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最終章
46 ただいま
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「お婆ちゃん……」
ぶっきら棒だけどどこか優しい口ぶりをするお婆ちゃんが、ここにいる。
会えないままで終わってしまったお婆ちゃん。伝えたいことは沢山あったはずなのに、こうして目の前にすると拙い言葉しか浮かばない。
「会いに行けなくて、ごめんね」
お婆ちゃんは少し目を丸くすると、呆れたように言った。
「いつも言ってるだろ。こんな死にかけの婆さんとこに来るんじゃないって」
お婆ちゃんは子供を慰めるような笑みを浮かべた。
ミカは胸がキツくなって、声を詰まらせながらも、続けた。
「鏡を、割って……ごめん」
「あんなもの大したものじゃない」
「俺のこと」
ミカは首を傾げて、じっとお婆ちゃんの手を見つめた。
一緒に暮らしていた頃、時折ミカの頭を撫でてくれた手だ。皺皺で、少し湿った暖かい手。
今、触れてみるけれど、そこには熱も冷たさもなかった。
「お婆ちゃんは拾ってくれたのに、俺は何も残せなかった。お婆ちゃんの鏡さえ、壊した」
「ミカ、気にするんじゃない。ここには全てがあるんだから」
お婆ちゃんは「何もかもがあるんだ」と言って、立ち上がり、ミカの頭を撫でた。
「お前はこれから帰るんだ。帰って、探せば、お前も何か見つかるかもしれない」
「帰る……」
「そうだよ」
「でも、帰る場所が分からない」
お婆ちゃんと話していると途端に心が幼くなってしまう。もう大人になったのに、今すぐ泣き喚いて駄々を捏ねたい気持ちになる。
「お婆ちゃんも兄さんもみんないない」
「みんなじゃないだろ。なぁ」
「俺は、俺のせいで、ひとりなんだ」
一人きりで死なせてしまったお婆ちゃん。自分のせいで死なせてしまった兄さん。
一緒に暮らしていたのに皆いなくなった。幼くなった心は制御が効かない。心に導かれるまま、ミカの体はいつの間にか、お婆ちゃんと暮らしていた頃のように小さくなっていた。
ミカは抱えた膝に頭を埋めてしゃくりあげる。どうしようもなく辛くて涙を抑えきれなかった。
けれどお婆ちゃんは、仕方なさそうに笑うだけだ。
「ごめんね、お婆ちゃん」
「ミカ。お前は泣き虫だな」
「――そうなんです」
そのとき、懐かしい声が聞こえてきた。
いきなり現れた別の声にミカは思わず顔を上げる。
涙に塗れた顔のミカを見下ろすのは、お婆ちゃんだけではない。
「ミカ、立って」
「……お母さん」
ミカは呟く。なぜだろう。
とても自然に微笑んで、「やっと」と語りかけることができた。
「帰ってきてくれたの?」
もう顔も覚えていないと思ったのに、お母さんの笑顔はあっという間にミカの心に馴染んだ。
長い髪の毛はミカと同じ黒色で、艶めいている。病気で亡くなったから最後は酷くやつれていたはずなのに、お母さんは若々しく健康的な顔をしている。それがミカは嬉しくて堪らなかった。
ミカは涙を手のひらで拭いながら言った。
「待ちくたびれたよ」
「そうなの? 変な話だね。私はずっと傍にいたのに」
お母さんはそう言って笑った。
――ミカ
どこかで声がする。
――もう戻ってきてくれないのか
切ない響きが頭に滲む。ミカは少し切ない気持ちになって、頼りない笑みを浮かべた。
「そうだったんだ。もう戻ってきてくれないのかなって思ってたのに……でも、近くにいたんだね」
「ミカが泣いているから姿を見せることにしたの」
「ならもっと早く泣けばよかったな」
「目元も、瞳も、赤いのね」
お母さんが手を差し出してくれるから、ミカもその手を取って立ち上がった。いつの間にかミカの体は元の十八歳の姿に成長し、母よりも少し高いほどの背丈になっていた。
お母さんがミカの目元を撫でる。ミカは眉を下げた。
「兄さんが赤にしたんだ」
「そうみたいだね。でも、分かる? だんだん解けていってる」
「え?」
するとなぜかお母さんは、少女みたいな幼さを宿す満面の笑みを浮かべた。
その瞬間、頭の中に知らない記憶が流れ込んできた。
聞いたこともない女性の声が、ミカの心を暖かく包む。
――『苦しい思いをさせて、ごめんね。ミカ、ずっと貴方が帰ってくるのを待っていたのよ』
ミカは驚いて目を丸くした。
「これは誰?」
「……お祖母様」
お母さんが本当に嬉しそうに呟く。首を傾げるミカの目元を、また指で触った。
「魔法が解けてるよ。次に目を覚ました時はきっと、元の青に戻ってる」
「そっか……これは兄さんがかけた魔法だったんだ」
「知ってる。ミカを守るためにかけた魔法ね」
「うん。今なら分かる」
分かるよ。
ミカは寂しくなって問いかけた。
「兄さんには会えないの?」
するとお母さんは困った顔をした。ミカを愛おしげに見つめながら首を横に振る。
「あの子は遠い場所にいるから」
「そっか……」
隣ではお婆ちゃんが見守ってくれている。お母さんが歩き出した。ミカを導くように。
――俺のせいだ
苦しげな、掠れた声が胸に届く。
――ごめん
ミカはけれど立ち止まったまま、「お母さん」と呟く。
「ごめんね」
お母さんは振り返り、首を傾げた。
ミカの頭の中に浮かぶのは夜空を染める真っ赤な炎だ。
あの時、兄は気付いてしまった。
「俺のせいだよね。俺のせいで死んじゃったんでしょう? 早く逃げたかったはずなのに」
申し訳ない気持ちでいっぱいになる。苦しい胸を抑えて、声を絞り出す。
「俺たちがいたから逃げられなかったんでしょう? どうして、俺たちを捨てなかったの?」
ミカは泣き出しそうな声で呟いた。
俺たちのせいだ。きっとそうだった。ミカたちさえいなければお母さんは逃げられた。ミカたちがいたから死んでしまった。
ごめんね。
ミカは唇を噛み締める。
「ミカ」
けれどお母さんはふふっとおかしそうに笑った。
目を細めてミカを見つめ、
「愛してるからよ。捨てるわけがないでしょ」
と微笑んだ。
ミカはまた、泣きたい気持ちが込み上げた。けれど、もう体は大人だ。
耐えるために黙り込めばお母さんがミカの手を取ってくる。歩き出すから、ミカも歩き出す。
お婆ちゃんはいつの間にか杖をついていて、その場に立ち止まったまま見送ってくれた。
ミカは心の中で囁く。
ばいばい、お婆ちゃん。
「かわいいミカ。きっと愛する人に会えるから」
隣を歩くお母さんが言った。ミカは自信なく「分からない」と呟く。
するとお母さんは力強く言った。
「ミカ、よく見て」
ミカは言われるまま顔を上げる。
「自分の心を」
真っ直ぐ、前を見ている。
お母さんが囁く。
「ミカ、帰るんだよ」
――「帰ってきてくれ、ミカ」
また、声がする。けれどもう近い。いつの間にか声のする方へ、随分と歩いていたらしい。
今はもう、お母さんの声が遠かった。
――心を見て。自分の心を。
ミカはいつからか一人で歩いていた。
ただ真っ直ぐ前を見つめて歩いている。声が呼んでいるから迷わない。その声が聞こえるのはきっとミカだけだった。ミカはその声を頼りに歩いていた。
そうだ。
帰ろう。
待ってくれているのが分かるから。
沢山待たせてしまったら、ミカのように不貞腐れてしまうかもしれない。これ以上待たせたくない。己の心を見つめた時見えたのは、あの人の姿だった。
破天荒で自由で、メチャクチャな人。ミカが初めて面白いと思った人。
ミカには考えつかないことをして、ミカを楽しませようとする。出会いは最悪だったけれど、……気付いてるのかな。あなたは俺に躊躇いなくお弁当とお水を与えてくれて、俺が花について訊ねると嫌な顔ひとつせずその花について教えてくれた。
最初からおかしな人だったのだ。
きっとライハルトは知らない。
――祭りの最中に攫われたあと、ミカが窮地の中で助けを求めたのはライハルトだった。
ミカが帰りたいと思ったのは、ライハルトの傍だった。
――白い雲の中にいたのにいつの間にか、前方には薄い青が広がっている。
だんだんと強くなる青の光。白の世界が崩れていく。
青が信じられない速度で染まり、波となってミカを飲み込む。
ミカは思わず目をぎゅっと瞑った。
……開いたのは、やはりその声がしたからだ。
「――愛してる」
ミカは瞼を開いた。
一番に目にしたのは、その青だった。
「……ライハルト様」
まん丸に見開いた青い目。それは記憶で見た青みたいに鮮明だった。まるで泣いているみたいに潤んでいる。より光が敷き詰められて、綺麗だった。
でもここに在るのは青だけでない。金色の髪は煌めいて、今のミカには眩しいほどだ。
ミカは裸だった。そこで初めて、知らぬ間に自分が黒猫に変化していたことに気付く。
猫の時の記憶がない。ミカはずっと白い世界で膝を抱えていたから。
意識のないミカを黒猫が守ってくれていたのだろうか……。
今、ミカはまるで生まれ直したみたいな姿で此処にいた。
ライハルトの青い瞳に包まれながら。
「お帰り、ミカ」
彼が囁いた。
「……ただいま」
何と返したらいいか分からず、数秒迷って、慣れないながらもそう返した。
すると、ライハルトがゆったりと左手を伸ばしてくる。
ミカの頬を触った。まるでミカの存在を確かめるように。目元にその指が触れると、ミカは先程までの白い世界を思い出す。あの夢みたいな世界でもこうして目元を撫でられたことを。
ライハルトが呟いた。
「随分、待ったぞ。帰ってきてくれたんだな」
ミカは擽ったい気持ちになりつつも答える。
「ライハルト様が呼んでくれているような気がして」
ライハルトはミカの言葉を聞くと柔らかにその目を細めた。
ミカが上半身を起こすと、ライハルトがブランケットを体に巻き付けてくる。寝惚けていたみたいに麻痺していた思考が今更追いついて、自分が裸であることに恥ずかしくなる。
だが服を着るよりもミカは、ライハルトを見ていたかった。
ライハルトは「確かに呼んだな」と、ようやく明るく笑った。
「信じらんねぇほど沢山。聞こえてたのか?」
「聞こえていたような。聞こえてなかったような……」
「ああ、そう」
「ライハルト様が謝っているような気もしたんです。でも、幻聴ですよね」
「……どうだろうな」
ライハルトは困ったような顔をした。
ミカにとっては新鮮な表情だった。いつだってライハルトは自信に満ち溢れているのに、その表情は気弱に見えた。
何だか少しやつれたようにも感じる。何日も寝ていないような雰囲気で、弱ったような雰囲気が伝わってくる。
ミカはその気弱な笑みに対して、自分でもびっくりするほど、とても素直に(愛おしい)と感じた。
心がライハルトを見つめている。そうすると彼の表情の全てがミカにときめきをもたらす。
世界の何もかもがくっきりと輪郭を持ったようだった。ライハルトがとても格好良く見えた。その瞳の青が美しいと、より強く思う。
「まぁ、何度でも繰り返して言うよ」
ライハルトがとても優しい表情で言った。
ミカは思わず、ライハルトの頬に手を伸ばす。
「ずっと俺を見ていてくれたんですか?」
「……あぁ」
その頬を指で撫でる。ミカから触れてきたことにライハルトは驚いたみたいだった。
ミカはライハルトに触れたくて堪らなかった。彼は目を閉じて、ゆっくり瞼を上げる。その青い瞳を、ミカはずっと見つめていたい。
「俺に話しかけてくれていたんですか?」
「ああ、ずっとな」
「……そうなんですね」
ミカは解けるように微笑んだ。胸に蘇るのは、目覚めの間際に聞いたライハルトの言葉だ。
眠っていた間の記憶は曖昧だけれど、あの言葉ははっきりと覚えている。その言葉が胸に熱を与えた。ミカは、沸き起こった熱で胸がいっぱいになりながらも告げた。
「ライハルト様」
「うん」
「俺も愛してます」
言葉にすると、嬉しくなった。
ずっと、知らぬ間に、身体の内側に溜め込まれていたライハルトへの想い。言葉を与えられてようやっと形になったのだ。ミカは思わず微笑んでいた。ライハルトはどこか見惚れるような表情をして、固まっている。
微動だにしない。けれどミカを見つめている。それが何だかおかしくて、ミカはライハルトの顔に近付いた。
唇の触れる距離で見つめ合う。ミカは「好きです」と囁き、唇を合わせるだけのキスをした。
短いキスだった。自分からしたことなのにミカは途端に照れて、顔を離す。
それからライハルトを見つめ、
「え!?」
思わず声を上げた。
「な、泣いているんですか?」
なぜならライハルトは涙を流していたからだ。
ミカは慌ててその涙を指で拭ってやる。ライハルトは泣いていた。それなのに何故か、微笑んでもいる。
「え? どうして? 泣いてるのに笑ってる?」
「……俺もな、何で泣いてんのかわかんねェの」
ライハルトは涙を流しながら嬉しそうに笑う。ミカは訳も分からず、その涙を拭った。
そこでようやく、ブランケットに赤い何かが滲んでいるのに気付いた。
何かと思ったが血だ。不思議に思って見渡すと、ライハルトの右手の手のひらから血が滲んでいるのを見つける。
ミカはまた「あっ!」と声を上げた。何故かは分からないがライハルトが怪我をしている。
血を流している。痛そうだ。
ライハルトが傷付いている。
ライハルトに……。
……嫌だ。
瞬間的にそう強く思った。
――すると不思議なことが起きた。
「いたっ」
「ミカ? どうした?」
ミカは自らの手のひらに鋭い痛みを感じた。びっくりして手を確認するが、何もない。ミカは眉間に皺を寄せた。たった今の痛みは決して錯覚なんかじゃないのに。
ライハルトは心配そうに「なんだ? どうしたんだ?」と問いかけてきた。
「今……手のひらが痛くなったような気がしたんです」
「手のひら?」
ライハルトが眉を顰める。だがすぐに、何かに気付いたように目を見開き自分の右手を見つめた。
「……」
「あれ?」
ミカもまたライハルトの手のひらを覗き込み首を捻る。
先程まで怪我があったのに、どうしてかライハルトの右手は傷ひとつなかった。もしかして幻覚? そう考えるがブランケットに血は滲んでいる。
ミカは「今、」と呟いた。
「ライハルト様、手のひらに怪我してませんでした?」
「……そうだったはずなんだけどな」
「ですよねっ? どうして治ってるんですか?」
ライハルトは答えを寄越さなかった。その代わりにまた、唇が重なる。
ライハルトはブランケットごとミカを膝の上に乗せてぎゅっと抱きしめてきた。ミカの体はライハルトに覆われて、唇も合わさっている。裸のミカにとっての暖かさはライハルトの熱だけで、それに包まれているのはとても心地よい。
やがて唇が離れてもミカはライハルトの腕の中にいた。ライハルトがじっとミカを見つめてくる。あんまりにも凝視してくるので、ミカは笑いながら言った。
「見過ぎですよ」
「うん」
ミカはライハルトの瞳を見つめた。
思わず、呟いていた。
「綺麗な青」
「……お前もだよ」
するとライハルトが泣き笑いみたいな顔をして言った。
ミカはその言葉に目を丸くする。でもすぐに、意味が分かる。「そうですか」と言って、ライハルトの胸に寄りかかる。ライハルトはミカを抱きしめた。
……帰ってきてよかった。
長い旅を終えたような感覚に、全身の力が抜ける。
ライハルトは脱力したミカの体を支えて抱きしめてくれている。だからミカは安心して、彼に身を預けて、この長い長い旅の余韻を感じていた。
ぶっきら棒だけどどこか優しい口ぶりをするお婆ちゃんが、ここにいる。
会えないままで終わってしまったお婆ちゃん。伝えたいことは沢山あったはずなのに、こうして目の前にすると拙い言葉しか浮かばない。
「会いに行けなくて、ごめんね」
お婆ちゃんは少し目を丸くすると、呆れたように言った。
「いつも言ってるだろ。こんな死にかけの婆さんとこに来るんじゃないって」
お婆ちゃんは子供を慰めるような笑みを浮かべた。
ミカは胸がキツくなって、声を詰まらせながらも、続けた。
「鏡を、割って……ごめん」
「あんなもの大したものじゃない」
「俺のこと」
ミカは首を傾げて、じっとお婆ちゃんの手を見つめた。
一緒に暮らしていた頃、時折ミカの頭を撫でてくれた手だ。皺皺で、少し湿った暖かい手。
今、触れてみるけれど、そこには熱も冷たさもなかった。
「お婆ちゃんは拾ってくれたのに、俺は何も残せなかった。お婆ちゃんの鏡さえ、壊した」
「ミカ、気にするんじゃない。ここには全てがあるんだから」
お婆ちゃんは「何もかもがあるんだ」と言って、立ち上がり、ミカの頭を撫でた。
「お前はこれから帰るんだ。帰って、探せば、お前も何か見つかるかもしれない」
「帰る……」
「そうだよ」
「でも、帰る場所が分からない」
お婆ちゃんと話していると途端に心が幼くなってしまう。もう大人になったのに、今すぐ泣き喚いて駄々を捏ねたい気持ちになる。
「お婆ちゃんも兄さんもみんないない」
「みんなじゃないだろ。なぁ」
「俺は、俺のせいで、ひとりなんだ」
一人きりで死なせてしまったお婆ちゃん。自分のせいで死なせてしまった兄さん。
一緒に暮らしていたのに皆いなくなった。幼くなった心は制御が効かない。心に導かれるまま、ミカの体はいつの間にか、お婆ちゃんと暮らしていた頃のように小さくなっていた。
ミカは抱えた膝に頭を埋めてしゃくりあげる。どうしようもなく辛くて涙を抑えきれなかった。
けれどお婆ちゃんは、仕方なさそうに笑うだけだ。
「ごめんね、お婆ちゃん」
「ミカ。お前は泣き虫だな」
「――そうなんです」
そのとき、懐かしい声が聞こえてきた。
いきなり現れた別の声にミカは思わず顔を上げる。
涙に塗れた顔のミカを見下ろすのは、お婆ちゃんだけではない。
「ミカ、立って」
「……お母さん」
ミカは呟く。なぜだろう。
とても自然に微笑んで、「やっと」と語りかけることができた。
「帰ってきてくれたの?」
もう顔も覚えていないと思ったのに、お母さんの笑顔はあっという間にミカの心に馴染んだ。
長い髪の毛はミカと同じ黒色で、艶めいている。病気で亡くなったから最後は酷くやつれていたはずなのに、お母さんは若々しく健康的な顔をしている。それがミカは嬉しくて堪らなかった。
ミカは涙を手のひらで拭いながら言った。
「待ちくたびれたよ」
「そうなの? 変な話だね。私はずっと傍にいたのに」
お母さんはそう言って笑った。
――ミカ
どこかで声がする。
――もう戻ってきてくれないのか
切ない響きが頭に滲む。ミカは少し切ない気持ちになって、頼りない笑みを浮かべた。
「そうだったんだ。もう戻ってきてくれないのかなって思ってたのに……でも、近くにいたんだね」
「ミカが泣いているから姿を見せることにしたの」
「ならもっと早く泣けばよかったな」
「目元も、瞳も、赤いのね」
お母さんが手を差し出してくれるから、ミカもその手を取って立ち上がった。いつの間にかミカの体は元の十八歳の姿に成長し、母よりも少し高いほどの背丈になっていた。
お母さんがミカの目元を撫でる。ミカは眉を下げた。
「兄さんが赤にしたんだ」
「そうみたいだね。でも、分かる? だんだん解けていってる」
「え?」
するとなぜかお母さんは、少女みたいな幼さを宿す満面の笑みを浮かべた。
その瞬間、頭の中に知らない記憶が流れ込んできた。
聞いたこともない女性の声が、ミカの心を暖かく包む。
――『苦しい思いをさせて、ごめんね。ミカ、ずっと貴方が帰ってくるのを待っていたのよ』
ミカは驚いて目を丸くした。
「これは誰?」
「……お祖母様」
お母さんが本当に嬉しそうに呟く。首を傾げるミカの目元を、また指で触った。
「魔法が解けてるよ。次に目を覚ました時はきっと、元の青に戻ってる」
「そっか……これは兄さんがかけた魔法だったんだ」
「知ってる。ミカを守るためにかけた魔法ね」
「うん。今なら分かる」
分かるよ。
ミカは寂しくなって問いかけた。
「兄さんには会えないの?」
するとお母さんは困った顔をした。ミカを愛おしげに見つめながら首を横に振る。
「あの子は遠い場所にいるから」
「そっか……」
隣ではお婆ちゃんが見守ってくれている。お母さんが歩き出した。ミカを導くように。
――俺のせいだ
苦しげな、掠れた声が胸に届く。
――ごめん
ミカはけれど立ち止まったまま、「お母さん」と呟く。
「ごめんね」
お母さんは振り返り、首を傾げた。
ミカの頭の中に浮かぶのは夜空を染める真っ赤な炎だ。
あの時、兄は気付いてしまった。
「俺のせいだよね。俺のせいで死んじゃったんでしょう? 早く逃げたかったはずなのに」
申し訳ない気持ちでいっぱいになる。苦しい胸を抑えて、声を絞り出す。
「俺たちがいたから逃げられなかったんでしょう? どうして、俺たちを捨てなかったの?」
ミカは泣き出しそうな声で呟いた。
俺たちのせいだ。きっとそうだった。ミカたちさえいなければお母さんは逃げられた。ミカたちがいたから死んでしまった。
ごめんね。
ミカは唇を噛み締める。
「ミカ」
けれどお母さんはふふっとおかしそうに笑った。
目を細めてミカを見つめ、
「愛してるからよ。捨てるわけがないでしょ」
と微笑んだ。
ミカはまた、泣きたい気持ちが込み上げた。けれど、もう体は大人だ。
耐えるために黙り込めばお母さんがミカの手を取ってくる。歩き出すから、ミカも歩き出す。
お婆ちゃんはいつの間にか杖をついていて、その場に立ち止まったまま見送ってくれた。
ミカは心の中で囁く。
ばいばい、お婆ちゃん。
「かわいいミカ。きっと愛する人に会えるから」
隣を歩くお母さんが言った。ミカは自信なく「分からない」と呟く。
するとお母さんは力強く言った。
「ミカ、よく見て」
ミカは言われるまま顔を上げる。
「自分の心を」
真っ直ぐ、前を見ている。
お母さんが囁く。
「ミカ、帰るんだよ」
――「帰ってきてくれ、ミカ」
また、声がする。けれどもう近い。いつの間にか声のする方へ、随分と歩いていたらしい。
今はもう、お母さんの声が遠かった。
――心を見て。自分の心を。
ミカはいつからか一人で歩いていた。
ただ真っ直ぐ前を見つめて歩いている。声が呼んでいるから迷わない。その声が聞こえるのはきっとミカだけだった。ミカはその声を頼りに歩いていた。
そうだ。
帰ろう。
待ってくれているのが分かるから。
沢山待たせてしまったら、ミカのように不貞腐れてしまうかもしれない。これ以上待たせたくない。己の心を見つめた時見えたのは、あの人の姿だった。
破天荒で自由で、メチャクチャな人。ミカが初めて面白いと思った人。
ミカには考えつかないことをして、ミカを楽しませようとする。出会いは最悪だったけれど、……気付いてるのかな。あなたは俺に躊躇いなくお弁当とお水を与えてくれて、俺が花について訊ねると嫌な顔ひとつせずその花について教えてくれた。
最初からおかしな人だったのだ。
きっとライハルトは知らない。
――祭りの最中に攫われたあと、ミカが窮地の中で助けを求めたのはライハルトだった。
ミカが帰りたいと思ったのは、ライハルトの傍だった。
――白い雲の中にいたのにいつの間にか、前方には薄い青が広がっている。
だんだんと強くなる青の光。白の世界が崩れていく。
青が信じられない速度で染まり、波となってミカを飲み込む。
ミカは思わず目をぎゅっと瞑った。
……開いたのは、やはりその声がしたからだ。
「――愛してる」
ミカは瞼を開いた。
一番に目にしたのは、その青だった。
「……ライハルト様」
まん丸に見開いた青い目。それは記憶で見た青みたいに鮮明だった。まるで泣いているみたいに潤んでいる。より光が敷き詰められて、綺麗だった。
でもここに在るのは青だけでない。金色の髪は煌めいて、今のミカには眩しいほどだ。
ミカは裸だった。そこで初めて、知らぬ間に自分が黒猫に変化していたことに気付く。
猫の時の記憶がない。ミカはずっと白い世界で膝を抱えていたから。
意識のないミカを黒猫が守ってくれていたのだろうか……。
今、ミカはまるで生まれ直したみたいな姿で此処にいた。
ライハルトの青い瞳に包まれながら。
「お帰り、ミカ」
彼が囁いた。
「……ただいま」
何と返したらいいか分からず、数秒迷って、慣れないながらもそう返した。
すると、ライハルトがゆったりと左手を伸ばしてくる。
ミカの頬を触った。まるでミカの存在を確かめるように。目元にその指が触れると、ミカは先程までの白い世界を思い出す。あの夢みたいな世界でもこうして目元を撫でられたことを。
ライハルトが呟いた。
「随分、待ったぞ。帰ってきてくれたんだな」
ミカは擽ったい気持ちになりつつも答える。
「ライハルト様が呼んでくれているような気がして」
ライハルトはミカの言葉を聞くと柔らかにその目を細めた。
ミカが上半身を起こすと、ライハルトがブランケットを体に巻き付けてくる。寝惚けていたみたいに麻痺していた思考が今更追いついて、自分が裸であることに恥ずかしくなる。
だが服を着るよりもミカは、ライハルトを見ていたかった。
ライハルトは「確かに呼んだな」と、ようやく明るく笑った。
「信じらんねぇほど沢山。聞こえてたのか?」
「聞こえていたような。聞こえてなかったような……」
「ああ、そう」
「ライハルト様が謝っているような気もしたんです。でも、幻聴ですよね」
「……どうだろうな」
ライハルトは困ったような顔をした。
ミカにとっては新鮮な表情だった。いつだってライハルトは自信に満ち溢れているのに、その表情は気弱に見えた。
何だか少しやつれたようにも感じる。何日も寝ていないような雰囲気で、弱ったような雰囲気が伝わってくる。
ミカはその気弱な笑みに対して、自分でもびっくりするほど、とても素直に(愛おしい)と感じた。
心がライハルトを見つめている。そうすると彼の表情の全てがミカにときめきをもたらす。
世界の何もかもがくっきりと輪郭を持ったようだった。ライハルトがとても格好良く見えた。その瞳の青が美しいと、より強く思う。
「まぁ、何度でも繰り返して言うよ」
ライハルトがとても優しい表情で言った。
ミカは思わず、ライハルトの頬に手を伸ばす。
「ずっと俺を見ていてくれたんですか?」
「……あぁ」
その頬を指で撫でる。ミカから触れてきたことにライハルトは驚いたみたいだった。
ミカはライハルトに触れたくて堪らなかった。彼は目を閉じて、ゆっくり瞼を上げる。その青い瞳を、ミカはずっと見つめていたい。
「俺に話しかけてくれていたんですか?」
「ああ、ずっとな」
「……そうなんですね」
ミカは解けるように微笑んだ。胸に蘇るのは、目覚めの間際に聞いたライハルトの言葉だ。
眠っていた間の記憶は曖昧だけれど、あの言葉ははっきりと覚えている。その言葉が胸に熱を与えた。ミカは、沸き起こった熱で胸がいっぱいになりながらも告げた。
「ライハルト様」
「うん」
「俺も愛してます」
言葉にすると、嬉しくなった。
ずっと、知らぬ間に、身体の内側に溜め込まれていたライハルトへの想い。言葉を与えられてようやっと形になったのだ。ミカは思わず微笑んでいた。ライハルトはどこか見惚れるような表情をして、固まっている。
微動だにしない。けれどミカを見つめている。それが何だかおかしくて、ミカはライハルトの顔に近付いた。
唇の触れる距離で見つめ合う。ミカは「好きです」と囁き、唇を合わせるだけのキスをした。
短いキスだった。自分からしたことなのにミカは途端に照れて、顔を離す。
それからライハルトを見つめ、
「え!?」
思わず声を上げた。
「な、泣いているんですか?」
なぜならライハルトは涙を流していたからだ。
ミカは慌ててその涙を指で拭ってやる。ライハルトは泣いていた。それなのに何故か、微笑んでもいる。
「え? どうして? 泣いてるのに笑ってる?」
「……俺もな、何で泣いてんのかわかんねェの」
ライハルトは涙を流しながら嬉しそうに笑う。ミカは訳も分からず、その涙を拭った。
そこでようやく、ブランケットに赤い何かが滲んでいるのに気付いた。
何かと思ったが血だ。不思議に思って見渡すと、ライハルトの右手の手のひらから血が滲んでいるのを見つける。
ミカはまた「あっ!」と声を上げた。何故かは分からないがライハルトが怪我をしている。
血を流している。痛そうだ。
ライハルトが傷付いている。
ライハルトに……。
……嫌だ。
瞬間的にそう強く思った。
――すると不思議なことが起きた。
「いたっ」
「ミカ? どうした?」
ミカは自らの手のひらに鋭い痛みを感じた。びっくりして手を確認するが、何もない。ミカは眉間に皺を寄せた。たった今の痛みは決して錯覚なんかじゃないのに。
ライハルトは心配そうに「なんだ? どうしたんだ?」と問いかけてきた。
「今……手のひらが痛くなったような気がしたんです」
「手のひら?」
ライハルトが眉を顰める。だがすぐに、何かに気付いたように目を見開き自分の右手を見つめた。
「……」
「あれ?」
ミカもまたライハルトの手のひらを覗き込み首を捻る。
先程まで怪我があったのに、どうしてかライハルトの右手は傷ひとつなかった。もしかして幻覚? そう考えるがブランケットに血は滲んでいる。
ミカは「今、」と呟いた。
「ライハルト様、手のひらに怪我してませんでした?」
「……そうだったはずなんだけどな」
「ですよねっ? どうして治ってるんですか?」
ライハルトは答えを寄越さなかった。その代わりにまた、唇が重なる。
ライハルトはブランケットごとミカを膝の上に乗せてぎゅっと抱きしめてきた。ミカの体はライハルトに覆われて、唇も合わさっている。裸のミカにとっての暖かさはライハルトの熱だけで、それに包まれているのはとても心地よい。
やがて唇が離れてもミカはライハルトの腕の中にいた。ライハルトがじっとミカを見つめてくる。あんまりにも凝視してくるので、ミカは笑いながら言った。
「見過ぎですよ」
「うん」
ミカはライハルトの瞳を見つめた。
思わず、呟いていた。
「綺麗な青」
「……お前もだよ」
するとライハルトが泣き笑いみたいな顔をして言った。
ミカはその言葉に目を丸くする。でもすぐに、意味が分かる。「そうですか」と言って、ライハルトの胸に寄りかかる。ライハルトはミカを抱きしめた。
……帰ってきてよかった。
長い旅を終えたような感覚に、全身の力が抜ける。
ライハルトは脱力したミカの体を支えて抱きしめてくれている。だからミカは安心して、彼に身を預けて、この長い長い旅の余韻を感じていた。
応援ありがとうございます!
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