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1-8 トビウオ

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 気がつくと、ハーラが船側から目を凝らして海を覗き込んでいた。

 よもやと思いつつも、今の話を聞いた後では自分の眼と感覚で確認せずにはいられなかったようだ。

 彼の持つ感覚でも十分に走査を終了させ、彼はようやく、少々ぎこちないような照れくささの混じったような、なんとも控えめな笑顔を浮かべた。

「いや、久しぶりに気になる事例を聞かせてもらったよ。

 実際に海の藻屑になった、港へ帰ってこなかった船達の中には、うっかりとそいつに乗っかってしまっていた連中もいるのだろうなあ。

 生憎と今夜はそうではなかったようで、俺も船乗り達の神に感謝するとしよう」

「いや、なんのなんの。
 今日は無事でも、明日はどうなっているものやらわからぬ。
 それが海というものさね。
 ハーラ導師ほどの方でも、海の怪物は気になるかね」

 それを聞いて、珍しく人並みの笑顔を見せて笑うハーラ。

「俺はあくまで陸鼠であって、歴戦の船乗りではないよ。
 だがまあ、少なくとも今夜だけは船の下に怪物はいないようなのでよかったことさ。

 いい話を聞かせてもらった。
 ではお休み、バーニー」

「ああ、お休みなさい、導師。
 美味い酒を御馳走さん」

 そして、今夜の静けさが怪物のものでなかった事を海の神に感謝して、貴重な酒をよく味わいながら飲み干して、老水夫も船室へと戻っていった。

 そして翌日、トビウオが船の周りを飛び回っていて、そのまま船の甲板に落ちる魚もいた。

 体を屈めて、ピチピチと活きのいい魚を拾ったケリーは思わず顔を綻ばせた。

「ほお、トビウオか。
 ここいらでは珍しい。

 おい、お前ら。
 掬う網をありったけ持ってこい。

 船の周りにいる奴を獲れるだけ捕らえるぞ」

 だが、妙な視線を後ろから感じて、やや手入れの悪い赤毛を翻して彼女が振り返ると、そこには、微妙な顔をしてその豊漁な光景を眺めていたハーラとバーニーがいた。

「ん? どうしたんだ、お前ら。
 また変な顔をして。

 獲れたての新鮮なトビウオは、とびっきり美味いぞ。
 喜べ、今夜は久しぶりに宴会だ」

「そいつは知ってる……そうか、トビウオか。
 トビウオねえ」

「ここいらは、そうそうトビウオに遭遇するような海域ではないのですがなあ。
 そして、この静かな海は。
 船の帆は順風に風を受けておるというのに」

「いやいや、魚なんてどこでもいるだろ。
 こいつらなんか、飛び回りながら、あちこち泳いでいるんだし。

 それに、こういう具合の穏やかな波とよい風の組み合わせの日もあるぞ」

「いや、いいんだ」
 そして揃って船室へ降りて行く二人をケリーは首を傾げて見送っていたが、直にトビウオ捕獲の指揮を執っていたのであった。

 その夜、メリーバロン号の人々は昼間捕獲した新鮮な魚に舌鼓を打ち、乗組員全員に酒が振る舞われた。

 バーニーとハーラの二人も、それのお相伴には預かったのだが、彼らは酒には手を付けなかった。

 同じくキャプテンと航海士、そして水夫頭のハッサンも酒には手を付けずに、魚を食するに留めていた。

 ケリーは訝し気にその様子を見ていたが、久しぶりの宴会にて乗組員の日頃の苦労を労うのに精を出していた。

 こういうたまの楽しみは、乗組員と共に分かち合うのも甲板長たる者の重要な仕事なのだ。

 だがこの宴には、そのような気分ではない者達もまた何人もいたのであった。

 まだ宴会は続いており、その喧騒が船室への入り口となる階段から漏れ聞こえてくる。

 その中で、船側から手を伸ばして灯りをかざし、海中を注意深く観察している船の重鎮達がいた。

「いるか、ハーラ」

「わからん。
 この手の怪異は、異様に気配を消すのが上手い奴も多くてな。
 ハッサン、君の鑑定はどうだ」

「どうでやしょう。
 あっしの鑑定にもよくわかりやせんな。
 そこにあるのは、ただ海のみとしかわかりやせん」

「少なくとも、あの時みたいな巨大な光る目玉は見えやせんな。

 まあ、もし今そいつが見えていたとしたら、この船に乗っている人間は直に全員お陀仏なんでやしょうがねえ」

 しばらくそうしていたが、ハーラは提案してみた。

「ちょっと試しに錨を外してみないか」

「くそ、簡単に言いおって。
 これだから陸鼠は。

 あれを引き上げるのが、どれだけ労力のかかる事だと思うんだ。
 今は乗組員達も酒盛りの最中だし」
 
「もし今、奴が下にいて、この船がそこに錨を打ち込んでいたとしたら」

「わかった、わかった。
 おい、ハッサン。
 あまり飲んでいないような奴を五人ほど集めてこい。

 ハーラ、言い出しっぺなんだから、お前も手伝え。
 この力自慢の祓い人め」

 首を竦めて無言で同意するハーラ。

 そしてかなり飲んではいたのだがケリーもやってきて、少人数だが精鋭十人ほどで錨をグイグイと引き上げた。

 船を固定するための重い錨は、さほどの抵抗を感じさせずに、無事に引き上げられた。

「ふむ、錨を引き上げる時にも、特に異様な感触は感じられんかったな。
 やはり杞憂であったのか」

「ちぇっ、せっかくいい気分で飲んでいたっていうのに何事ですか」

「はは、ケリー。悪かったな。

 しかし、もしこの懸念が当たりだったら、今頃はこの船が海の藻屑になっていたのかもしれんのだぞ」

「なんだか知らないが、そいつはちょっと御免だな。
 じゃあ、あたしは酔いも覚め加減な事だし、もうちょい宴会で」

「待て」
 それを鋭く呼び止めたのはハーラだった。

 嫌そうに、楽しい宴会場へと戻る足を止めたケリー。
「なんだい、大将」

「念のため、少し船を移動させたい」

 ケリーは顔を顰めて思いっきり肩を竦めたが、言い出した人物が人物だけに大人しく従う事にした。

 彼が何かを感じ取っているというのであれば従わぬ道理が無い事を、今まで彼と共にした航海から彼女も学んでいたのだ。

 それにここにはキャプテン以下、船の重鎮が素面で勢揃いしているのだから、自分も立場上断れない。

「じゃあ、景気よく行きまっせー」

 そしてまだ酔い加減であったので、陽気に自ら走り回って景気よく帆を下ろし回り、ロープに捉まって甲板に飛び降りると、風の魔法を呼んで帆を膨らませた。

 このとびきり波の凪いだ状態ではこうするしかない。
 この大型船をオールなんかで動かせやしないのだ。

 彼女は風魔法の達人だ。
 その気になれば、少しの間なら彼女一人で船を動かす事も可能なのだから。

 だが、すぐさまに劇的な変化があった。
 船が魔法の風で少し進んで、少しばかりの距離を移動したときの事だ。

 いきなり強い風が吹き出し、また波に揺られた船は大きく動き出した。

 船は勢いで元の位置からかなり動いてしまい、その急激な挙動に甲板上の人々から苦情が入る。

「おい、乱暴だな」

「ケリー、そんなに激しく動かさなくたっていい。
 他の皆はまだ宴会の最中なのだぞ。
 この酔っ払いめ」

「い、いや。
 これはあたしの仕業じゃないよ。
 なんだい、こりゃあ」

 だが、その答えはさっきまで船がいた海域が見事に示してくれた。

 巨大な、そう巨大と言うにはあまりにも大きな何かが、勢いよく跳ねあがって周囲に海水を激しく撒き散らしていた。

 そしてそいつの着水の衝撃に大海原が、そして船が激しく揺れまくった。
 思わず叫んで手直にあったサブマストにしがみついたケリー。

「おわっ、なんじゃありゃあ」

「う、本当にいたんだな。
 自分でやらせておいてなんなのだが、まさかと思っていたんだが」

「ああ、私もさ。
 いやあ、いたね」

 ハーラとキャプテンも淡々と簡潔な感想を述べ合っていた。

「おおお、あれこそ、わしが若き頃に出会った怪異そのものじゃ。

 なんと目を瞑って寝ておったものであろうか。
 つまり瞼があるという事は、あれは実は魚ではない何かだという事なのじゃなあ。

 それでは上から見てもよくわからぬわいのう。
 そうか、今は甲板長の魔法に反応して起きよったものかの」

 だが、ハッサンとマクファーソンは物凄い表情で顔を見合わせていた。

「もしあのまま、あいつの上に船がいたら……」

「ああ、なんかの拍子に奴が目覚めたなんていったら、そのうち……」

 そして、いつの間にか怪物はどこへともなく姿を消していったのだ。

 後には、少し波はあるものの、それが常の正しき姿である正常で平穏な海が、静かに揺蕩うのみであった。

「あれはまた、どこかの海に現れて船を驚かせ、あるいは乗組員ごと海の藻屑に変えてしまうのだろうなあ」

 そんなキャプテンの感慨をよそに、水夫達は途切れず宴会を続けていたし、ケリーもまた飲み直しに戻るのだった。

 ハーラは感心したような声で彼らを称えた。

「みんな、いい根性しているな。
 船が動き出し、しかもあれだけ海が荒れたと言うのに誰も見に来ないぞ」

「まあ、私に呼ばれたわけじゃないんだ。
 この程度の海の荒れようで、いちいち騒いでいたんじゃあ船乗りなんてものは務まらんという事さ。
 さあ、せっかくなんだから私も一杯飲むとするかな」

 そしてハーラとバーニー以外の人間は、再び錨を海底に落とし込むと、皆宴会場へいってしまった。

 ハーラは首を竦めて、また船側を覗き込んでいた。

「なあ、爺さん。
 あれから、あいつがもう一回この船の下へ潜り込んだっていう事はないんだろうな」

「さあ、わしらの時は船も木っ端微塵だったからねえ。
 まあ、ちゃんと普通に波も出ている事だし、もう大丈夫なんじゃないのかのう」

「そうか。
 俺は念のためしばらくここで見ているよ」

「そうですかい。
 じゃあ、ここの見張りは導師にお任せして、失礼してわしもちょっと一杯」

 その船室へと消えていくバーニーの少し浮かれた感じの後姿を見送りながら、ハーラも船乗りという人種について、今更ながらにあれこれと思うのであった。
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