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第1章

夜の植物園は、それはそれはいい匂いがした。

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 夜の植物園は、それはそれはいい匂いがした。別に食べ物の匂いちゃうで、って当たり前か。夜の花の匂い、そして夜風に流れてくる木々の匂い、またはそこにいるであろう動植物の呼吸する匂い。うちは肌でそれをきめ細やかに感じては、ハーっと息を吐き出す。うん、それでまた息を吸い込む。するとなんてことやろう、うちの気分は晴れ晴れとして鮮やかな、もっと言えばトロピカルなものに変わっている。わーわーわー、うちは叫びたい気持ちさえするけど、それはさすがにはばかられるので止めとく。静かな夜には静かなムードが似合ってるし、何よりこうして目の前の門が閉まって、ない?開いてるやん。そっと手をかけたら人が出入りできるくらいの小さな方の門が、音もなく開いた。あれ、どうしよ。と考える暇もなく、うちは夜の植物園に一歩足を踏み込んでいる。あたりを見るけど、そこには誰もいない。守衛室みたいなものもあるにはあるけど、明かりも小さなのがちょこんと点いてるだけや。どうしよ、どうしよと独り言を言いながらうちは二歩、三歩と歩いている。昼間には何べんも来たことがある植物園も、夜となるともちろん初めてやった。何事も初体験というのは、いきなり、唐突に、思いがけずにやってくるのかもしれへん。あとはそれを受け止める勇気と、ちょっとした好奇心。そら、そらあかんで町子。ただそれがあかん結果を生み出すこともあるかもしれんけど、うちはそんな弱気はとっくの昔に捨ててん。そう、遠い日の迷子になった桜の日に、うちはそういう迷いごとは置いてきた。だから二十才になったうちは誰よりも強い。そら恋に迷うこともあるけど、こうして夜の植物園を歩いていると、そういうことのすべてが別にどーでもええことに思えてくる。どーでもええって言っても、悪い意味じゃなくていい意味で「気にしない。」とかそういうこと。夜の植物たちがそう語りかけてくる。「ね、町子、あんたは思ってるよりわるくないよ。」とか「あんたはいつも魅力的やよ。」とか「自分らしさを大切にね。」とか。そのうちのいくつかは昔おばあちゃんがうちに教えてくれたことと重なる。それは遠い日々の、かすかな思い出。

「ね、町子。あなたはね、いつも泣いてばかりやけど、物事はそれほど悪くないのよ。」とおばあちゃんが言う。
「物事って?」幼いうちは聞き返す、それくらいの器量はあった。
「あなたに起こるすべてのこと。それはあなたが引き起こしてるの。」少し笑うようにおばあちゃんはうなづいてみせる。
「ああ、おばあちゃんの言ってること、ちょっとわかる気がするぅ。」うちは精一杯背伸びして、それでわかってるフリをする。
「無理せんでええんよ。あなたはすぐわかったような気になるから。わかっても、わからなくてもええの。」おばあちゃんはうちの頭をなでてくれる。
「うん、うちおばあちゃんが大スキや。」甘えるようにおばあちゃんに抱きつく。するとおばあちゃんの温もりと、得も知れぬ匂いがうちの胸の中に広がる。ねーおばあちゃん、うち全然わからへんことだらけや。移り気な静の行動も、仲条さんの気持ちも、夜の木々のざわめきも。
「全然えーのよ。」おばあちゃんの声がする。夜風が吹いて、再び植物たちの匂い。そしてうちは池のそばにポツンと座る。ねーカエルさん、どこ行った。どこに帰ってしまったん?うちはここにおるよ、いつだっていつだって甘えん坊やけど、しっかりと一人でいることもできるよ。京都のお月さんは、いつだって東山から現れて、そして西の彼方に去っていく。うちはそれを追いかけるように西に行こうとするけれど、本当は東の方に歩いていくべきなのかもしれへん。だってすべては東から始まるわけやし、おてんとさんだって東の空から昇るんやから。

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