*大正華唄異聞*

紅月憂羅

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⌘第二幕⌘ 恋と留学編

第三夜 過去ノカンバセ、華ノキオク『前編』

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ーー乃木園邸、迎賓館の夜会翌日。


『んん……あれ、私……そのまま寝てしまったの?』

カーテンの隙間から朝陽が覗く。高らかに一日の始まりを告げる鳥の囀りと頬を撫でる光で彼女の目が覚めた。
昨晩、稔に部屋まで送り届けられたあとのこと、乱されたドレスから寝巻きとして着用している浴衣を身に纏い、気づけば憂は巽の部屋に赴いていた。その部屋は未だに所有者の香りを残しており、ふわりと優しく包み込むような彼の香りがした。巽のベッドの上には彼が愛用していたブランケットがそのままになっていた。その香りに包まれて気が緩んだ彼女はどうやら彼の部屋で目元を腫らしてしまう程に泣いてしまったようで、そのまま朝を迎えたと言うわけだが、目が覚めてなおブランケットを握り締めたままだった事に気づくと手にあるそれを畳み、そっとベッドの上においた。

『ありがと…巽くん』

彼の部屋にいたおかげか、久しぶりによく眠れた気がして思わず巽に礼を言う。部屋の主がまるでそこにいるかのように一礼をして部屋を出ていった。

ーー……自室に入ると、いつも𧲸革で着ている洋服に袖を通す。𧲸革家の女中服である。全体的に紺色の膝丈までのワンピースでスカートはふんわりと裾が広がりパニエが入ってるかのよう。
白いエプロンを着用すると、夢日和の制服に似ているところもあり彼女の見目に良く似合う。そして髪を一纏めにして頭上でお団子を作ると、カチューシャを着用して準備が整った。

『稔様に挨拶に行かないと…昨晩、気遣ってくださったのも凄く嬉しかった……上着をお返ししないとね』

昨夜、𧲸革まで運ばれた憂を一番最初に見つけてくれたのは他でもない稔だった。あまりにも酷い格好をしていた彼女に上着を羽織らせてくれたのだ。その外套を返せぬままに部屋に戻ってしまった為に部屋の壁に掛かったままである。手を伸ばし丁寧に折り畳んで稔の部屋へと赴いて二、三度扉をノックした


『稔様、おはようございます。憂です』

それなりに大きな声を出して部屋の主の名前を呼ぶが、一向に返事はなく挙句に物音一つしない。部屋に居ないのではないかと諦めかけた時に扉を隔てた先から声がした。


『……コホ…ッ、…なにか用?』


『え……稔様、いま咳を?申し訳ありません、お部屋に入らせていただきますね!』


『え?は……ちょっと待って別にいいから放っておいて……』


扉越しに聞こえたのは確かに稔の声だったが、気怠そうなその声は咳を伴って苦しそうであった。面と向かってその顔を見たわけではないが様子は気になるもので、半ば強引に部屋に入る許可を得て扉を開けた。

『稔様、風邪を引いてしまったのでは?』

部屋に入るなり、目の前に稔が居た。熱があるのだろう彼の顔は僅かに赤く呼吸も苦しそうである。
何よりも、いつも整っている直毛の髪は寝起きゆえに乱れていて、手入れすら億劫な状態なのだと見てとれた。さらに彼の着用しているブラウスとスラックスは昨晩着ていた衣服そのままで憂の記憶に新しい。そこから推測するに何らかの理由があり着替えもままならない状態でそのまま眠ってしまったのだろうと推測できた。


『あのさ…放っておいてって言ったよね……オマエ、そういう強引な所…ちょっと巽に似てきたんじゃないの…?』


『た……巽様に似てきたとか…それは…今はいいんです!稔様が体調を崩しているのが大事おおごとなので!』

無造作に髪をかき上げて迷惑そうにする姿も、突き放す毒気の混じった言葉も、恐らく稔の本心であるが、憂も憂で彼と暫く一緒に過ごしていて気づいたことがある。稔はとにかく素直ではなく、ちょっとひねくれているだけで根はとても優しい青年だということだ。
それを理解すると彼の態度に些か棘があっても慣れてくるというもので、多少強引に出ることもできるようになった。それが巽に似ているかどうかは置いておく。


『うざい……』


『ベッドに入ってください稔様、汗をかいているみたいですし体も拭きましょう?いまタオルをお持ちしますから』


彼に返すべき外套をクローゼットのハンガーに掛けてから、稔の背中を押してベッドまで促し、汗をかいている様子も見受けられたその姿に体を拭いた方が良いと説得すると、稔といえば渋々頷きベッドの上に腰掛ける。その数分後に持ってきたタオルと水の入ったボウルをベッドサイドの棚へと置いて、彼の為に着替えを用意し手渡すと、そのまま手を引っ張られて体勢を崩し、見事に彼の上に倒れ込んでしまった。

『……!!』

『オマエ……今日何処か行くつもり?』


稔の手に引き寄せられ、まるで密会のように声を潜めた彼がそんな言葉を投げかけてきた。なぜ稔がそれを聞いたのか…その理由は一つしかない。
昨晩、彼女を救い出し、𧲸革まで連れてきたのは、他でもない詩經だった。だからこそ変に勘繰ってしまうのだ。なぜなら彼は、かつて彼女を裏切り者だと言って、𧲸革もろとも始末しようと行動を起こした相手だったからである。憂にとっても、どういったつもりで詩經が自分を助けたのか本当の理由は解らないままで、その真相を知りたいと思ったからこそ、当てのない他人を捜す事を決意するのだった。


『詩經を探します……』


『は?……危ないんじゃないの?』


『彼に接触するのが危ないのだったら……昨晩にでも殺されていたはず…大丈夫です』

当てがない人捜しほど大変なものはない。しかし憂には会えるという確信がある。詩經との付き合いは長かった。詩經に出会って始まった過去から現在に至るまでのキオク。彼が憂の側に居なかった事はなかったのだから……。少し考えれば、その男が居る場所は特定できる気がしていた。


『じゃあ……ボクも行く』

『え!ダメですよ!熱があるのに』

『オマエ一人は心配だし、巽に頼まれたんだ…オマエを頼むってね…』


それは巽がどれだけ憂を愛おしいと思ってるかが良く解る言葉だ。身に余る程の愛情を、離れていても尚、感じさせてくれる巽に、憂の心は凪いで行くのを感じた。決して悪い意味ではなく良い意味で。
しかし、稔の体調はどうしても心配であった。彼の様子から熱が高いのは明白であるし、体はとても辛そうだったからだ。

『……それなら稔様、今日だけは一日休んでくださいませ、そうして体調がよくなったら一緒に詩經を探してください。私一人では行きません。約束しますから、ね?』


『……それならいいよ……、あとさ、…様つけなくていい……』


『え?』

『だから…稔様じゃなくていいって言ってんの。オマエに様付けされるとなんか気持ち悪い……アイツ……巽を呼ぶみたいに稔って呼んで』


言葉を紡いだ刹那の稔の表情は、眦まで赤く、日頃の大人びた振る舞いや、つっけんどんな雰囲気とは違い、年相応の男の子のそれだった。その正反対な様子が可笑しくて思わず笑ってしまう。


『ふふ……稔様…』


『ちょっと…、様じゃなくていいって言ってるの。何笑ってんのさ気持ち悪いな』 


『いいえ、申し訳ありません…!それじゃあ…稔くん……これからもよろしくお願いします』


素直じゃない稔は、赤く染まった顔を背けて、憂が身の回りを整頓している間に自分で体を拭いたあと、着替えてベッドへ潜り込み口を噤んでしまった。きっと休むのだろうと理解した憂は、洗濯物となった彼の服を腕に抱え、頭を下げ一礼し部屋から去っていった。


ーーーそして数刻後、家令であり、女中頭じょちゅうがしらでもある千夜子から頼まれたお使いや、掃除、洗濯なども済ませて、正午を過ぎようとした頃、𧲸革に突然の来訪者がやってくる。その立ち居振る舞いも、存在感も気品に溢れており、芳醇な香りを纏いし貴婦人だ。


『こんにちは、お嬢さん。お加減はいかがかしら?』


昨日、憂を連れ出した貴婦人で、夜会に招待してくれた張本人……そうして婚約者として藍染燈臣を紹介してきた人物、乃木園伽倻子。


『こんにちは、伽倻子様、本日は慶三様にお会いにいらしたのですか?』

ここは𧲸革のお屋敷で、無作法を働くとしたら、𧲸革の名誉毀損めいよきそんとなるだろう。それに、憂は巽と夫婦となる約束までしている。この来訪は、むしろ良い機会でもあり、落ち着いた場で改めて婚約の話を出来ないだろうかと思考を巡らせている様子は最早、顕著けんちょに現れているに違いない。
快活に挨拶をし、伽倻子を玄関先で迎え入れ、ここの当主である慶三と仕事の話をする為に訪れたのだろうかと、確証を得るために主の名前を出せば、目の前に佇んで自分を見つめている伽倻子から出た言葉は予想外の事だった。


『違うわ、慶三氏とビジネスの話をするのはいつも主人よ。わたくしの用があるのは憂さん、貴女だけ……ごめんください千夜子さん』

憂の背後に回り込み、装飾品で飾られた陶器のような白い手を、少女の肩に乗せて、千夜子に声をかけた。彼女はすぐに伽倻子の前に現れ、恭しく頭をさげて挨拶をする。


『あら、まあまあ、伽倻子お嬢様お久しぶりでございますね』

『やだわあ、お嬢様だなんて……もうそんな歳ではなくってよ…女学生時代は世話になったわねえ。ところで、この女中さんとお話したいことがあるのよ、お部屋を貸していただける?』


『それは構いませんよ…沙羅様のご友人となれば断る理由はございません。慶三様からも了承は得ておりますからね、さあ…此方へ。お荷物お持ちしましょうね』


『ありがとう。さあさ、憂さん、行きましょう』



ーーーさて、千夜子に案内され、訪れたのは来客用の談話室。革製で作られているソファは体を包み込むような座り心地で、緋色の絨毯の表面に茂っている毛並は揃っており、長さも均等の上等な物。調度品も上等なそれで誂えられている部屋は気品に溢れている。

伽倻子がソファへ腰掛けた後に、促されるまま憂も腰掛ける。そして千夜子は荷物を運び終わってすぐ後に、客間用の台所へと赴いたが、そう時間を有することなく戻ってきた。
手際よく用意した紅茶と、皿に並んだ洋菓子をテーブルへ並べた後、先程と同様に頭をさげて部屋を後にした。何から切り出そうかと思考を巡らせて数分後、憂と伽倻子の空気感を破るように訪れたのは稔だ。


『失礼します』

規則正しく扉を叩く音。凛とした澄んだ声は、部屋の中にいる二人の気まずさを掬い上げるかのように包み込んで穏やかだった。この空気感を憂は知っている。あの𧲸革夜会の夜に、巽が慶三へ婚約者である少女を紹介し、討論を繰り広げていた夜と類するものだった。


『あら、𧲸革の次男坊さんじゃない…ごきげんよう』


『ごきげんよろしゅうございます…伽倻子さん』


『稔様……体調は大丈夫なのですか?』


部屋に入ってきた稔には、今朝の気怠そうな面影は無く、おそらく𧲸革の主治医に処方してもらった薬を服用したからだろうか、その顔には血色の良い赤みが差していて調子が良さそうだ。整った身なりもいつも通りのものであった。伽倻子からの挨拶に、当然のように片手を背中へ組み、もう片方の手を胸元へ当てて敬意を払うかのように頭を下げて挨拶を交わす。


『大丈夫だから、こうして起きてるんでしょ』


ー…のちに上体を起こし、体調を心配する憂に対しては、いつも通り悪態をついていたのだが、既に日常茶飯となり日課のようなものである稔の態度には慣れたもので、心配は無用のようだと、つい数秒前の自分に謝罪を述べたのは彼女のなかでの秘密だ。


『なぜ、稔のお坊ちゃんが憂さんと一緒に座るのかしら』


『話があるからですよ、伽倻子さん』


『ふふ、えぇ』


彼の態度に、面白味を見いだした目の前の婦人は、脚を組み替えて笑って見せた。けれどその様子は、今から紡がれる話題を理解しているかのようで、とくに嫌な顔もせずに二人からの言葉を待っている。


『伽倻子様、私は…巽様が好きです。伽倻子様には申し訳無いとは思いますけれど、藍染さんと婚約は出来ません』


やはり自分の事は自分で伝えるのが礼儀というもの。そして、巽以外を愛することなど到底無理なことだと少女自身が理解していた。
身に感じたことのない愛おしさを知ってしまったから、後ろを振り返る事などできず、自分の想いの全てを伽倻子に伝えた。祈るように、胸元に手を当てる憂の心境は緊張と不安で満ちている。


『ええ、知っているわ』


巽を好きだと、憂が改めて口に出したことで話は進んだ。


『…ボクからは、一つだけ。伽倻子さんが、昨晩…憂をおとしいれたんでしょ?』


稔が言っているのは、乃木園の夜会から帰ってきた憂の格好が余りに酷く、その身に何か危険があったのだろうと理解したからこそ言える予測。その場所で起こった事を然りげ無く問いただすかのようだ。

そして彼の眼差しは、あの𧲸革の夜会で、巽が憂を庇った時の瞳と同様のものである。そんな彼を頼もしく思ったのは、憂の様子を見るに明らかで、それと同時に稔の言葉は、不安や緊張感を解いてくれるようだ。


『伽倻子さん、これ以上あの男の事で憂を煩わせることはしないでほしい。𧲸革と乃木園の絆を強固にさせるのも、破綻させるのも、伽倻子さんの返答次第。一つ言うならボクは今、𧲸革を任されてる。それがどういう意味か、貴女なら解りますよね?取引は乃木園にとってもいい話だと思いますけど』

といった、小難しい問答を繰り広げているのだ。稔は市場の流れを把握するのが得意だ。他国からどんな品が輸入されてきたのか、他国へ輸出される母国で製造された品の利益の出し方も把握しきれる範囲内で網羅している。何処の店が栄えるか、何処の店が落ち込んでいるかも把握できるわけだ。株を読むというのだろうか…稔は勘が鋭い青年で、聡く心眼だった。誰より先に市場状況を把握するなど普通の学生には、なかなかできる芸当ではない。それすなわち商業に力を入れている乃木園にとって不利な状況を作り出すことも、有利な状況や条件を与えることも可能だった。巽も相当な駆け引き上手だったが、稔も同様に駆け引き上手だということに隣にいる少女は感銘を受ける。それが出来るのは、既に𧲸革慶三…巽と稔の父親が二人に𧲸革を任せているからだろう。


『やだわぁ、陥れたなんて、そんなつもりなくてよ?わたくしは、燈臣さんのパトロンなの、彼は今でこそ企業主だけれど、昔は酷かったものよ、だからこそ願いを実現してあげようとしただけ。わたくしとしては、憂さんが選んだ道を行けばいいと思うのよ。貴女の気持ちが揺らぐ事なく𧲸革のお坊ちゃんにあり続けるのなら…これからもそうであったらいいと思うわ、今日はそれをお伝えしにきましてよ。もちろん𧲸革事業との取引に関しては夫に伝えておくので、これからも乃木園を贔屓にしてちょうだい。よろしくどうぞ、稔のお坊ちゃん。ああ……それと、憂さんに仕立てた一着がそのまま迎賓館のお部屋に残ったままだったからお届けにきたの。』


さて、話も一区切りついたところで、伽倻子が傍に置いていた荷物から取り出したのは、リボンに包まれた長方形の大きめの白い箱だった。その箱を開けると、昨日仕立てられたもう一着のドレスが姿を現した


『伽倻子様、お申し出は断ったのに…』


『それは貴女の為に仕立てさせたものよ。断らずに貰ってくださいな。でも……そうね、無償で受け取るのが難しいというのなら、これからも時々でいいから会ってお話してくれると嬉しいわ。お出かけしたりもしたいし、勿論、夜会もまた招待させてちょうだいね。憂さんと会っていると女学生時代を思い出して楽しいのよ。』



『……伽倻子様がそう仰ってくださるなら、ありがたく受け取らせていただきます!』


『ありがとう。お憂ちゃん』


『お憂ちゃん?』


『この方が親しみがあっていいでしょう?』


『……ふふ、わかりました。』



ーーそして、暫しの歓談の後に伽倻子は帰っていった。それはそれは上機嫌で。稔と二人だけになった談話室は、黄昏時の夕陽が射しており、どこか大人びた青年の横顔を照らしていた。



……それから数日後ー

風邪に罹っていた稔も、漸くいつもの調子に戻った様子だった。
そんなある日のこと、千夜子と慶三からの頼まれ事で、一人で銀座へ出掛けていた時のことだ。最近の憂は、本屋に立ち寄るのが日課となっていた。今日も今日とて行きつけの本屋へと足を運んでいた。憂が最近気になっているのは、和綴本である。近年では本屋に時々入ってくるか来ないかの貴重なものとなっている。著者がわからないものも多いが、書き手の情熱が感じられるそれぞれの物語にのめりこんでしまっている。
巽と恋仲になって、手紙をやりとりするようになったが、彼から貰う手紙には外国で見聞きした事柄が沢山書かれている。なので、憂も自分の好きな事や、読んだ本の世界に想像の中で旅をしたということを伝えたりとしているのだが、それがまた楽しくなってしまった。



ーーありがとうございました……

一つの和綴本を見つけ、慶三と千夜子から頼まれた本も一緒に購入すると、店員の声を背中に街に出た。書店の角を曲がった先で、香の香りが鼻を掠めた。それは憂がよく知るもので、昔から馴染みあるものである。


『詩經……!』

香りの先、視界に映ったのは、後ろで結ばれて背中に流れている漆黒の髪、書生のような格好をしているが、その体軀は存在感があり、見間違いようもない。憂と詩經は主と駒……そんな関係性ではあったものの、それ以上に師匠と弟子でもあり、兄と妹のような関係でもあった。そのなかで互いに惹かれあい、恋慕の情を抱いたこともある。言い表しようもない微妙な距離感の中で、実に十一年という年月を一緒に過ごしてきたのだから。

詩經の背中を追って、町の喧騒を掻い潜り尾行する。彼を見失えば神出鬼没である詩經の事だ。また捜すことに時間を要するだろう。それが解るからこそ、背中を追いかけずに居られなかった。


『……ここには誰もいない、出てこい憂』

『やっぱり……気づいていると思ってた』

町の一角にある住宅地。年季の入った建物がそこにある。湿った空気が木材の香りを運んでくるかのようだ。憂は今まで詩經と一緒に過ごしていたが、近年の住まいは知らなかった。
そして詩經は、憂が尾行していたことに気づかぬふりをして、ここまで連れてきた。それは彼女も理解していることだ。なぜなら気配を消す術も、仕事をこなす上での必要な能力も、全て詩經から教わったのだから、詩經が気づかぬはずも無い。彼が本気を出せば、一人の少女の尾行など容易く撒くことができる。


『お前が俺のところに来るであろうことは予測していたからな』


『…貴方が、私を𧲸革に連れ帰った理由を知りたい。気を失った私を殺すことなんて、詩經には容易いでしょう?』


『そうだな……殺してやろうか……駒草憂、いや……𧲸革憂と言った方がいいのか?』


『なんの…こと?』


詩經の腕が憂の腕を捕らえた。意味深であるその発言に少女の瞳が見開かれ、何故?と、疑問を投げかけているようだ。深緑色の瞳には哀愁と執着と愛しさが滲んでいる。

『何故お前が……』

その男の瞳には、過去の記憶を手繰り寄せるように、慈しむように少女が映っていた。それは後悔なのか…懐かしさなのだろうか。その理由を知る者は今、詩經しかいない……。



ーやがて、夜の帳が訪れる……


大学から帰宅した後、部屋で本を読んで過ごしていた稔が、憂が帰ってこないと千夜子の口から聞いたのは、十八時頃のこと。女中たちと共に夕食の準備をしている最中、未だ買い物から帰ってこない憂を心配して、千夜子が稔に報告したのだ。


『アイツが帰ってこないって?』


『はい、お使いを頼んだのですが、まだ戻っておりません。お約束を反故にするような子ではございませんのに……なにかあったのではないかと心配で、慶三様も顔には出していませんが、気がかりではあるようで…稔様にもお伝えしたのです。』


『……わかった』


読みかけの本を無造作に閉じた稔は、それをソファへ放り投げる。
春と言っても、この数日で既に桜も散ってしまった。
初夏の訪れを感じさせるような……梅雨が訪れるような、蒸し暑くも湿った夜だ。こんな日はあまり好きでは無いが、憂を捜さなくてはという使命感のようなものに駆られて、身支度を整え、外に出る。


『もしかして……アイツ……』

焦燥が胸を走る。稔が懸念していることが外れればいい。そう願う。


『くそ、最悪……こういう時は、嫌な予感がよく当たるんだ…っ』


稔は幾つかの情報を得た。あの𧲸革の地下書庫で…。

しかし、それは憂に言ってもいいものなのかどうか迷っていた。憂は将来的に巽と結婚する約束をしている。
だから余計な情報は与えない方がいいのだろう、二人の行く末を見守っていようと思った。

𧲸革雅良という、𧲸革から追放された男がいたこと…

先見ノ華の能力や、その持ち主のこと。

先見ノ華は、代々、𧲸革に近しい存在が持ち合わせているものだと書いてあった。

そして、どの文献にも𧲸革の血筋から離れた女性に能力が現れたなど、一行も書いていなかった。曽祖母であった百合子も、母親である沙羅も先見ノ華を持っていた。その能力の強さも個々によって、
まばらだったらしい。たとえば祖母の場合は、能力が目覚める事はなかったというが𧲸革の遠縁や親戚の血筋であるのは確かだ。

だとしたら憂は?その能力がどれほどのものかは稔に知る由もないが、必然的に𧲸革の何処かの血筋であることを意味するのだ。それならば何故、今まで彼女の存在が𧲸革と関わり無いものとなっていたのか、それもまだ解らない。稔が憂と会ったのは、それこそ四年前だ。巽に連れられ、夢日和に連れて行かれたのが始まりだ。解るはずも無かった。

『…それをアイツが知ったらどうなる…?』

血筋で繋がり、繁栄してきたのは𧲸革の闇の部分でもある。実際、その文献を読まなかったら稔も知らなかったことだ。

父親である慶三はそれを知っているのだろうか?
憂を愛していると言った巽は?

確かめる余地は無いが、それを知ったら憂はひどくショックを受けるのではないだろうか。
悪く言ってしまえば、彼女の人生が産まれた時から否定されていたということだから。

『……くそ、どこ行ったんだよあのバカ女』


稔の言葉だけが虚空に響く。

月が妖しく光る夜は、深い闇に包まれていた。










第三夜
過去ノカンバセ、華のキオク『前編』 完


おまけ
作者の落書き『𧲸革稔』
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