魂に囁きかけるように、どこからともなくフェルガロンの声がする。
リキオーは正宗を抜き放って、瞳を視界さえ定まらぬ空間に向けて睨んだ。さらに右手で印を切って、【心眼】を唱える。
それは不意に訪れた。
唐突に背中がゾクッとするほどの殺気が飛び込んできて、リキオーは反射的に体を捻りながら正宗を振り下ろして振り返った。
振り抜いた刀に何かを斬り裂いた感触があった。それができたのは今までの戦闘によって培った反応の賜物だった。
(な、なんだ? 実体がない? だが、たしかに斬ったはずだ。斬ることができるならば対抗しようはある!)
火竜の試練がどんなものであろうとも、リキオーは自分の積み上げてきたものに自信を持って正宗を握りしめた。
この空間では、意思を強く持っていないと自分さえ見失ってしまう。
鋭い殺気が彼目掛けて四方八方から何度も押し寄せてくる。が、リキオーは決して油断することなく、また気を散らさないようにしながら正宗でそれらを捌いていた。
「ほう? 今のを避けるとはな。ヒトにしては中々だ。だが、これではどうかな」
リキオーの反応を楽しむような嘲りの声が白い空間をこだまする。リキオーは気を引き締めて相手の出方を窺いながら、体に闘気をまとわせていく。
それはスキルではなく、彼自身の存在から滲み出す力だ。彼の体を空気一枚取り囲むように、じわじわと闘気が立ち上り、陽炎のように揺らめく。
それと同時に、さらに鋭い殺気が四方から押し寄せてくる。
「はぁぁッ!」
気合一閃。
リキオーは刀身に気を集中させ、裂帛の一撃を振り下ろした。
その刹那、彼に襲いかかってきた殺気は、振り下ろされた刀の切っ先を中心にして霧散し、存在を散らした。
「たしかに素質はあるようだ。イェニーがこだわるのも頷ける。だが――」
フェルガロンはリキオーを褒め称えたが、それを聞いたリキオーは逆に戦慄していた。周囲から今まで以上の圧倒的な存在感が、殺気が、察せられたからだ。
このままでは潰される。アネッテやハヤテたちのところへ戻ることもなく消えゆくのか!
そう思った瞬間、リキオーは「否」と心の中で叫ぶと、「ハァァァ」と唸り声を上げながら正宗の刀身に気を漲らせていく。
うなじをチリチリと這い上がる悪寒を噛み殺しながら自身の中で十分に気を練ると、正宗を正眼に構えた。
(この一刀にて決める!)
リキオーは彼に殺到する圧倒的な死の存在感に対して、彼自身のすべてをぶつけるように「たぁぁぁッ!」と刀身を突き入れる。
何もないはずの白い空間を斬り裂く刀の冴えに、周りの気配が貫かれ、殺気を失っていく。
リキオーは瞑目していた眼を開いた。
「フフ、見事だ」
白い空間でパチリとフェルガロンが指を鳴らす音が響くと、リキオーは元いた空間、赤い絨毯の敷かれた叡智の図書館に戻っていた。正宗も鞘に収まったままだ。
「ハッ」として振り向くが、アネッテたちは動いた様子もなくフリーズしたままである。そしてテーブルでは、フェルガロンが静かな笑みを浮かべていた。
ティーカップに注がれた茶から立ち上る湯気から察するに、自分がフェルガロンによって叡智の図書館から切り離され、あの謎の白い空間にいたのはほんの数瞬のようだ。
リキオーは深い疲労を感じ、その場で思わず屈みこんでハァハァと荒い吐息を漏らした。あそこであったことは彼にしか知覚できなかったようだが、たしかに起こったことなのだ。
「認めよう。さて、褒美を与えないとな」
フェルガロンは胸元から何かを摘み出すと、それをコトリと音を立てて置いた。
朱色の光沢を放つ結晶のようなものだ。
とくに装飾もない涙滴型の朱い宝石。よく見れば、透明でなく濁りか気泡のようにも見える点が透けていた。
「それ自体にとくに価値はないよ。もっともそれは私たちにとっての価値という意味だがね。ここから出て行くまでの間、図書館の利用を許可しよう。それで私から君のパートナーたちへの謝罪とさせていただこうか」
「……もったいないお言葉です。ご厚意に甘えさせていただきます」
リキオーはようやく立ち上がるほどに回復すると、フェルガロンにお辞儀した。アネッテたちはまだ硬直したままであり、リキオーがフェルガロンから試練を与えられたことに気づいていない様子だ。
リキオーはどうして自分だけが、フェルガロンと普通に接することができたのか不思議に思わないでもなかったが、元から大胆というか呑気な性分なので気にしなかった。
「帰りの礼は不要だよ。いつまでも好きなだけ過ごしたまえ」
フェルガロンはそう呟くと唐突に消え去った。あとに残ったのはティーポットとお茶うけの菓子。そして涙滴型の宝石と黒猫だった。
しかし、リキオーはまだ何もする気はないらしい。【分身】で避けながら直撃を避け、さらに自身へのダメージを蓄積させていった。
ハヤテのほうにやって来た個体は、ハヤテの【咆哮】を受け、飛行を維持できなくなってバタバタと落ちていった。そうして弱点である横腹をさらすと、マリアの剣やハヤテの爪の攻撃を受け、あっけなく倒される。
その間も、リキオーはこまめに自らのステータスを表示させて酸の毒が回らないように気を配りながらHP量を調整していた。
(そろそろいいかな。あともう少しか。くぅっ……いいか、キター!)
そして、とうとうHPの残量が総量の四分の一を下回ったところで、リキオーは行動を開始した。毒消しを口にし、ある技を発動させる。
「【覚醒】ソードダンサー!」
リキオーは刀を左手だけで持ち、右手に重く長い槍を握って肩に担いだ。この槍は買ってはみたものの、ずっとインベントリに入れたまま放置しておいたものだ。いつか使いたいと思っていたのである。
冷静に見てみると、彼の装備はおかしい。
両手刀である正宗を片手で保持できるはずがないのだ。また、もう一本取り出した槍も正宗同様に右手一本で振り回せる重量ではない。
リキオーが、槍を右手で握りしめると、彼の体全体がボウッと青い炎をまとった。
彼にトドメを刺そうと群がっていたフライスキッドたちは「キュィィ!」と悲鳴を上げると、警戒して弾けるように後方へと仰け反った。
リキオーがこれまでの鬱憤を晴らすように、大音声で吠える。
「散々いたぶってくれたなあぁ! 今度はこっちから行くぜぇぇ!」
リキオーは正宗を振りかぶり叩き下ろした。
一切の溜めもなく、瞬間的に【刀技必殺之壱・疾風】を放つと、フライスキッドの群れの一角をズバァと引き裂いた。
普段なら、群れで襲ってくるモンスター相手に刀技は不利だ。硬直時間に攻撃されたらお仕舞いだからである。
しかし、そうはならなかった。
インターバルなしに、リキオーが次の【刀技必殺之弐・導火】を放った。
ゴォッと炎のエフェクトが現れる。技が連携し、特殊効果を発揮した証である。返す槍の穂先で、他の個体を撫でるように斬り飛ばす。大きな振りであっても隙は見せない。
まだ終わらない。
すかさずリキオーは、【刀技必殺之参・楼水】を撃つ。
大きな爆発の幻影が現れるとともに、ドッカーンと爆音が響きわたり、衝撃波を伴ってフライスキッドを弾き飛ばした。
リキオーの周囲にいたモンスターはすべて肉片となって飛び散り、その場には残骸すらも残っていなかった。
尋常ならざる戦い方をするリキオーに、マリアは目を奪われていた。だが、その一瞬が命取りとなる。
フライスキッドの漏斗から撃ち出された液胞がマリアを直撃する、と思われた瞬間。
スパーン! という音が響いて液胞が打ち払われた。それと同時に、フライスキッドの姿は斬り飛ばされる。
マリアの目の前には、青い炎をまとったリキオーの背中があった。
「ご、ご主人……」
ニィッと凶悪そうな笑みを浮かべたリキオーが振り返る。
次の瞬間、マリアの前からリキオーの姿が掻き消えた。
離れた場所で再び爆音が響きわたり、形勢不利と悟って逃げようとしていたフライスキッドの群れが蹴散らされた。
それは戦闘と呼べるものではない。
虐殺。そう呼ぶのが相応しい一方的な展開だった。
すべてが終わったとき、アネッテは精霊術の両手の構えを解くことさえ忘れて呆然としていた。
「な、何が……マスター」
リキオーの全身を覆っていた燃えるような青い火が消える。
リキオーは、右手に持っていた槍を地面にブッスリと刺して手を離した。そして左手一本で握っていた正宗の刀身を左右に振り切ると、刃の腹を眺める。
水の生活魔法を発動すると、頭からジャブジャブと浴び、正宗の刀身にもかけて酸を洗い流した。そして、酸でダメになった革の胸当てを外してインベントリへと仕舞った。
リキオーは槍も水で洗ってインベントリに戻し、正宗のみを下げると、ハーッとため息を吐いて呟く。
「あー、疲れた。これやるとメチャクチャ腹が減るのが、難点といえば難点だな」
腰に手を当て、取り出したポーションを口につけ、ゴクッゴクッとラッパ飲みする。
アネッテが、念のためにリキオーに状態回復魔法【レストレーション】と、回復魔法【ショートヒール】をかけてから尋ねる。
「マスター、説明をお願いします。さっきの指示がどういう理由だったのか」
マリアは星をキラキラと瞬かせた瞳を主人に向けている。自分がいま見た光景に興奮したようであった。
アネッテのかけてくれた【ショートヒール】で、細かな傷や火傷の痕も綺麗に消えていく。それを気持ちよく感じながら、リキオーは彼女たちを振り返った。
「ん、まあ、これが、俺が侍の上位職に転職しない最大の理由だな。今やったのは【覚醒】というすべてのジョブに共通する隠しスキルだ。侍の場合は『ソードダンサー』という。これを行うと、隠しステータスのスタミナを消費する代わりに、様々な能力値の限界を超えて行動できるんだ。この【覚醒】はジョブによって異なる効果がある。侍のソードダンサーの場合は、武器を左右両方の片手で扱える【二刀流】が使えるようになる。さらに、待ち時間なしで刀技を発動できるようにもなるんだ。加えて、【縮地】だな。目的地までの間に障害物がないときに限り、超高速で移動できる」
一気にそこまでしゃべると、リキオーはゴクッゴクッと水筒の水を飲んだ。
「続きな。侍の場合はソードダンサーだが、上位職である『剣豪』の場合は盾が持てるようになり、守りがかなり硬くなるんだが、【縮地】や【二刀流】は使えないんだ。戦い方としては、刀技だけを連発する要塞のような感じになる。これがかっこよくないんだよ」
最終的にかっこよさの問題となり、なんだか説明の後半は情けない感じになってしまった。聞いていたアネッテも段々馬鹿らしくなってきたようであった。
「守りを固めるのはマリアの仕事だから、俺に防御力は必要ないんだ。それにな、【二刀流】はロマンなんだよっ。いや、あの、アネッテ、ごめんなさい。ともかく、これを発動するのは条件が厳しいんだ。必要なスキルを取ってないといけないし、HPを四分の一以下にしないと発動できない。アネッテは優秀だから俺がそんな状態になるまでほっとくわけないだろ。だからあの指示は必要だったんだよ」
さらにアネッテの表情が段々険しくなっていく。説明を聞き終えて、彼女はフウッとため息を吐くと、自分の主人を険しい眼差しで見据えた。
「まあ、いいですけど。でもマスター、悪いと思ってませんよね。さっきの技はよっぽどのことがない限り、禁止です。いいですね」
「はい……ごめんなさい」
アネッテは眉を吊り上げて叱責するのであった。目が怖かった。なので、リキオーは素直に謝罪した。
一方、マリアの反応は、アネッテと真逆だった。
「す、すごいな! ご主人、あんな強いの、私は初めて見たぞ!」
どうやら脳筋に火をつけてしまったらしい。リキオーは少し後悔した。
先に言ったが、【覚醒】はすべてのジョブにあるので誰でも使える。しかし、強すぎるので発動には条件がいろいろと課されている。
例えば侍の場合は、【二刀流】を発生させるための条件として、一方の武器が正宗でなくてはならない。そのうえで、30レベル以上で、使用する刀技を獲得していること、全体HPの四分の一以下であることが【覚醒】の使用条件となっている。
発動中はまさに無双で鬼のように強くなる。ウェポンスキルは瞬時に発動するため、リキャストタイムは発生しないし硬直もない。強力な移動手段である【縮地】も使える。
しかし、メリットばかりではない。
条件の一つである全体HPが四分の一以下であるということは、戦闘中ではとくに危険である。また【覚醒】使用によりスタミナがなくなると、スキルとして持っている【自動HP回復】も効かなくなるし、スタミナが全回復するまでは、休息してもHPもMPもまったく回復しなくなってしまう。つまり諸刃の刃なのだ。なお、【覚醒】は一日一回しか使えない。
もっともこの条件は、リキオーがVRMMOである『アルゲートオンライン』をプレイしていたときのものなので、この世界でも正しいかどうかの確証はない。
マリアは休憩をとっている間も、ずっと興奮冷めやらぬ様子で、自分もできるのか、どんなふうになるのかなどリキオーをしつこく質問攻めにした。
ちなみに聖騎士の【覚醒】は「ヴァルキリー」という。これもすごく強いのだが、これ以上マリアを興奮させても鬱陶しいので、リキオーは黙っていることにした。
4 火竜山の主
マリアはなおも執拗にリキオーに絡みついてきて、彼の知っていることを聞き出さんとする。そんなマリアをテキトーにいなしたり、なだめたりすかしたりしながら、リキオーたち一行は山道を歩いて行った。
やがて景色が変わってきた。森が切れて山肌が露出し、ゴォォと火口から何かの音が響いている。熱の気配でも感じているのだろうか、アネッテは心配そうにリキオーの背中を見つめていた。
「マスター、どこまで行くんですか」
「もうそろそろだな。別に火口に入ろうってわけじゃないから安心してくれ」
リキオーは明確な目的地はわかっていなかったが、だいたいの見当をつけて歩いていた。
目指すのは火口近くの洞窟だ。洞窟のサイズはかなり大きいはず。そうでないと、ドラゴンの巨大な体を収めることはできないだろう。
しかし、とリキオーは考え直す。イェニーのように人の形態をとっている可能性がある。そのほうが生活においては楽なので、火竜山の主もそうしているのかもしれない。
「お、それっぽいのを見つけたぞ」
しばらくして一行は目的地を見つけた。
禍々しいわけではない。しかし強い威圧感を覚えた。リキオーたちが覗きこんでいる巨大な洞穴からは圧倒的な存在感が流れ出てきて、全員の肌をチクチクと刺激していた。
ここに至るまでには、フライスキッドや他の強力なモンスターたちもいたが、この威圧感に比べれば、これまでのものは楽なものだと言えた。
やや緊張した面持ちでリキオーが呟く。
「どうやら当たりだな」
「ご主人、本当に入るのか? ドラゴンがいたらどうするんだ」
「いいじゃないか。ドラゴンに会いに来たんだから」
「……時々、ご主人がわからなくなるよ」
マリアはここまで来た目的を改めて思い出し、今さらながらに荒唐無稽だと感じはじめていた。
そんなマリアをよそに、リキオーは躊躇することなく洞窟へと足を踏み入れていく。アネッテがそのあとを追い、ハヤテも彼女のそばを離れずに付いていく。
「ああ、もう!」
マリアは、もうどうにでもなれ! と諦めた。そうして、彼らから遅れないように追いかける。
洞窟の中で、リキオーたちは不思議な感覚に囚われていた。そもそも洞穴自体が信じられないほど大きいのだ。木の肌を思わせる洞窟の壁は奥へ向かうほど広がっていく。
リキオーたちが威圧感に耐えて進んでいると、荘厳な雰囲気がさらに濃厚になっていった。ここには魔物はおろか、他の何者の存在もなかった。
やがて一行の前に現れたのは、そんな雰囲気にふさわしくない、どこにでもありそうな平凡な木の扉だった。
扉は渋い光沢を放っていた。白い壁面が広がる洞窟内にこんな扉があるのは明らかに異常だった。
アネッテとマリアがゴクッと息をのんで立ち止まる中、リキオーだけは平然としていた。そして、気負うこともなく木のドアに近づいてノックした。返答はすぐにあった。
「お入り」
声の感じからすると若い男のようだ。
はたして中にいるのは人間なのか。それとも竜なのか。はたまた馬鹿な人間を捕らえるための罠なのか。
リキオーがドアノブに手をかける。
「失礼します」
ドアを開けると、キィとかすかなきしみとともに、ドアの向こうが見えた。巨大な本棚が奥まで延々と続く不思議な部屋だった。床には赤い絨毯が敷かれている。
リキオーは再び「失礼します」と告げて足を踏み入れた。
アネッテとハヤテもそのあとに続く。マリアは置いていかれたら生きて帰れないというぐらいに悲壮感を漂わせて彼らのあとを追った。
後ろでパタンと静かな音を立ててドアを閉めたのは、いつからそこにいたのだろうか、黒い獣だった。
キラキラした瞳をマリアに向けて「ミャオゥ」と鳴くと、その獣は足音も立てずに、赤い絨毯の先にあるテーブルセットで優雅にお茶を飲んでいる主の元に走っていった。
主の頭髪は青く、開かれた胸元からは白っぽい素肌を覗かせている。黒スーツを着こんでおり、背は高い。男性ながら「美人」と呼べるような存在だった。
その主が口を開く。
「フフ、ここに人間の客が来るなんて何年ぶりだろう。いらっしゃい、お客人。私はここの主、フェルガロン。そう、レッドドラゴンさ」
「お暇でしたら良かったのですが。突然の訪問をお許しください。私は渡界者でリキオーと申します。こちらは私のパートナーのアネッテ、ハヤテ、マリアです」
リキオーは初めから自分が渡界者であることを告げて、フェルガロンの前でも物怖じせずに自己紹介をした。そしてさらに続ける。
「以前に、ブルードラゴンでいらっしゃるイェニー様に会いました。この付近をたまたま寄った際に、レッドドラゴンがいることを思い出しまして、ご挨拶にと伺った次第です」
「ああ。知っているよ。イェニーは元気だったかい? あの娘は人が好きだからね。ん……いや、失礼した。人に長らく会わないでいると礼儀を失う」
フェルガロンがパチリと指を鳴らすと、直前まで何もなかったテーブルの上に人数分のティーセットとお茶うけの菓子が突然現れた。
「どうぞ、お客人。立ち話も何だ、お茶でも飲んでいきたまえ」
「ありがとうございます」
フェルガロンが差し出した手の先には、すでに引かれた椅子があった。そこにリキオーは躊躇いもなく座った。
一方アネッテは硬直したように動けないでいた。
アネッテばかりではない。ハヤテも同様だ。毛を逆立てるでもなくごく自然体で立っているのだが、瞳さえ動かすことができないようだ。
マリアもさっきまで平気だったのに、フェルガロンの姿を認めた瞬間凍りついたように動けなくなっていた。
「大丈夫だよ。アネッテ、ハヤテ、マリア。こっちに来てお茶を御馳走になろう。フェルガロン様は怖い方じゃない」
彼らが硬直しているのは緊張しているからだと思い、声をかけたのだが途中で気づいた。
これはそういう次元の問題ではない。
リキオー以外の者はフェルガロンの存在にのまれていて動けないのだ。汗一つ掻くことができず、彫像のように固まっていた。
「フフッ、君は面白いねえ。リキオー。私は実際のところ、あまり人間には興味がないのさ。だが、イェニーが妙に君に入れこんでいる様子だから気になってね。渡界者、なるほどね。面白い存在だ」
フェルガロンは傍らで「みゃあ」と鳴く黒猫に「ん」と応えて頭を撫でてやると、リキオーに視線を戻した。
「まあ、君のパートナーたちは少し放っておきたまえ。私という絶対者を前にすれば、この世界にいるものならば誰でもそうなってしまうのもむべなるかな、といったところだよ。だからこそ君は面白いと言える」
リキオーは、この世界の住人がドラゴンという生物的上位者、絶対的強者に抱くプレッシャーの存在に気づいた。そして、目の前で優雅にお茶を飲んでいる姿からは想像できない正体がそこに秘められていることを理解した。
それでもリキオーには彼から敵意を感じられなかった。もちろん悪意もである。
「やはり渡界者だからでしょうか。私には特段、上位存在であるあなたから、私への威圧感は捉えられません」
「ふむ、まあ、そんなことはどうでもいいじゃないか。ともかくここは叡智の図書館といったところさ。その昔、ここまでやってきた人間には試練を与え、無事達成すれば求める知恵を与えていたそうだ。酔狂な話だよ。でもまあ、せっかくここまで来てくれたんだ。古のしきたりに従い、試練を与えねばな」
そう言ってフェルガロンは、細い指先を振ってパチリと鳴らす。
刹那、リキオーは白い空間に立っていた。
「な!?」
振り返るが、白い空間にいるのは彼だけのようだ。
前後左右どころか踏みしめているはずの地面さえ確証が持てず、上も下もただ真っ白な空間が広がっているだけだった。
「心配しなくともいい。ここにいるのはリキオー、君だけだ。何、ほんの余興に付き合ってもらおうと思ってね。すぐに元の場所に戻してあげるから大丈夫だよ。ただし、君が私の試練に耐えられたならな」
リキオーの魂に囁きかけるように、どこからともなくフェルガロンの声がする。
リキオーは正宗を抜き放って、瞳を視界さえ定まらぬ空間に向けて睨んだ。さらに右手で印を切って、【心眼】を唱える。
それは不意に訪れた。
唐突に背中がゾクッとするほどの殺気が飛び込んできて、リキオーは反射的に体を捻りながら正宗を振り下ろして振り返った。
振り抜いた刀に何かを斬り裂いた感触があった。それができたのは今までの戦闘によって培った反応の賜物だった。
(な、なんだ? 実体がない? だが、たしかに斬ったはずだ。斬ることができるならば対抗しようはある!)
火竜の試練がどんなものであろうとも、リキオーは自分の積み上げてきたものに自信を持って正宗を握りしめた。
この空間では、意思を強く持っていないと自分さえ見失ってしまう。
鋭い殺気が彼目掛けて四方八方から何度も押し寄せてくる。が、リキオーは決して油断することなく、また気を散らさないようにしながら正宗でそれらを捌いていた。
「ほう? 今のを避けるとはな。ヒトにしては中々だ。だが、これではどうかな」
リキオーの反応を楽しむような嘲りの声が白い空間をこだまする。リキオーは気を引き締めて相手の出方を窺いながら、体に闘気をまとわせていく。
それはスキルではなく、彼自身の存在から滲み出す力だ。彼の体を空気一枚取り囲むように、じわじわと闘気が立ち上り、陽炎のように揺らめく。
それと同時に、さらに鋭い殺気が四方から押し寄せてくる。
「はぁぁッ!」
気合一閃。
リキオーは刀身に気を集中させ、裂帛の一撃を振り下ろした。
その刹那、彼に襲いかかってきた殺気は、振り下ろされた刀の切っ先を中心にして霧散し、存在を散らした。
「たしかに素質はあるようだ。イェニーがこだわるのも頷ける。だが――」
フェルガロンはリキオーを褒め称えたが、それを聞いたリキオーは逆に戦慄していた。周囲から今まで以上の圧倒的な存在感が、殺気が、察せられたからだ。
このままでは潰される。アネッテやハヤテたちのところへ戻ることもなく消えゆくのか!
そう思った瞬間、リキオーは「否」と心の中で叫ぶと、「ハァァァ」と唸り声を上げながら正宗の刀身に気を漲らせていく。
うなじをチリチリと這い上がる悪寒を噛み殺しながら自身の中で十分に気を練ると、正宗を正眼に構えた。
(この一刀にて決める!)
リキオーは彼に殺到する圧倒的な死の存在感に対して、彼自身のすべてをぶつけるように「たぁぁぁッ!」と刀身を突き入れる。
何もないはずの白い空間を斬り裂く刀の冴えに、周りの気配が貫かれ、殺気を失っていく。
リキオーは瞑目していた眼を開いた。
「フフ、見事だ」
白い空間でパチリとフェルガロンが指を鳴らす音が響くと、リキオーは元いた空間、赤い絨毯の敷かれた叡智の図書館に戻っていた。正宗も鞘に収まったままだ。
「ハッ」として振り向くが、アネッテたちは動いた様子もなくフリーズしたままである。そしてテーブルでは、フェルガロンが静かな笑みを浮かべていた。
ティーカップに注がれた茶から立ち上る湯気から察するに、自分がフェルガロンによって叡智の図書館から切り離され、あの謎の白い空間にいたのはほんの数瞬のようだ。
リキオーは深い疲労を感じ、その場で思わず屈みこんでハァハァと荒い吐息を漏らした。あそこであったことは彼にしか知覚できなかったようだが、たしかに起こったことなのだ。
「認めよう。さて、褒美を与えないとな」
フェルガロンは胸元から何かを摘み出すと、それをコトリと音を立てて置いた。
朱色の光沢を放つ結晶のようなものだ。
とくに装飾もない涙滴型の朱い宝石。よく見れば、透明でなく濁りか気泡のようにも見える点が透けていた。
「それ自体にとくに価値はないよ。もっともそれは私たちにとっての価値という意味だがね。ここから出て行くまでの間、図書館の利用を許可しよう。それで私から君のパートナーたちへの謝罪とさせていただこうか」
「……もったいないお言葉です。ご厚意に甘えさせていただきます」
リキオーはようやく立ち上がるほどに回復すると、フェルガロンにお辞儀した。アネッテたちはまだ硬直したままであり、リキオーがフェルガロンから試練を与えられたことに気づいていない様子だ。
リキオーはどうして自分だけが、フェルガロンと普通に接することができたのか不思議に思わないでもなかったが、元から大胆というか呑気な性分なので気にしなかった。
「帰りの礼は不要だよ。いつまでも好きなだけ過ごしたまえ」
フェルガロンはそう呟くと唐突に消え去った。あとに残ったのはティーポットとお茶うけの菓子。そして涙滴型の宝石と黒猫だった。
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