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最終編『蛍火明滅、〈探し人〉のゆく先』
第八話「ワスレナ診療所」⑴
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現実へ戻るというコレさんと別れ、由良はエレベーターに戻った。
エレベーターは中庭に行っている間に、一階に戻っていた。ボタンを押すと、すんなり昇ってくる。今度は無人だった。
由良はエレベーターに乗り、ワスレナ診療所がある十三階まで移動した。
降りると、右手に「ワスレナ診療所」と看板が掲げられた古い診療所、左手に勝手口が開け放たれたままの名もなき病院が建っていた。勝手口のドアの先にはさらにドアが続いており、そこから生温い風がヒュウヒュウと吹き込んでいる。建物の位置関係から、このドアの先に由良が落下した崩落地点があるのだろう。
(もしかしたら、この先でナナコさんが待っているかもしれない)
由良は念のため、崩落した病院の前まで見に行った。近づくにつれ、風に混じってゴウゴウと不気味な音が聞こえた。
由良が落下した場所には、巨大な穴が空いていた。崩落した病院と同じくらいの大きさだ。中からゴウゴウと風が吹き上がっている。
穴の前には黄緑色のコーンが立ち、「この先、崩落中」と紙が貼ってあった。警告に従っているのか、穴の近くには誰もいない。ナナコがいた形成も見当たらなかった。
「……私、よくここから落ちて助かったな」
由良は穴を覗き、ゾッとした。穴の中は真っ暗で、底が見えなかった。
気を取り直し、予定通りワスレナ診療所へ向かった。
待合室に患者は見当たらず、静まり返っている。受付のカウンターにも人はいない。壁際に設置された、巨大なヤシの木が目を引く。
由良は通りかかった看護師に、ナナコについて訊ねた。
「すみません。こちらにナナコさんという、洋装の喪服の女性は来ていませんか?」
「その方なら、あちらの席で眠っていらっしゃいますよ」
看護師はヤシの木の死角になっていた長椅子を指差した。
近づいてみると、確かにナナコさんが長椅子に横たわっていた。見舞い品の花束と花瓶も、隣の長椅子に置いてあった。
「しばらくはアメをなめながら待っていらっしゃったんです。でも、アメの数が残り少なくなってくると、睡眠薬をもらえないか訊かれました」
「睡眠薬?」
「意味はよく分かりませんけど、『添野さんが来るまで、記憶を失うわけにはいかないんです』とおっしゃっていましたよ。症状もないのにお薬を出すわけにはいかなかったので、代わりに蛍糖入りのホットミルクをお出ししましたけど」
ナナコは律儀に、由良を待っていた。先に夏彦のもとへ行けば、眠ってまで待つ必要もなかったというのに。
由良はナナコに与えるため、キーライムを取り出した。
「あの、何か切るものありません? 医療用メスでもいいんですけど」
看護師は「ダメです」眉をひそめた。
「あれは手術用なので、お渡しするわけにはいきません。私用の十徳ナイフか、非常用の斧なら貸せますが」
「何で斧が選択肢に入るんですか」
由良は看護師から十徳ナイフを借り、キーライムを半分に切った。寝ているナナコの口に、皮ごと押し込む。
ナナコは寝ながらモゴモゴと口を動かしていたが、突然カッと両目を見開き、跳ね起きた。涙目で、キーライムの皮を剥ぎ取る。
「~ッ!!!」
「ナナコさん、おはようございます」
「コレ食べさせたの、添野さんですか! ひどい! めちゃくちゃ酸っぱいのに!」
「すみません。寝ている間はアメを食べていないはずだと思って、つい」
「それはそうですけど!」
「お話は、こちらの看護師さんからうかがいました。大変お待たせしてしまい、申し訳ありません。ここへ来るまでにいろいろありまして、すぐには戻ってこられませんでした」
ナナコは安堵した様子で、首を振った。
「気にしてません。添野さんがご無事で良かった」
「お待たせしといてなんですけど、どうして待っていたんです? 私が戻ってくるのを待つより、夏彦さんとお会いになるほうが早かったでしょうに」
「……不安だったんです。夏彦さんと会ったら、自分が自分でなくなってしまいそうな気がして。いっそ添野さんの後を追って、あの大穴へ身を投げてしまおうかとすら思いましたよ」
(……踏みとどまってくれて良かった)
由良は心の底から安堵した。
もし、ナナコが由良の後に落ちていたら、由良はナナコのクッションになっていたかもしれない。
エレベーターは中庭に行っている間に、一階に戻っていた。ボタンを押すと、すんなり昇ってくる。今度は無人だった。
由良はエレベーターに乗り、ワスレナ診療所がある十三階まで移動した。
降りると、右手に「ワスレナ診療所」と看板が掲げられた古い診療所、左手に勝手口が開け放たれたままの名もなき病院が建っていた。勝手口のドアの先にはさらにドアが続いており、そこから生温い風がヒュウヒュウと吹き込んでいる。建物の位置関係から、このドアの先に由良が落下した崩落地点があるのだろう。
(もしかしたら、この先でナナコさんが待っているかもしれない)
由良は念のため、崩落した病院の前まで見に行った。近づくにつれ、風に混じってゴウゴウと不気味な音が聞こえた。
由良が落下した場所には、巨大な穴が空いていた。崩落した病院と同じくらいの大きさだ。中からゴウゴウと風が吹き上がっている。
穴の前には黄緑色のコーンが立ち、「この先、崩落中」と紙が貼ってあった。警告に従っているのか、穴の近くには誰もいない。ナナコがいた形成も見当たらなかった。
「……私、よくここから落ちて助かったな」
由良は穴を覗き、ゾッとした。穴の中は真っ暗で、底が見えなかった。
気を取り直し、予定通りワスレナ診療所へ向かった。
待合室に患者は見当たらず、静まり返っている。受付のカウンターにも人はいない。壁際に設置された、巨大なヤシの木が目を引く。
由良は通りかかった看護師に、ナナコについて訊ねた。
「すみません。こちらにナナコさんという、洋装の喪服の女性は来ていませんか?」
「その方なら、あちらの席で眠っていらっしゃいますよ」
看護師はヤシの木の死角になっていた長椅子を指差した。
近づいてみると、確かにナナコさんが長椅子に横たわっていた。見舞い品の花束と花瓶も、隣の長椅子に置いてあった。
「しばらくはアメをなめながら待っていらっしゃったんです。でも、アメの数が残り少なくなってくると、睡眠薬をもらえないか訊かれました」
「睡眠薬?」
「意味はよく分かりませんけど、『添野さんが来るまで、記憶を失うわけにはいかないんです』とおっしゃっていましたよ。症状もないのにお薬を出すわけにはいかなかったので、代わりに蛍糖入りのホットミルクをお出ししましたけど」
ナナコは律儀に、由良を待っていた。先に夏彦のもとへ行けば、眠ってまで待つ必要もなかったというのに。
由良はナナコに与えるため、キーライムを取り出した。
「あの、何か切るものありません? 医療用メスでもいいんですけど」
看護師は「ダメです」眉をひそめた。
「あれは手術用なので、お渡しするわけにはいきません。私用の十徳ナイフか、非常用の斧なら貸せますが」
「何で斧が選択肢に入るんですか」
由良は看護師から十徳ナイフを借り、キーライムを半分に切った。寝ているナナコの口に、皮ごと押し込む。
ナナコは寝ながらモゴモゴと口を動かしていたが、突然カッと両目を見開き、跳ね起きた。涙目で、キーライムの皮を剥ぎ取る。
「~ッ!!!」
「ナナコさん、おはようございます」
「コレ食べさせたの、添野さんですか! ひどい! めちゃくちゃ酸っぱいのに!」
「すみません。寝ている間はアメを食べていないはずだと思って、つい」
「それはそうですけど!」
「お話は、こちらの看護師さんからうかがいました。大変お待たせしてしまい、申し訳ありません。ここへ来るまでにいろいろありまして、すぐには戻ってこられませんでした」
ナナコは安堵した様子で、首を振った。
「気にしてません。添野さんがご無事で良かった」
「お待たせしといてなんですけど、どうして待っていたんです? 私が戻ってくるのを待つより、夏彦さんとお会いになるほうが早かったでしょうに」
「……不安だったんです。夏彦さんと会ったら、自分が自分でなくなってしまいそうな気がして。いっそ添野さんの後を追って、あの大穴へ身を投げてしまおうかとすら思いましたよ」
(……踏みとどまってくれて良かった)
由良は心の底から安堵した。
もし、ナナコが由良の後に落ちていたら、由良はナナコのクッションになっていたかもしれない。
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