*大正華唄異聞*

紅月憂羅

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⌘第二幕⌘ 恋と留学編

第四夜 過去ノカンバセ、華ノキオク『後編』

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ー…これは、今から十一年前の手記である。


少年と少女の出会いは、とある見世だった。
寒さが身にしみる十二月…しんしんと降り積もる雪。深緑色の瞳は、そのけがれのない雪を見つめていた。血でよごれた自分とは違う、真っ白な雪……

その少年の心は荒んでいた。ちょうど十六で多感な年頃であり、自分の感情が抑えきれない事も多々あった。真っ白な色。それを踏みつけるたびに音を立てて黒く滲んでいく銀の絨毯は、その当時の少年の荒んだ心を幾分か慰めてくれるようだ。

少年の名前は、詩經という。
無造作に肩口の長さで断髪している漆黒の髪は直毛で、どちらかといえば柔らかな手触りは、鋭い視線に良く似合う。鼻筋が通った中性的なカンバセは整っていて、スラリとした体躯は見目麗しく、貴婦人達が毎夜の如く少年を誘う。
堕落的な生活をして、仕事をもらう日々。少年は、金さえ払ってくれるなら、その容姿を活かしてなんでもやった。時には貴婦人の相手、紳士の相手まで……さらに時には暗殺と、普通に生活しているのであれば、十六の少年が先ず関わることのないだろう事ばかりである。生きるために…。
彼は、とある遊郭で生まれた。遊女の息子だった……母親であった女は、この少年が十三の時に病気で他界した。

その当時、遊女が病で亡くなることは珍しくなかったので、ただ現実を受け止めたが、そのあとの少年の生活はそれはそれは大変だったという。その見目により女性的な顔立ちにも見えた少年は、その牢獄のような場所で男娼として客を取らされたこともある。母親の借金の肩代わりとして……

ある日、一人の男がやってきた。その男は母を知っており、こう言った。

『俺の愛していた女に似ているな』

と……。その愚かな男は、男である自分にも欲情するのだと理解した。自由を奪われ、少年の意志に関係なく組み敷かれ、弄ばれた。その時から、詩經の中の狂気は目覚めた。奪われる前に奪え…そして、生きる術を学んだ。…これは、詩經が初めて人を殺めた瞬間である。

それから進んで三年と少しの月日が経った今、ちょうどこの日は、暗殺の仕事をこなして帰る途中だった。人を殺した直後でやたらと気分が高揚している月の怪しい夜である。酔狂にも普段訪れない場所に行ってみたいと、とある見世に入った。その見世は欲望の塊だ。性行為を覗かせる覗き穴、体に蛇を巻き付けて情欲に耽る者。
他にも、この世の闇を全て詰め込んだような猥雑で奇妙な場所だ。
その最奥の部屋。椿姫ノ部屋という間に辿り着く、部屋に入れば明らかに先程までとは違う雰囲気に様変わりし、白椿の花が壁一面に描かれている。照明が赤の部屋だ。部屋の中央には獣が入れる程度の大きな檻。

真っ赤な垂れ幕を持ち上げるなら、芳醇な香りが鼻を掠める…その少女の持つ香りだろうか?充満する椿の香りは、男の理性を崩してしまいそうになる。椿の花言葉のなかには完全なる美しさという言葉もある。それは白椿の花に限ったことだが、詩經が初めて出会った時の少女は純白の花びらのような布に包まれていた。
なるほど、その少女に良く当てはまる言葉だと思う。瞳は深紅の花弁が散りばめられているような華やかさと、宝石に傷が入ったような危うさとを兼ね備えていた。多額の金を払えば少女と交接する事も出来るという裏の品書きまである。

『……は…下衆な奴らだ……あいつと一緒だ』

詩經の口からは、あまりにも劣悪すぎる環境と、人を人として扱わないこの現実に嫌悪感を抱き、吐き捨てるように言葉を溢す。檻の中の少女と過去の自分を重ねてしまったからなのか、自分が初めて殺した男のことを思い出したのか……

すると、檻の中の少女が、その時初めて口を開いた。


『お兄さんは……だあれ?なにもしないの……』


詩經を見て、その少女は不思議に思ったのだろう。何もしてこない客は初めてだったのだろうか。その少女は折檻を受けた後なのか、顔や体に傷をつけていた。綺麗な紅い瞳であるのに、ひどく弱々しく、死んだ魚のような仄暗い瞳をしていた。その状況を推測すると、周りに目を凝らす。そして、所々に血痕が飛び散っていることに気づくのだ。部屋の照明の赤で上手い具合に隠されているが、詩經の目は誤魔化せない。そんな彼が呟いた言葉はただ一言。


『お前が…先見ノ華とやらを持つ椿姫か……ここから出たいか?』


ただ、それだけだった……
先見ノ華の噂は聞いていた。どこかの見世に居るという奇妙な紅い瞳を持つ少女。まさかこの見世に居るとは詩經も知らなかったが、こうして出会ったのも運命か必然か、深緑色の瞳に映る少女に向けたのは過去の自分と重ねた末の同情か、少女の境遇を可哀想に思ったからなのか。

『出たい……寒いのは嫌だ、ここは怖い』

その少女はこの時、初めて自分の意志表明をした。…誰かに助けを求めた。

『そうか……それじゃあ、お前は俺の駒になって働け』

『わたし…あなたについて行けば出れるの?』

『俺の手なり足となって働け。そうすれば出してやる…』


そうして青年の手に幼い少女の手が乗せられた。一人で生きていくと決めてから、数々の任務をこなし手にした多額の金を、その見世の責任者に払った。少女が居なくなっても、十分賄えるほどの……。そして少女は詩經の元に行くことになった。その後その見世がどうなったかは知る由もない。


『俺の名前は詩經だ。お前の名前は……?』

『……憂…』


ーー…そんな少女と詩經の生活は楽なものではなかった。
詩經は腕が立ち、ちまたでは有名の何でも屋という名の暗殺者。政界の欲にまみれた金持ちから依頼は沢山舞い込んでくる。そのため、金はあり生活に困ることは無い。しかし問題は少女の方だった。
少女を自分の補佐として育てようと連れ帰ってきたものの、少女の心は壊れており、自分の名前以外は忘れているようだ。その細腕を見るに、薬でも投与されていたかのような名残がある。

さらには、今まで檻の中で閉じ込められていた分、体はやたらとほっそりしていて顔面は蒼白だ。充分に食事も摂らせてもらえなかったのだろう。筋肉の衰えが見て取れる。歩く事も出来なかった程である。だからこそ暫くは体力を戻すのが最優先だと甲斐甲斐しく詩經が世話を焼いたが、その少女を回復させることは困難だった。精神面も体力面も薬で抑えられていた分、それが抜け切るにかなりの時間を要する。
見世にいた頃の悪夢か、真夜中に大声を出して泣いてしまったり、食べ物もろくに喉を通らなく戻してしまう始末。そんなこんなでさらに月日が経ち、生活に慣れてきた頃の話。
少女も幾分か感情豊かになってきて話す言葉も増えてきた。歩くのも少しずつ慣れてきて、体中のアザが薄くなってきた頃、少女に一つ変化が生まれた。


『詩經さま…』

普段話しかけてこない少女が話をかけてくるという変化。

『なんだ、お前が話かけてくるなんて珍しいな』

『あの……』

その日は雲行きが怪しく、朝から暗雲が立ち込めていた。湿気が強く、気温に関わらず汗ばむ日だった。
少女は決してお喋りではなく、むしろおとなしい方だった。詩經を
呼んだのも、あの見世から連れ出して以来、初めてのことでは無いだろうか。それほどに珍しい。その声は何処か震えていたが、同時に伝えてもいいものなのだろうかと言い淀んでいるようだ。次の言葉を促すように、少女の肩に手を置いて落ち着かせると、
少女は安堵した表情を浮かべて口を開いた。

『詩經、さま……あのね5人…いるの、5人の男の人が詩經さまを狙う……だから、危ないの』

それは予言なのか、不思議な真紅の瞳に映る華のような模様が動いた気がして、その瞳を覗き込んだ。

『綺麗な紅い瞳だな』

それは少女が持つ最大の特徴だ。こんな瞳を持っている少女は他に知らない。噂には聞いていたが真紅の瞳は全てを見透かしているかのようで、先見ノ華という名目通りに先を見通す力が宿っているその瞳は素直に綺麗だと思うし何よりの宝だとも思う。
少女を見つけた時から、その瞳に魅入られた。それは詩經自身が理解していた。

そして…まだ先見ノ華の能力を完全に理解していなかった彼に、その本質を知る時が訪れた。憂からの忠告ともとれる予言を聞いて、静寂を割って入ってきたのは喧騒だ。
少女の言った言葉通りなら、刺客に身動きを取れない状況にされ、囲まれて命を落とすというものだった。それなら奴等が来る前に外に出て回り込めばいい。詩經の暗殺の腕は一流と言っても過言ではなく、それほどに相手を仕留める技に長けている。少女を連れて裏の茂みへと身を潜めるのが正解だったらしく、この瞬間、詩經の中で半信半疑だった少女の予言……先見ノ華の能力は確信へと変わった。見事その男たちから先手を打てるのだから。


『で、あの華族様が言っていた先見ノ華とやらはどこだ?』


『紅い瞳を持ってるっていう娘か。』

一人の男が言った言葉に、側にいた別の男も同調した様子だった。
紅い瞳とは間違いなくこの少女のことを言っている。それより気になったのは、"華族様が言っていた先見ノ華とやらはどこだ"という言葉。華族という単語が並んだ時点で、間違いなく少女の暗殺を企てた人物がいて、首謀者は何処かの華族の誰かだということになる。


『なんなんだ……一体』

少女を引き取ったことで、自分の人生が狂っていく。詩經はそんな気がしていた。噂で聞いた通り先見ノ華とは、人の人生を狂わせるものらしい。それが関わるだけで人生は一転二転することを今この時に知ることになろうとは…

『いやぁっ!』

部屋中をいいだけ荒らした後、その男達は外に出てきた。そして隠れていた少女を見つけた。何故その少女の場所がバレてしまったのかは、詩經には解らないが少女は何か不思議な空気感を纏っている。そして微かに香る椿の匂い。そのせいだろうか……

『……!』

『へへ、コイツじゃねえか、この匂いたまんねえな』

一人の男が狂気を孕んだように、仄暗く下卑た表情を浮かべ、少女の肢体を拘束する。獲物を捕らえた獣のように、その目は血走っていた。詩經が助けようと手を伸ばしたところで少女の瞳が揺れた。花弁のような模様は渦を描き、たちまち華の形に変化する。光加減なのだろうか、その模様は椿に見えた。その直後、彼女の体から発光する。それは、暁光が射したような眩しさを思わせるほどのもので、瞳を開けられなかった程だ。

『……うぁああああん!!』

光が消えて、瞳を開けると少女が泣いていた。辺りは血の海であり、先程少女を襲おうとしていた男達の屍。


『これは……一体どういう』

ポロポロと涙を溢し、真紅の瞳は濡れていた。

『お前が……?』


詩經が瞳を閉じていた数秒の間……ほんの一瞬で少女がその男達を屍に変えたのだ。噂で耳にしていた先見ノ華。その力は大いに利用できるものだろう。そう思ったからこそ欲した。しかし、それを持つ少女の秘めたる力を詩經はこの時初めて目にした。

ーー先見ノ華の暴走。それは少女の身を守る為の力か、否か…

『そういえば。こいつがいた部屋には……』

血痕があり、血の匂いがした。
力の暴走で気を失った少女を腕に抱え、その重みを感じながら幼い寝顔を見つめる。この力を放っておいたなら彼女自身を滅ぼしてしまうのではないだろうかと。その考えの果てに少女をベッドに横たわらせ休ませている間、彼が辿り着いた答えが、少女の力をコントロールさせることは出来ないだろうかという事だった。


『こいつの力……』


少女なりに詩經を守ったのだろう。少女は自分では抑えられないその力の用い方に悩むことになる。人を傷つけたくはないのに、身の危険が及ぶと自分の意志に関係なく力を暴走させてしまう。然しそれがそんなに悪いことかと思えばそうでもなく、むしろ自分自身を守るのには有効だろうとさえ思う。詩經が気になったのは、彼の死に目を憂が予期していたということ。


『こいつの力があれば……使い用によっては…』


目覚めたその時に、詩經に力を知られた少女は何を思うのか。
それから、力の制御をするため研鑽を積んでいく日々、詩經自身が何かしらの能力を持っている訳では無いために、何をどうコントロールさせれば良いのか模索しながら辿り着いた答えを試しては失敗し、また模索し試した。力の源は憂の精神状態によるものが大きい。
だからこそ、見世に居た頃は投薬されて、強制的に精神の安寧を与えられていたのだろう。結果的に気持ちを安定させるのが一番だという結論しか出なかった。


『お前の暴走は、自分の身を守るためのものだ。悪いものでは無い…だから無理に抑える必要は無い。どうしても抑えたい時は目を閉じて、意識を何かに集中させるんだ。お前の力が放たれる時の状況が俺にはどういうものか解らないけど…』

柔らかな少女の手を自分の手の上に乗せて、祈るように言葉を紡いだ。青年の手と少女の手は大きさも、もちろん触り心地も違っており、そっと手の甲を返し少女の手のひらに口づけをした。

『……っ』

『ふ……』

慈しみを与えてくれる唇、そっと離れる端整な顔と、何処か意地悪に緩める口元に少女は今まで知る由もなかった感情を覚えた。そして詩經は、自分の名前以外の記憶を失っている憂に、生きる為の名字を与えてくれた。


『駒草憂……それがお前の名前だよ』


『駒草憂?……詩經さまは?』


『俺も駒草だ。死んだ母親の名字だけどな……』



彼女が生きていくのに必要な名前、衣食住、全てを詩經が与え、気配を消す方法や任務を遂行するための立ち居振る舞い、生き方。彼の持っているものの全てを憂に教えた。決して煌びやかでは無いけれど、確かに二人はその狭い世界で一緒に居た。
憂が成長していくにつれ、時には兄妹として、時には恋人として、そして、夫婦としての人生を演じて生活していた。


ー幾つもの季節が巡り、八歳だった少女は十五になった。
見目麗しい美しい少女へと華開き、その頃には力を完璧にコントロールする事ができるようになっていて、一人前のくノ一へと成長したのだ。そんなある日のこと、憂が庭掃除をしていた時に詩經を訪ねてきた男がいた。


『駒草詩經くんは、君かい?』


『……』


詩經は庭の剪定をしていて、自分の名前を答えるつもりはないようだ。職業柄、名前を伏せて行動しなくては自分の不利になることを知っているからだ。しかしなぜこのように老齢の男が自分の名を知っているのか。場合によっては処分するつもりでその男の顔を凝視していた。

『ああ、すまない。君は、駒草香織さん……、花魁…螢の息子さんかな…?私は君が産まれた当時、あの妓楼で楼主だった男だよ。今は引退しとるが……螢の遺品をもってきたんだ。いや、君を探すのに苦労したよ』


『母の……』


その男は、詩經が産まれて直ぐに楼主から引退していると言った。詩經自身、あまり覚えていないのも当たり前である。螢…駒草香織は確かに詩經の母の名だった。そして、遺品は全て燃やされてしまったと思っていたのだが母がつけていた日記だけは、信頼していた楼主に預けていたらしい。事の成り行きを聞いて漸く信じたのか、詩經は男から筆記帳に書かれた日記を受け取っていた。
詩經の客である男は、客室に招かれ軽い話をした後にすぐ帰っていった。そして…


『憂』


『はい!詩經様!』


『潜入捜査を頼みたい』


『潜入捜査?』

憂に与えられたのは、銀座に新しく出来たパーラー喫茶夢日和という喫茶店、そこは沢山の人が集まる場所であり、そこに潜入して働き、とある家の情報収集をするというものだった。


『喫茶店で働いて、とある華族を調べて欲しい。そして誰でもいい、そこの華族との接点を持て。』


『……それは』


『𧲸革を調べろ、きっとすぐ解る』


『𧲸革…』


静寂の中、その名前だけが頭に響く。𧲸革…どこかで聞いた事のあるような…そんな不思議な感覚を憂は覚えた。その時、自然と脳裏に一つの言葉が木霊した。

『おれ?おれの名前は、𧲸革巽だよ!』

幼い男の子の声、どこかで会った気がすると。

『巽……』

しかし、その時の憂には思い出す術は無く…

『わかりました、詩經様。その役目私がお受けします』

そうして、夢日和で仕事を始めた彼女が、𧲸革の情報を集め常に詩經に報告をしている日々から一年後。憂が十六になった歳、運命の悪戯に導かれるように二人は出逢う。


『新しくできたんだ、この喫茶店!俺も最近知ったんだけど、稔もきっとすぐに気にいるよ。』


『いらっしゃいませ!巽様、今日も来てくださったんですね!』


それが始まりだった。憂が成長していくたびに巽もまた成長して行く。十六から十七へ…十八から十九へ…二人の距離感が縮まって、巽が憂を愛おしいと感じる気持ちを募らせるのも必然だった。


『憂ちゃんってさ……綺麗、だよね』


『え…』

喫茶店での逢瀬だけの関係……そう思っていた。
憂に至っては、詩經からの依頼で𧲸革を調べ、その繋がりを持とうと必死だった。すべては詩經の為だと思っていた。彼女の中で詩經は誰よりも大切な存在で、これからもずっと一緒に居るのだとさえ思っていたのに、この頃の詩經は何かに取り憑かれたように憂に冷たく当たっていた。理由は解らない。ただひたすらに𧲸革に執着していた。今まで作り上げていたはずの絆という言葉は当に無くなってしまったかのように。
それで彼女が傷ついて涙した日もあるが、しかし、悲しむ間も与えられず、彼女の寂しいと思う気持ちも全て包み込んで、巽はどんどん憂の心に根付いてしまった。その顔も、感情露わにする表情も…大人びて行く巽と同様に、憂も大人の女性へと変化していった。


『その漆黒の黒い髪も…花弁みたいな紅い瞳も…全部綺麗だと思う』

『巽様……そんな戯れを』


巽からの敬愛と慈しむ想いを込めた手の甲への口づけは、憂の気持ちを大きく揺れ動かしてしまった。
雨の日に、木の下で買い出し途中の憂が雨宿りをしていた日にも、巽は羽織っている外套を憂の肩に掛けてあげたりと……そんな優しさが憂の心を満たしていったのだ。


『風邪ひいちゃうよ?』

『あ、ありがとうございます……』

そんな積み重ねが増え続けて、ある時、久方ぶりに詩經から命令が下る。あまりに突然に…

『𧲸革を暗殺しろ、その瞳があれば簡単だろ?』

一番最初に思ったのは、悲しいという気持ちと嫌だという気持ち。先見ノ華を利用する事で、どう動けば仕留められるのか先見さきみができるからこそ彼はそう言ったが、本当に憂自身ではなく、その力のみが必要とされていると改めて知ると、少なからず詩經へ抱いていた淡い想いは打ち砕かれてしまう。
嫌だと思っても、どう足掻こうが雇い主は詩經で、一緒に過ごしてきた彼からの想いや優しさも全部、いまでも心に残っている憂はその時、承諾の返事をするしかなかった。

『……は……い』


今まで詩經の補佐として仕事を手伝っていた筈が、今回は一華族を根絶やしにするという大きな命令を受けた。巽と出逢って四年後のことだ。しかしそれは出来なかった。憂は𧲸革……巽を守ることを選んだから。



そして、現在……


『……𧲸革憂』

『……なぜ、その名前が出てくるの…』


詩經の瞳が揺れ動く……幾度もその瞳に見つめられ、幾度も綺麗だと思った深みのある緑色は、どこか哀愁を秘めていた。


『先見ノ華は、𧲸革の血筋にしか発現しないんだ……つまりお前は𧲸革家の血筋ということだ』

『…え』


『それを𧲸革巽あいつは知っているのか?……その上でお前を愛していたとしたら…?何故お前の人生は、ああも苦しいものになった……?』


『やめて……』


憂の手を掴んで離さない詩經の手は力強いもので彼女の意思に関係なく過去の傷を抉り、その先の言葉を紡ぐのだ。憂にとって…一番辛いであろう言葉を。


ー𧲸革巽は、お前を騙している。


地鳴りのような雷鳴が、夜闇が深くなる暗雲の空に鳴り響く。まるで憂の心を切り裂くように、ぽつりぽつりと雨が雫となって頬に流れる。


『う…そ……』

それはもはや涙なのか雨なのか彼女自身わからない。
土砂降りの雨が憂の体を冷やして体温を奪っていく。ただそこに無い温もりを掻き抱くように自分の体を抱きしめて、聞こえたのは自分を呼ぶ声。


『憂!』

雨の中、走り回って探してくれていたのだろう稔の声だった。

『オマエ、憂になにを……!』

詩經の姿と憂の姿を目にすると、二人の間を遮るように彼女の震える体を包み込み腕で庇う。目の前の男は危険人物だと理解していても、真っ直ぐ逸らすことなくその藤色の鋭い視線を向けて、一歩も動かない。豪雨が対面する三人を容赦なく濡らして数秒の沈黙の後、詩經は背を向けた。


『本当のことを伝えたまでだ。お前を殺さない理由はそこにある。俺の悲願を達成する為にな』


去っていく詩經を稔は見つめていた。そして確信したのだ、詩經という男は𧲸革の内情を知っていると。

『なんでアイツはその話を知ってる……?アレは𧲸革の書庫に…』

それを稔は知っている。憂には伝えるべきではなかった事だ。
しかし、それは近いうちに伝えなくてはならない事だったのか、時間の問題だったのかと腕の中で震える憂を抱きしめたままで、耳に届いたのは謝罪の言葉である。

 
『ごめ…んなさい、稔様…』

『なんでオマエが謝るのさ、オマエは悪く無いでしょ…』

何に対しての謝罪なのだろうか、憂は自分の出生の出所を知って何を思ったのだろう、曽祖母である𧲸革百合子も母の𧲸革沙羅も𧲸革の直系…そして憂もだ。その事実はもう隠すことなど出来ない。

『私が…私が誰かの幸せを…うばう……?ちがう……いらない、子で……いらない子……って言われた、あのひと、だから……それで……巽くん…を………』

『違う!ボクはオマエがどう育ってきたか知らない、でも憂は憂だよ。巽が愛したのは……間違いなくオマエ自身だ。だから…謝るなよ。憂は何も悪くない!』

悪いのは周りの環境か。悪戯な運命に翻弄された少女は、愛する事も愛される事も知っているのに、ただ冷たい雨は彼女の心を打ち砕くばかり。そしてあまりのショックに突然、自分はいらない子だと呟く。記憶の混乱か彼女の幼少期に関係することなのか否か。

何を伝えたいのか言葉にならない憂の声が居た堪れなくて、稔は彼女を強く強く抱きしめた。離してしまえば傷ついた少女は腕の中で崩れて消えてしまいそうで、今は彼女を離したくないと体温を分け与えるように優しく背中を撫でた。

憂の様子が幾分か落ち着いてきた頃、寒さ凌ぎと憂の体を考慮して近くの宿に移動した。憂が持って帰る予定であった使いの品は𧲸革の運転手に届けてもらう事にして、一晩帰れないと屋敷に連絡を入れる。湯船に湯を張り、冷え切った彼女を風呂に入るよう促して、自分といえば大きなタオルを頭からかける。無造作に髪を拭いながら、電話交換手に通話を繋いでもらうよう手配した。

『…もしもし?…』

『…巽、ボクだけど…』

繋いだ先は、留学中の巽が居る寄宿舎だった。

『今すぐ帰ってこい。』

『は?!今すぐってなに?』

巽の動揺は受話器越しに伝わる程である。稔は巽がおそらく知らないこの情報を、自分自身で確かめてどう歩んでいくかを考えて行動して欲しいという願いから言葉にしたのだろう。

『今すぐは無理でも近いうちに帰ってくるぐらいはできるだろ、もうすぐ開かれる毎年恒例の𧲸革主賓、夏の祭典…螢祭。長男であり𧲸革次期当主である巽がいなきゃ始まらないだろ、一時帰国してくるんだよ、そうしないとオマエの大切なモノが壊れる…』

『大切なものって……待って、憂に何かあったの?』

その時の巽の心境といえば、それは気が気では無いものだった。

『口では説明しにくいんだよ、自分の目で確かめて、どうするか考えろ、ボクが言えるのはそれぐらいだ。じゃあね』


『稔……!』

稔との電話が切れた後、しばらくその場所を動くことができなかった巽の中で、焦燥感と不安が一気に駆け巡る。


『…………憂……』


一言だけ呟いた愛おしい人の名前は、ただ虚しくも廊下に響くだけだった。



第四夜
過去ノカンバセ、華ノキオク『後編』 完

おまけ
作者の落書き『駒草詩經/十八の詩經の顔と憂ちゃん』
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