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一章
8b
しおりを挟むその後、なんとか工場の営業時間ギリギリに滑り込んで、展示用サンプルを受け取ることができた。予想通り、工場トラブルが起きた事実はなく、携帯には長文のメールが届いていた。あの新人くんからの謝罪メールだ。要約するなら“嫌われたくありませんでした。嘘吐いて申し訳ございません。”って感じだ。ミスくらい誰でもするし、むしろ嘘吐くほうが嫌われると思う。そんな事を考えながら、落ち込ませない程度に返信した。
「真山さん、そろそろ交代しましょうか?」
「んー、だいじょぶ~」
犬飼の声に、そう返す。俺はハンドルを握って、山道を抜けていた。
通常なら高速道路を使いたいところなんだが、帰り道の高速道路で、酷い渋滞に巻き込まれてしまった。数台先を走っていたトラックが追突事故起こしたらしい。そういうわけで、下道に抜けて、現在に至る。
時計の針はもうすぐ22時を回ろうとしている。俺も犬飼も、都内に住んでるから、帰宅するにはあと数時間はかかるだろう。
「これどうぞ」
「んえ?」
小さく溜息を吐くと、ずいっとペットボトルを渡された。コーヒーだ。眠くならないように、気を遣ってるのか。先日は謎に空き缶を渡されたので少し警戒したが、受け取れば重みを感じる。どうやら空のペットボトルではなさそうだ。「さんきゅ」と受け取れば、犬飼は「そういえば」と言葉を続けた。
「恋人型アンドロイドのナオ?でしたっけ…?」
「うん?」
キャップに手をかけて違和感を感じた。新品特有のカチッという音がしないのだ。チラリと目線を落とせば、容器の大きさに比べて量が明らかに少ないことに気づいた。
の、飲みかけ……?
戸惑った。俺は潔癖症ってわけじゃないが、飲み回しはあまり好きじゃない。でもここで『やっぱりいいわ』なんて言ったら、せっかくの厚意を無下にしてるようで、感じが悪い。極力、口がつかないように飲むと、「そいつと」と犬飼は続けた。
「セックスしたんですか?」
「グォホッ……っ、」
俺は大きく咳き込んだ。その勢いで、コーヒーが気道へ吸い込まれそうになる。ゲホッゲホッと、胸を叩き、息を吸った。
…と、ととと突然なんてことを聞いてくるんだ…!?
「…………したんだ」
「してねぇよ!!!!」
思わず大声で食い気味に返す。同時に、フロントガラスにポツリポツリと雨が降り注ぐ。
そういえば今日は夕方から雨だった。雨の中、山道を走るのは少し怖い。慎重にハンドルを操作しながら、コホンッと咳払いをすれば、少し掠れた声が響く。
「真山さん」
「うん?」
「ラブホ行きます?」
「うん!?」
カーブに差し当たった所で、キキィッとタイヤの擦れる音が響いた。白線を越えそうになったが、間一髪でハンドルを切る。
…あ、あっぶねぇ………
次から次へと、突飛な質問を投げてくる犬飼。俺をからかってるのか。嫌がらせなのか。危ないからマジで止めて欲しい。横目でチラリと見る。当の本人は相変わらず澄ました顔だ。ふわぁっと欠伸をして、頬杖をつきながら、外を眺めていた。
「えっ…な、何っ…ラブホ?」
「中途半端な田舎ってラブホ多いですよねぇ。ほら、あそこにもある」
犬飼の指先を辿って、目を向ける。そこにはギラッギラにライトアップされた西洋風の城がある。
お世辞にも上品とはいえない外観だ。
「真山さん、シャワー浴びた方が良いですよ」
「んぇ……?」
「香水つけてます?汗と混ざって、さっきから結構臭うんですよね」
「え ゙っ……」
「というのは冗談ですけど」
赤信号になったときだ。ギシッと座席の軋む音がした。犬飼は助手席から身を乗り出して、俺のほうに手を伸ばす。
「あそこで少し休憩しませんか?」
頬に手が添えられ、至近距離で目が合う。
その視線は、熱い。
「…えっ?」
「真山さんは知らないと思いますが、ラブホってビジネス目的でも使われるんですよ。安価で泊まれるので人気なんです。ほら、看板にも“ビジネス利用可”って書いてある」
「え、ぁ…ほ、本当だ……」
目線を外すと、顎を掬われた。
「お互い寝不足のまま運転するのは危ないです。あそこならベッドがあるので仮眠ができます。シャワーも浴びれますし……―今夜はあそこで過ごしませんか?」
ね?、と細まる目。綺麗な唇は艶やかに弧を描く。その表情に、ゾクッと背筋が震えた。犬飼ファンクラブの総務陣が見たら鼻血を出して倒れそうだ。それくらい、色っぽい微笑みだった。
俺は「えぇ…と」と呟き、黒目をキョロキョロ彷徨わせた。
…まあ確かに……犬飼の言う通りかもしれない。無理に帰ろうとするよりも、一泊したほうが、時間的に余裕が生まれる。事故のリスクも減るし、シャワーも浴びれるし、仮眠もできる。デメリットがない。
俺はごくりと唾を飲む。
「なら………ちょっと休憩すっか」
そう言ってウインカーを出した。すると雨音の激しさが増し、パッと一筋の光が瞬き、空を引き裂くような轟音が鳴り響く。近くで雷が落ちたんだ。その瞬間、小音で流していたラジオのノイズが強くなり、やがてブチッと切れる。
電波が悪いのか。しかし強制的に遮断されたような乱暴な音だった。
冷たい空気が肌を撫で、ふと、腕時計に目を落とした。
…そういや長い間ナオを見ていない。普段は事あるごとに『ヒロっヒロっ』と熱い眼差しとともに話しかけてくるというのに、やけに静かだ。
「ナオ………?」
今更気づいた。
液晶画面には、無数の未読通知が、表示されていた。
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