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2巻
2-1
しおりを挟む第三章 赤い空が落ちてくる
尾上雄一郎は、奇妙な夢を見ていた。
その夢の中で、異なる世界に飛ばされた雄一郎は『女神』と呼ばれていた。内乱が起きたジュエルドという国で、女神は軍を率い、その上、王の子供を産まなくてはならないという。
優秀な部下達を連れて、今まで見たこともない世界を駆け抜け、裏切り者を取り押さえ、反乱軍に取り囲まれた王都を解放した。
そして、雄一郎はその夢の中で、二人の男に抱かれるのだ。『正しき王』に選ばれたノアという少年、そして女神に『仕え捧げる者』であるテメレアという美しい青年に。
三文小説も真っ青な、荒唐無稽すぎる夢の内容に、鼻で嗤いそうになってしまう。良い夢とは決して言えない。むしろ悪夢と言ってもいい。何度眠りについても、この悪夢からなかなか目覚めることができない。目覚め方について、夢うつつに考えていると、ふと脳内に直接響くように誰かの声が聞こえた。
「この夢から覚めたいと思うのか?」
いつの間にか、暗闇に溶け込むようにして、褐色の肌をした男が立っていた。迷彩柄のアーミースーツを着ており、屈託のない笑みを浮かべて雄一郎を見つめている。
頭の中が霧がかったようにぼやけていて、一瞬男の名前を思い出せなかった。一拍置いて、雄一郎は唇を開いた。
「オズワルド」
雄一郎が呼び掛けると、オズは白い歯を見せて笑った。
異なる世界に飛ぶ直前、ジャングルでの戦闘中に、雄一郎を守るため手榴弾へと覆い被さった馬鹿者だ。とっくに死んでしまったというのに、亡霊のように雄一郎の夢に何度も現れてくる。
オズは軽く肩を竦めてから、軽やかな足取りで雄一郎に近付いてきた。
「夢から覚めてどうする。また、あのジャングルに戻って傭兵として人殺しに精を出すのか? 元の世界に戻ったって、待っている人はいないのに?」
不躾な言葉に、思わず鼻梁に皺が寄った。オズの言葉は、未だに亡くした妻と娘を忘れることもできず、元の世界に戻ろうと足掻く雄一郎を嘲笑っているかのようだ。
「うるせぇな、死人が説教でも垂れるつもりか」
嫌味ったらしく言い返すと、オズは困ったように肩を竦めた。そのまま睨み付けていると、オズは雄一郎にグッと顔を近付けてきた。鼻先が触れ合いそうなほど間近に、白目部分がやけに白々と輝いたオズの瞳が見える。
「なぁ、金は美味いか」
「何?」
「金は美しいか」
以前オズに聞かれたのと同じ問い掛けだ。金を対価として異なる世界の戦争に身を投じる雄一郎を、皮肉っているのだろうか。
雄一郎が呆然としていると、オズは緩く首を傾げて笑った。以前見た時と同じ、子供でも見つめるような慈愛じみた表情をしている。オズの唇が柔らかく動く。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」
「は?」
「神を愛する人々、すなわち、神の計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私達は知っている」
まるで壊れたロボットのように聖書の言葉を棒読みするオズの姿に、雄一郎は硬直した。
「何を、言ってる」
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」
何だ、このひどい夢は。神を信じていないのに、なぜ神の言葉を延々と聞き続けなければならないのか。
「やめろ、俺は神を信じていない」
首を左右に打ち振ると、突然両腕をキツく掴まれた。体温のない手にギュウッと手首を締め付けられる。氷のように冷たく、それでいて泥のように粘着いた手のひらの感触に、背筋が粟立つのを感じた。
オズが瞬きもせずに、雄一郎を見つめて言う。
「では、きみは誰に祈る」
「俺は、誰にも祈ったりなんかしない」
噛み付くように答えると、どうしてだかオズはひどく満足そうに目を細めた。
「では、きみは誰のために戦う」
続く問い掛けに、雄一郎は一瞬言葉を失った。唇を半開きにしたまま立ち尽くしていると、オズの唇が耳元に寄せられた。温度のない呼吸が、ふうっと耳に吹き込まれる。
「目を覚ませ、ユーイチロー」
そう告げられるのと同時に、扉が叩かれる音で目が覚めた。パッと目を開いて、暗がりの中、扉の方へ視線を向ける。トンッ、トンッ、と再び二度扉が叩かれた。
「オガミ隊長」
先ほどの夢から頭が抜け切れず、それが副官であるゴートの声だと気付くのに時間がかかった。
目を何度も瞬かせて、周囲を見渡す。そこは鬱蒼としたジャングルなどではなく、天蓋付きのベッドが置かれた豪奢で清潔な部屋だった。格子付きの窓から視線を空へ投げると、藍色の空に七色の銀河が棚引いている。
自分はまだ夢の続きを見ているのか。それともこれが現実なのか。一瞬区別が付かず、思考が停止する。
もう一度、控えめにドアが叩かれる。その音に反応したのか、ベッドの隣の膨らみがもぞもぞと蠢いた。
「……ゆういちろう、どうしたの……?」
布団の下から、眠たそうに目元を擦りながら出てきたのはノアだ。最初は雄一郎を死神と呼んで拒絶していたくせに、今は自分の妻だとのたまう、神に選ばれた『正しき王』の少年。銀がかって見える艶やかな白髪には、ピョンと軽く寝癖が付いている。
ノアは木にしがみ付くコアラのように、雄一郎の腰に両腕を回している。腰を抱く温かい腕の感触に、ようやく現実が戻ってくるのを感じた。
「何でもない」
「……呼び出し? 僕もいくよ……」
そう言いながらも、ノアの声はむにゃむにゃと呂律が回っていない。目も半分閉じている。
「いいから寝てろ」
そう言いながら、ノアの頭をくしゃくしゃと撫でる。雑な手付きにもかかわらず、ノアは嬉しそうに口元を緩めると、再び目を閉じて寝息を漏らし始めた。ノアが寝付いたのを確認してから、そっとその両腕を外して立ち上がる。
ドアを開くと、薄手の服を着たゴートが立っていた。軍服でないところを見ると、ゴートもおそらく起こされたばかりなのだろう。その垂れ目のせいでゴートはいつだって眠たそうに見えるので、実際寝惚けているのかどうかは判らないが。
「夜明け前にすいませんねぇ。お楽しみ中でしたか?」
「ぶち殺すぞてめぇ」
軽口に対して、わざとらしいくらい不機嫌な声を返すと、ゴートは軽く肩を揺らして笑った。だが、その笑顔はいつもよりも硬い。
それを見て、雄一郎は何も言わずに後ろ手で扉を閉めた。同時にゴートが「こちらへ」と言って歩き出す。その斜め後ろを歩きながら、雄一郎は端的に訊ねた。
「何があった」
「先ほどイヴリースが帰還しました」
その言葉に、片眉がピクリと跳ねた。
朽葉の民が住むというアム・イースに裏切りの疑いがかかり、偵察隊を向かわせて数日が経っていた。朽葉の民には女性しかおらず、女神信仰が強いため、偵察隊には仕え捧げる者であるテメレアと、直属の部下の中で唯一女性であるイヴリース、そして正規軍の女性兵士二人を組み込んだ。だが、帰還したのはイヴリースだけだとゴートは言う。
「テメレアと兵士二人はどうした」
「帰還しておりません」
「どういうことだ。殺されたのか」
自分で口に出しておきながら、ひやりと皮膚が凍えるような感覚を覚えた。戦慄きそうになる指先を隠すように背中へ回す。
ゴートは前方の扉を開きながら、口早に答えた。
「詳しい話は中に入ってからします。どうぞ」
開かれた扉の内側は、医務室のようだった。部屋の中に白いカーテンが吊り下げられており、その内側にはベッドが置かれている。そこには、ベッドにうつ伏せになったイヴリースと、傍らで治療を行っているリュカや二人の衛生兵の姿が見えた。
イヴリースの姿を見た瞬間、雄一郎は目蓋の裏が真紅に染まるのを感じた。イヴリースの細い背には、一本の矢が突き刺さったままだった。剥き出しになったイヴリースの白い背中に、幾筋にも分岐した血の川が流れている。
「歯を食い縛って」
リュカが囁くのと同時に、イヴリースが口に咥えさせられていた木の棒をキツく噛み締める。同時に、二人の衛生兵が、イヴリースの両手両足を取り押さえた。矢の根本を掴んだリュカの手に力が込められた瞬間、イヴリースの咽喉が仰け反った。押し殺された、布を切り裂くような悲鳴が室内に満ちる。
ぐち、と粘着質な音を立てて、矢尻がイヴリースの背から抜き出される。身体から矢尻が抜け出ると同時に、イヴリースの身体から一気に力が抜けた。真っ白になった顔面からは、滝のような脂汗が流れ出ている。
「アム・イースの矢です」
かすかに緑がかった色をした矢羽を見て、ゴートが忌々しげに呟く。つまり、イヴリースはアム・イースの民から射られたということだ。
イヴリースの口から木の棒が落ちて、雄一郎の足元まで転がってくる。木の棒の行方を追っていたイヴリースの虚ろな目が雄一郎の姿を映した。
「女神、さま」
オガミ隊長ではなく、イヴリースは雄一郎を女神と呼んだ。
「帰還がおくれ、申し訳ございま、せん」
「喋るな、イヴリース」
「いい、え、いいえ、ご報告を」
「治療を優先させろ」
「一刻を、争います。わたしの意識があるうちに、どうかお願い、いたします」
イヴリースの目に薄らと涙が滲んでいる。その哀願の目に、雄一郎は唇を硬く引き結び、眉間に皺を深く刻んだまま素早く頷いた。
「イヴリース、報告しろ」
「はい。テメレア様、他二名の兵士は、アム・イースに捕らえられております。アム・イースは『現在』ジュエルドを裏切っております」
歯を食い縛りながら、イヴリースが言葉を続けていく。時折生唾を呑み込みながら、できる限り声が震えないようにしている。だが、その言葉の奇妙さに雄一郎は眉を顰めた。
「『現在』というのは、どういう意味だ」
雄一郎の問い掛けに、イヴリースは一度長い呼吸を吐き出した。
「アム・イースに着いた我々は、敵兵がいないことを確認したのち、女神様の遣いと名乗り、アム・イースを治める長への面会を求めました。ですが、現れたのはアム・イースの長ではなく、一人の少女でした」
少女と聞いた瞬間、心臓がわずかに跳ねた。今まで何人もの口から聞いてきた言葉が不意に思い出される。
「その少女は、我々にこう名乗りました。私が本物の女神だと」
あぁ、と無意識に声が漏れそうになった。
『偽物女神』
裏切り者のガーデルマン中将やウェルダム卿、第二王子のロンドが雄一郎を執拗にそう呼んでいた理由がようやく分かった。彼らはとっくに見つけていたのだ、自分達の女神を。
ゴートが苦味走った声で呟く。
「その女の髪色は」
「……黒、です」
イヴリースの返答に、ゴートがらしくもなく苛立った様子で舌打ちを零す。髪の毛を片手でぐしゃぐしゃに掻き乱しながら、ゴートが続ける。
「最悪な状況ですね。アム・イースは女神に全面的に従います。その女が偽物だろうが」
「どうだろうな。その女の方が本物かもしれない」
そう考えるのが当然だろう。男の女神よりも、少女の女神の方がよっぽど自然だ。もしかしたら、雄一郎がこの世界に飛んできたのは間違いだったのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていると、不意に腕を掴まれた。イヴリースが血に濡れた手で、雄一郎の手首を握りしめている。ぬるついた血の感触に、雄一郎は大きく目を見開いた。
「貴方が、女神様です」
その目を涙で潤ませて、イヴリースが呻くように呟く。確信を持ったイヴリースの声音に、雄一郎はひどく困惑した。雄一郎を見つめたまま、イヴリースが繰り返す。
「我々の女神様は、貴方しかいません」
「なぜ、そんなことが分かる」
なぜそんなにも妄信的に信じられるのか。突然やってきた三十七歳の中年男を女神と呼べるのか。理解できず、雄一郎は眉根を寄せた。
イヴリースは口元を緩めると、静かに囁いた。
「貴方は、美しい」
雄一郎は、目を見開いてイヴリースを見つめた。イヴリースが恥じ入るように視線を伏せる。目蓋を縁取る長い睫毛がかすかに戦慄いていた。
「アム・イースは、騙されています。このままでは、女神を名乗る少女に操られ、アム・イースが滅びるまで戦わされてしまいます。どうか女神様、我が国の民をお救いください……」
祈るようなイヴリースの声に、雄一郎は答えることができなかった。どれほど言葉を掛けられようが、自分を女神だと信じることはできない。雄一郎にできるのは、忠実な部下のために女神を演じることぐらいだ。
雄一郎の腕を掴むイヴリースの手を、もう片方の手のひらで包み込む。言葉ではなく、意思が伝わるように。イヴリースは一瞬だけ目を見開いた後、ほっとしたように息を吐いた。潤んだ瞳がそっと閉じられる。
「安心して、ゆっくり休め」
静かに囁く。気を失ったイヴリースの手をベッドの上に戻して、雄一郎はリュカへ告げた。
「何があろうと死なせるな」
「もちろんです」
リュカが明快な返答をする。雄一郎は、ゴートへ視線を向けた。
「キーランドと小隊長達を全員叩き起こせ。出陣だ」
即座に大隊を編成し、夜明けと共に出陣した。大隊の構成は、イヴリースを除いた小隊長達の辺境部隊。そして、先日の王都襲撃の際、降伏した敵兵達という寄せ集めの部隊だった。敵軍の投降兵を連れて行くと雄一郎が言った時、声高に反対したのは正規軍総大将のキーランドだった。
「つい先日、王都を襲った敵兵だぞ。また裏切るかもしれん兵士を隊に組み込むなど、正気の沙汰ではない」
「では、このまま投降兵を飼い殺しにして、ただ腐らせるか。正規軍を動かせば、アム・イースは本格的にこちらを敵と見なして攻撃してくる。正規軍が動かせないとなると、寄せ集めの兵士でも戦力に組み込まなければ間に合わないだろう」
「投降兵を戦力と見なす指揮官はいない」
「ここにいる」
無謀とも思える雄一郎の返答に、キーランドはあからさまに憎悪の眼差しを向けた。眇められた隻眼が射るように雄一郎を睨み据える。
「貴様の判断が部下を死なせるということを理解しているのか」
声だけで噛み殺してくるようなキーランドの唸り声に、雄一郎はゆっくりと両手の指を組み合わせた。かすかに首を傾けて、殊更親しげな声で語りかける。
「なぁ、ジョゼフ」
まるで旧知の友のようにファーストネームを呼ばれたことに、キーランドは不愉快そうに鼻梁に皺を寄せた。胡乱げなキーランドの顔を見つめたまま、雄一郎は穏やかに続けた。
「俺は、俺の部下を信頼している。それは俺の声に応え、祖国に忠義を果たそうと投降した兵士達も同様だ。彼らと俺の気持ちは一致している。今回はそれを証明する唯一の機会だ」
歯の浮くような詭弁を、さも真理のように言い放つ雄一郎を見て、キーランドは顔を更に厳しく歪めた。
「貴様は、本当はそんなことを思っていないだろう」
「俺の言葉が本物か偽物かなんてどうだって良いことだ。大事なのは、俺の言葉を本物だと信じる者がどれだけいるかだ。今はまだ、信じる者の方が多い」
「虚言癖め」
キーランドは吐き捨てるように呟いて、人差し指を雄一郎に突きつけた。
「貴様がこの世界で何を望んでいるのかはどうでもいい。だが、この国を、ノア様をたぶらかし、壊すことだけは決して許さん。勘違いするな。女神は神ではない。全能でも、不死身でもない。我々と同じ、ただの人間だ」
その厳しい声音に、雄一郎はただゆったりとした笑みを返した。
「勘違いはしない。俺は、ただの傭兵だ」
金で動く、卑しく浅ましい人間だと、そう事実を告げる。だが、キーランドは未だ苦虫を噛み潰したような表情のままだ。その顔を見据えて、雄一郎は静かに告げた。
「正規軍にはアム・イースから距離を置いた場所にて待機していただこう。有事の際は合図を送るので、その後は総大将の判断に一任する。宜しいか?」
わずかな沈黙の後、キーランドは「承知した」と応えた。
大隊は、アム・イースから数百メートルほど離れた小高い砂丘に駐留した。視線の先に、鬱蒼とした森が見える。木々の背は高く、生い茂った葉のせいか森の中は暗く沈み込んでいた。
「陰気な場所だ」
雄一郎が感慨もなく呟くと、隣に立っていたゴートが薄らと笑みを浮かべて口を開いた。
「俺の妻の出身地ですよ」
「それは悪かった」
即座に謝罪の言葉を吐いた雄一郎に、ゴートは緩く肩を竦めた。
「いいえ、正直に言うと俺もあまりアム・イースは好きじゃないんです。あいつらは頑なに部族内での婚姻しか認めていない。俺のもとに嫁ぐと言った妻を、朽葉の民は裏切り者として追い出したんです。妻が教会で焼かれている時も、あいつらの耳には妻の断末魔が届いただろうに、一言の哀悼もなかった。身内以外にはとことん冷淡な奴らですよ」
吐き捨てるようにゴートは言った。だが、その口元には笑みがこびりついている。捩れた笑みだ。その笑みに卑屈さと浅慮さが加われば、兄であるニコライの顔に近付くと思った。
「私怨があるか」
「それなりには」
「ここでは晴らすな。堪えろ」
「分かっています。こう見えても、俺は結構辛抱強い方なんですよ」
意味深なゴートの笑みから視線を逸らして、雄一郎は望遠鏡を片目に押し当てた。木々が風に吹かれて揺れるだけで、未だアム・イース側の動きはない。砂丘に駐留している大隊は、向こうからも見えているだろうに。
「使者を送りますか」
そう訊ねてくるゴートに、雄一郎は緩く首を左右に振った。
「これ以上、人質をくれてやるつもりはない。向こうの動きを待つ」
「向こうが先に攻撃をしてきたら?」
「アム・イースは、まだジュエルドの国土だ。裏切りが誰の目にも明白になるまでは、こちらから先に攻撃することはできない。奴らに反逆の大義名分を与えるだけだ」
「一発殴られてから、正当防衛を訴えて叩き潰すつもりですか」
「それが正しい戦争の始め方だ」
そう言い切ると、雄一郎はあくびを一つ零した。夜明け前に起こされたせいで、未だ眠気がくすぶるように頭部に停滞している。
「俺は仮眠を取る。兵士達にも交代で休憩と食事を取らせろ。向こうにも見えるように炊事場で火を炊いてやれ。こちらがのんびり食事を堪能している姿を見せてやろう」
「嫌味ですねぇ」
向こうには緊張をさせておいて、こちらは暢気に食事している姿を見せつけるなんて嫌がらせでしかない。ゴートのぼやきに、雄一郎はかすかに口角を吊り上げた。
「見張りを怠るな。すべての幕営の中に、砲台を隠しておけ。何かあったら、森ごと薙ぎ払えとクラウス達に命じろ」
砲兵であるクラウスには、常に砲弾を撃てる状態にしておけと命じていた。他に動きがあれば報告をしろ、と続けざまに言い放つと、ゴートは怖い怖いと空とぼけながら離れていった。
雄一郎は、物資の山に積まれていた毛布を一枚掴むと、砂丘に数本だけ立った木に近付いた。木の根本に寝転がると、すぐに意識が遠ざかっていった。
目を覚ました後、雄一郎が薄い粥を啜っている時に、見張り兵が抑えた声をあげた。
「森から二人出てきました」
望遠鏡を片目に当てたままそう言った見張り兵は、王都襲撃の際に投降した兵士の一人だった。まだ年若いが、頭の回転の速さと、上官に対して物怖じせずに意見を述べる性格を気に入って、ゴートの下につけた。兵士になる前は、故郷の役場で会計士をしていたらしい。
「黄がかった髪色から、二名とも朽葉の民で間違いないかと思われます。それぞれ両腰に一本ずつ、二本の短刀を所持していることを確認。こちらまでの距離は残り五百ロート程度。十ワンス程度で到着すると推測します」
五百ロートということは、一ロートが大体二メートルだから、元の世界の単位で換算すると約一キロということか。ただ、ワンスという単位には聞き覚えがなかった。
「ワンスとは?」
雄一郎の問い掛けに、元会計士の兵士は一瞬面食らったように目を瞬かせた。
一エイトの三十分の一です、と答えが返ってくる。一エイトが大体三十分だから、一ワンスは約一分ということか。まだまだ知らない言葉が多いと思いながら、雄一郎は一息に薄い粥を飲み干した。
「では、おもてなしの準備をしておけ」
茶化すような雄一郎の台詞に、ゴートがハッハッとわざとらしい笑い声をあげた。
それから約十分後に、二人の女が駐留地にやってきた。
二人の女はよく似た顔立ちをしていた。一人の女は長い髪を後頭部で一本に結っており、もう片方は髪を耳下で短く切りそろえている。二人とも涼やかな一重の目をしており、褪せた黄の髪と透けるような緑の目をしていた。姿形は二十代前半に見える。
「突然の拝謁失礼いたします。私は、キキ・リリィと申します」
長い髪の女が生真面目な口調で言った。続けて、ショートカットの女が口元に柔らかな笑みを浮かべたまま唇を開く。
「クク・リリィと申します。私達は、朽葉の民の長の娘です。お目にかかれて光栄です」
長の娘ということは、目の前の二人は姉妹か。
「わざわざご足労いただき感謝する。私はオガミユウイチロウといいます。宜しければ、そちらにかけてください」
雄一郎は胡散臭いほどにこやかな表情を浮かべ、テーブルの向かい側の椅子を二人にすすめた。その椅子の数メートル後ろには、部下のヤマとベルズが警戒するように立っている。
キキとククは一瞬だけ躊躇いがちに目を合わせたが、何も言わずに椅子に腰掛けた。もしかしたら離れていても意思が伝達できるという朽葉の民の特殊な能力を使い、一瞬でお互いに言葉を交わしたのかもしれない。
屋外に並べられたテーブルを挟んで対峙すると、すぐさま部下のチェトが人数分の白湯を運んできた。雄一郎は白湯を一口含んでから唇を開いた。
「白湯ですがどうぞ」
「いいえ、お気持ちだけで結構です」
キキが撥ねのけるように返す。その返答に、雄一郎は口角を吊り上げた。
「毒なんか入れてないですよ」
笑い交じりの声に、キキとククが雄一郎を見つめる。まるで何かを確かめるような眼差しだ。
「一体どういうつもりでしょうか」
口火を切ったのはキキだった。
「どういうつもりとは?」
とぼけるように軽く肩を竦めると、キキがその目に怒りを滲ませた。
「貴方がたは、アム・イースに圧力を掛けているつもりですか」
「圧力などとんでもない。我々は捜し物をしに来ただけだ」
「捜し物とは何でしょうか」
ククが探るような声音で訊ねてくる。雄一郎は組み合わせた両手の上に下顎を乗せて、柔らかく唇を開いた。
「俺の部下を返してもらおうか」
雄一郎の冷静に脅す口調に、キキとククの身体が一瞬ピクリと跳ねたように見えた。
「二人の女性兵士と仕え捧げる者。三名の身柄をお返しいただこう」
「何のことだか――」
「しらを切るつもりか。ならば、アム・イースを攻撃する」
「お待ちください!」
雄一郎がゴートへ指示するように片手を上げた瞬間、ククが声を張り上げた。雄一郎は白けた表情で、ククを眺めた。
「何を待てと言うんだ? 貴方がたも、こうなることは最初から分かっていたはずだ。だから、俺の部下を矢で射たんだろう?」
イヴリースの背に突き刺さっていた矢を思い出す。白い背から溢れ出る血の川が目蓋の裏に蘇った瞬間、憎悪が咽喉をざらりと舐めるのを感じた。キキがばつの悪そうな声で呟く。
「彼女を傷つけるつもりはありませんでした。脱走を止めるために射た矢が当たってしまって……」
「言い訳を聞くつもりはない」
雄一郎はピシャリと切り捨てた。キキとククを見据えたまま言葉を続ける。
「敵軍を匿ったうえに、俺の部下を傷つけておいて、自分達は国を裏切ってないとでも主張するつもりか。都合の良いことばかりほざくな。お前達の選択肢は二つだ。大人しく俺の部下を返すか、ジュエルドかアム・イースのどちらかが滅ぶまで戦うか」
いざとなったら国土を焼け野原にすることも辞さないと言わんばかりの雄一郎に、ククは縋るような声をあげた。
「……一エイトほどお時間をください。仲間と話し合います」
「馬鹿を言うな。そんなに待てるか」
「では、十ワンス」
「五ワンスだ。それで結論が出ないようなら、攻撃を開始する」
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