大阪のつむじ風

献残屋藤吉郎

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女無宿人さゆり

女無宿人さゆり

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甲州無宿人「さゆり」の痛快股旅物、

上野国大前田村の大前田一家は、関東、東海、甲州一帯に224か所の渡世場を持ち、貸元は3000人で
(旅人を旅先の親分に紹介の出来る貸元が500人)大前田栄五郎は大親分であった。
さゆりの父親は大前田一家の貸元であり、甲州大月ので村の神龍寺一家の貸元。」である。
その貸元の神龍寺長治は、博打の喧嘩から、旅人の秋月玄葉に切られて殺された。
その仇を討とうと、秋月玄葉を探したが、すでに出奔していたので、、これから探して、仇討をしなければならなかった
そ準備をするために、さゆり代貸、大熊大二郎(通称熊殺しの大二郎)に任せて、仇討の旅に出ることにした。
さゆりはもともと「居合抜き」の、、、小太刀の免許皆伝なので、、、
さゆり三度笠の男姿に変えて、、旅に出ることにした。
「通称、甲州無宿人さゆり」と名乗った、、、仇討の旅に出た。

1)女無宿人「さゆり」は親の仇である、秋月玄葉を追って、、、その足取りを追うことにした。。。風の噂便りによると、秋月玄葉は都鳥一家に身を寄せているらしい。。。というのは、、清水一家の森の石松をだまし討ちにした、都鳥兄弟と秋月玄葉は親戚筋にあたり、、今回の清水一家との出入りに加勢するらしいとのうわさもあり、、女無宿人さゆりは清水港へ向かった。
清水一家の軒先を借り受けて、、、甲州無宿人さゆりが仁義を切り始めた。
その場に出てきた、、、法院大五郎が、、、「あれまあーー神龍寺の2代目ではないですか、、、仁義なんか切らずに、、、あがってください。。。今日は親分もいますので、、、どうぞどうぞ」
法院大五郎が、さゆりを親分のもとまで案内した。。。
「おおーーさゆりさんか、ご無沙汰でしたね、、、神隆寺先代の葬儀以来かな、、、よく来てくれた、、、さあさあ、、、石に線香をあげておくれな、、、あんたとは本当に仲が良かった、、、
誰の言うことも聞かない,あの石がお前さんの言うことはよく聞いたな、、、」
その言葉に、甲州無宿人さゆりは目頭が熱くなった。。。
さゆりは森の石松にお線、、、香をあげて手を合わせた。。。「石さん、、さぞ、、無念だったろうね、、、できれば、私も世話になった石松さんの無念をはらしたい気持ちでいっぱいだよ、、、」
「親分、、、私も親の仇を追いかける身ではあれど、、都鳥兄弟には親の仇の秋月玄葉がみかたしているような話も聞くので、、、是非、今回の出入りの末席に加えてくれませんか。。。」
その場に居合わせた大政が、、、「親分、、さゆりさんの話を聞いてもらえませんか。。。。」
更に神隆寺一家を知っている、、、法院大五郎や追分三五郎たちも口添えをした、、、、余計なため口を聞けば清水次郎長親分には叱られるが、、、そん覚悟で頭を下げた。
そんな話をしているところに、、、桶屋の鬼吉と小政が飛び込んできた。。
「やあーーー、懐かしいい、、逢いたかったぜよ」
と、、、清水一家のみんなから好かれていた、、、そんな甲州無宿人さゆりがいとおしくて仕方がなかった次郎長は最後は許していた。
みんながよかったよかったと、、、特に、石松とは仲が良かったので、、、草葉の陰で石松が一番よろこんでいたのでは、、、、
無宿人さゆりは旅中ではあったが、、、石松さんへの香典といって「金30両」を仏壇へ。。。


2)石松の仇討へ
森の石松をだまし討ちにした、、、都鳥一家の7人が追分宿の盛田屋に留まったことを、確認した清水次郎長一家はその晩のうちに
急襲して、都鳥一家7人を討ち果たした。
森の石松は元来剣術が優れていて、、、清水次郎長の用心棒として子分なったほどである。
そして石松が浜松の都鳥一家に騙されて殺されてしまったのである、、、さぞかし、、悔しかったことだろう、、、次郎長も子分たちもそう思っていた、、、ましてや、、、石松をよく知っていた、「甲州無宿人さゆり」は腹の底から、、、都鳥一家を憎んでいた。
仇討を済ませてから、、、次郎長一家はそれぞれ、、、2人から3人でその場から,凶状旅に出た、、、次郎長は子分たちに金30両を持たせての旅であった。。。。そして、、、2年から3年の旅で清水に戻るように指示して別れた。
女無宿人さゆりは親の仇の秋月玄葉が追いかけていたが、、、今回も逃げれた。
川繁蔵を頼った、、、、大前田一家に流からであった。
笹川繁蔵は東庄町の代々醤油醸造の跡取りであった、、、、それが,芝宿の文吉親分から縄張りを貰って、、、ヤクザ渡世になった。
そして、下総の国の「飯岡助五郎」と勢力争いが起きた、、、そして、、世に言う「天保水滸伝」である。
その勢力争いで、笹川繁蔵は38歳で亡くなった。
その仇討を計ったが、子分の「勢力富五郎」は500人の敵に囲まれ、討ち死にした。
そんな天保水滸伝の争いに巻きかまれた、、、甲州無宿人さゆりはまたしても、、、秋月玄葉を逃がした。
そして、女無宿人さゆりはまたしても、凶状旅に出た。。。。。


3)吉良の仁吉、、、、荒神山の決闘の前夜
飯岡の助五郎と笹川繁蔵のやくざ抗争に巻き込まれた、、、甲州無宿人さゆりは泥沼にかした、命のやり取りにの中で、、、笹川繁蔵の食客であった「平手造酒(実名は平田三亀)は千葉周作の門下生)」にやくざ抗争のさ中に助けられた。。。
「甲州無宿人さゆりさんとか言ったね、、、繁蔵親分から話は聞いていたよ。。。あんたはここでは死んではいけない、、、逃げ道を作るから、、俺についてくるといいよ。。」といって、走り出した。
そして、甲州無宿人さゆりを先導した。
さゆりは平手造酒の後についていき、、、活路を見出した。
「さゆりさん、、、この道をまっすぐ行ってください、、、水戸街道です、、、江戸に向かってまっしらぐに走ってください。。。」
甲州無宿人さゆりは平手造酒の言葉で送り出された。。。
「さゆりさん、、、どうか無事に三州吉良にたどり着いてください、、、
」と平手造酒は心で手を合わせ、、、やくざ抗争の中に戻っていった。
後から日」聞いた話だが、、、平手造酒は子の抗争で命を落としていた。
そして、さゆりは途中で身支度を整えて、、、三州路を急いだ。
甲州無宿人さゆりの心には、世話になった笹川繁蔵の死、、、助けられた平手造酒の命を思いながら、、、吉良の仁吉の家に着いた。
吉良の仁吉の家には清水一家の大政達が数人厄介になっていた。

(4)吉良の仁吉は男でござる
1866年(慶応2年4月8)伊勢の国(現在の鈴鹿市)荒神山で「荒神山の決闘」は起きた。
神戸の長吉と桑名の穴大徳次郎の博徒同士の死闘であり、、、神戸の長吉には吉良の仁吉ほか22名の助っ人が付き、、、穴大徳次郎には130130名の助っ人が付いての激突であった。。。
始めから、神戸の長吉側は負け戦と分かっていても、吉良の仁吉以下22名は戦いを挑んでいった、、、結果は吉良の仁吉は鉄砲で撃たれ、、、味方した清水次郎長一家もさんざんであった。。
戦いのさ中に、甲州無宿人さゆりは秋月玄葉に出会い、、戦いを挑んでいった。
秋月玄葉は槍の名手であったが、、、さゆりに味方した清水一家の法院大五郎が捨て身で、、、秋月玄葉の槍を受け止めた、、、そして、,
玄葉が槍を使えなくなったところを「さゆりさん、、、今だよ、、切り込んでください
、、、」と玄葉の付きだした槍を抑え込んでいた。
自分の体で、法院大五郎が秋月玄葉の槍を抑えていたのであった。
甲州無宿人さゆりは,槍が使えなくなった秋月玄葉に切り込んだ、、、手ごたえはあった、、、秋月玄葉の急所に一撃を打ち込んでいた。。
秋月玄葉は倒れた、、、そして、、用心棒仲間に救われたいった、、、さゆりは確かに致命傷を与えていた。。。
そして、、法院大五郎のそばに駆け寄った。。
「法院さん、、、しっかりして、、、」と、、
うめき声のような法院大五郎から、、「やったね、、、」と聞こえたような気
さゆりは法院大五郎の命の代償で、、仇を討ったようなものだった。
しかし、、法院大五郎の眼には大きな涙があふれていた。
後ろから大政さんが声をかけてくれた。。。
「大五郎も満足だよ、、、さあー引き上げるぞ」
と、吉良の仁吉を戸板に乗せて吉良へ引き上げた。

(5)吉良の仁吉の弔い合戦
荒神山の私闘は吉良の仁吉側は22人に対して、穴大徳次郎側は130人の助っ人が付いての激突であった。
しかし、神戸の長吉側は、誰が見ても、、、仁吉側の負けであったが、、、命がけの吉良の仁吉側の勝利となった。
人数が少ない神戸の長吉に味方して荒神山の決闘は仁吉側が勝ったのであった、、、
その代償は大きかった、、吉良の仁吉は鉄砲で撃たれ、、、後日死亡した。
応援した清水一家も法院大五郎をはじめ、数人を失った。
話を聞いた清水次郎長は兄弟分の寺津の間之助、西尾の治助の3人連名で、伊勢桑名の穴大徳次郎のもとに喧嘩場を送り付けた。
清水次郎長は東海道の博徒480名を報復に送り付ける準備をしていた。
その話を聞いた、穴大徳次郎に味方する伊勢古市の丹波屋伝兵たちは清水次郎長たちに和議を申し込み、、、あわやのところで和議が成立したのであった。、、、
この和議に反対したのが、、、ただ一人、、、黒駒の勝蔵だった。
余談になるが、、、この喧嘩場を持って行ったのが、、、清水一家の増川の仙衛門であった、、、彼剣の腕前は一流で、度胸もあり、、、弁の立つので、この大役に選ばれたのであった。
荒神山の決闘は、、、和議が成立して、、、私闘にはならなかった。
しかし、、命を懸けた「吉良の仁吉」は男になった、、、、神戸の長吉は返り血ひとたびていなかったので、、、寺津間之助親分より、追い出されていた、、、、
清水次郎長は大前田一家の神龍寺一家二代目である「さゆり貸元」に礼を尽くした、、、今回の荒神山の決闘には命がけの働きをしてくれたことを聞いて、、、感謝してくれた。
甲州無宿人さゆりは、、、清水次郎長に聞かれた。
「これからは、、、甲州大月村に戻るんですか、、、」と、、、
しかし、甲州無宿人さゆりは、後2年ぐらいは凶状旅を続けてから、戻ることを告げた。
「そうですか、、、それまでは道中、気を付けて、旅しいってください。。。それから、これは少ないですが、草鞋銭の足しにしてください、、、」と言って、50両の餞別を渡してくれた。
甲州無宿人さゆりは頭を下げて、礼を尽くした。。。旅先のことなので、、、次郎長の志が嬉しかった。
そして、、、嵐吹きまくる幕末の京都へ向かった。
風の噂に聞こえてくる京都の「会津の小鉄」に会ってみたくなったのであった。

(6)勤王佐幕と風吹く京都の

女無宿人さゆりは荒神山の決闘から、、、清水次郎長が出張ってきて、、和議が成立して一件落着した。
その様子を確認してから、、甲州無宿人さゆりは幕末動乱の渦巻く京都に足を運んだ。
京都は今までに見てきた街並みとは違っていた、、、人も多く何となく生きている街と思えた。
そして、現実に今の日本の歴史の動く待った陀中であった。
勤王を唱える侍、町人がうごめ得ていた、、、、一獲千金を夢見るやつ、、、何とかいい条件の餌に有りつきたいとか、、
がつがつした人間の匂いがしていた、、、
そんなんかで、会津藩中元部屋の部屋頭の「大垣屋清八」の片腕となり、、、会津の小鉄(本名、上坂仙吉)は、持ち前の度胸と腕を持っていた会津の小鉄は会津藩tっ中元部屋で頭角を現しはじめた、若いときは喧嘩に負けることが嫌いで、、、負けても勝っても後へは引かなかった、、、そのために顔から全身に掛けて70余か所に刀傷があり、、、右手は親指と人差し指しかなかった。
1867年喧嘩のもとで人を殺し、処刑されるところを徳川慶喜の上洛で恩赦となり、、命拾いをしたのであった。して、博徒上坂音吉の盃を貰い、白川村に一家を構えた。
その後、会津藩とのつながりから「池田屋事件」「禁門の変」に協力していたために、討幕派から命を狙われた。
そして、鳥羽伏見の戦に子分たちを連れて、軍夫として参戦したが、、、官軍に惨敗した。
大阪に四散したが、、、明治維新後は博徒として渡世を渡った。
会津藩中元部屋に在籍していたので、、、京都市中の見回の真似事のようなこともしていた、、、会津の小鉄一家であった。
「何を偉そうな御託を並べてるんだよ、、、、世直しとか、何とか言ってるが、、、あんたら侍は盗人強盗をしているのかよ、、、
やめときな、、、弱い者いじめはよーー」と威勢のいい啖呵を切っている三度笠がいた。
「おう、、、べらぼう、、侍だか何だか知らねえーが、、、その三度笠の兄さんの言うとおりだぜ、、、おれっちはあんたに加勢するぜ、、、」といっている意気な男が、、、その三度笠を見て、、、
「あれー、、、二代目じゃあないか、、、さゆりさんか道理で威勢がいいはずだよ、、、」
「そういうあんたは、小政さんじゃないですか、、、」
と言いながら、、不逞な侍たちを蹴散らしていた。。
助けられたお店の店主は二人に感謝をして、、命拾いをしたことにお礼を言った。
このやり取りを見ていた、会津の小鉄は二人に近付いてきた。
「もしかしたら、、、清水次郎長一家の小政さんですか、、、ありがとうごいます、、、最近はああいう手合いが多くて、、、
遅れまして、わたくしは会津の小鉄と申します、、、、私たちは会津藩の中元もしてますので、、京都市内の見回りもしています。。
よかったら、私どものむさ苦しいところですが、、、草鞋を脱いでください、、、お連れの方もご一緒に」
と、言うことで、、小政とさゆり二代目は草鞋を脱ぐことにした。

(7)寺田屋事件(第1次)と池田屋事件
新選組が尊王攘夷派浪士に対して、襲撃して事件であった。また、池田屋事件(1864年6月5日)も新選組が襲撃をした、、、
そんな京都の尊王攘夷派が争いを起こしている、、洛中で女無宿人さゆりは京都の博徒「会津の小鉄」一家に草鞋を脱いで、京都の街中を少しだけ見物しようと思った。
同室になった清水一家の小政、関東綱五郎と京都の街を「会津の小鉄」に案内してもらうことになった。
「会津の小鉄」は過去ににおいて修行旅をしている時に、清水次郎長に世話になったことがあったので、その礼を尽くしてくれた。
その夜に歴史的な事件で「寺田屋事件」に遭遇した。
京都の街を勤王の志士を気取った浪士組の集まりがあることを察知した、、、
京都所司代預かりの「新選組」が活躍した夜だぁつた。
たまたま会津の小鉄も京都所司代の中元頭をしているので、街の警戒に子分たちを配置していた。
そんな時に新選組の切り込みが行われた現場、「寺田屋旅館」の前を通りかかった3人であった。
歴史的な事件に遭遇したのであった。

清水一家の関東綱五郎が、、、
「小政兄い、、、新選組の切り込みだって、ちょつと、見物していこうか、、、」
と,やじうま根性を出した。
小政も、神龍寺2代目さゆりも、会津の小鉄も見回りの都合もあって、見物することにした。
目の前で起きた寺田屋襲撃事件の新選組の切り込みは凄かった。
二手に別れた新選組は近藤勇局長を含めた数人で寺田屋に切り込んでいった。
そして、後から別の集合場所に行った、土方歳三副長たちが切り込み、浪士組は狙撃されたのであった。。その現場にいた女無宿人さゆりと小政たちは,凄い武士たちの切りあいを眼の前にして、、時代の動きを感じた。
会津の小鉄は京都見回り組とともに、周囲の警戒にあたった。
やくざも歴史の中で関りをもって動く時代、ヤクザ同士で抗争をしている時は終わったような気がした。
女無宿人さゆりは心の中で、兇状旅も終わりにして、甲州へ戻って何かをしないとと、、、心が動いた。
そんなことを思っているところへ、浪士組の武士が逃げ込んできた。
それを追いかけてきた新選組隊士が、切り込んできて、見事に倒していた。
その男が沖田総志であった。
会津の小鉄の話では、新選組一番隊隊長の沖田総志と知った。
そして、一番の剣客であると知った。
目の前で沖田総志と出会った最初であり、、、運命的な出会いであった。


(8)「新選組一番隊隊長沖田総志との因縁は」
1862年4月3日の寺田屋事件の死傷者は、、、
鎮撫使側、、死亡1負傷者4名。。志士側6名 負傷者2名
上意討ち、、、薩摩藩21名、久留米藩9名
       海上で殺害16名
以上が犠牲者であった。


甲州無宿人さゆりの前で、浪士隊員を切り倒したときに、沖田総志は喀血したのであった。
その時、甲州無宿人さゆりが持ち前の義侠心ら倒れた、沖田総志を助けたのであった。
喀血して倒れた沖田総志にその時ばかりと、、、切りかかってきた浪士の刃に、、、
「あ、、危ない、、」と、咄嗟にさゆりは刀を抜いて、その切りかかった浪士の刀を払いのけて、、、沖田総志の身を守った。
寺田屋襲撃は続いていたので、血を吐きながら、沖田総志は戦いに戻った。
その時にさゆりに一礼をして、沖田総志口から流れ出る血を払いのけながら、笑顔もせて戦の中に消えていった。
甲州無宿人さゆりはその沖田総志の姿が美しく見えた。
そして、、、襲撃事件を心配しながら様子を見ていた。
一時の襲撃事件が終わり、新選組が隊列を整えて、、引き揚げていった。
その中に戸板に載せられた沖田総志を見送ったさゆりであった。
時代の流れ、、幕末の人生幕を見たような気がした。
後日、会津の小鉄元締めより、甲州無宿人さゆりに話がでた。
「神龍寺一家2代目、、、先日のお礼がしたいのでと、、、新選組土方副長から連絡がありましたので、時間がありましたら取ってください」との連絡がありました。
ので、、、宜しくお願いします。
そして、、、甲州無宿人さゆりは、清水一家の小政と一緒に新選組屯所へ招かれた。
新選組屯所で飽津の小鉄貸元より、土方歳三と沖田総志に改めて紹介された。
「先日はありがとうございました、、、沖田です」
と、挨拶をすると、、、土方歳三からもお礼を言われた。
土方歳三副長から、
「お礼に何もできませんが、、、京都のめずらしいご膳をご馳走したいのですが、よろしいですか、、」
といわれ、、、無宿人さゆりと小政はご馳走によばれることになった。
その時に、沖田総志から
「神龍寺2代目さゆりさん、、、剣士としてあなたの小太刀とお手合わせをお願いしたいのですが、、、どうでしょう」
と言われ、、、
新選組切っての剣の使い手と手合わせをすることになった。
久しぶりの喧嘩ではなく、剣の立ち合いとなり、さゆりは緊張した。
二人の立ち合いは互角であり、、、近藤勇局長が出てきて、二人の立ち合いを引き分けとした。
「お見事です、、、素晴らしい太刀筋ですね、、、恐れ入りました」
「さゆりさん、、、立ち合いありがとうございました、、、ところで、、、その剣法はどこで習いましたか、、、」
近藤勇局長も土方歳三副長も二人の立ち合い褒めたそして、食事会では剣術の話に花が咲いた。
この時を機会に、無宿人さゆりと沖田総志の交友が始まった。

(9)新選組のうわさ

京都市街地においては新選組の浪士たちの取り締まりが厳しく、浪士たちの動きも少なくなってきた。
今では不浪士たち、多くの京都市内で、勤王佐幕と言っては、、、集団で会合をしたり、商家から天誅とかなんとかいって、
金品とかを揺すっていたが、、、新選組の働きでなくなっていった。
そんな中で、勤王思想が強くなり、、、天皇を巡って争いがおきた。
「蛤ご門の変」が起きて、、松平藩と薩摩藩の働きで,長州藩が京都から一掃されていた。
その中で、、、松平藩が権力を持っている間は、、、新選組も幕府軍について活躍していた。坂本龍馬も
しかし、、、時代は変わり、、、移って、、、長州藩が勢力を巻き返してきたのであった、、、不思議な事に、、、
敵味方が入れ替わったのであった、、、、長州藩と薩摩藩が手を組み、、、世の中が変わったのである。
その敵味方に分かれていた、長州藩が薩摩藩と、、、倒幕という目的のもとにつながったのである。。。
その歴史的な立役者が「土佐の坂本竜馬」であった。。。
そして、、日本の歴史に明治維新を起こした、、、「薩摩の西郷隆盛、、、大久保一蔵」などが活躍した。
しかし、、歴史の立役者は自然に、、,歴史の中で消えていった。
長州藩と薩摩藩を合体させた坂本龍馬も暗殺されてしまった。
歴史は流れ、、、後々になって、明治維新で活躍して偉人たちは全て、、、多かれ少なかれ消えていったような。。。。
明治維新が出来上がるまでの過程には、、、幕府軍と勤王政府での戦争が幾つかおきた。
薩摩藩と長州藩が「錦の御旗」を掲げて、、、官軍として日本を謁見したのであった。。。
まずは、、松平藩が京都から追われた、、、新選組も松平藩に従った。
そして、、長州藩と薩摩藩が手を結んで、、、鳥羽伏見の戦いが起きた。
会津の小鉄は松平藩について、子分たちを連れて戦いに参戦した。
甲州無宿人さゆりは幕軍に憑いて、、鳥羽伏見の戦いにいつの間にか参戦していき、、負け戦に巻き込まれていった。



(10)鳥羽伏見の戦に向かう

甲州無宿人さゆりは会津の小鉄と、その子分たちと土方歳三に従い、鳥羽伏見の戦いに向かった。
行く前に病で倒れた沖田総志と負傷した近藤勇局長は江戸に船で向かった、、、そのふたりを甲州無宿人さゆりは大阪まで見送った。
その見送りの際に、、、沖田総志は言った、、、
「さゆりさん、、、あなたは民間人なのだから、、今回の戦いに、幕軍に従い、付き合う義理は無いのだから、、、この辺で引き下がってください、、、
そして、、、自分自身の命を大事にしてください、、、」
その思いやりは嬉しかった、、、甲州無宿人さゆりであったが、、武士の最後の誇りを見届けたかったのである。
しかし、甲州無宿人さゆりは会津の小鉄たちと土方歳三に従い、戦に臨んだ。
その時も土方歳三も会津の小鉄も、、、、
「もう、、十分だよ、、、二代目さゆりさんはひいてください」と言われた。
甲州無宿人さゆりは鳥羽伏見の戦にに臨み、、、そして、負けて会津の小鉄たちと大阪に逃れた。
負傷した二代目さゆりは、そのあと、土方歳三たちに従い、、、関東に向かい、近藤勇の処刑にまで付き合った。
清水一家の小政はいったん清水へ戻った。
小政は関東綱五郎に言いつけた、、、、
「お前は、二代目さゆりさんに付いていき、甲州まで送って来い」と、、、
そんなこともあって、関東綱五郎は男気もあって、甲州無宿人さゆりに付いていき、、、清水一家の名のもとに甲州まで送り届ける決意をした。
土方歳三副長再び言った。。。
「二代目さゆりさん、、、ここまでで十分ですよ、、、沖田も言っている通り、、身を引いてくだい、、、民間人のあなたがこの先も付き合うことはないよ、、、」
甲州無宿人さゆりはどういうわけか、、、土方歳三という男に、、、侍に付いていく気なっていた。
そして、関東綱五郎も男一匹、付いていくことにした。
二人のやくざ渡世たちは負け戦の行く先をみとどけるまで、、、、土方歳三について、、、誠の旗印のもとの侍を見たかったのであった
関東での近藤勇の処刑。。。
1868年(慶応4年4月25日)関東の板橋で処刑された。
斬首刑で、、、処刑された後に、永倉新八や松本良順たちによって、近藤勇、土方歳三の石碑が建立された、
そして、毎年4月25日に供養が行われた。
関東板橋で処刑された近藤勇は武士ではなく、、、農民出身の侍が、幕軍について、負けて、潔く処刑されていく、本当の侍を幕末に見たような気がする、、、
そして、官軍に立ち向かっていく、土方歳三に死の美学を見たような気がする。
甲州無宿人さゆりは土方歳三に最後まで付いていくことにした。


(11)決戦会津若松の戦い
慶応4年明治元年(1867年)戊辰戦争の局面のひとつである「会津戦争」がはじまった。
会津藩の処遇を巡って、薩摩藩、土佐藩が中心にとなって、明治新政府軍と会津城籠城、西郷頼母、母成峠の戦い,白河口の戦いが行われた。
会津城籠城、その鶴ヶ城に新政府軍は城を包囲して、、、1か月も会津藩は戦い続けた。
新政府へ軍は城内に50発の砲弾を撃ち込んだが、、、
この戊辰戦争では会津藩士が約3000人亡くなった、、、然し、会津藩志は婦女子、少年兵までも戦った。
それが少年兵の「白虎隊」の意劇であった。婦女子のなかには「八重のさくら」と言われた新島八重のように会津藩志として戦った婦女子もいた。
また、会津藩が京都守護職時代に、ったその配下になり、京都の治安に当たった新選組も会津で戦った、、、土方歳三は宇都宮の戦いで負傷し、会津に入った。
新選組3番隊隊長、斎藤一も会津に入り、土方歳三とともに、明治新政府軍と戦った。
そして、土方歳三が函館に行った後は、会津藩に残った新選組隊士の指揮を執った。
斎藤一は戊辰戦争が終わった後は東京に戻り、、72歳で亡くなった、、、明治になってから
斎藤一は「藤田五郎」と改名している。
土方歳三たちは会津藩鶴ヶ城に入った。、、、幕軍は負け戦に続く負け戦であったが、会津藩の会津容保は徳川親藩として最後まで徳川幕府に殉じていたが、明治新政府軍の勢いで、責任をとって
新政府軍に下った。
しかし、会津藩志は城を枕に討ち死にする覚悟で戦っていた。
この戊辰戦争の歴史の中でいろいろな悲劇が生まれた、、、白虎隊が飯盛山で隊員全員が自忍したこであった、さらには婦女子まで自忍していったのであった。
会津藩は藩士が命を懸けて戦ったが、、、負けたのであった。
そして、甲州無宿人さゆりは負け戦の会津を後に、関東綱五郎とともに土方歳三に従い、函館に向かった。
いよいよ、、、最終決戦の北海道の地に向かったのであった。
甲州無宿人さゆりは会津藩において、命を懸けて戦う侍の姿を見た、、、
負け戦の中での「潔さ」を心で感じた。
東北での戦いで、徳川幕府のすべてが崩れれ行く、、、徳川の侍たちが滅びて散っていったような、、、
時代の移り変わりの中で、侍たちの滅亡を見ながら、、、北の天地に着いた。


(12)函館決戦(五稜郭の戦い)

甲州無宿人さゆりは土方歳三に本当の武士を見たような気がした。
そして、清水一家の関東綱五郎は小政の言いつけで、神龍寺2代目さゆり何としても甲州へ送り届けようとしていた、、、
清水一家の男として、関東綱五郎は古い世界の顔を見せたいた。
「2代目、、、覚悟は分かりました、、、俺も小政の兄いに約束したんだから、、、どこまでも、命の続く限り、、、ついていきますから、」
と関東綱五郎も男の意地を見せたいた、、、
「すまないね、、、綱五郎さん、、、本当に私の勝手で、、、京都から函館まで来てしまって、、、」
2代目さゆりに謝られた、、関東綱五郎は涙が出るほど嬉しかった。
関東綱五郎はどこまでも付いていくと心で決めた。
そして、、、新選組の鬼の副長と言われた土方歳三の最後の戦いの函館に着いた。
北の新地「五稜郭」だ、、、、
五稜郭は土方歳三ら新選組の最後の地となった、、、京都の地で産声を浴びた「京都治安の浪士組」は、幕府軍について、、日本各地を戦い続けてきたが
北海道の函館に終わりを告げた、、、
戊辰戦争の最後の戦いとなる函館戦鬼の争が始まるが、、開国派の新政府軍が勝ち、旧幕軍である土方歳三たちは破れ、、、戊辰戦争は終わった。
土方歳三は覚悟を決めたいた、、、近藤勇も処刑され、、、沖田総志も病で倒れ、、死の世界をさまよっていた。
そして、江戸時代からの盟友である「斎藤一」は会津に残り、幕軍と戦っていた。
そして、幕軍、榎本武明らとともに、五稜郭に立てこもり、、、新政府軍と決戦を挑むことにあった。
ここまできて、、土方歳三は生き延びようとは考えていなかった。
最後の決戦の場、、、死に場所を探していた。
土方歳三の最後の地は「一本木関門」とされている。。。。
鬼の副長として最後まで戦い続けてきた土方歳三が、、、旧幕府脱走軍の休憩所、屯所で最後の戦いに臨む前に
土方歳三は二代目神龍寺さゆりに、最後の託を告げた。
「2代目神龍寺さゆりさん、、、本当にここまで、来てくれてありがとう、、、いよいよ、お別れです、、」
と、、、そして、
「私の最後の頼みを聞いてください、、、」新選組の鬼の副長土方歳三は、、、
甲州無宿人さゆりに頼みごとをすると、、、馬上の人となり、、戦場へ消えていった。
甲州神龍寺2代目さゆりは本当に心から、移り行く時代の最後の武人を土方歳三に見たのであった。


(13)歴史の中の「誠の旗印」新選組

甲州神龍寺一家2代目さゆりとは縁あって、、、最後の戦いまでついてきてくれた二代目さゆりさんに土方歳三は、、、
「二代目さゆりさん、、、私は今度の戦いで敵陣に切り込む、、、生きては戻れないはず、、
それで二代目さゆりさんに頼みがある、、」
と言って、土方歳三は、、、、
自分の歴史の証である「新選組の旗印、、誠の旗を手渡し、、日野の実家に届けて欲しいと頼んだのであった。
そして、自分の写真と刀「和泉守兼定」の一振りを託した。
「是非、、、甲州へ帰る途中で自分の実家のある日野へ立ち寄って欲しいと、、、」
最後の土方歳三の頼みを聞いた、、、2代目さゆりは幕末最後の侍と認めた新選組鬼の副長、土方歳三の遺言とも取れる言葉を聞いた。
二代目さゆりは、、「土方副長、、、必ず届けます、、、今までありがとうございました」
日本の侍、最後の男、戦う土方歳三に別れを告げた。
土方歳三に一礼をして、、、甲州神龍寺一家2代目さゆりは土方歳三を見送った。。。
二代目さゆりの眼にはいっぱいの涙が溢れていた、、、鬼の副長土方歳三も馬上から振り返ることはなかった、、、、
「さようなら、、、土方さん」と。。。
「綱五郎さん、、、今しばらくつきあってください。」と言われ、、、
関東綱五郎は小政兄いから頼まれた時から、覚悟はできていた、、、そして、旅している間に
神龍寺一家2代目さゆりに命を懸けても悔いはないと思っていた。
その人柄、、、人間性に惚れていたのであった。
い残党狩りをしていたので、表通りは歩くことが難しかった。
函館からの帰る途中、会津に立ち寄ったください
会津藩志の戦いは壮烈だった、、、誰一人諦めることなく、最後の一人まで戦っていたようだった、、、その中に新選組三番隊隊長
「斎藤一」がいた、、、面識のあった甲州神龍寺2代目さゆりと斎藤一の二人は、その後の戦を語り始めていた
そして、斎藤一は土方歳三の最後を知ったのであった。
「そうですか、、、、土方さんも、 、ですか、、、」斎藤一は涙ぐんだ。
「わかりました、、、2代目達と一緒に江戸に戻りますよ、、、土方さんの遺品とあなたたちを守って、、、
道中は危険がいっぱい過ぎる、、、、いたるところに新政府軍が多すぎるので、、」
と、、、斎藤一が護衛をかっくれた。
道中は変装が必要だ。
斎藤一の江戸時代の知り合いに、、、荷役業者がいたので、会津から江戸までの新政府軍の荷駄を運ぶ、、人夫の中に紛れた、、、、
斎藤一の計らいで江戸まで何とかたどり着いた。
そして、、、板橋から日野までの道中は、斎藤一もつきそってきてくれた、、、長い、苦しい、変装の隠れ旅で
あった、、、、日野の土方の実家に着いたときは、ほっとした。
神龍寺二代目さゆりは、日野の土方歳三の実家に着いたときには、、斎藤一に礼を尽くした、、、
斎藤一がいなかったら、、、江戸にはたどりつけなかっただろう。    



(14)甲州神龍寺二代目さゆりは、、新選組副長土方歳三との約束を守っ
神龍寺二代目さゆりは、、、斎藤一に助けられて江戸に入った。。。土方歳三の実家がある、日野へ向かう前に江戸にいる
沖田総志に会っていこうと思い、、、訪ねた。
そして、、「沖田さん、、、ご無沙汰していました。だ丈夫ですか、、」
然し訪ねた時には、沖田総志は病が進んでいて、意識が朦朧としていた、、、家主の植木屋に挨拶をして、、、沖田総志に別れを告げた、、、幕末最後の最強武士団「新選組」の最後の最強の美しい剣士であった。
一緒にいた斎藤一も涙して別れの一礼をした。
そして、二人は日野へ向わたしたかった。
甲州神龍寺二代目さゆりは、、、最強の武士団「新選組」の局長近藤勇、鬼の副長土方歳三、最強の美の剣士沖田総志に別れをつげた。。。
土方歳三の実家で、家族に会い、、、土方歳三の遺言を告げ、、、頼まれた刀一振りと新選組の誠の旗、、土方歳三の写真を渡した。
「土方さん、、、確かに渡しましたよ、、、今まで本当にありがとうございました」と、、、
さゆりは一礼を深々とした。
甲州神龍寺二代目さゆりは土方歳三の姉から聞かれたことを、、函館で戦死するまでのことを、知っている限りを話した。
そして、、、甲州へ帰ることを話した。
土方歳三の姉は、二代目さゆりにお礼を述べた、、、、

二代目さゆりに手を合わせて、頭を下げた。
甲州神龍寺二代目さゆりたちが甲州へ帰るといっても、、、日野の周辺には新政府軍が旧幕臣の残党狩りをしているので警戒が厳しい、、、
簡単には動きは取れないような状況ですといつて、、時間を空けて出発した方がいいといってくれた。
そこで日野家で準備をしてくれたのであった。
さゆりと関東綱五郎は日野家代々の薬売り行商に変装するすることにした。。。
斎藤一は世間が落ちつくまで日野家に留まることにした。
土方歳三の姉は、弟の歳三が世話になったということで、、、甲州神龍寺二代目さゆりたちにはいろいろと甲州までの道中の準備をしてくれた。
そして、、旅先の旅籠に薬を売る手配までしてくれて,、、いたるところの新政府軍の取り締まりを無事に通り抜ける「通行手形」まで用意してくれた。
さゆりと関東綱五郎は甲州大月村に着いた。
大月村に着いた神龍寺一家は無く、、、一家の後は「旅籠」になっていた、、、
その旅籠は「さゆり宿」となって、、、神龍寺一家代貸の大熊大二郎は旅館の番頭をしていたのであった。
時代が変わってやくざ渡世は取り締まりが厳しくなり、、、大前田一家も散り散りになったのであった。
そして、、、それぞれにやくざ渡世から道を見つけて生き延びている、、、
神龍寺一家も代貸の大熊大二郎が二代目さゆりが戻るまでと、、、看板を変えて守り続けてきたのであった、、、やっと、二代目さゆりもどり、、その喜び、嬉しさは、、言葉では言えなかった。
「さゆり宿」の入り口に、、、二代目さゆりを迎えた時の気持ちは、、、心からの涙が飛び散った。
「お帰りなさい、、、二代目、、よくぞ、ご無事で、、、もう、、、あれから15年が経ちました、、
待っていました、、、」と代貸大熊大二郎はひざまついて出迎えた。。
「熊さん、、本当にご苦労様でした、、、長い間、留守してごめんなさい、、」
二代目さゆりは代貸大熊大二郎に甘えを、無理を詫びた。


15)甲州大月村で、、神龍寺一家二代目さゆりは旅籠のおかみに、、、を

15年間に渡る兇状旅を終えて、、、甲州大月村に戻った神龍寺二代目さゆりは、代貸大熊大二郎の後を引き継ぎ、、、旅館業に励んだ、、、関東津五郎も新政府軍の取り締まりが厳しく動けず、、、旅館業を手伝ったていた。。。
時代は変わり、、明治となり国の政策もかわり、、、人々の生活も変わっていった。
二代目さゆりは、神龍寺一家の構えが街道筋にあり、、、旅館として繁盛していった。
親の仇を追って、甲州を出てから15年、、、二代目さゆりはやくざ世界を旅して、、、そして、、、
時代の流れを旅して、、、歴史上の人々と歴史を旅して、、、命を懸けた人世旅を無事、、乗り越えてきた。、、、
二代目さゆりの経営する旅館業はその後も繁盛していった。
その傍らで、、、「小太刀の町道場」開き、、、青少年の精神育成をしていった、、、、
そして、82歳で天寿を迎えるまで、小太刀を振っていた。


〇「女無宿人さゆり、、番外編

女無宿人さゆりは勤王佐幕の渦巻く京都にたどり着いて、、、京都博徒の「会津の小鉄」一家に草鞋を脱いで、、京都見物をしてから甲州へ帰ろうと想った居たのである。
一緒の清水一家の小政も関東綱五郎もそのつもりで付き合っての京見物であった。
伏見稲荷から、清水寺をお参りして、、、2,3日の京都見物をしていくつもり」が、、、京都の夜に新選組の「寺田屋襲撃事件」を目の前で見てしまい、、、幕末の動乱の凄さに驚き、、、さゆりは心を何故か引き寄せられたのである。。
サムライが命を掛けて、、、時代の中で、、思想というか信念を持ち、、戦う姿にさゆりは心が躍った。
新選組の集団で治安を守ろうとする意気込みが美しく見えたのだった。
そして、、、しばらく「新選組」を見ていきたいと思ったのである。
それがなぜなのか分からなかったけれど、、血を吐きながら戦う「沖田総志」にみたのであった。
あの時、、沖田総志が倒れ掛かって来たので、、、女無宿人さゆりは咄嗟に刀を抜いて、、沖田総志に降りかかった刃(やいば)を払っていたのであった。
女無宿人さゆりの「居合い技で」その刃を払っていなければ、、もしかしたら「沖田総志」は斬られていたかも知れなかったのである。。。
後日、其のお礼もあって「無宿人さゆり」は会津の小鉄を介して、食事に招かれた。
人の縁とは不思議なものであり、、、たまたま、「会津の小鉄」が新選組の支配藩である会津藩の中元頭をしていたこともあっての付き合いとなったのである。

新選組も京都所司代会津藩の預かりとなり、、新選組隊員にも手当てが出るようになって、京都市中の治安取り締まりがよくなったのである、、、当初は「芹沢鴨」が局長をしていた頃には、町中商人から天誅と称して「金を巻き上げて」いた、、、それを「近藤勇、土方歳三、沖田総志、山南啓介」たちが芹沢鴨たち一派を粛正して、、、清川八郎が設立した「浪士隊」を「新選組」に立て直し、、会津中将会津藩の支配下に置いたのである。
新しい「新選組」は「近藤勇」を局長として、、、「土方歳三」が副長を務めて、、、特に土方歳三副長が「新選組の鉄の掟」を作り上げて,規律正しい武士団になったのである。
日本で一番古い「機動隊組織」であった。
「新選組」が毎日、市中見回りをして、、、不逞な浪士たちを取り締まり、京都の治安を守る様になってから新選組の評判も良くなっていったのである。
新選組は隊士を一番たちから7番隊まで分けて、市中巡回をしていた。
そして、、、土方副長が力を入れていたのが「情報収集」である、、、その担当責任者が「山崎勉」であった、、、彼は商家の出身であるが「探索」にむいていたようだ。
「池田屋事件」の情報も彼が集め、、勤王方の商人を責めて、、場所を聞き出したのである。
京都市中警護には会津藩京都所司代管轄の「京都見回り組」があった。この組織も情報を集めるのが得意だったのである。。。
従って、新選組と京都見回り組は情報交換をしていたようだった。
こののちに「坂本龍馬暗殺事件」がおきたのである、、、其の暗殺集団は「京都見回り組」と言われている。。。。

2)新選組分裂か。。。

鉄の剣客集団新選組にも分裂の危機があった。新選組を当初から作った「伊東甲子太郎(茨城県常陸の国出身)」が
孝明天皇山御陵衛士と称する別組織をつくったのである。思想面での食い違いが生じた。
伊東甲子太郎は北辰一刀流の免許皆伝に腕前で、学問にも秀でたものがあったのである。
しかし、新選組という組織を運営するためには、考え方、行動が一本化していないと、行動が一つの命令の元には動かないことを知ったいた「副長土方歳三」」は鬼の心を持って、「鉄の掟」を作り上げたのである。
その中で初めから、いったん新選組に入ったものは「局を脱することを許さず」という厳しい「「掟」を課していたのであった。
そんな組織の中で別組織を作った「伊東甲子太郎」を、副長土方歳三は許すことができなかったのである。
そして、近藤勇と計って、伊藤甲子太郎を自分の京都の妾宅に、呼んで酒を飲ませて、、暗殺したのであった。
1869年(慶応3年11月18日)に油小路の本光寺門前で、大石鍬次郎たちに待ち伏せをさせて、伊藤甲子太郎に同調した
「試衛館」時代からの付き合いの藤堂平助(北辰一刀流の免許皆伝)や服部武雄、毛内有之助らを暗殺したのである。。。こうして分裂したかになった時に、「土方歳三」の才覚で未然に防ぐことn
新選組の組織はに一番隊組長に、試衛館時代の沖田総司、二番隊組長を長倉新八、三番隊組長を斎藤一,四番隊組長に松原忠司、五番隊組長を武田勘柳斎、六番隊組長に井上源三郎、七番隊組長に谷三十朗、八番隊組長に藤堂平助、九番隊組長に鈴木三喜三郎、十番組長に原田左之助を決めて京都市中見回りをしたのであった。「寺田屋
更に土方歳三は情報を集めるために「諸士取締役兼監察方浪士調役の仕事」を決めて力を入れた、そのために山崎丞を中心に20名の隊士を割り当てて、監察をしたおかげで「寺田屋事件」を知って襲撃ができたのである。。
新選組が名をあげた事件であった。
このう戦いで沖田総司はすでに血を吐いたのである、、、沖田総司が新選組で動けて、不逞浪士から恐れられていたのは、京都見回りまでであったのである。。。
戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いからは結核で臥せっていた。そして、、新選組が土方歳三が戊辰戦争で戦っていた間は「江戸の植木屋」で病に倒れていて、、、近藤勇が板橋で処刑されてから2か月後に亡くなったのである。。
華やかな京都時代の新選組一番隊組長沖田総司は京都で活躍した5年間だった。
更に新選組参謀であった「山南啓介」は勤王の思想もあって、新選組の土方歳三の市中治安のやり方の不満を持ち始めていたのである。
何か勤王の志士たちを追いかけ「斬りまくっている、、、人斬り集団」におもえたのである。
それで新選組を抜け出したが追いかけたきた沖田総司につかまり、新選組屯所で「局を脱することを許さず」の掟に従い、切腹をさせせられた。
寺田屋事件の後に、「女無宿人さゆり」が新選組に招かれ、食事をご馳走になって、沖田総司と剣客として試合をしたのは、新選組全盛になる少し前だった
  
3)二つの「寺田屋事件」。。。。

幕末に起きた京都伏見の「寺田屋事件」は正確に言うと、、「寺田屋事件」と「寺田屋騒動」とがある、、、
1862年に起きた「寺田屋騒動」は薩摩藩の内紛による騒動で、、藩士同士が「勤王攘夷派」と「佐幕派」の別れて、思想上の意見の食い違いで斬り合いの争いになった。上意討ちなどで処罰をされて、9名の藩士が死亡したのである、、、この時、藩主島津久光の命を受けて動いたのが「大久保一蔵」たちであり、罰せられたのが「西郷隆盛。村田新八」らであつた。
1866年の「寺田屋事件」は坂本龍馬が暗殺目的で、京都奉行所の幕府役人30人に取り囲まれたが、坂本龍馬の妻「楢崎龍」の機転で逃げることが出来た。
坂本龍馬は高杉晋作からもらった「拳銃」で防戦して、辛うじて逃げ延びたのである。
この事件が二つ目の「寺田屋事件」であった。

1864年が長州藩の尊王攘夷派の浪士が新選組に襲撃された事件が「池田屋事件」である、、、この襲撃では多数の尊王攘夷派の浪士たちが多数ころされた。負傷者もでたのである。
襲襲撃事件で新選組は名を轟かせ、勤王志士の浪士隊を震え上がらせた。
この事件は「池田屋事件」であった。

そして、坂本龍馬が暗殺されたのは「近江屋事件」であった、、、この時に陸援隊の中岡慎太郎も殺されたのである、、、


4)明治維新前の幕末は暗殺もあり、、激動の時代だった。

幕末はめまぐるしかった、、、今日は勤王、明日は倒幕と、、
人の心は変わっていったのである。。
覇権も「長州」かと思えば「薩摩」だったり、、時には「会津」だったりしていた。
京都市中の見回りも新選組が行っていたが、、、それが無いころには、勤王の志士が、不逞浪士たちが闊歩していた時もあったのである。
京都市中の不安定な時には会津藩の中元頭の「会津の小鉄」のような博徒が治安をはのかっていたこともあった、、、
そんなおりに「女甲州人無宿さゆり」が会津の小鉄一家に草鞋を脱いだのである。rい
そこで、会津の小鉄の紹介で「新選組」と出会い、、、土方歳三を知って、
武士の生き様をみたのであった。
無宿人さゆりが感心したのは、、興味を持ったのは、、、武士でもない土方歳三が、どうしてそこまで「武士道」に染まったかということであり、、何故、滅びゆく徳川幕府に殉じたのかであった。
多摩の田舎の薬売りが、、、離れていく徳川幕府の為に、、、
どんな武士よりも「侍」であったかが知りたかったのである。
そして最後は、潔く、、、さくらが散る様に散っていったのか、、、
どうしてできたのかが、、、本当を「真実」を、、、なぜに「誠」の旗印のもとに、「鉄の掟」を作ってまでして、、、
「武士道」を貫け通したのかを知りたかったのである。



5)新選組一番隊組長の誕生。。

新選組が京都で活躍したのは1865年から1868年のわずか「4年間」であった。
そして、新選組一番隊組長助勤の「沖田総司」が強く元気だったのも、この4年間だったのである。。
剣士としても、斎藤一,永倉新八と並び称されたこともあった、、、
京都見回りでも一番強かったのが「一番隊」である。
そんな沖田総司も鳥羽伏見の戦いには参加できず、、、江戸へ引き上げる「徳川慶喜」と一緒に大阪から船で戻り、、、結核で療養することになった、、、近藤勇も伊藤甲子太郎の残党に銃で撃たれて負傷したので江戸へ帰ることになったのである。
京都に残った土方歳三副長は新選組の立て直しをはかった、、、
その時に甲州人無宿人さゆりから申し出があったのである。
土方歳三副長はびっくりしたのであった、、、男装をした美男剣士が座ったいたので、、、
甲州人無宿さゆりが、、、「私が沖田さんの代わりをしますから、、新選組に置いてください」と、、、なんと、やる気で、「覚悟はあるので、、やらせてください、、、」
その覚悟の姿勢を見たら、土方副長は断れなくなったのである。
神龍寺一家二代目の話を聞いたら、、、その覚悟を聴いたので認めたのであった。
「わかりました、、、途中でぬけられませんからね、、、沖田の代行と言えども、今日から
新選組の掟は守ってもらいますから、、、いいですか」
ということで新選組一番隊組長代行神龍仁(無宿人さゆり)としますから、よろしくお願いします。。」
と、、なったのである。。
剣を取らせれば新選組一番だと思うのだった。


6)戊辰戦争での局地戦争では全戦全勝の土方歳三。。。

新選組は京都市中の見回り警護をしていたが、勤王の志士地とを、特に池田屋襲撃事件の時には多数斬りころしていた。そして、「殺人集団」とか「剣客集団」と言われ、恐れられていたのである。。。特に新選組一番隊沖田総司組長は、、強く、取り締まった浪士たちをにがさなかった。。その二代目代行の「神龍仁」も強かったのである。
鳥羽伏見の戦いでも土方副長率いる新選組の中でも一番隊組長代行の神龍仁は引き下がるとなかく、、敵陣を突破して、明治政府軍を恐れさせていた。
しかし、「錦の御旗」を押し立てた明治政府軍は「官軍」となり、、、旧幕府軍は「賊軍」となり、、敗退したのである。
新選組も幕府軍と大阪まで退いた、、、また、近藤勇は伊藤甲子太郎の残党に銃で撃たれて重傷したのである。。
そして、大阪から江戸へ引き上げる「徳川慶喜」と一緒に。。。
また、結核で病んだいた、沖田総司も近藤勇とともに江戸に帰り、親戚筋の植木屋に隠れ済んだが、病で亡くなった。
江戸に戻った新選組は江戸幕府からは厄介者になったのである、、京都であまりにも勤王の志士を斬りすぎたので、当時は明治新政府の西郷隆盛らとの「江戸城無血開城」の交渉をしていた勝海舟にしてみれば、、新選組は邪魔になったのである。
いつの時代にも役人とは都合よく出来ているのだ、、、西郷隆盛らとの交渉には「新選組」はいらないのだ、、、いることがめざわりであり、、交渉の妨げになったのであった。
そこで、、、江戸から離れた甲府に追い払う作戦を立てたのである、、
勝海舟は、、、近藤勇と土方歳三に伝えてのであった。
「甲陽鎮撫隊」の任をを与えたのである、近藤勇を隊長に、土方歳三を副隊長に任じ、、、近藤勇を大名格で10万石、土方歳三を若年寄格で5万石、助勤たちまで3万石として、、会津藩から「1200両」江戸幕府から<3000両」を持たせて、甲府へ追いやった。
近藤勇側に珍事が起きたのであった。。。甲陽鎮撫隊の方が甲府城までは江戸から近かったのであるが、、途中道中で道草をしてしまい、、「明治新政府軍の板垣退助東道会総督」より、入城が遅れたのであった。
そのための敗因でもある、、、遅れた理由は近藤たちの故郷、日野などで歓迎をうけたり、、途中で豪遊したためでもあった。。。。
そのために「甲州勝沼の戦い」では布陣が遅れたり、、幕軍が少なかったために、土方歳三が援軍を求めて江戸に戻って、
為にたった2時間で敗北したのであった。
斎藤一と一番隊組長代行の神龍仁は奮戦していたが、、、隊長の近藤勇が新式銃などの戦に慣れていなかったので、局地戦には勝っていたが、、幕軍130人に対して、官軍1200人では太刀打ちできなかったのである。
そして、戦上手な土方が抜けていたことが大きな敗因であった。
土方は少人数でも「喧嘩戦」が得意だったのである。
また、明治新政府軍の総督が「板垣退助:であり、、甲州の地元農民などが官軍に好意的であり、味方をしていた。
板垣退助は武田方の武将「板垣信方」の子孫ということを宣伝していたのである。


7)新選組は「甲陽鎮撫隊」となって敗走、、、

近藤たちは立て直しを計って、、、下総の流山に陣をしいた。
そして、新選組隊士も新たに集めたが、、、京都時代のような剣客は少なく、「鉄の掟」に従ずるような隊士は集まらなくなったのである。
そして、、明治新政府軍に取り囲まれてしまい、、、近藤勇は新選組隊士たちを救おうと降伏したのであった。
「大久保大和」で降伏したのであるが、、、官軍側に近藤勇を知っているものが居たために「新選組局長近藤勇」と分かってしまい、、、処刑されたのである。
「武士よりも武士らしくあれ」と生きてきた近藤勇は「武士」として扱われずに、、
「斬首」の刑になった。
土方歳三は近藤を止めたのであったが、、、明治新政府軍に降伏してしまったんである。。。土方は後々まで「後悔」した。
「なぜ。近藤を止めなかったのかと。。。」
そのことがあって、、、最後まで官軍と闘い続けたのであった、、
そして、、一番隊組長代行になった「神龍仁」(無宿人さゆり)も土方につきあったのである。
そして、甲州勝沼の戦いのあと、、江戸に帰った永倉新八、原田左之助は靖兵隊を結成して新政府軍と戦った。
土方歳三たちは幕府軍の「大鳥啓介」と合流して宇都宮城を目指した。
宇都宮城は地元の農民集団「3万人」が「ええじゃないか」の「世直し」で動き、襲撃をされていたのである、、、その鎮圧のために明治新政府軍がある。。出動していた。。。
また、旧幕府軍も宇都宮城へ向かい、、、戦いがおきたのである。。
旧幕軍は、桑名藩200人、新選組30人、その他幕軍関係が860人に対して明治新政府軍が600人であったが新政府軍は増員された。
土方歳三は銃撃戦で足を撃たれたのである。
明治新政府軍の総督は「板垣退助」であった。


8)宇都宮の戦いで土方歳三、負傷する、、、会津若松へ向かう

宇都宮の戦いでも新選組は総勢30人足らずであったので、土方歳三を斬りこみ隊長にして新政府軍に突入していった、、、一番隊組長代行の神龍仁(さゆり)も先頭斬っていった。
新政府軍の軍隊は神龍組長代行の新選組の旗印を見ただけで逃げた。。。神龍組長代行は斬りまくた、、、そんな中で土方副長は足を銃で撃たれたのである、、。それを見た神龍組長代行はいつも自分の傍にいる「綱五郎」に、、、副長を担いで下がる様に指示をした。
清水一家の小政に言われている「関東綱五郎」は死んでも神龍寺二代目に付いていくと決めて離れなかったのでる。。。綱五郎は土方副長を担いで後ろへさがった、、、
新政府軍と一人奮戦しているところへ「斎藤一」が助太刀に駆け寄ってきたので、、、一番隊組長代行神龍仁は斬りぬけたのであった。
味方の陣に戻った土方副長は、一番隊組長代行神龍仁(さゆり)に礼を述べて、、、後方へ下がったのである。
土方歳三は斎藤一たちを先に先行して、「会津へ」行かせた。
そして、一番隊組長代行の神龍仁は負傷した土方と、綱五郎を連れて会津へむかったのである、、、
徳川幕府に従う会津藩へ向かう途中で「二本松城」がある、、、
東北は「奥羽越列藩同盟」を作って明治新政府に立ち向かうはずであったが、、同盟を離脱する藩が続出した。。会津藩と同じように最後まで戦った一つに「二本松藩」があった。
二本松藩は落城するまで、戦い続けたのである。
いつの時代にも悲劇はあるものだ、、、「二本松少年隊」があった、、、隊長木村銃太郎、副隊長二階堂衛守の他は12歳から17歳の25人の少年隊で、8名が戦死したのでる。。
これは会津若松の「白虎隊」のであった。
戊辰戦争による「二本松の戦い」での戦死者は337人であった。

「一藩こぞって身命を投げ打ち、倒れてのち己むまで戦い抜き、武士道の精髄を尽くしたのは

 二本松をもって最上とする」

これは板垣退助のことばである。

1868年7月29日に炎上して落城をする。
〇1615年(慶長20年)に大阪城の夏の陣以降、城を枕にして討ち死にした藩は

 日本64余州300余藩の中で二本松藩だけである。


9)会津若松の戦い、、、

宇都宮の戦いで負傷して土方歳三新選組副長に従うものは、新選組一番隊組長代行になった「神龍仁(無宿人さゆり)」と、、、清水一家の小政に厳命されている「関東綱五郎」の二人だけだった、
新選組一番隊組長代行「神龍仁(さゆり)」はどこまでも土方歳三が生きて、戦っているうちは就いていくと決めていたのである。
会津若松に向かう途中で「二本松城の落城」を目にしたのであった。
土方は二本松の戦いで、、一藩を挙げて、藩士全員が討ち死にしたことを知って、、、
一人涙したのである。
「奥羽越列藩同盟」は当初は6藩が、加盟していたが離脱藩が増えて、、、最終的には二本松藩、会津藩、長岡藩、となったが、、、「二本松藩」は最後まで討ち死にするまで城を枕にたたかったのである。
その様子を見た土方歳三は覚悟を新たに、、、会津藩にむかったのである、、
そして、さきに先発したいた「斎藤一」と合流した。。。
怪我していた土方は会津藩に残る新選組の指揮を「斎藤一」に託して函館へ向かった、、、
この時にも無宿人さゆりと関東綱五郎は土方歳三にしたがったのである。
斎藤一は近藤勇や土方歳三には忠義を通していた、、、明治になっても「藤田五郎」と改名して、明治新政府で警察官をつとめた。




































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