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其の十四 儚き幻影
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「人の因果にまつわる生業の家に生まれた娘の必定と言ってしまっては悲しい事ですが、この世の中には昏い感情に呑まれて周囲を呪い、世路の過酷を嘆き恨んで生きる人が何と多く居らっしゃるのかと、日々思い知らされるような気になる時がありますのよ。けれどこうして先生を見ておりますと、お顔やお振る舞いのお可愛らしさと一緒に先生が元からお持ちのよいものが香り立つようで、穢れがこう……すぅっと立ち消えていくような気になりますわ」
「えぇっ!?」
僕は驚倒のあまり、場所柄も忘れ、頓狂な叫び聲を上げてしまった。冬月にジロリと睨まれ、慌てて身を小さくしながらも、
「そ、そんな事を仰って戴いては、も……もったいなくて、申し訳ない気持ちになるようです……。そ、そ、それに、澪子さんのような女性に穢れなんて……、あっ、その、御宅では喪祭などにも携わられる事もあるのでしょうが、もしそういう事を指して仰ったのなら、僕は決して、み……澪子さんの御宅の世業を軽んじて言ったというのではなく、その……」
しどろもどろに言い立てる僕を、驚いた猫のような瞳でじぃっと見詰めていた澪子さんは、ふふ……と長い睫毛を優雅な微笑に瞬かせると、
「先生はやはり御繊細で、お優しい方ですわ。それにとても御誠実でいらっしゃる」
「え……っ!? あ、あの、それは……その……あ、有難うございます……」
稀世の美女とも言うべき澪子さんの口から思いもかけない褒め言葉を聞いた面映ゆさに耳たぶが熱くなり、徒に眼鏡を押し上げながらも、小さな聲で礼を述べた僕の耳に、嘲笑的な嗤いの鼻息が上がるのが、すぐ横から聞こえて来た。
「小鳥遊の場合、誠実と言うよりは単に堅苦しい生真面目と言うだけですよ。そんなに煽てて豚が木に登ったら、困るのはこの僕なんですよ」
──ぶ、豚……!?
唐変木や林檎はまだしも、女性の前で豚と言われては、さすがに黙って引き下がる訳にも──と、まるで吐き棄てるような具合で言った冬月を勢いよく振り向いた。けれど冷たい横目の一瞥に出くわした途端、言い返そうとした言葉は迷子になった挙句、苦情を申し立てようという気概すらもあっさりと挫けてしまった。
と、にこやかな笑顔を花と咲かせた澪子さんがその麗しい唇を開き、
「あら、蘇芳様。小鳥遊先生が堅苦しいだなんて、私はそうは感じませんことよ? けれどもし蘇芳様の仰る通りだとして、私、それは先生の礼節を重んじようとなさるお心の為ではないかと思いますのよ。きっと私や蘇芳様へお気遣いなさるあまり、些か態度が硬い物になってしまわれるのではないかしら」
「どうも貴女は先程から小鳥遊を庇い立てるばかりか過大に評価なさっているようだ。小鳥遊を甘やかすおつもりですか」
「まぁ、それはまた随分と楽しい事を仰いますのね。私、先生のようなお可愛らしい方なら、思う存分可愛がって甘やかしてみたくありましてよ」
そう言って華やかな笑い顔を此方に振り向けた澪子さんにボッと頬を燃やし、顎先が胸につくぐらいに俯いて頻りに眼鏡を押し上げていると、皮肉な冷笑含みに冬月が言う聲が聞こえた。
「僕は自立的な女性には敬意を表しますが、しかし平然と男を尻目に懸ける女性というのはさすがに敬遠したいものですね」
「まぁ蘇芳様、私、殿方の半歩前にだって出た事がございませんのに、尻目だなんて」
「貴女の言う男というのは貴女が男だと認めた者という事でしょう」
「あら、それなら蘇芳様は御安心ですわね。蘇芳様以上の殿方なんて、この世にはおろか、あちらの世にだって居ませんもの。私、蘇芳様より前に出ようだなんて思いもしませんわ。そうですわね、もしも私が高く髪を結い上げたとして、その時にうなじに掛かる後れ毛がとんなに私を儚く美しく見せたとしても、絶対に蘇芳様にお目に掛けたりしようだなんて、そんなはしたない事は考えませんわ。私は蘇芳様が考えていらっしゃる以上に慎み深い女ですのよ」
「そうは仰いますが僕は僕の前を走り回る少女の頃の貴女の髪に赤いリボンが揺れていたのを見た憶えがあるのですが」
「まあ、嬉しい。そんな幼い時分の事を、それも私が結んでいたリボンの色まで御記憶下さっていらっしゃるなんて」
「矢鱈記憶力がいいというのは僕の瑕瑾でもありましてね」
「まぁ蘇芳様ったら、御冗談がお好きですのね、ふふふ」
愉快な笑みが零れる口元を薔薇模様の浮き出たレエスの手袋で覆い、華やいだ空気を振り撒く澪子さんを見詰めるうちに、僕の心はまたふわふわと虚空に漂い出し、遠く懐かしい日々へと舞い戻り始めていた。
──琴枝は、よく水色のリボンを結んでいたな……。それで、いつも本当に楽しそうに笑っていたっけ……。
目の前に、リボンを結んだお下げを揺らす琴枝の明るい笑顔が浮かび上がった。
琴枝が笑うと、僕はいつでも心にぱっと花が咲いたような気分になった。それは澪子さんのような大輪の花ではなかったかもしれないが、例えば春先の、まだ雪を被った枝の先端に小さく芽吹いて仄かな甘い香りを漂わせる梅の花のように、僕の心に絶えず明るい光を灯してくれるものだった。
家も親もなく、目立って優等を示す子どもでもなかった僕にとって、微塵の影もない琴枝の笑い顔は、どんな慰めよりも心を安らかにし、将来への希望を与えてくれた。
それは大人へと成長していく過程で、より強く深く、信頼と絆の糸を糾って、僕の心に穿たれた。僕たちのその絆は、二人の間にきめ細やかな恋の糸を紡ぐに充分だった。
僕にとって──そして琴枝にとってもまた、互いは初恋の相手だった。ただ寄り添って、微笑み合って居られれば、他には何も要らないとさえ思っていたのに──。
もしも運命の歯車が寸分の狂いなく回り続けていたのなら、僕と琴枝は今もあの故郷で、他愛ない日々の何気ない一瞬を、共に手を携えて過ごしていられたのかもしれない──……。
──……ねぇ柊萍さん。ほら、見て。お庭の柿が食べ頃よ。
──うん、そうだね。今年は随分たくさん生ったなぁ。
──そうねぇ……そうなのよ。ね、不思議だと思わない? ちょうど頃合いなのに、ちっとも鳥が食べに来ないの。
──あれ? 言われてみれば、今年は鳥を見ないね……。
──厭ねぇ、今頃気がついたの? 相変わらずうっかりさんねぇ。だけど、本当にそうなのよ。おかしいわねぇ……。
──きっと、近所にもっと美味しい柿の生る木を見つけたんだよ。
──そうなのかしら……。……ええ、きっとそうね。柊萍さんのおかげですっきりしたわ。ねぇ柊萍さん、あたしさっきはうっかりさんだなんて言ったけれど、本当は柊萍さんはきっと自分で考えているより賢い人だって思うのよ。
──な、何だい? 藪から棒に……。
──あたし、ずっと思っていたのよ。貴方は本当は、偉い学者さんにだってお医者さんにだってなれる人なんだって。ええ、そうよ。あたしにはわかるの。巡り合わせが悪いだけ。ね、柊萍さん。今に貴方、きっと偉くなってよ。そうしたら、あたしに美味しい物をたんと食べさせてね。
──そ、そりゃあもしもそんな事があったらそうするに決まっているけど、でも僕が偉くなるなんて事……。
──ね、約束よ? あたし、楽しみに待っているわ──……。
「──……し先生? 小鳥遊先生?」
「────え……っ」
はっとして顔を上げると、気遣わしく眉を寄せた澪子さんが僕を見詰めていた。
「──あ……っ、し、失礼しました……」
慌てて頭を下げたまま、ドキドキと鳴る心臓に耳を澄まして眼鏡を押さえていると、まるで検めるような琥珀色の視線がじっと注がれている事に気がついた。
全身にはまだ白昼夢の柔らかな腕が絡みついていたが、何気なく額の汗を拭って顔を上げ、旨いとも思えない紅茶で満たされた茶碗を取って口をつけた。
「えぇっ!?」
僕は驚倒のあまり、場所柄も忘れ、頓狂な叫び聲を上げてしまった。冬月にジロリと睨まれ、慌てて身を小さくしながらも、
「そ、そんな事を仰って戴いては、も……もったいなくて、申し訳ない気持ちになるようです……。そ、そ、それに、澪子さんのような女性に穢れなんて……、あっ、その、御宅では喪祭などにも携わられる事もあるのでしょうが、もしそういう事を指して仰ったのなら、僕は決して、み……澪子さんの御宅の世業を軽んじて言ったというのではなく、その……」
しどろもどろに言い立てる僕を、驚いた猫のような瞳でじぃっと見詰めていた澪子さんは、ふふ……と長い睫毛を優雅な微笑に瞬かせると、
「先生はやはり御繊細で、お優しい方ですわ。それにとても御誠実でいらっしゃる」
「え……っ!? あ、あの、それは……その……あ、有難うございます……」
稀世の美女とも言うべき澪子さんの口から思いもかけない褒め言葉を聞いた面映ゆさに耳たぶが熱くなり、徒に眼鏡を押し上げながらも、小さな聲で礼を述べた僕の耳に、嘲笑的な嗤いの鼻息が上がるのが、すぐ横から聞こえて来た。
「小鳥遊の場合、誠実と言うよりは単に堅苦しい生真面目と言うだけですよ。そんなに煽てて豚が木に登ったら、困るのはこの僕なんですよ」
──ぶ、豚……!?
唐変木や林檎はまだしも、女性の前で豚と言われては、さすがに黙って引き下がる訳にも──と、まるで吐き棄てるような具合で言った冬月を勢いよく振り向いた。けれど冷たい横目の一瞥に出くわした途端、言い返そうとした言葉は迷子になった挙句、苦情を申し立てようという気概すらもあっさりと挫けてしまった。
と、にこやかな笑顔を花と咲かせた澪子さんがその麗しい唇を開き、
「あら、蘇芳様。小鳥遊先生が堅苦しいだなんて、私はそうは感じませんことよ? けれどもし蘇芳様の仰る通りだとして、私、それは先生の礼節を重んじようとなさるお心の為ではないかと思いますのよ。きっと私や蘇芳様へお気遣いなさるあまり、些か態度が硬い物になってしまわれるのではないかしら」
「どうも貴女は先程から小鳥遊を庇い立てるばかりか過大に評価なさっているようだ。小鳥遊を甘やかすおつもりですか」
「まぁ、それはまた随分と楽しい事を仰いますのね。私、先生のようなお可愛らしい方なら、思う存分可愛がって甘やかしてみたくありましてよ」
そう言って華やかな笑い顔を此方に振り向けた澪子さんにボッと頬を燃やし、顎先が胸につくぐらいに俯いて頻りに眼鏡を押し上げていると、皮肉な冷笑含みに冬月が言う聲が聞こえた。
「僕は自立的な女性には敬意を表しますが、しかし平然と男を尻目に懸ける女性というのはさすがに敬遠したいものですね」
「まぁ蘇芳様、私、殿方の半歩前にだって出た事がございませんのに、尻目だなんて」
「貴女の言う男というのは貴女が男だと認めた者という事でしょう」
「あら、それなら蘇芳様は御安心ですわね。蘇芳様以上の殿方なんて、この世にはおろか、あちらの世にだって居ませんもの。私、蘇芳様より前に出ようだなんて思いもしませんわ。そうですわね、もしも私が高く髪を結い上げたとして、その時にうなじに掛かる後れ毛がとんなに私を儚く美しく見せたとしても、絶対に蘇芳様にお目に掛けたりしようだなんて、そんなはしたない事は考えませんわ。私は蘇芳様が考えていらっしゃる以上に慎み深い女ですのよ」
「そうは仰いますが僕は僕の前を走り回る少女の頃の貴女の髪に赤いリボンが揺れていたのを見た憶えがあるのですが」
「まあ、嬉しい。そんな幼い時分の事を、それも私が結んでいたリボンの色まで御記憶下さっていらっしゃるなんて」
「矢鱈記憶力がいいというのは僕の瑕瑾でもありましてね」
「まぁ蘇芳様ったら、御冗談がお好きですのね、ふふふ」
愉快な笑みが零れる口元を薔薇模様の浮き出たレエスの手袋で覆い、華やいだ空気を振り撒く澪子さんを見詰めるうちに、僕の心はまたふわふわと虚空に漂い出し、遠く懐かしい日々へと舞い戻り始めていた。
──琴枝は、よく水色のリボンを結んでいたな……。それで、いつも本当に楽しそうに笑っていたっけ……。
目の前に、リボンを結んだお下げを揺らす琴枝の明るい笑顔が浮かび上がった。
琴枝が笑うと、僕はいつでも心にぱっと花が咲いたような気分になった。それは澪子さんのような大輪の花ではなかったかもしれないが、例えば春先の、まだ雪を被った枝の先端に小さく芽吹いて仄かな甘い香りを漂わせる梅の花のように、僕の心に絶えず明るい光を灯してくれるものだった。
家も親もなく、目立って優等を示す子どもでもなかった僕にとって、微塵の影もない琴枝の笑い顔は、どんな慰めよりも心を安らかにし、将来への希望を与えてくれた。
それは大人へと成長していく過程で、より強く深く、信頼と絆の糸を糾って、僕の心に穿たれた。僕たちのその絆は、二人の間にきめ細やかな恋の糸を紡ぐに充分だった。
僕にとって──そして琴枝にとってもまた、互いは初恋の相手だった。ただ寄り添って、微笑み合って居られれば、他には何も要らないとさえ思っていたのに──。
もしも運命の歯車が寸分の狂いなく回り続けていたのなら、僕と琴枝は今もあの故郷で、他愛ない日々の何気ない一瞬を、共に手を携えて過ごしていられたのかもしれない──……。
──……ねぇ柊萍さん。ほら、見て。お庭の柿が食べ頃よ。
──うん、そうだね。今年は随分たくさん生ったなぁ。
──そうねぇ……そうなのよ。ね、不思議だと思わない? ちょうど頃合いなのに、ちっとも鳥が食べに来ないの。
──あれ? 言われてみれば、今年は鳥を見ないね……。
──厭ねぇ、今頃気がついたの? 相変わらずうっかりさんねぇ。だけど、本当にそうなのよ。おかしいわねぇ……。
──きっと、近所にもっと美味しい柿の生る木を見つけたんだよ。
──そうなのかしら……。……ええ、きっとそうね。柊萍さんのおかげですっきりしたわ。ねぇ柊萍さん、あたしさっきはうっかりさんだなんて言ったけれど、本当は柊萍さんはきっと自分で考えているより賢い人だって思うのよ。
──な、何だい? 藪から棒に……。
──あたし、ずっと思っていたのよ。貴方は本当は、偉い学者さんにだってお医者さんにだってなれる人なんだって。ええ、そうよ。あたしにはわかるの。巡り合わせが悪いだけ。ね、柊萍さん。今に貴方、きっと偉くなってよ。そうしたら、あたしに美味しい物をたんと食べさせてね。
──そ、そりゃあもしもそんな事があったらそうするに決まっているけど、でも僕が偉くなるなんて事……。
──ね、約束よ? あたし、楽しみに待っているわ──……。
「──……し先生? 小鳥遊先生?」
「────え……っ」
はっとして顔を上げると、気遣わしく眉を寄せた澪子さんが僕を見詰めていた。
「──あ……っ、し、失礼しました……」
慌てて頭を下げたまま、ドキドキと鳴る心臓に耳を澄まして眼鏡を押さえていると、まるで検めるような琥珀色の視線がじっと注がれている事に気がついた。
全身にはまだ白昼夢の柔らかな腕が絡みついていたが、何気なく額の汗を拭って顔を上げ、旨いとも思えない紅茶で満たされた茶碗を取って口をつけた。
応援ありがとうございます!
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