111 / 166
黒麦の価値
しおりを挟む
「そんなことをいってるんじゃねえだよ!」
マーシャル王女殿下に見送られてインフォメーションセンターから出たアタシは、苛立ったように叫ぶ男性の声を聞いた。
揉め事かと建物から出てこようとした王女を手で制し、困り顔で宥めようとしている売り子のメルカンちゃんと、王国民と思われる中年男性を観察する。
「ご心配なく。魔王の隠れ家のお客さんが、商品について質問されてるだけよ」
「そうは見えんぞ。王国の人間が万が一にも魔王領の者と……」
「大丈夫、不安ならここで見ててくださいな。どんなお客さんだろうと、きちんと虜にしてみせますから」
不満そうな殿下を置いて、アタシは笑顔で男性に近付く。
歳の頃は40代半ば、赤茶けた首筋と節くれ立った両手は、厳しい労働で鍛え上げたベテランの農夫といったところ。短く刈り揃えられた茶色い髪は癖が強く、難儀な性格を表しているようだ。
カウンターにはメニュー表といくつかの大銅貨。メルカンちゃんの手には数種類のボトル。彼はウィスキーをオーダーしようとして、何か疑問を持ったのだ。
「いらっしゃいませ、お客様。アタシがこの店のオーナー、ハーンです。何かお困りですか?」
向き合うと、男性は少しホッとしたような顔になった。
彼は酔っているわけではない。粗末な木綿地ながら、身なりも清潔で、態度も冷静。理不尽に怒っている様子もない。それどころか、声を荒げてしまったことに恥じ入るような態度さえ見せている。
「あ、ああ。アンタに訊きたいことがあるだよ。何でライ麦の酒だけが高けぇんだ。おかしいだろ。大麦麦芽、トウモロコシ、複合穀物が小盃一杯大銅貨3枚で、なんで、いっちばん安くて人気の無ぇライ麦のんだけが大銅貨3枚と銅貨1枚なんだ」
なるほど。農家からすると価値が著しく低い――あるいは、需要が落ちて低く扱われつつある――ライ麦のウィスキーだけが高額なのが理解出来ないのだ。
ふんわり上品な小麦パンに押されて、王国でも敬遠されるようになったらしいボソボソして堅くて癖のある黒パン、もしくは家畜の飼料用に叩き売られるのがライ麦の位置付けなのだろう。
ふと視線を逸らすと、アタシたちを遠巻きに眺めている人たちの顔にも、野次馬根性じゃない純粋な興味が、ありありと浮かんでいる。
「この娘さんは、“安いのも、ちゃんと美味しいですから他のを呑まれてはいかがですか”って、いってくれたども。俺は、たかが銅貨1枚を惜しんでるんじゃねえだよ。理由が、知りてぇ。それだけだ」
「ああ、それはごもっとも。申し訳ないのですけど、ウチの店員はまだお酒を呑める年齢じゃありませんので、適切な説明が出来なかったようです。その点はお詫びいたしますが……お客さんの疑問に対する答えは、簡単です」
「ほな、なんでだ?」
「いちばん高額なのは、いちばん美味しいからです」
一瞬ポカンと呆けた顔をした彼は、小馬鹿にされたとでもいうように再び苛立った表情を浮かべる。
正確にいうとライ麦によるウィスキーの生産が最も難航し、出荷量が少ないからなのだけれども、価値として低いわけではない――むしろ最も力を入れていることだけはハッキリさせなければいけない。
アタシはメルカンちゃんにショットグラスを4つもらってカウンターに並べ、それぞれに違うウィスキーを注いだ。
「疑われるのもわかりますが、証明してみせましょう。さあ」
「さあ、って……」
意味がわからないとでもいいたげな表情で、男性は首を振る。カウンターに置かれた大銅貨を指し、真っ直ぐな目でアタシを見た。
良い顔だ。ジャガイモみたいに朴訥で偏屈、そして生き方に、迷いがない。
「違うだよ、俺は酒をタカりたいんじゃねえ。1杯だけ、試しに呑みたかっただけだ。自分が作ったライ麦が、どんな風に扱われているのかを」
アタシは笑う。
なんだ、ここにいたんだ。
「何がおかしいだ?」
「あなたを、お待ちしてました。王国でライ麦を生産しておられる農家の方を、紹介してもらう予定だったんですよ。お代は結構、ただし全部呑んでもらいます。それが、あなたの責任なんですから」
「わかんねえだよ! そりゃあ、いったい、どういう意味だ?」
「ライ麦を、馬鹿にするなといっているんです」
ますます理解出来ないという顔で、男性は差し出されたショットグラスを眺める。
「呑んでくださいな。後悔なんて、させませんから」
不承不承、彼はショットグラスを手にする。
まずは左端から。香りを嗅ぎ、口に含んだ後で、ひと息で呑み干す。
「大麦か」
「ええ。悪くはないでしょう?」
「ああ、旨ぇ。味が真っ直ぐで、素直だ。こんなの、呑んだことがねえ。それにしても、なんて豊かな香りだ。鼻面から麦畑を突っ込まれたみてぇな気分だよ」
あら、詩人ね。このひとと仕事がしたいって、思うタイプの相手。
小さく息を吐くと、隣のショットグラスに手を伸ばす。クンとひと嗅ぎしてキュッと呑み干し、小首を傾げて鼻から息を吐く。
テイスティングとしては乱暴だけど、キツいお酒の味わい方としては、嫌いじゃない。
「こりゃ、トウモロコシだな。大麦より甘くて優しくて、香ばしい後味がある」
「そうです。たぶん、安く大量に作るとしたら、これが中心になると思いますね」
「良いんじゃねえかな。みんなに好かれる味だ」
その隣のグラスは、複合穀物。これは特定の素材というよりも、オリジナルのブレンドウィスキーを作ろうとしたものだ。
どのくらい個性を出し、どのくらい素材感を出し、どのくらい親しみやすさを出すか。まだ煮詰め切れてない部分は多いけれども、現時点ではこれが魔王領醸造部隊が出したひとつの解答だった。
彼は呑み干して、少し迷うような顔になる。
「どうです?」
「すごく旨ぇ、が……俺は、好きじゃねえ」
「あら」
「悪くいうつもりはねえ。好みの問題だ。こいつは、着飾った玄人女みてえに感じる。こいつを抱くのは、俺じゃなくても良い」
今度はアタシが、ポカンとする番だった。
思わず笑いながら涙を流し、中年農夫の背中を叩く。岩でも叩いたみたいに、硬くてどっしりした背中だった。
「素晴らしいわ。あなた、お名前は?」
「あ? ああ……ロートウェル。王国の隅っこにあるケイアル村で、ライ麦と燕麦を作ってる」
「お父さん!!」
若い女の子が、半泣きの表情で駆け込んでくるのが見えた。ロートウェルさんにそっくりな栗毛の天然パーマで、王国店員のエプロンドレスを着てる。
彼女は父親の腰に組み付くと、店から引き摺り出そうと必死になっている。当然のことながら鍛え上げた偉丈夫の身体はビクともせず、女の子の顔は汗と涙でグシャグシャになる。
なに、これ。
駆け込んで来た女の子の後ろには、見覚えのある少女たち。ええと……赤毛のチビッ子と、巻き毛のお嬢さま風。ついでにウチの人狼少女、カナンちゃんまで。
ってことは、もしかしてこのクリクリパーマも、王国のパティシエ・ガールズ?
「パフェルちゃん、落ち着いて。大丈夫だから!」
「だ、大丈夫じゃない、もうお終いよ! ようやく手に入れたチャンスだったのに、こんなところで揉め事を起こして、何もかも台無しにするつもり!? わたしたちがどれだけ真剣にやってきたか知らないでしょ! 生きるか死ぬか、最後の勝負だったのよ!?」
「俺もだ」
「は!?」
「お前が、必死に頑張ってきたのは知ってる。だから俺も、最後の勝負のつもりだった。自分が出来る最高の……」
「最高の、ライ麦!? それを、誰に味わってもらうのよ!? 牛!? 馬!? それともロバ!? ふざけるのもいい加減に……」
パシンと、叩かれた音で周囲が静まり返る。
激昂していた少女は、頬を押さえて目を見開き硬直する。殴られたことに、ではない。
怒りに満ちた表情で自分を睨みつけているのが、誰なのかに気付いたからだ。
「……ま、おう、陛下」
「あ? 魔王? 誰がだ」
娘が指差す方に目をやり、ロートウェルさんは怪訝そうにアタシを見る。
ハーンて名乗ったのに、いままで知らんかったんかい。まあ、知らないわよね。
「ごめんなさいね、ロートウェルさん。娘さんに手を上げてしまって。そのことについては、後でいくらでもお詫びをするわ」
「あ、いや……それは、その」
「それでも、許せないものは許せないの。他人の努力と成果を知ろうともしないで、何に支えられて生きているのかも理解出来ない人間が、身勝手な罵倒をする権利なんてない」
泣き崩れそうになるパフェルちゃんとやらを、周囲の仲間たちが支える。
彼女自身は、怯えるべきか、恥じるべきか、憤るべきか、自分でもわかっていないようだ。
「パフェル、っていったかしら。お父さんの……いえ、生産者の仕事に感謝出来ないなら、あなたは要らない。職人や料理人だけで作り上げられるとでも思ってるなら、そんなひと、ここに居て欲しくないわ」
「ま、待ってください、陛下。違うんです、彼女は……」
「邪魔よ。出てって」
アタシに命じられた少女たちは、店先からは退去したものの、そこで抱き合ったまま動かなくなる。死刑宣告でも受けたみたいに、というかアタシにその自覚はなかったけど発言はそれに近いものだったのだろう。
周囲の誰もが身動き出来ないまま、固唾を呑んで結末を見守っている。
「ケチがついちゃったみたいだけど、仕事の話をしましょう」
「仕事、って……でも、俺はもう……いいんだ」
「いいわけないでしょうが。あなたと、ケイアル村の。いえ、王国と、魔王領の、未来の話よ。逃げるのは簡単だけど、逃げた先に何があるっていうの?」
「わかんねえ。あんたが、いや魔王陛下が、何をいってるのか、何をしようとしてるのか、学も知識もねえ俺は、さっぱりわかんねえんだよ」
「学だの知識だの、知ったこっちゃないわ。そんなもの、アタシだってないわよ。でも、自分が何をしようとしてるのかはわかってる。幸せになるのよ。もう誰も飢えさせたりしない。誰にも惨めな思いなんてさせない。あなたは違うの?」
激流のなかで孤立したみたいに、彼だけがひとり群衆の中心で立ち尽くしている。
それでも、周囲を見渡したりしない。誰かの助けを求めたり、他人の顔色を窺ったりもしない。自分の足で立ち、自分の頭で考える。
「……いや、違わねえ。前に、進まなきゃって、思ってたんだ。でも、ケイアル村は、痩せてて、ライ麦と燕麦しか、できねえ。どうしたらいいか、わからねえが、ライ麦を育てるしか、俺には……」
ひどく居心地悪そうな顔で、ライ麦農夫はアタシと向き合う。
最後に残ったショットグラスを差し出すと、彼はそれを手に取り、毒杯でも呷るみたいに喉へと流し込む。周囲を取り囲んでいた観衆たちが、痛ましいものでも見るように眉を顰め、溜息を吐いた。
「ああ」
彼は仰向いたまま、喉の奥で小さく声を上げる。
信じられないものを見るような泣き笑いの表情で、厳つい顔をクシャッと歪める。
「あなたは、進んでたのよ。ずっと、少しずつ、ちゃんと、進んでたの。自分がどこにいるか、見えてなかっただけ。いまは、見えるでしょう?」
「ああ、そうだな。魔王陛下、俺は、間違ってなかった。こいつは旨ぇ。こいつが……俺のライ麦が、どれより、なにより、いっちばん、旨ぇ」
王国文化振興計画の一環として、ライ麦・ウィスキーはひと足先に、製造設備を魔王領からケイアル村に移管することが決まった。
翌年から本格生産が始まった王国産ライ・ウィスキーは、クセは強いものの深みのある味で、中年男性を中心に高評を得る。
後に何度かの改良を重ねてケイアル・ウィスキーと名付けられたそれは、王国を代表する蒸留酒、“朴訥で実直な、気高く熱い男の酒”として確固たる地位を築くことになる。
魔王領にも莫大なライセンス料と指導料を落とすことにはなったのだけれども、アタシとしては、どうしても許せないことがひとつだけある。
彼らは何度いっても、“頬を押さえて座り込む可憐な娘”をラベルに使うのだけは、止めようとしなかったのだ。
マーシャル王女殿下に見送られてインフォメーションセンターから出たアタシは、苛立ったように叫ぶ男性の声を聞いた。
揉め事かと建物から出てこようとした王女を手で制し、困り顔で宥めようとしている売り子のメルカンちゃんと、王国民と思われる中年男性を観察する。
「ご心配なく。魔王の隠れ家のお客さんが、商品について質問されてるだけよ」
「そうは見えんぞ。王国の人間が万が一にも魔王領の者と……」
「大丈夫、不安ならここで見ててくださいな。どんなお客さんだろうと、きちんと虜にしてみせますから」
不満そうな殿下を置いて、アタシは笑顔で男性に近付く。
歳の頃は40代半ば、赤茶けた首筋と節くれ立った両手は、厳しい労働で鍛え上げたベテランの農夫といったところ。短く刈り揃えられた茶色い髪は癖が強く、難儀な性格を表しているようだ。
カウンターにはメニュー表といくつかの大銅貨。メルカンちゃんの手には数種類のボトル。彼はウィスキーをオーダーしようとして、何か疑問を持ったのだ。
「いらっしゃいませ、お客様。アタシがこの店のオーナー、ハーンです。何かお困りですか?」
向き合うと、男性は少しホッとしたような顔になった。
彼は酔っているわけではない。粗末な木綿地ながら、身なりも清潔で、態度も冷静。理不尽に怒っている様子もない。それどころか、声を荒げてしまったことに恥じ入るような態度さえ見せている。
「あ、ああ。アンタに訊きたいことがあるだよ。何でライ麦の酒だけが高けぇんだ。おかしいだろ。大麦麦芽、トウモロコシ、複合穀物が小盃一杯大銅貨3枚で、なんで、いっちばん安くて人気の無ぇライ麦のんだけが大銅貨3枚と銅貨1枚なんだ」
なるほど。農家からすると価値が著しく低い――あるいは、需要が落ちて低く扱われつつある――ライ麦のウィスキーだけが高額なのが理解出来ないのだ。
ふんわり上品な小麦パンに押されて、王国でも敬遠されるようになったらしいボソボソして堅くて癖のある黒パン、もしくは家畜の飼料用に叩き売られるのがライ麦の位置付けなのだろう。
ふと視線を逸らすと、アタシたちを遠巻きに眺めている人たちの顔にも、野次馬根性じゃない純粋な興味が、ありありと浮かんでいる。
「この娘さんは、“安いのも、ちゃんと美味しいですから他のを呑まれてはいかがですか”って、いってくれたども。俺は、たかが銅貨1枚を惜しんでるんじゃねえだよ。理由が、知りてぇ。それだけだ」
「ああ、それはごもっとも。申し訳ないのですけど、ウチの店員はまだお酒を呑める年齢じゃありませんので、適切な説明が出来なかったようです。その点はお詫びいたしますが……お客さんの疑問に対する答えは、簡単です」
「ほな、なんでだ?」
「いちばん高額なのは、いちばん美味しいからです」
一瞬ポカンと呆けた顔をした彼は、小馬鹿にされたとでもいうように再び苛立った表情を浮かべる。
正確にいうとライ麦によるウィスキーの生産が最も難航し、出荷量が少ないからなのだけれども、価値として低いわけではない――むしろ最も力を入れていることだけはハッキリさせなければいけない。
アタシはメルカンちゃんにショットグラスを4つもらってカウンターに並べ、それぞれに違うウィスキーを注いだ。
「疑われるのもわかりますが、証明してみせましょう。さあ」
「さあ、って……」
意味がわからないとでもいいたげな表情で、男性は首を振る。カウンターに置かれた大銅貨を指し、真っ直ぐな目でアタシを見た。
良い顔だ。ジャガイモみたいに朴訥で偏屈、そして生き方に、迷いがない。
「違うだよ、俺は酒をタカりたいんじゃねえ。1杯だけ、試しに呑みたかっただけだ。自分が作ったライ麦が、どんな風に扱われているのかを」
アタシは笑う。
なんだ、ここにいたんだ。
「何がおかしいだ?」
「あなたを、お待ちしてました。王国でライ麦を生産しておられる農家の方を、紹介してもらう予定だったんですよ。お代は結構、ただし全部呑んでもらいます。それが、あなたの責任なんですから」
「わかんねえだよ! そりゃあ、いったい、どういう意味だ?」
「ライ麦を、馬鹿にするなといっているんです」
ますます理解出来ないという顔で、男性は差し出されたショットグラスを眺める。
「呑んでくださいな。後悔なんて、させませんから」
不承不承、彼はショットグラスを手にする。
まずは左端から。香りを嗅ぎ、口に含んだ後で、ひと息で呑み干す。
「大麦か」
「ええ。悪くはないでしょう?」
「ああ、旨ぇ。味が真っ直ぐで、素直だ。こんなの、呑んだことがねえ。それにしても、なんて豊かな香りだ。鼻面から麦畑を突っ込まれたみてぇな気分だよ」
あら、詩人ね。このひとと仕事がしたいって、思うタイプの相手。
小さく息を吐くと、隣のショットグラスに手を伸ばす。クンとひと嗅ぎしてキュッと呑み干し、小首を傾げて鼻から息を吐く。
テイスティングとしては乱暴だけど、キツいお酒の味わい方としては、嫌いじゃない。
「こりゃ、トウモロコシだな。大麦より甘くて優しくて、香ばしい後味がある」
「そうです。たぶん、安く大量に作るとしたら、これが中心になると思いますね」
「良いんじゃねえかな。みんなに好かれる味だ」
その隣のグラスは、複合穀物。これは特定の素材というよりも、オリジナルのブレンドウィスキーを作ろうとしたものだ。
どのくらい個性を出し、どのくらい素材感を出し、どのくらい親しみやすさを出すか。まだ煮詰め切れてない部分は多いけれども、現時点ではこれが魔王領醸造部隊が出したひとつの解答だった。
彼は呑み干して、少し迷うような顔になる。
「どうです?」
「すごく旨ぇ、が……俺は、好きじゃねえ」
「あら」
「悪くいうつもりはねえ。好みの問題だ。こいつは、着飾った玄人女みてえに感じる。こいつを抱くのは、俺じゃなくても良い」
今度はアタシが、ポカンとする番だった。
思わず笑いながら涙を流し、中年農夫の背中を叩く。岩でも叩いたみたいに、硬くてどっしりした背中だった。
「素晴らしいわ。あなた、お名前は?」
「あ? ああ……ロートウェル。王国の隅っこにあるケイアル村で、ライ麦と燕麦を作ってる」
「お父さん!!」
若い女の子が、半泣きの表情で駆け込んでくるのが見えた。ロートウェルさんにそっくりな栗毛の天然パーマで、王国店員のエプロンドレスを着てる。
彼女は父親の腰に組み付くと、店から引き摺り出そうと必死になっている。当然のことながら鍛え上げた偉丈夫の身体はビクともせず、女の子の顔は汗と涙でグシャグシャになる。
なに、これ。
駆け込んで来た女の子の後ろには、見覚えのある少女たち。ええと……赤毛のチビッ子と、巻き毛のお嬢さま風。ついでにウチの人狼少女、カナンちゃんまで。
ってことは、もしかしてこのクリクリパーマも、王国のパティシエ・ガールズ?
「パフェルちゃん、落ち着いて。大丈夫だから!」
「だ、大丈夫じゃない、もうお終いよ! ようやく手に入れたチャンスだったのに、こんなところで揉め事を起こして、何もかも台無しにするつもり!? わたしたちがどれだけ真剣にやってきたか知らないでしょ! 生きるか死ぬか、最後の勝負だったのよ!?」
「俺もだ」
「は!?」
「お前が、必死に頑張ってきたのは知ってる。だから俺も、最後の勝負のつもりだった。自分が出来る最高の……」
「最高の、ライ麦!? それを、誰に味わってもらうのよ!? 牛!? 馬!? それともロバ!? ふざけるのもいい加減に……」
パシンと、叩かれた音で周囲が静まり返る。
激昂していた少女は、頬を押さえて目を見開き硬直する。殴られたことに、ではない。
怒りに満ちた表情で自分を睨みつけているのが、誰なのかに気付いたからだ。
「……ま、おう、陛下」
「あ? 魔王? 誰がだ」
娘が指差す方に目をやり、ロートウェルさんは怪訝そうにアタシを見る。
ハーンて名乗ったのに、いままで知らんかったんかい。まあ、知らないわよね。
「ごめんなさいね、ロートウェルさん。娘さんに手を上げてしまって。そのことについては、後でいくらでもお詫びをするわ」
「あ、いや……それは、その」
「それでも、許せないものは許せないの。他人の努力と成果を知ろうともしないで、何に支えられて生きているのかも理解出来ない人間が、身勝手な罵倒をする権利なんてない」
泣き崩れそうになるパフェルちゃんとやらを、周囲の仲間たちが支える。
彼女自身は、怯えるべきか、恥じるべきか、憤るべきか、自分でもわかっていないようだ。
「パフェル、っていったかしら。お父さんの……いえ、生産者の仕事に感謝出来ないなら、あなたは要らない。職人や料理人だけで作り上げられるとでも思ってるなら、そんなひと、ここに居て欲しくないわ」
「ま、待ってください、陛下。違うんです、彼女は……」
「邪魔よ。出てって」
アタシに命じられた少女たちは、店先からは退去したものの、そこで抱き合ったまま動かなくなる。死刑宣告でも受けたみたいに、というかアタシにその自覚はなかったけど発言はそれに近いものだったのだろう。
周囲の誰もが身動き出来ないまま、固唾を呑んで結末を見守っている。
「ケチがついちゃったみたいだけど、仕事の話をしましょう」
「仕事、って……でも、俺はもう……いいんだ」
「いいわけないでしょうが。あなたと、ケイアル村の。いえ、王国と、魔王領の、未来の話よ。逃げるのは簡単だけど、逃げた先に何があるっていうの?」
「わかんねえ。あんたが、いや魔王陛下が、何をいってるのか、何をしようとしてるのか、学も知識もねえ俺は、さっぱりわかんねえんだよ」
「学だの知識だの、知ったこっちゃないわ。そんなもの、アタシだってないわよ。でも、自分が何をしようとしてるのかはわかってる。幸せになるのよ。もう誰も飢えさせたりしない。誰にも惨めな思いなんてさせない。あなたは違うの?」
激流のなかで孤立したみたいに、彼だけがひとり群衆の中心で立ち尽くしている。
それでも、周囲を見渡したりしない。誰かの助けを求めたり、他人の顔色を窺ったりもしない。自分の足で立ち、自分の頭で考える。
「……いや、違わねえ。前に、進まなきゃって、思ってたんだ。でも、ケイアル村は、痩せてて、ライ麦と燕麦しか、できねえ。どうしたらいいか、わからねえが、ライ麦を育てるしか、俺には……」
ひどく居心地悪そうな顔で、ライ麦農夫はアタシと向き合う。
最後に残ったショットグラスを差し出すと、彼はそれを手に取り、毒杯でも呷るみたいに喉へと流し込む。周囲を取り囲んでいた観衆たちが、痛ましいものでも見るように眉を顰め、溜息を吐いた。
「ああ」
彼は仰向いたまま、喉の奥で小さく声を上げる。
信じられないものを見るような泣き笑いの表情で、厳つい顔をクシャッと歪める。
「あなたは、進んでたのよ。ずっと、少しずつ、ちゃんと、進んでたの。自分がどこにいるか、見えてなかっただけ。いまは、見えるでしょう?」
「ああ、そうだな。魔王陛下、俺は、間違ってなかった。こいつは旨ぇ。こいつが……俺のライ麦が、どれより、なにより、いっちばん、旨ぇ」
王国文化振興計画の一環として、ライ麦・ウィスキーはひと足先に、製造設備を魔王領からケイアル村に移管することが決まった。
翌年から本格生産が始まった王国産ライ・ウィスキーは、クセは強いものの深みのある味で、中年男性を中心に高評を得る。
後に何度かの改良を重ねてケイアル・ウィスキーと名付けられたそれは、王国を代表する蒸留酒、“朴訥で実直な、気高く熱い男の酒”として確固たる地位を築くことになる。
魔王領にも莫大なライセンス料と指導料を落とすことにはなったのだけれども、アタシとしては、どうしても許せないことがひとつだけある。
彼らは何度いっても、“頬を押さえて座り込む可憐な娘”をラベルに使うのだけは、止めようとしなかったのだ。
0
お気に入りに追加
29
あなたにおすすめの小説
アラサー令嬢の婚約者は、9つ下の王子様!?
九条りりあ
恋愛
27歳になり、婚期が心配される年になった頃、私はとある交通事故で命を落としてしまう。けれども、次に目が覚めたときは前世とは異なる異世界に『エレナ・クレメンス』という名で生まれ落ちた。いわゆる生まれ変わりというやつらしい。『魔法』が息づいている世界に生まれ落ちたけれども、大それた魔法も使えない私は、平々凡々に生きていくものだと思っていた。可愛い弟、優しい両親、何不自由なく育ち気が付けば、前世で命を落としたときと同じく27に差し掛かり、結婚適齢期は過ぎていた。けれども、そんな27歳の誕生日パーティーで、『レイ・ガルシア』と名乗る少年に……。年の差9歳。何かの罠かと疑うエレナとエレナを溺愛すぎて裏で色々画策している王子様……。純愛ファンタジーなんていかがでしょうか?
【感想お気軽に書き込んでください!すごく喜びます&Twitterやっておりますので、お気軽に!】
※9月に開催されますファンタジー大賞にエントリーしました。応援してくださるとすごく喜びます。
【完結】婚約破棄令嬢の失恋考察記 〜労働に生きようと思っていたのに恋をしてしまいました。その相手が彼なんて、我ながらどうかと思うけど〜
藍生蕗
恋愛
伯爵令嬢であるリヴィア・エルトナはつい先日婚約破棄されたばかり。嘲笑と好奇が自分を取り巻く。
わたくしも自分が婚約していたなんてその時知りましたけどね。
父は昔結ばれなかった女性を今も一途に想い続ける。
リヴィアはそんな父と政略結婚の母との間に産まれた娘で、父は娘に無関心。
貴族だからと言って何故こんな思いをしなければいけないのか、貴族の結婚はそれ程意味のあるものなのか。
そんな思いを抱えるリヴィアは、父と境遇を同じくする第二皇子と知り合い、自身にわだかまる思いを彼にぶつけてしまうのだが……
※小説家になろう・カクヨムでも掲載してます
異世界日帰りごはん【料理で王国の胃袋を掴みます!】
ちっき
ファンタジー
異世界に行った所で政治改革やら出来るわけでもなくチートも俺TUEEEE!も無く暇な時に異世界ぷらぷら遊びに行く日常にちょっとだけ楽しみが増える程度のスパイスを振りかけて。そんな気分でおでかけしてるのに王国でドタパタと、スパイスってそれ何万スコヴィルですか!
称号チートで異世界ハッピーライフ!~お願いしたスキルよりも女神様からもらった称号がチートすぎて無双状態です~
しらかめこう
ファンタジー
「これ、スキルよりも称号の方がチートじゃね?」
病により急死した主人公、突然現れた女神によって異世界へと転生することに?!
女神から様々なスキルを授かったが、それよりも想像以上の効果があったチート称号によって超ハイスピードで強くなっていく。
そして気づいた時にはすでに世界最強になっていた!?
そんな主人公の新しい人生が平穏であるはずもなく、行く先々で様々な面倒ごとに巻き込まれてしまう...?!
しかし、この世界で出会った友や愛するヒロインたちとの幸せで平穏な生活を手に入れるためにどんな無理難題がやってこようと最強の力で無双する!主人公たちが平穏なハッピーエンドに辿り着くまでの壮大な物語。
異世界転生の王道を行く最強無双劇!!!
ときにのんびり!そしてシリアス。楽しい異世界ライフのスタートだ!!
小説家になろう、カクヨム等、各種投稿サイトにて連載中。毎週金・土・日の18時ごろに最新話を投稿予定!!
ご期待に沿えず、誠に申し訳ございません
野村にれ
恋愛
人としての限界に達していたヨルレアンは、
婚約者であるエルドール第二王子殿下に理不尽とも思える注意を受け、
話の流れから婚約を解消という話にまでなった。
ヨルレアンは自分の立場のために頑張っていたが、
絶対に婚約を解消しようと拳を上げる。
当て馬悪役令息のツッコミ属性が強すぎて、物語の仕事を全くしないんですが?!
犬丸大福
ファンタジー
ユーディリア・エアトルは母親からの折檻を受け、そのまま意識を失った。
そして夢をみた。
日本で暮らし、平々凡々な日々の中、友人が命を捧げるんじゃないかと思うほどハマっている漫画の推しの顔。
その顔を見て目が覚めた。
なんと自分はこのまま行けば破滅まっしぐらな友人の最推し、当て馬悪役令息であるエミリオ・エアトルの双子の妹ユーディリア・エアトルである事に気がついたのだった。
数ある作品の中から、読んでいただきありがとうございます。
幼少期、最初はツラい状況が続きます。
作者都合のゆるふわご都合設定です。
1日1話更新目指してます。
エール、お気に入り登録、いいね、コメント、しおり、とても励みになります。
お楽しみ頂けたら幸いです。
***************
2024年6月25日 お気に入り登録100人達成 ありがとうございます!
100人になるまで見捨てずに居て下さった99人の皆様にも感謝を!!
2024年9月9日 お気に入り登録200人達成 感謝感謝でございます!
200人になるまで見捨てずに居て下さった皆様にもこれからも見守っていただける物語を!!
幼女からスタートした侯爵令嬢は騎士団参謀に溺愛される~神獣は私を選んだようです~
桜もふ
恋愛
家族を事故で亡くしたルルナ・エメルロ侯爵令嬢は男爵家である叔父家族に引き取られたが、何をするにも平手打ちやムチ打ち、物を投げつけられる暴力・暴言の【虐待】だ。衣服も与えて貰えず、食事は食べ残しの少ないスープと一欠片のパンだけだった。私の味方はお兄様の従魔であった女神様の眷属の【マロン】だけだが、そのマロンは私の従魔に。
そして5歳になり、スキル鑑定でゴミ以下のスキルだと判断された私は王宮の広間で大勢の貴族連中に笑われ罵倒の嵐の中、男爵家の叔父夫婦に【侯爵家】を乗っ取られ私は、縁切りされ平民へと堕とされた。
頭空っぽアホ第2王子には婚約破棄された挙句に、国王に【無一文】で国外追放を命じられ、放り出された後、頭を打った衝撃で前世(地球)の記憶が蘇り【賢者】【草集め】【特殊想像生成】のスキルを使い国境を目指すが、ある日たどり着いた街で、優しい人達に出会い。ギルマスの養女になり、私が3人組に誘拐された時に神獣のスオウに再開することに! そして、今日も周りのみんなから溺愛されながら、日銭を稼ぐ為に頑張ります!
エメルロ一族には重大な秘密があり……。
そして、隣国の騎士団参謀(元ローバル国の第1王子)との甘々な恋愛は至福のひとときなのです。ギルマス(パパ)に邪魔されながら楽しい日々を過ごします。
異世界転生でチートを授かった俺、最弱劣等職なのに実は最強だけど目立ちたくないのでまったりスローライフをめざす ~奴隷を買って魔法学(以下略)
朝食ダンゴ
ファンタジー
不慮の事故(死神の手違い)で命を落としてしまった日本人・御厨 蓮(みくりや れん)は、間違えて死んでしまったお詫びにチートスキルを与えられ、ロートス・アルバレスとして異世界に転生する。
「目立つとろくなことがない。絶対に目立たず生きていくぞ」
生前、目立っていたことで死神に間違えられ死ぬことになってしまった経験から、異世界では決して目立たないことを決意するロートス。
十三歳の誕生日に行われた「鑑定の儀」で、クソスキルを与えられたロートスは、最弱劣等職「無職」となる。
そうなると、両親に将来を心配され、半ば強制的に魔法学園へ入学させられてしまう。
魔法学園のある王都ブランドンに向かう途中で、捨て売りされていた奴隷少女サラを購入したロートスは、とにかく目立たない平穏な学園生活を願うのだった……。
※『小説家になろう』でも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる