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其の三
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呼ばれた瞬間、童子は丸い頬がふっくらと盛り上がる程に大きく笑った。
満足そうに一つ頷き、小さな身には到底不釣り合いの長い刃を抜く。朝日を集めて固めたような赤く輝く太刀だ。それを見た妖異は怯んだように後ずさる。童子は何の前触れもなく軽く跳び上がり、薪を割るより簡単に妖異の腕を切り落とした。
わあん、と空気が細かく震えるような異様な音が辺りを満たし、黒い男の身体が無数の羽虫に分解されて一斉に飛び立った。
虫の群れは煙のようにたなびきながら、北山の方へと消えていく。童子は刀を振って逃げる羽虫をいくらか減らしたが、とても全ては斬りきらない。すぐに諦めたように刃を鞘に収めてしまった。
「馬鹿! どうして一息に滅してしまわなかったんだ! あれではまた戻ってきてしまうじゃないか」
地面に落ちた宝珠と烏帽子を拾って駆け寄った桂祐に、旭丸と呼ばれた童子は茫洋とした目を向けて、
「ちからがたらぬ」
と呟いた。桂祐はその言葉を聞いて、最大限に顔をしかめる。
───だからコイツを呼び出したくないのだ!
「毎日酒も米も捧げ、日にも当てているではないか。何が足らぬのだ」
桂祐の足に抱きつき、旭丸はじっと顔を見上げてくる。
「……~~~~っ! 分かった! 後で相手をしてやるから、車で待て」
その言葉に旭丸はぱっと顔を輝かせ、桂祐の手から宝珠を奪って中門の方へと駆けだしていった。
「あっ、コラ! それは……!」
止めようと手を伸ばすが、旭丸は軽業師のように宙返りして築地塀の向こうへと姿を消す。仄白くなり始めた空の下、翻る赤い水干の裾を見送った桂祐は、額に手を当てて深く溜息をついた。
桂祐は、あれを表向きには自分の式神だと言い張っている。桂祐の力を過大評価している孝信や他の同輩は、それで納得しているようだが、実際の所、旭丸は式神などではない。アレは桂祐が御することなどできない神霊の類いなのだ。その神霊が、何故自分ごときの元に留まっているのかは、桂祐には分からない。
幼い頃に陰陽頭に見抜かれたとおり、桂祐には確かに人ならざるものを五感で知覚できる異能がある。しかし、自らそれを払う力はない。単に、見えるだけ。声が聞こえるだけ。それ以外の力は何も無い。
それでも桂祐が人外と対峙できているのは、ひとえに旭丸がいるからなのだ。
桂祐が苦々しい思いを抱えたまま立ち尽くしていると、東の空がますます明るくなり始め、広い庭のあちらこちらから下人が姿を現した。
「どうも、眠っちまったみたいで……お役に立てず、すみません」
纏め役の男がまだ寝たりない様子で欠伸をしながら言うのを、桂祐は咎めなかった。昨夜の妖異は手強かった。彼らが起きて立ち向かっていれば、怪我人や、悪くすれば死人が出ただろう。
三々五々集まってくる下人に暇を出し、桂祐自身は事の顛末を報告するため、三条邸の家司の居場所を訪ねた。
早朝からたたき起こされた挙げ句、不首尾を報告された家司の男は、大層立腹して若い陰陽師の力不足を散々に非難した。
叱責を覚悟してはいたものの、ほとんど罵詈雑言に近い言葉で面罵され、桂祐も流石に少しムッとした。屋敷の主である三条の大臣は温厚な人格者で有名だが、家人はそうでも無いらしい。
手ひどく失態を詰られ、次は陰陽頭が直々に来て始末をつけろと命じられたが、陰陽頭はもう六十近いご老体だ。あんな怪異の側に寄ったらそれだけで心の臓が止まってしまう。
今晩こそ必ず怪異を払うから、もう一度だけ機会をくれと陰険な家司をなんとか言いくるめ、ようやく解放された時にはすっかり夜は明けきっていた。
桂祐が疲労困憊の身体を引きずって車宿へと向かうと、早朝の清々しい光の中、牛車の前で旭丸と牛飼童が石を並べて遊んでいるのが見えた。
「よしすけ!」
旭丸は桂祐を認めると喜色満面で側へと駆けてくる。腹に飛びついてくるのは犬の仔のようで可愛らしいが、この後の面倒を考えると気が重い。旭丸を働かせた分、礼をしなければならないからだ。
ぐいぐいと肩が抜ける勢いで手を引かれて牛車へ押し込まれた桂祐は、狭い車内で姿勢を整える暇もなく、旭丸に押し倒された。
「待て! 旭丸! どうせすぐに邸に着……んっ!」
腹の上に乗りあがった旭丸に口を吸われ、桂祐はきつく眉根を寄せる。旭丸はそれには構わず、人ならざるものの剛力で桂祐を押さえつけ、息を奪った。
息は「生き」だ。生きる者は全て息をする。一つ吸って一つ吐く度、命は縮む。呼吸には人の生気が溶けている。旭丸は、息に溶けた精気を食う。
「桂祐様~、このままお帰りでよろしいので~?」
何も知らない牛飼童が物見窓越しに長閑に声をかけてくる。桂祐は旭丸の口から逃れながら、
「ああ、頼む!」
と短く答えた。
牛車がゆるゆると動き出すと、もう邪魔は入らないと判断した旭丸が、ますます強引に口づけてくる。
「ん……んぅ……」
深く唇を合わせて口の中を舌で探られ、桂祐は息苦しさに呻いた。
旭丸は桂祐の頭から烏帽子を落として髻を崩す。きっちりと結い上げた髪を強引に乱される感触に、桂祐は身を震わせる。
成人した男にとって、烏帽子の下を見られることは、裸を見られるのと同じくらいの恥だ。髻が崩れ髪を下ろした姿など、到底日の下にさらして良いものでは無い。
「髪を崩さないでくれ、外に出られなくなる」
息継ぎの合間にキッと睨んでも、旭丸は全く意に介さない。人の子のような見た目をしていても旭丸は人外だ。人の世の礼節などは歯牙にも掛けない。何度言い聞かせても桂祐の髪に触れたがる。
「桂祐の髪はきれい。下ろしてるほうが好きだ」
短く子どもらしい指で結い癖がとれるまで何度も髪を梳かれ、桂祐は羞恥で赤くなった顔を背けたが、頬を挟まれて前を向かされて再び口を吸われた。
抵抗しても無駄なことは分かっているので、目を閉じて大人しくされるがままに身を任せていると、二夜連続でまともに眠っていない疲れも相まって眠くなってくる。腹に跨がる旭丸の温かさが耐えがたい睡魔を呼び、桂祐はいつの間にかウトウトと微睡んでしまっていた。
満足そうに一つ頷き、小さな身には到底不釣り合いの長い刃を抜く。朝日を集めて固めたような赤く輝く太刀だ。それを見た妖異は怯んだように後ずさる。童子は何の前触れもなく軽く跳び上がり、薪を割るより簡単に妖異の腕を切り落とした。
わあん、と空気が細かく震えるような異様な音が辺りを満たし、黒い男の身体が無数の羽虫に分解されて一斉に飛び立った。
虫の群れは煙のようにたなびきながら、北山の方へと消えていく。童子は刀を振って逃げる羽虫をいくらか減らしたが、とても全ては斬りきらない。すぐに諦めたように刃を鞘に収めてしまった。
「馬鹿! どうして一息に滅してしまわなかったんだ! あれではまた戻ってきてしまうじゃないか」
地面に落ちた宝珠と烏帽子を拾って駆け寄った桂祐に、旭丸と呼ばれた童子は茫洋とした目を向けて、
「ちからがたらぬ」
と呟いた。桂祐はその言葉を聞いて、最大限に顔をしかめる。
───だからコイツを呼び出したくないのだ!
「毎日酒も米も捧げ、日にも当てているではないか。何が足らぬのだ」
桂祐の足に抱きつき、旭丸はじっと顔を見上げてくる。
「……~~~~っ! 分かった! 後で相手をしてやるから、車で待て」
その言葉に旭丸はぱっと顔を輝かせ、桂祐の手から宝珠を奪って中門の方へと駆けだしていった。
「あっ、コラ! それは……!」
止めようと手を伸ばすが、旭丸は軽業師のように宙返りして築地塀の向こうへと姿を消す。仄白くなり始めた空の下、翻る赤い水干の裾を見送った桂祐は、額に手を当てて深く溜息をついた。
桂祐は、あれを表向きには自分の式神だと言い張っている。桂祐の力を過大評価している孝信や他の同輩は、それで納得しているようだが、実際の所、旭丸は式神などではない。アレは桂祐が御することなどできない神霊の類いなのだ。その神霊が、何故自分ごときの元に留まっているのかは、桂祐には分からない。
幼い頃に陰陽頭に見抜かれたとおり、桂祐には確かに人ならざるものを五感で知覚できる異能がある。しかし、自らそれを払う力はない。単に、見えるだけ。声が聞こえるだけ。それ以外の力は何も無い。
それでも桂祐が人外と対峙できているのは、ひとえに旭丸がいるからなのだ。
桂祐が苦々しい思いを抱えたまま立ち尽くしていると、東の空がますます明るくなり始め、広い庭のあちらこちらから下人が姿を現した。
「どうも、眠っちまったみたいで……お役に立てず、すみません」
纏め役の男がまだ寝たりない様子で欠伸をしながら言うのを、桂祐は咎めなかった。昨夜の妖異は手強かった。彼らが起きて立ち向かっていれば、怪我人や、悪くすれば死人が出ただろう。
三々五々集まってくる下人に暇を出し、桂祐自身は事の顛末を報告するため、三条邸の家司の居場所を訪ねた。
早朝からたたき起こされた挙げ句、不首尾を報告された家司の男は、大層立腹して若い陰陽師の力不足を散々に非難した。
叱責を覚悟してはいたものの、ほとんど罵詈雑言に近い言葉で面罵され、桂祐も流石に少しムッとした。屋敷の主である三条の大臣は温厚な人格者で有名だが、家人はそうでも無いらしい。
手ひどく失態を詰られ、次は陰陽頭が直々に来て始末をつけろと命じられたが、陰陽頭はもう六十近いご老体だ。あんな怪異の側に寄ったらそれだけで心の臓が止まってしまう。
今晩こそ必ず怪異を払うから、もう一度だけ機会をくれと陰険な家司をなんとか言いくるめ、ようやく解放された時にはすっかり夜は明けきっていた。
桂祐が疲労困憊の身体を引きずって車宿へと向かうと、早朝の清々しい光の中、牛車の前で旭丸と牛飼童が石を並べて遊んでいるのが見えた。
「よしすけ!」
旭丸は桂祐を認めると喜色満面で側へと駆けてくる。腹に飛びついてくるのは犬の仔のようで可愛らしいが、この後の面倒を考えると気が重い。旭丸を働かせた分、礼をしなければならないからだ。
ぐいぐいと肩が抜ける勢いで手を引かれて牛車へ押し込まれた桂祐は、狭い車内で姿勢を整える暇もなく、旭丸に押し倒された。
「待て! 旭丸! どうせすぐに邸に着……んっ!」
腹の上に乗りあがった旭丸に口を吸われ、桂祐はきつく眉根を寄せる。旭丸はそれには構わず、人ならざるものの剛力で桂祐を押さえつけ、息を奪った。
息は「生き」だ。生きる者は全て息をする。一つ吸って一つ吐く度、命は縮む。呼吸には人の生気が溶けている。旭丸は、息に溶けた精気を食う。
「桂祐様~、このままお帰りでよろしいので~?」
何も知らない牛飼童が物見窓越しに長閑に声をかけてくる。桂祐は旭丸の口から逃れながら、
「ああ、頼む!」
と短く答えた。
牛車がゆるゆると動き出すと、もう邪魔は入らないと判断した旭丸が、ますます強引に口づけてくる。
「ん……んぅ……」
深く唇を合わせて口の中を舌で探られ、桂祐は息苦しさに呻いた。
旭丸は桂祐の頭から烏帽子を落として髻を崩す。きっちりと結い上げた髪を強引に乱される感触に、桂祐は身を震わせる。
成人した男にとって、烏帽子の下を見られることは、裸を見られるのと同じくらいの恥だ。髻が崩れ髪を下ろした姿など、到底日の下にさらして良いものでは無い。
「髪を崩さないでくれ、外に出られなくなる」
息継ぎの合間にキッと睨んでも、旭丸は全く意に介さない。人の子のような見た目をしていても旭丸は人外だ。人の世の礼節などは歯牙にも掛けない。何度言い聞かせても桂祐の髪に触れたがる。
「桂祐の髪はきれい。下ろしてるほうが好きだ」
短く子どもらしい指で結い癖がとれるまで何度も髪を梳かれ、桂祐は羞恥で赤くなった顔を背けたが、頬を挟まれて前を向かされて再び口を吸われた。
抵抗しても無駄なことは分かっているので、目を閉じて大人しくされるがままに身を任せていると、二夜連続でまともに眠っていない疲れも相まって眠くなってくる。腹に跨がる旭丸の温かさが耐えがたい睡魔を呼び、桂祐はいつの間にかウトウトと微睡んでしまっていた。
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