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其の十五 御子柴教授の過去(1)
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「そんなにあついかい?」
不意に訊ねられ振り向くと、些か冷たく僕を捉える冬月と目が合った。
「え? いや、すっかり冷めているから……」
手元の紅茶茶碗に目を戻して答えると、幾分冷淡な具合の増した口調で、
「違うよ。君自身の話をしているんだよ」
「え……、僕……?」
「今年は悪天候が続くせいでまだ九月の終わりだというのに肌寒い。まして君はその通りの薄着だ。にもかかわらず、君はさっきから酷く汗を掻いている。だから僕はそんなに暑いのかと訊いているんだよ」
「え……っ」
夏物にしてもペラペラと薄過ぎる衣服を指摘された恥ずかしさで、余計に汗が噴き出した。咄嗟に俯いて、恐らくは美しい瞳で見詰めているであろう澪子さんの視線から隠れるように身を縮めた僕に、冬月が更に追い打ちを掛けるかの如く、
「極端な暑がりとでも言うなら話は別だが、君の場合よく寒そうに背中を丸めているからそういう訳でもなさそうだ」
僕はますます椅子の上に體を小さくし、口の中でもごもごと言い訳をするように、
「い、いや、その……これは精神的な物だよ……。き、緊張しているものだから……」
言って、羞恥心を誤魔化そうと汗ばんだ手で眼鏡を押し上げると、止せばいいのに僅かに抗弁する気を起こし、冬月をチラチラと見ながら、
「だ、第一、君は僕が寒そうに背中を丸めていると言ったが、そ……そんなところを君に見せた憶えは……」
けれど僕の決死の反論は、皆まで言い終わらないうちに、呆れと侮蔑の入り混じった冷たい聲によって、容赦なくばっさりと斬り捨てられた。
「自分の事をちゃんと把握出来ていないからその様だというのに、面恥なくよくも口答えをしようなんて考えられたものだ。君があの辛気臭い研究室で益にもならない雑用に追われている姿の寒々しさと言ったらないぞ」
そう言い放つと、冬月は僕など眼中にないと示すようにふいと目を逸らし、傍らに置いたステッキの握りの猟犬を指先で乱暴につつき始めた。
辛辣な冬月の言動に晒され、僕のささやかな反抗心など、所詮は蟷螂の斧に過ぎないと踏みつけられた気分で悄然と顔を伏せ、またしても澪子さんの前で余計な恥を掻いてしまった極まりの悪さから、貝のように固くなって黙りこくっていると、前方から遠慮がちな調子で、
「あの、お恥ずかしい思いをさせてしまいそうで控えておりましたけれど──」
その聲にそっと顔を上げると、円卓から垂れ下がった白い卓布の下に置かれた手元に視線を落とし、膝の上でハンドバッグの口金を開くような音をさせた澪子さんが、包み込むような微笑を湛えたその目を僕へと移し、真っ白なレエスの手巾を差し出した。
「お使いになりませんか?」
「え……っ!? そ、そんな勿体ない……っ。……あっ、あの、いや、その……お気遣い戴きまして……た、大変恐縮です……。そ、その……ど、どうぞ仕舞ってください……っ」
大慌てで辞退したが、僕の額に滲んだり流れたりする汗に気がついていたのは冬月ばかりではなかったと思い知り、どっと恥ずかしさが込み上げ、また冷や汗が出た。
「さ、さぞお見苦しかったでしょう……。すみません……」
身を縮めて謝る僕の傍らで、手持無沙汰を紛らわすように猟犬の頭に人差し指を置いていた冬月が、不意に皮肉な嗤いに形の良い唇を吊り上げながら、
「小鳥遊は眼鏡を拭くのも自分のシャツで済ませるような粗雑漢ですよ。蘇州刺繍の手巾などはこの男には雀に鞠ですよ」
蘇州刺繍というのが何であるかさっぱりわからなかったが、恐らくは上等な刺繍を指してそう言うのだろうと思い、僕は眼鏡を押し上げつつ澪子さんに何度も頭を下げながら、
「ま、全く冬月の言う通りですので、あの、ど、どうか仕舞って下さい……」
澪子さんは「本当に?」と確かめるように小首を傾げたが、聲も出せずに何度も頭を上下させて返事をする僕にゆったりとした微笑みを見せると、手巾を円卓の下に引き下げた。
ホッと安堵して、素早く手の甲で額の汗を拭いつつ、昔から眼鏡をシャツで拭くと琴枝によく窘められたな……と思った瞬間、胸の中にふと、甘い金木犀の香りと共に、琴枝の楽しげな笑い顔が溢れ出した。
その屈託のないあどけなさに心が締め付けられ、またとりとめのない夢想に囚われ掛けていた僕は、パチン、とハンドバッグの口金の閉じる音で我に返った。
何喰わぬふりで辺りに目を遣ろうとして、琥珀色の視線にぶつかった。その観察するような目つきにドキリとし、思わず顔を背けたが、冬月の見透かすような視線は心臓の鼓動を弥が上にも速め、僕は息苦しさにシャツの胸を直しながら、微かな息を吐いた。
その時、不意に口を開いた澪子さんが、
「私、小鳥遊先生は御子柴教授のお若い時分に似ていらっしゃるように思いますわ」
「え……!?」
唐突なその言葉に眼鏡の奥で大きく目を見開いていると、
「お顔がと言うのではなく、雰囲気が似ておいでだと言う事ですけれど、教授もちょうど先生のように正直さの滲み出た綺麗な瞳をしていらっしゃって、子ども心にも御信頼出来る方だと思いましたのよ」
「え……え……っ、そ、そんな……」
思いがけず、尊敬する御子柴先生の若い頃に似ているとなどという身に余る言葉を掛けられ、つい舞い上がりそうになった。けれど、次の瞬間、澪子さんが幾分聲を落として言った一言で、浮つきかけていた僕の心は一気に凍り付いた。
「──ですが、教授は御婚約者を亡くされて、少し感じが変わってしまわれましたわね……」
「……え──……」
僕は息を呑み、押し殺した聲になって、
「……婚約者……? 亡くされた……?」
澪子さんはなだらかな額を曇らせて小さく頷くと、
「ええ……。当時教授の熱愛の御様子は世間の口の端にものぼる程でしたから、私のような子どもの耳にも自然入っておりましたの。ですから、その御婚約者を御病気で亡くされた時には、それはもう大変なお嘆きようだったとかで、教授を御心配になる聲があちこちで聞かれましたのよ」
衝撃と驚きで、全身から血の気が引いていった。
目蓋の裏に、優しい笑顔で僕に頷き掛ける御子柴先生の顔が浮かんでは消えた。
澪子さんは当時を思い出すと胸が痛むらしく、長い漆黒の睫毛を心なし伏せるようにして、
「御寄附を戴いた御縁もございましたし、両親に連れられて弔問に伺いましたけれど、幼かった私にもそれはもうお気の毒に感じるようなお労しくお窶れになった御様子で、とても見ていられなかったのをよく憶えていますわ」
伏せていた睫毛をゆっくりと瞬かせながら、澪子さんは話を続けた。
不意に訊ねられ振り向くと、些か冷たく僕を捉える冬月と目が合った。
「え? いや、すっかり冷めているから……」
手元の紅茶茶碗に目を戻して答えると、幾分冷淡な具合の増した口調で、
「違うよ。君自身の話をしているんだよ」
「え……、僕……?」
「今年は悪天候が続くせいでまだ九月の終わりだというのに肌寒い。まして君はその通りの薄着だ。にもかかわらず、君はさっきから酷く汗を掻いている。だから僕はそんなに暑いのかと訊いているんだよ」
「え……っ」
夏物にしてもペラペラと薄過ぎる衣服を指摘された恥ずかしさで、余計に汗が噴き出した。咄嗟に俯いて、恐らくは美しい瞳で見詰めているであろう澪子さんの視線から隠れるように身を縮めた僕に、冬月が更に追い打ちを掛けるかの如く、
「極端な暑がりとでも言うなら話は別だが、君の場合よく寒そうに背中を丸めているからそういう訳でもなさそうだ」
僕はますます椅子の上に體を小さくし、口の中でもごもごと言い訳をするように、
「い、いや、その……これは精神的な物だよ……。き、緊張しているものだから……」
言って、羞恥心を誤魔化そうと汗ばんだ手で眼鏡を押し上げると、止せばいいのに僅かに抗弁する気を起こし、冬月をチラチラと見ながら、
「だ、第一、君は僕が寒そうに背中を丸めていると言ったが、そ……そんなところを君に見せた憶えは……」
けれど僕の決死の反論は、皆まで言い終わらないうちに、呆れと侮蔑の入り混じった冷たい聲によって、容赦なくばっさりと斬り捨てられた。
「自分の事をちゃんと把握出来ていないからその様だというのに、面恥なくよくも口答えをしようなんて考えられたものだ。君があの辛気臭い研究室で益にもならない雑用に追われている姿の寒々しさと言ったらないぞ」
そう言い放つと、冬月は僕など眼中にないと示すようにふいと目を逸らし、傍らに置いたステッキの握りの猟犬を指先で乱暴につつき始めた。
辛辣な冬月の言動に晒され、僕のささやかな反抗心など、所詮は蟷螂の斧に過ぎないと踏みつけられた気分で悄然と顔を伏せ、またしても澪子さんの前で余計な恥を掻いてしまった極まりの悪さから、貝のように固くなって黙りこくっていると、前方から遠慮がちな調子で、
「あの、お恥ずかしい思いをさせてしまいそうで控えておりましたけれど──」
その聲にそっと顔を上げると、円卓から垂れ下がった白い卓布の下に置かれた手元に視線を落とし、膝の上でハンドバッグの口金を開くような音をさせた澪子さんが、包み込むような微笑を湛えたその目を僕へと移し、真っ白なレエスの手巾を差し出した。
「お使いになりませんか?」
「え……っ!? そ、そんな勿体ない……っ。……あっ、あの、いや、その……お気遣い戴きまして……た、大変恐縮です……。そ、その……ど、どうぞ仕舞ってください……っ」
大慌てで辞退したが、僕の額に滲んだり流れたりする汗に気がついていたのは冬月ばかりではなかったと思い知り、どっと恥ずかしさが込み上げ、また冷や汗が出た。
「さ、さぞお見苦しかったでしょう……。すみません……」
身を縮めて謝る僕の傍らで、手持無沙汰を紛らわすように猟犬の頭に人差し指を置いていた冬月が、不意に皮肉な嗤いに形の良い唇を吊り上げながら、
「小鳥遊は眼鏡を拭くのも自分のシャツで済ませるような粗雑漢ですよ。蘇州刺繍の手巾などはこの男には雀に鞠ですよ」
蘇州刺繍というのが何であるかさっぱりわからなかったが、恐らくは上等な刺繍を指してそう言うのだろうと思い、僕は眼鏡を押し上げつつ澪子さんに何度も頭を下げながら、
「ま、全く冬月の言う通りですので、あの、ど、どうか仕舞って下さい……」
澪子さんは「本当に?」と確かめるように小首を傾げたが、聲も出せずに何度も頭を上下させて返事をする僕にゆったりとした微笑みを見せると、手巾を円卓の下に引き下げた。
ホッと安堵して、素早く手の甲で額の汗を拭いつつ、昔から眼鏡をシャツで拭くと琴枝によく窘められたな……と思った瞬間、胸の中にふと、甘い金木犀の香りと共に、琴枝の楽しげな笑い顔が溢れ出した。
その屈託のないあどけなさに心が締め付けられ、またとりとめのない夢想に囚われ掛けていた僕は、パチン、とハンドバッグの口金の閉じる音で我に返った。
何喰わぬふりで辺りに目を遣ろうとして、琥珀色の視線にぶつかった。その観察するような目つきにドキリとし、思わず顔を背けたが、冬月の見透かすような視線は心臓の鼓動を弥が上にも速め、僕は息苦しさにシャツの胸を直しながら、微かな息を吐いた。
その時、不意に口を開いた澪子さんが、
「私、小鳥遊先生は御子柴教授のお若い時分に似ていらっしゃるように思いますわ」
「え……!?」
唐突なその言葉に眼鏡の奥で大きく目を見開いていると、
「お顔がと言うのではなく、雰囲気が似ておいでだと言う事ですけれど、教授もちょうど先生のように正直さの滲み出た綺麗な瞳をしていらっしゃって、子ども心にも御信頼出来る方だと思いましたのよ」
「え……え……っ、そ、そんな……」
思いがけず、尊敬する御子柴先生の若い頃に似ているとなどという身に余る言葉を掛けられ、つい舞い上がりそうになった。けれど、次の瞬間、澪子さんが幾分聲を落として言った一言で、浮つきかけていた僕の心は一気に凍り付いた。
「──ですが、教授は御婚約者を亡くされて、少し感じが変わってしまわれましたわね……」
「……え──……」
僕は息を呑み、押し殺した聲になって、
「……婚約者……? 亡くされた……?」
澪子さんはなだらかな額を曇らせて小さく頷くと、
「ええ……。当時教授の熱愛の御様子は世間の口の端にものぼる程でしたから、私のような子どもの耳にも自然入っておりましたの。ですから、その御婚約者を御病気で亡くされた時には、それはもう大変なお嘆きようだったとかで、教授を御心配になる聲があちこちで聞かれましたのよ」
衝撃と驚きで、全身から血の気が引いていった。
目蓋の裏に、優しい笑顔で僕に頷き掛ける御子柴先生の顔が浮かんでは消えた。
澪子さんは当時を思い出すと胸が痛むらしく、長い漆黒の睫毛を心なし伏せるようにして、
「御寄附を戴いた御縁もございましたし、両親に連れられて弔問に伺いましたけれど、幼かった私にもそれはもうお気の毒に感じるようなお労しくお窶れになった御様子で、とても見ていられなかったのをよく憶えていますわ」
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