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其の八

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 三条邸に到着後、妖異あやかしを追い立てるための犬を連れてきたと説明すると、犬の旭丸は難なく庭へ入れてもらうことができた。
 桂祐は昨夜と同じく、広い庭で息を潜めて妖異が来るのを待つ。今夜は下人は連れてきていない。役に立たないと昨夜の一件で分かったからだ。

 刻々と夜が更ける。霜月も終わりの夜は冷え込みも厳しい。
 寝殿の軒には魔除けの灯明が沢山吊されているが、庭には一切の火の気はない。桂祐一人だったら凍えるところだったが、旭丸と寄り添っているので冷えずに済んだ。獣の高い体温に眠気を誘われるのだけが問題だ。
 桂祐がきざはしの側で欠伸を噛み殺してじっと待っていると、月が西に傾いた頃、昨夜と同じ妖異が現れた。

 不吉な姿と不愉快な異臭は変わらないが、いっそう痩せて全身の輪郭が曖昧になっている。
「止まれ」
 桂祐が命じると、わぁんと虫の羽音のような唸りが耳を塞いだ。夜の闇より冥い虚ろな眼窩が桂祐に向く。二度続けて邪魔をされ、妖異は明らかに怒っている。
「何故三条様を憎む。お前は何の理があってここまで来たのだ」
 あからさまな憎悪を向けられた桂祐は、吐き気がこみ上げてくるのを堪えて妖異の男の目を覗き込んだ。
 問答などしなくても、後ろで低く唸っている旭丸に命じれば、目の前のモノを祓うことは簡単だろう。しかし、化生の者の恨みを買うには必ず理由があるのだ。原因を解き明かさずに事象だけを解決しても、いつか必ず報いがやってくる。
 桂祐にできることは、視る事だけだ。だが恐れずに物事の根本までを見通せば、呪いは必ず解ける。
 旭丸には、命じるまでは動くなと言い聞かせてある。昨夜は焦ってしくじったが、落ち着いてやれば出来るはずだ。

 桂祐は重ねて問う。
「お前の理は何だ? 何を怨んでいる?」
 夜目にも息が白いのが分かるような気温なのに、妖異の目を睨み付ける桂祐の額には汗が浮きだした。
 不快な虫の羽音も、鼻をつく異臭も気にならなくなるまで集中して妖異の目を見続ける。
 睨み合ってどのくらい時が経ったのか分からなくなった頃、桂祐はふと周りの全てが遠のいて身体が浮くような感覚に襲われた。


───気がつくと真昼の山中にいた。

 身体の感覚は、ない。ただ目だけが空に浮かんでいるような不思議な感覚だ。

 下を見ると、茂った緑の中に一際目立つ杉の大木があった。樹の幹には神木を表す紙垂しでが下がっている。細い道の先には白木でできた鳥居が見えているから、神域の山なのだろう。
 道から少し離れた藪の中、一頭の牡鹿が括り罠の絡んだ脚をかばいながらうずくまっていた。長い首を持ち上げて助けを呼ぶように鳴いている。

 殺生の禁じられた場所で、しかも神木の近くに罠を仕掛けて鹿を獲るとは、罰当たりな猟師もいるものだと桂祐は驚く。
 瀕死の鹿と視線が合った途端、桂祐の意識は鹿の中へと入りこんだ。

───足が耐えがたく痛い

 きつく括り上げられて血の通わなくなった後ろ脚が、段々と死んでいくのがわかった。死んでいく足を蘇らせようと心の臓が無理に血を送り出す。送り出された血がんだ足の手前で詰まって戻って来ない。全身が苦しくなって、口から泡が零れ、舌が伸びてはみ出る。

───死にたくない、助けて欲しい……

 涙を流して藻掻き苦しんでいると、鋭敏な耳に山道を登ってくる輿舁こしかきの声が聞こえた。すぐに視界に沢山の人間の姿が飛び込んでくる。

 先払いの童がキョロキョロしながら横を通り過ぎ、貴人を乗せた輿がその後を運ばれていく。輿は御簾で覆われていたが、鹿の目は特徴のある紋をしっかりと捉えていた。
 輿の後からやって来た随身ずいじんの一行が、鹿に気づいて足を止めた。
「やや、これは珍しや。神域で大なる牡鹿と出会うとはいかな吉兆か!」
「待たれよ、これは怪我をしておる。ここで死んでは災いとなろう。罠を解いて逃がしてやろう」
 そう言って近づいてきた下人の一人を、牡鹿は必死の思いで見つめた。

───死にとうない、死にとうない……自由になりたい、誰でも良いからこの綱を切ってくれ

 牡鹿が身をくねらせて口から血の混じった泡を吹く。
「暴れるなよ。よし、今楽にしてやろうな」
 そう言って列から離れて牡鹿の掛かった罠を解こうとした下人を、随身の中でも位の高そうな男が止めた。
「止せ。列を離れるな! 大殿がもう先に行ってしまわれた。そのような獣には関わらず先へ行け」
 三条邸の家司だと桂祐は気づく。家司は随身達を先へと追いやり、うずくまる牡鹿に唾を吐きかける。
「……ええ、穢らわしい獣め。二度と大殿の前に出るでないぞ」
 家司は山道の脇にあった石を手に取って鹿へと投げつけた。拳ほどの大きさのそれが牡鹿の頭部に当たって額を割る。噴き出した血が神木に飛び散った。

───許さぬ

 神域に御座おわす神霊が血の汚れの不快に震え、牡鹿の腹の底から噴き上げた憎しみと混ざり合って暗く凝固し始める。その怒りと憎しみが、妖異の記憶を覗く桂祐の心に滲み出してくる。

───許さぬ、許さぬ……



「アオーン!」

 憎しみに同化しかけた桂祐の思考は、旭丸の遠吠えで現世へと戻された。
 心配げに足下をグルグル回る旭丸に、桂祐は気を取り直して頷く。
「ありがとう。私は大丈夫だ。さあ行け旭丸、お前の出番だ」
 承知したと言いたげに一声吠えた旭丸は、妖異へと向かって走り出す。犬の姿のままでどうするのだと桂祐が叱責する前に、空中で一回転して人型へと戻り、腰から抜いた赤い刃で妖異の頭の天辺から足の先までを真っ二つに斬り割った。
 裂け目から黒い煙が吹き出し、昨夜と同じく無数の虫に変じた妖異が逃げだす。しかし旭丸はそれを全て、息と共に腹の内へと吸い込んだ。抜き身の刃を鞘に戻すと、役目を終えた太刀は虚空へと融けて消えた。

 あっという間に片をつけた旭丸は、呆気にとられている桂祐の前に戻ってきて、
「不味い」
 と口元を袖で拭いながら顔をしかめる。
「く……食ってしまえるなら、昨日そうすれば良かったんじゃないか!」
「正体の分からないモノは食いたくない」
「ならなんで今日は食った!?」
「桂祐が視たから。妖異の中身が分かってしまえば、それは怪しいものではなくなる。……しかし不味かった。口直しが欲しい」
 旭丸は桂祐の肩を両手で捕まえ、唇を寄せてくる。桂祐は仰け反ってそれを避けた。
「やめろ、ここをどこだと思っている!?」
「誰もいない庭だろう。口直しをくれないなら、吐き出してしまうかも知れない」
「はきだす……!? いや絶対に吐くな!」
 桂祐は旭丸の口元を両手で押さえる。
「じゃあ、口直しをくれ」
 くぐもった声で言われ、桂祐は渋々手を下ろして自分から旭丸の唇に口づけた。旭丸はちょっと目を瞠ってから嬉しげに細め、飴を舐めるように相手の唇を堪能した。

 妖異を祓い終えた後、桂祐は犬に戻った旭丸を連れて三条邸の家司に首尾を報告し、安倍の屋敷へと戻った。
 寝不足と疲労で石のように重い身体を引きずって諸々の用を済ませ、ようやくまともに休息できる暇を得る。借りた浄衣を脱ぎ捨てた途端、倒れ込むように眠りに落ちた。

 が、しかし平穏な眠りは数刻で破られる。
 妖異による病から解放された三条邸の主人が、直々に礼を言いたいと桂祐宛に使いを寄越したのだ。使者が言うには、すでに迎えの車が待っているらしい。
 桂祐は礼などよりもゆっくり眠らせてくれと言いたかったが、高貴な方は下々の事情などには配慮しないものだ。拒む権利は下々には無い。

 旭丸は、犬の姿のまま屏風の陰で丸くなって眠っている。宝珠に戻そうと思ったが、戻り先の宝珠がすぐには見当たらなかった。旭丸に取られたまま、何処へやったか分からなくなっているのだ。心当たりを探し回ったが、どこにも無い。
 探す間にも早く来いと使者が急かしに来る。
 よく眠っている旭丸を無理に起こして在り処を尋ねるのも気の毒で、桂祐は結局一人で三条邸へと赴くことにした。
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