人災派遣のフレイムアップ

紫電改

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第7話:『壱番街サーベイヤー』

◆10:紅華飯店にて-3

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『実のところ、ファリス皇女を逃がしても大勢に影響はございません』

 というか、そもそもこの男の唐突な指示がなければ、彼女にファリスを捕らえるつもりなどなかったのである。

『皇女がわざわざ危険を冒してまで日本にやってきたのは、セゼル大帝から受け継いだという『箱』のヒントなり答えなりがこの地にあるということでしょう』
『む、その可能性はあるかも知れんが……』

 というより、日本には彼女の後見人となるような人物が居ない以上、それ以外考えられないのだが。

『ならばわざわざ皇女から情報を引き出すことはありません。放っておけば彼女と護衛の連中が、『箱』の暗号解読に走り回ってくれることでしょうから』
『ふん、ならば連中の後をつけ回し、『鍵』と『箱』の謎が解けたところで取り上げると言うことだな?』
『表現を飾らなければ、まさしくそういう事ですわね。もちろん、皇女殿下が匿われた事務所の入ったビルは、我々の部下が監視を敷いています』

 マンネットブロードサービスのような大規模な派遣会社のメリットとして、任務に望む際、部隊の支援が受けられるという点がある。監視や連絡など、能力は必要としないが人手はかかる、という仕事を一般のメンバーに任せ、能力者は自分の専門分野にのみ集中できるのだ。

『……いいだろう。だが必ず『鍵』と『箱』を手に入れろよ。あれに運命がかかっているのだからな』

 事実だろう、誰の運命かは知らないが。笑みを浮かべた美玲と、仏頂面の颯馬が退出する。扉が閉まる前に、ワンシムは新たな酒杯に腕を伸ばしていた。
 

 
『落ちたもんだな、俺達紅華幇も』

 ドラゴン・スイートを出てエレベーターに向かう廊下の道すがら、颯馬が口を開いた。

『弱きを助け強きを挫く。侠者の魂こそが、大陸を離れこの島国に生きる我らを支えてきた絆じゃないか』

 愚痴や呟きというにはいささか大きすぎる声だが、颯馬には声をひそめるつもりはさらさらないようだった。上に立つ者が下を向いて小声で話していて誰がついてくるものか。エレベーターホールにたどり着き、ボタンを押す。

『それが江湖の掟を忘れ、あんな輩に肩入れし、あまつさえ数人がかりで女を攫ってこい、などと』

 口調こそ抑えているものの、颯馬の怒りは本物だ。だが彼にこの仕事を持ってきた美玲としては、それでも反論せざるを得ない。

『しかし、お父上……塞主直々の命ですわ』
『どうせ中南海の連中に高く恩を売りつけようというハラだろう?』

 事実である。今回、ワンシムの依頼を彼らマンネットブロードサービス……紅華幇が請け負うにあたり仲介を務めたのは、|中南海(中国政府)と太いパイプを持つさる要人である。

 骨肉争うルーナライナの諸勢力の中でも、一番の力を持っているのがワンシムの派閥であり、そしてその理由はワンシム本人の実力でも人望でもなく、彼の操り主である中国政府の支援に拠るものだということは、中央アジアの政界では公然の秘密だった。

 アベリフが退位、もしくは崩御しワンシムが即位したあかつきには、ルーナライナは完全に中国の傀儡政権に成り果てるだろう。ただでさえ国境、戦争、宗教、資源問題を抱え込み混乱にある中央アジアの勢力図が、さらに大きく描き換わることは明白だった。

 紅華幇の塞主、つまり颯馬の父は、これに荷担することで幇の中国政府への影響力を強めようと考えているのだった。

「仕方がないことなのです。企業であれ組織であれ、今後の世界で商いをしようとするのであれば、大陸の市場を無視することは出来ないのですから。塞主の指示は、慧眼と私も思いますわ」

 
 みし、と音が一つ。

 
 紅華飯店の建物が軋んだ。

 颯馬がほんのわずかに右脚を浮かせて――踏み下ろす。ただそれだけで、安普請などという言葉とは対極にある堅牢極まりない巨大な構造物が、小さな悲鳴を上げたのだった。

『商売人としては、そうだろうさ。だが侠客として、官吏に尻尾を振るというのはどうなんだ?』
『坊ちゃま……』
『坊ちゃまはやめろ』
『……塞主より仰せつかっております。今回の件が成功すれば、その功績はご兄弟に大きく勝り、次期塞主の座は貴方のものになろう、と』
『ふん……』

 颯馬の声がわずかに揺らいだ。そう、彼は塞主にならなければならない、なんとしても。己の両脚と武技にのみ拠って立つ、一介の武侠でありたいという彼の思いとは別に。

 微妙な沈黙を打ち割ったのは、昇ってきたエレベーターのチャイムだった。扉が開いたときには、すでに颯馬の眼から葛藤は消え失せていた。

『……まあいい。どちらにせよ、七瀬が出てくるとなれば、俺に断る理由はない。我が『四征拳』にかけて、奴を倒す。それもまた江湖の掟だ』

 受けた依頼は果たす。立ち塞がる敵は倒す。それが紅華幇に名を連ねる武侠の道であり、マンネットブロードサービスに所属する派遣社員のルールであるはずだった。
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