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第一章

18 兄さん

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 ミカの肩に手を置いたフォルカーが、耳元で囁く。
「お前の後を追わせたんだが……本当にいい金蔓だよ」
 そうだった。フォルカーは金のためなら執拗な男なのだ。
「……フォルカーに渡す金はないです」
「ミカ、勘違いするな」
 肩を掴む腕の力が強くなる。その痛みに、ミカは顔を顰めた。
「お前は自分の罪を隠している。ライハルト・デューリンガーはお前が殺人未遂犯だってこと知ってんのか?」
「……っ」
 ミカは自分の靴先をじっと見つめた。ここに来てから、ライハルトが気まぐれでプレゼントしてくれた靴だ。
「知ってたら働けるはずねぇよな? 聞くところによると、ミカ、お前旦那様のお気に入りなんだって?」
 か細い声で「違う」と絞り出す。フォルカーは聞こえていないみたいに、
「愛人みたいに気に入られてるって聞いたぞ」
 ライハルト邸の使用人と接触したのか? あまりの恐怖で目を合わせられない。
 嘲笑混じりの声が耳たぶを震わす。
「旦那様はお前がかつての屋敷で愛人をしていて、本妻とその子供を毒殺しようとしたことを知ってるのか? 知ったらどうなるか、想像つくよな」
 ミカは唾を飲み込んだ。通りには多くの人々が行き交うが、影になった路地にいる二人には誰も気づいていないようだった。
「すげぇ男と懇意になったな、ミカ」
「……」
「ライハルトか。実家と折り合いが悪いとはいえ、デューリンガー侯爵家の男だ」
「そんなことまで調べたんですか」
 啞然と呟くと、フォルカーは得意げに言った。
「知ってる奴らは知ってるよ。侯爵家の三男坊だろ。家を出て、ライハルトはその経営の手腕で絶大な富を築いている」
 そうだったのか。ライハルト本人には聞けないし、侯爵家のことは口にしてはならないのかと思って屋敷の皆にも訊ねたことはなかった。
 本家の三男だったらしい。貴族の人間は事業など起こさないと思っていたが、家を出たからこそこうして働いているようだ。
「デューリンガー侯爵家がライハルトに干渉できないのは彼の権威と金のせいだ。ライハルトが牙を向けば侯爵家も危ういからな」
 ライハルト邸も立派な豪邸だ。彼には他にも幾つかの邸宅と莫大な財産があるように思えた。
 それらはデューリンガー侯爵家にも匹敵するらしい。
「お前、どこで奴と関係を持った?」
 フォルカーの声が急激に低くなる。
「その顔でたぶらかしたのか?」
 声の鋭さに、背中に悪寒が走る。ミカは小さく首を振った。
「……俺とライハルト様はそんな関係ではありません」
「へぇ?」
「路頭を彷徨っていた俺を拾って使用人にしてくれただけです」
「ローレンツと同じじゃねぇか」
 フォルカーはおかしそうに笑い声を立てた。事実を伝えているだけだが、フォルカーが信じる気配はない。
「お前の言うとおり、ただの使用人だとして」
 笑いもおさまった頃、フォルカーは目を細めた。
「ライハルト様が殺人未遂犯だと知ったら、どうなるかな?」
「……」
「それに、自分の妻を殺そうとした男が他の男の元で働いてくることをローレンツはまだ知らないようだ」
 ミカは目を見開いた。
「そ、んな。伝える気ですか?」
「お前の誠意によるよ」
 もう、フォルカーの言葉を想像できる。答えが分かっていながらも、ミカは問いかけた。
「……どうしたら言わないでくれるんですか」
「金だな」
 静かに息をつく。瞬きをする瞼が震える。
「八万リルだ」
「そっ」
 そんな、大金。
 あまりの高額に俯いていた視線を上げる。フォルカーを睨み付け、揺れる声に力を強める。
「払えません」
「知るかよ」
「こ、この間渡したお金が全部なんです」
 八万リルは街で働く人々の三ヶ月分ほどの給料だ。ありえない。そんな、高額。
「無理です」
「黙れ」
 不意に、なぜか、思い出した。
 幼い頃のミカはフォルカーに対して敬語なんか使っていなくて、フォルカーもまた、ミカを脅すようなことなんか言わなかった。
 どうしてこうなったのだろう。
 でももう、関係が戻らないのは確かだ。
 否定したって、無駄なのが分かる。
 あきらめに包まれて、ミカは言葉を吐き出した。
「……また、一ヶ月後に来てくれれば、何とかはできます」
「一ヶ月後じゃ遅いんだよ」
「本当にお金はもう持っていないんです」
「何とかしろ」
 フォルカーは感情のない口調で放つと、ミカの首を掴んだ。
「五日後、一万リルを回収にくる」
 一万リル……頭がくらっとして地が歪む。
 フォルカーの爪が皮膚に食い込む。ミカは微動だにできない。鋭い痛みが肌に走ったと同時、フォルカーの手が離れた。
 踵を返した男がその場を去っていく。ミカは立ち尽くしたまま、首元に指を当てた。指先が赤く濡れる。ミカはでも、首を傷つけられたことよりも、金のことを考えている。
 お金……渡せば、黙っていてくれるだろうか?
 ライハルトや屋敷の皆に知られればもうあそこには居られない。他に生きていく場所なんかない。ミカには選択肢がない。
 お金を、用意しないと。
 フォルカーはその日から数日置きに使いを出してきた。
 そしてミカはライハルト邸で初めて明確な嘘をついた。買いたいものがあるから給料を一週間早く貰えないか、とメイド長のユリアーナに相談すると、彼女は『街が気に入ったのね』と快く了承してくれた。
 使いの男は夕方になるとライハルト邸の近くまでやってくる。ミカは使用人たちにバレないようこっそり屋敷を抜け出して、男へ金を渡す。
 フォルカーはミカを決して逃がさない。そのために監視として人を寄越す。いつも現れる体格の良い男はもしかしたら、この近くに住んでいるのかもしれない。だとすると屋敷の人々と接触するのは容易だ。
 ミカは男がやってくる日も、やってこない日も、怯えて過ごすようになった。
 初めの二週間は前借り分で何とかなっていたが、途中で資金も尽きて何も渡せなくなった。フォルカーに指示されたのか、使いの男はニヤッと笑って「払えないんじゃ仕方ないよな」とミカの腹を殴りつける。
 暴力に何の抵抗もない男だった。フォルカーは金貸しの主でもあるので、そうした人間を雇うのは造作もないのだろう。
 暴力は慣れている。路地にいた時も知らない大人に蹴られたし、フォルカーにも憂さ晴らしで殴られたし、ローレンツの邸宅で暮らしていた時も陰険ないじめを受けていた。
 フォルカーがやってくるのは、あと二週間後だ。その時には給料分を渡せる。暴力で代用できるならむしろ幸運だ。猫になってしまえば、不思議と傷は治るから。
「顔は殴らないでやるよ。優しいだろ?」
「ゴホッ、……ぐ、うっ」
 こうして殴られていると、昔を思い出す。
 子供の頃、お母さんもよく大人の男に殴られていた……気がする。
 あれは父親なのだろうけれど、正直なところ記憶が曖昧でよく覚えていない。その男はミカと兄の元へもやってきて、拳を振り下ろした。
 でも痛みの記憶はない。なぜだろう? 遠い昔だからなのか……。
 子供のミカは覚えていないけれど、兄ならきっと覚えている。兄は今、どこにいるのかな?
 正直に言うとミカは、兄の名前を覚えていなかった。
 いつも「兄さん」と呼んでいたので、名前を知らないのだ。母が兄の名を口にしていたはずなのにその記憶すらない。でもミカにとって名前は重要でなかった。
 兄はいつもミカの傍で優しくしてくれた。
 本当に優しくて、頼もしい兄だった。
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