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其の七

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 桂祐が目を開くと、目の前に見慣れない公達の寝顔があった。仰天して思わず飛び起きたが、よく見れば隣で眠っていたのは旭丸だった。いつもは童形なので、青年姿は見慣れなくて驚いてしまう。

 辺りを見回すと、襖障子の隙間から漏れる光で未だ夜になっていないことだけは分かる。寝過ごしていなくて良かった。今夜もまた三条邸へと向かわねばならないのだ。遅れていったら、あの陰険な家司に何を言われるか分かったものではない。

 落ち着いて座り直すと、自分が酷い格好をしていることに気がついた。内着の前は全開で、胸元には点々とうっ血の跡がある。身体の下に敷き込んで寝ていたせいで、浄衣は皺くちゃ。髪も下ろしたまま絡まってしまっている。
 桂祐はとりあえず髪を手櫛で撫でつけ、衣桁にかかっていた狩衣に袖を通した。新しい浄衣は誰かに借りるしかない。

 旭丸はすぐ横で桂祐が物音を立てても、ぴくりとも反応せずに眠っている。本来、睡眠を必要としない人外のはずなのに、こんな風に休んでいるのは、おそらく宝珠の外に出ているのが辛いからなのだろう。起きたら問い詰めて宝珠を取り戻して、中へ戻してやらねばならない。
 桂祐は旭丸の整った面立ちを眺めて溜息をついた。

 桂祐から精気を得て青年姿になった旭丸は、好い男ぶりだ。すっきりと秀でた額、高い頬に通った鼻筋。密な睫に覆われた切れ長の目。小さく形の良い唇と、しっかりした頤。首も腕も太く逞しく、胸も厚い。触れてみれば自分よりはるかに高い体温が手のひらに熱かった。
 龍の本体を見たのは一度だけだが、人に化けてもこんなに美しい生き物が、自分だけに懐いているのだから悪い気はしない。

───しかし、男に化けた龍神が妻問いするなら、伊勢やら賀茂の斎宮とか、宮筋の美姫とか、そういう高貴な女性を相手にするのが筋なのではないだろうか……何を好き好んで自分のような中途半端な男に執着するのだろう?

 真面目に考えると、犬の名が悪さをしている気がする。

 名は魂を縛る呪いだ。
 幼い日にうっかり与えてしまった「旭丸」の名のせいで、犬のように桂祐を慕うのだろう。
 名の軛から解放してやれば、この美しい龍神は相応しい妻を得て、また遠い海原へ帰っていくだろうか?

 想像しただけで不安になって、桂祐はぎゅっと眉を寄せた。

 置いて行かれるのは心細い。旭丸が側にいる、呼べばいつでも助けてくれると思うから、どんな妖異を目にしても狂わずにやって来られたのだ。いなくなった時のことなど、想像もできない。桂祐にとって旭丸は、もはや無くてはならない存在になっている。
 しかし、かと言って、旭丸が望むとおりに全てを受け入れることも嫌だった。
 何度も夢で見るとおり、赤い龍には青と銀の鱗に覆われた同じ種族の伴侶がいるはずなのだ。旭丸が求めているのはあの蒼い龍だ。完璧な一対が揃った時、横に自分のような男がくっついていたら滑稽だろう。

「強欲だな……」
 一人呟いた桂祐は、結局自分はあの銀の龍になりたいのかも知れないと思った。自分が根本的に大変我が強いという自覚はある。誰かの代わりとして一時しのぎの間に合わせのように扱われるのが、どうしても許せないのだ。例えそれが神仏相手であったとしても。

 龍になるなど、人の身にはあり得ない望みだ。忘れてしまった方が良い。桂祐は旭丸の癖毛を指で梳いてやりながら、そっと溜息を吐いた。




 夕刻。
 内裏から戻ってすぐに桂祐の様子を見にやってきた安倍孝信あべのたかのぶは、そこに同じ年かさの男が二人いることにギョッとした。一人は良く見知った桂祐だが、もう一人は知らない男だ。高価そうな艶のある赤い衣を身につけた美丈夫だが、くるくると癖のある赤い髪を童子のように下げ髪にして冠も烏帽子もつけていないのが異様だ。
「それ、誰だ?」
 孝信がおそるおそる問うと、
「式神です」
 と桂祐が答えた。
「式神? 童子の姿だと聞いていたが」
「育ったのです」
「そだ……? いや、おかしいだろう。人ならざるものが何故育つ? お前、何かおかしな術に手を出したりしておらぬだろうな?」
 孝信が顔をしかめると、旭丸が桂祐を庇うように前に出た。
「童形では刀を振りにくい。桂祐の命で姿を変えただけだ」
 赤い瞳で射貫くように孝信を見て、膝の上に置いた黄金の太刀に手をやる。
「おい桂祐! そいつは本当に無害なんだろうな?」
 孝信は慌てて屏風の後ろに隠れて警戒も露わに叫んだ。屏風で太刀を防げるとは思えないが、式神だという男の目が怖い。
「多分……」
 桂祐は曖昧に笑って首を傾げた。
「多分!? おい、自信がないなら危なっかしいモノを外へ出すなよ!」
「しかし、旭丸がいないと私に物怪を払う力はありませんよ。何度も言いますけど、私は視えるだけですし」
 桂祐が肩をすくめて言うと、孝信は身体を屏風の後ろに隠したまま、顔だけ出して
「そういえば、昨夜の首尾はどうだったのだ? 失敗したのか? 先ほど三条殿のほうから苦情が来たが、人手が要るなら私も手を貸そうか?」
 と、案じる様子で問いかけた。
「昨夜は討ち損ねましたが、アレは本物です。視えない人には立ち向かえない」
 そう言って首を横に振る桂祐は、怯えている風でも逸っている風でもなく、ただただ面倒そうな顔をしている。
 
 孝信は不思議に思う。
 桂祐はいつも「自分は視えるだけで特別な力はない」と気弱に言うが、視えるのに動じず居られる心の強さが、常人では既にあり得ないのだ。現に、あんな恐ろしい目をした式神を側に置いて、平気でいられる人間が普通であるわけがない。
 普通でない自覚を持って自信満々に振る舞ってくれさえすれば、桂祐は偉大な陰陽師として成り上がれるに違いないのに、と孝信は歯がゆい思いを抱いてしまう。

 複雑な顔をする孝信に、桂祐は申し訳なさそうな笑みを向け、
「今夜は失敗しないように、旭丸……式神には良く言い聞かせてあります。ああ、孝信殿に来て頂く必要は無いのですが、昨日浄衣を汚してしまったので、新しいのを貸してもらえませんか?」
 と頭を下げた。
「そんなのは構わんが……」
 孝信は桂祐とその側に控える式神の男を交互に見て
「お前よりその男の方が偉そうに見えるぞ。はったりを利かせるなら、宝珠から呼び出すところを見せた方が良いな」
 と俗物らしい助言を与えた。


 孝信から借りた浄衣に着替えた桂祐は、紙燭しそくを点してすっかり暗くなった板縁に出た。旭丸も澄ました顔で付いてくる。
「……何故人のままなんだ。一度宝珠に戻ってくれないか?」
 車宿の前で後ろを振り返って言うが、旭丸は答えないままさっさと牛車に乗り込んでしまう。
「あっ、コラッ!」
 慌てた桂祐が乗り込むと、すぐに車は動き出した。揺れる上に狭い牛車内は火気厳禁である。紙燭はつけていられない。灯りを消してしまうと、自分の手も見えないほどの暗さだ。向かいにいるはずの旭丸の顔は見えず、ただ気配だけがうっすらとそこにある。
 桂祐は気配に向かって再度頼み込んだ。
「旭丸、一度戻って欲しい。孝信殿の助言に従いたいわけではないが、三条様の家人にお前のことを尋ねられたら説明に困るんだ」
 見えないながらも頭を下げると、正面からは低い声で
「嫌だ。それに宝珠は置いてきた」
 と答えが返ってきた。
「何!? それは不味い。どこに置いてきた? 取りに戻らねば……」
 一旦車を停めるよう声を掛けようと桂祐は腰を上げたが、袖を掴んで止められた。
「どうせ暗いから見えない。急ぐのだろう? 私のことは、下人の一人だと言い抜ければ良い」
「それは無理だ。お前の方が私より偉そうに見える。それに人型でいると力を使うのだろう? とにかく一度宝珠に戻った方がいい。どこへ置いてきたんだ? 誰かに取ってこさせるから、場所を……」
「いやだ、戻りたくない。人の姿がダメなら、ならば犬はどうだ。名前の通りの姿なら、人でいるより楽できる。鬼退治の助けになる犬だと言ってくれ」
「犬?」
 桂祐が了承する前に衣擦れの音がして、膝に置いた手の甲に柔らかな毛が触れた。短く密な獣の毛だ。
「旭丸?」
 呼ぶと「わふ!」と小さく鳴き声が返り、桂祐の手に濡れた鼻が押しつけられた。
「……驚いた……犬になったお前に触るのは随分久しぶりだな」
 答えるようにまた短く犬が吠える。
 暗闇の中、大きさを確かめるように全身を撫でてやると、旭丸は相当に大きな犬であることが分かった。甘えるように鼻を鳴らし、桂祐の腹に鼻面を押しつけてくる。名前の通りの姿というが、元の旭丸はこんなに大きくはなかった。
「犬になれるならいつも犬で良いのに」
 呆気にとられたまま呟くと抗議するように手を甘噛みされ、桂祐はスマンスマンと犬の頭を掻いてやった。
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