文学喫茶オムレット

松浦どれみ

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文学喫茶オムレット

最終話

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「そりゃあね! じいちゃんの孫だぞ? シェイクスピアの『オムレット』に決まってるじゃん! しかも菓子の名前にもなるほど有名な作品だろ? 凄いよな!」

 咲造の肩は震え、顔はみるみるうちに血が昇り赤くなっている。
 ああ、噴火する——。愛理はここ数日の全てが、無にかえる瞬間を覚悟した。

「ばかもん!! シェイクスピアの文学作品は『ハムレット』だ!」

 店内に落ち着いた調度にそぐわない怒鳴り声が響いた。その大きな声で空気は揺れ、ドアに付けたベルが鳴るのではないかというほどだった。祖父の怒鳴り声と言葉の内容に驚いた藤崎が目を見開き、ポツリと呟いた。

「え、『オムレット』じゃないの?」
「店長……」
「もう、終わりましたね」
「ヒナちゃん……」

 愛理、真白、坂本が憐れむような表情で藤崎を見ている。咲造は眉間に皺を寄せ、大きく息を吐き、説教を続けた。

「よくオープンまで気づかなかったな、お前の頭は、お前が追いかけていたサッカーボールと同じで、空気しか詰まっていないのか? しかも、店長のくせにコーヒーも淹れず調理も何もしないとはどういうことだ!」
「いや、俺、ちょーっと不器用みたいで……」

 咲造の言葉に、藤崎は緩み切った顔で笑い、誤魔化そうとする。

「だからって従業員に任せきりとは情けない! 少しは精進しなさい! まずは今すぐコーヒー淹れてこい!」
「はいいい!」

 咲造の本日二発目の噴火により、藤崎は慌ててカウンターに引っ込み、言われた通りコーヒーを淹れる準備を始めた。
 
 藤崎と入れ替わりで愛理と真白がカウンターを出て、咲造の前に立つ。すると、彼は二人に深々と頭を下げ孫の不手際を詫びた。愛理も頭を下げる。

「愛理さん、真白くん。本当にうちのバカな孫がご迷惑をおかけして申し訳ない」
「いいえ、迷惑だなんて……」
「まあ、ちょっとバカだとは思いますけど」

 間髪入れずに愛理は真白の背中を叩き、睨みつける。咲造は先程より弱々しい声で語り始めた。

「本当にヒナは子供の頃からサッカーばかりで他のことは全くで……。店をやると言ったとき、私も少し見てやっていればと後悔しています」
「最初にはっきり店の名前のことを言わなかった私も悪いんです。すでに看板や備品が出来上がってお店もオープンしていたので言い出しにくくて……申し訳ありません」

 改めて頭を下げる愛理に、咲造は目を閉じ、ゆっくりと首を横に振った。

「いいや、愛理さんのせいではないよ。少し考えれば飲食店なんて難しいとわかっていたはずなのに、あの子の申し出がことのほか嬉しくてねえ」
「店長の、いいところですよね」
「確かに。情に熱いのはあの人のいいところかもしれないですね」

 愛理と真白が藤崎をフォローする。すぐ近くの会話だが、コーヒーを淹れるのに夢中になっている藤崎には全く聞こえていない様子だった。咲造は店の外を眺め、彼の孫が幼かった遠い昔を思い返すように話し始めた。

「そうだ、昔から困ってる人や生き物が放っておけなくて、犬やら猫やら拾ってくるような子だった」
「今もそうですよ。困っている人を放っておかないんです。だから店長に助けられた、救われたと言って会いにお店に来てくれる人がたくさんいるんですよ。調理は適性があれば誰にでもできるけど、それができなくても店長にしかできないことがたくさんあると思うんです」

 愛理は不器用ながら必死にコーヒーを淹れている藤崎を見ながら、優しく目を細めた。それは彼女自身が藤崎に救われた人間の一人だと物語っていた。

「君も……何やら訳ありのようだね。あの子に拾われたクチかい?」
「はい。感謝しています」
「そうか……」

 店の外から愛理の表情に視線を移した咲造が、嬉しそうに目元の皺を深く刻んだ。

「お、お待たせしました、ブレンドです」

 愛理と咲造の会話がひと段落した頃、藤崎が自身の渾身の一杯を咲造の前に差し出した。咲造は無言でカップを持ち、一口飲んでから今度は眉間に皺を寄せ顔を顰めた。

「……まずい。こんなものお客様に出したら一気に客足が遠のくぞ。愛理さんを見習いなさい」
「はい……」

 大きな身体の肩を丸め小さく俯く藤崎に、咲造はため息をついて今度は静かに言い聞かせるように話し始める。

「ヒナ、喫茶店やるなら美味いコーヒーくらい出せるようになれ。これから愛理さんに指導してもらいなさい。その分の給料も上乗せするように。愛理さん、真白くんも、どうかこのバカな孫のことを、よろしくお願いします」

 改めて深々と頭を下げる咲造に、愛理と真白も丁寧に礼をする。

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
「店長、愛理さん休みの日は俺も教えてあげるんで、時給上げてください」

 真白が藤崎の顔を上目遣いで覗き込む。滅多に見られない彼のこのような仕草は、その可愛らしさにきっと男女問わずときめく事うけ合いだが、藤崎には通用しないようだ。

「真白! お前は休みの日も賄いたかるんだから時給は据え置きだ!」
「ええ、ケチー」
「店長、明日から頑張りましょうね! やるからにはビシバシいきますよ」

 時給交渉に失敗した真白が、あまり顔の筋肉を動かさず、唇の先だけを尖らせていた。愛理はその様子をクスクスと笑いながら、両手を胸の高さで軽く握り、気合いを入れる。そうすると今度は藤崎が真白のように上目遣いで甘えだす。百八十センチを超える大男がしても可愛らしさのかけらもない。

「優しく、優しく頼むな、愛理」
「そうやって甘えるんじゃない! ヒナ!」

 本日三回目の噴火により、藤崎ががっくりと肩を落とし小さく丸まって捨てられた子犬のような目をして愛理を見つめた。
 七月初旬、不安定な天気を乗り越え、やっと夏らしく空は晴れ日差しは強まり、からりと乾いた風が心地よい夏本番までの僅かな時間。『文学喫茶オムレット』の店内では、店長である藤崎以外の面々の笑い声が響いていた。
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