傭兵の男が女神と呼ばれる世界

野原 耳子

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2巻

2-2

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 五分と言い切るなり、雄一郎はゴートを呼び寄せた。

「兵達の戦闘準備は」
「すでに整っています」

 ゴートの歯切れの良い返答に、雄一郎は笑みを浮かべて鷹揚おうよううなずいた。目の前ではキキとククが押し黙ったまま、じっとテーブルの上を見つめている。その頬の奥で、わずかに舌が動いていた。頭の中で、森にいる仲間達と話し合っているのか。
 雄一郎は、残った白湯さゆをゆっくりとすすった。午後の日差しがやけにまぶしい。目を細めて空を見つめていると、キキが唇を開いた。

「二人の女性兵士を解放いたします」
つかささげるもの、テメレアは」

 解放するつもりはあるのかとにらみ付けると、キキとククは困惑したように顔を合わせた。しばしの沈黙の後、ククが躊躇ためらった表情でつぶやく。

「あの、貴方は……女神様なのですか?」

 雄一郎を女神か邪神か計りかねているような、畏怖いふにじんだ声音だった。

「お前達には、俺がどう見える」

 口角を吊り上げて、逆に問い返す。雄一郎自身にすら、自分が女神なのかなど解らなかった。

「分かり、ません。黒い髪に、黒い瞳……アオイ様と同じで……。私達は貴方を偽物だと思ってここに来たのに、実際見たら分からなくなってしまって……」

 ククがおびえたような口調で言う。男の女神なんて偽物に違いないと思って来たのに、今となってはどちらが本物の女神なのか判断できなくなって混乱しているようだった。困惑するククに構わず、雄一郎は端的にたずねた。

「アオイ様というのが、お前達の女神か?」
「……そう、です」
「そのアオイ様とやらが、テメレアを解放することを拒んでいるのか」

 続けざまに問い掛けると、ククは黙り込んだ。複雑そうな表情で下唇を噛み締めている。雄一郎は小さく溜息ためいきを漏らして、斜め後ろに待機しているゴートに向かって片手を上げた。

「テメレアを返さないのであれば交渉決裂だ。森にありったけの砲弾を撃ち込んでやれ」
「了解しました」

 ゴートが待っていましたとばかりに軽快な口調で答える。だが、ゴートが合図するよりも早く、ククが再び声をあげた。

「待ってください。アオイ様を説得いたします」

 流石さすがに国との全面戦争は避けたいのか、執拗しつように引き留めてくる。雄一郎はククを冷たく見据えた。

「説得のための時間は、すでに与えたはずだ」
「私達の言葉では足りないのです。貴方の口からアオイ様を説得していただければ……」

 ククの言葉に反応したのはゴートだった。笑いを含みながらも威圧的な声音でゴートが言い放つ。

「小娘一人説得できない自分達の無能さを棚にあげて、我々の女神様にそんなくだらない役割を押しつけるつもりか」

 お笑い草だな、とばかりにゴートがくぐもった笑い声を漏らす。雄一郎が制するように片腕を伸ばすと、即座にゴートは笑い声を止めた。
 冷や汗が浮かんだキキとククの顔を眺めたまま、雄一郎はゆっくりと唇を開いた。

「良いだろう。ただし、お前達のうち一人は人質としてここに残ってもらう。もう一人は、俺をアム・イースへ案内してもらおう。日が暮れる前に、俺や俺の部下達がこの駐留地に戻らなかった場合、ここに残った人質の首を切り落とし、アム・イースへの攻撃を開始する」
「我々がそこまで譲歩してやる必要はありますか」

 ゴートが嫌そうにたずねてくる。ゴートの不服げな顔を見上げて、雄一郎はなだめるようにつぶやいた。

「このままだと話が平行線のまま進まないだろう」
「それは我々の責任ではありませんよ」
「分かっているさ。お前の気持ちも分かっているつもりだ」

 まるで友人と語るような親しみを込めて、雄一郎はゴートに答えた。雄一郎の穏やかな声音に、ゴートの表情がわずかにやわらぐ。自身の跳ねた髪の毛を軽く片手でかき混ぜながら、ゴートがつぶやく。

「オガミ隊長がいない間、大隊の指揮は俺に任せてもらえますか」
「お前しかいないだろう」
「いざという時に、人質の首を切り落とすのも?」

 ゴートがちらとキキとククを見やる。途端、キキとククはうつむいた。その細いあごに汗が伝っているのが見える。

「お前に任せる。だが、はやるなよ」

 雄一郎が言うと、ゴートはにっこりと満足げな笑みを浮かべた。まるでプレゼントの箱を与えられた子供のようだ。その箱を開けるのが今から楽しみで仕方ないという表情。
 うつむいたままのキキとククを見やって、雄一郎は静かに問い掛けた。

「お前達は姉妹か」
「……ククは、私の妹」

 キキが答える。その返答に、雄一郎はふぅんと興味なさそうな相槌あいづちを返した。

「では、どちらがここに残るか今すぐ決めろ。片割れを殺したくないのなら、死ぬ気で俺を守れ」


 森の中は、明るく清涼とした空気が流れていた。遠くから見ると、入った者を二度と出さない樹海といった雰囲気なのに、実際に森に入ってみるとその心地のよさにとがっていた心がほぐれていく。大きく息を吸い込むと、湿った土と清らかな木々の匂いが肺いっぱいに満たされるのを感じた。
 木の葉の隙間からは、燦々さんさんとした太陽の光が足元にこぼれ落ちている。宝石のように散らばった光を眺めていると、ふと娘がよくやっていた遊びを思い出した。「けん・けん・ぱ」と拍子をつけながら、雨上がりの水たまりを踏まないように跳ねる小さな姿が目蓋まぶたの裏に浮かび上がる。

『おとうさん、はやく、はやくっ』

 黄色いレインコートを着た真名まなが振り返って、雄一郎を呼ぶ。だが、その顔は、ぽっかりと穴が開いたように思い出せなかった。二度と戻ってこない過去を辿たどるように、ぼんやりと足元を眺めていると、ふとキキがたずねてきた。

「貴方は、自分が無謀だとは思わないのですか?」

 詰問きつもんするような口調で問い掛けるその顔は、苦しげにゆがんでいた。

「私が裏切って、貴方を殺すとは思わないのですか? 交渉が上手くいかなくて、自分が人質になるとは考えなかったのですか?」

 キキの言葉に、雄一郎はゆっくりと立ち止まってから唇を開いた。

「まず、俺が死ぬぶんには問題ない。俺がいなけりゃいないで、残った連中が上手くやるだろう。俺が人質になった場合も、アム・イースと全面戦争になるだけで当初の指示と変わりない。それに何よりも、お前は俺を裏切らない」

 最後は確信に満ちた声で雄一郎は答えた。キキがなぜとばかりに雄一郎を凝視してくる。

「お前には、妹を見殺しにする覚悟がない」

 だから、俺を裏切ることはできない。そう突きつけると、キキはわずかに息を呑んだ。悔しげに顔をゆがめて、雄一郎をにらみ付けている。
 先ほど駐留地で別れる際の、キキとククの様子を思い出す。どちらが駐留地に残るかという二人の話し合いは長くはなかった。ククが自分の方が機動力が劣ることをあげて、人質として残ると言ったのだ。キキは泣き出しそうな顔をして、首を左右に激しく振った。
 その後、二人の間でどんな話し合いが行われたのかは解らない。キキとククはお互いの両手を握り締めたまま、口をつぐんで見つめ合っていた。言葉は発さず、おそらく心で会話をしていたのだろう。結局、妹の言い分にキキは折れたようだった。出発の時まで、キキは妹を固く抱き締めたまま離さなかった。

「俺を裏切っても、殺してもいい。だが、その代わり、お前の妹は死ぬ。俺の部下は、必ず命令を遂行する。お前の妹の首を切り落とし、アム・イースを根絶やしにする」

 雄一郎の淡々とした言葉に、キキはその目にありありと憎悪を浮かべた。うめくようにキキがつぶやく。

「貴方は――下衆げすだ」

 真っ直ぐな罵倒ばとうがなぜだかひどく心地よかった。自分に最もふさわしい称号がもらえたような気分だ。女神ではなく、ただの下衆げす。それが自分だった。
 怒るどころか嬉しげに笑みを浮かべた雄一郎を見て、キキが気味悪そうに唇をらせる。

「私は、貴方を女神とは思えない」
「そうか」

 キキの率直な言葉に、投げやりな相槌あいづちを返す。だが、キキはその直後苦しげに唇を噛み締めた。

「でも、ククは迷っている。貴方を女神だと思いかけている」

 雄一郎は顔を上げて、まじまじとキキを見つめた。

「ククは、私に貴方を守るようにと言った。もし貴方を死なせてしまえば、朽葉くちばの民は永遠に後悔すると。未来永劫、許されることはないと」

 キキが射貫くように雄一郎を見据える。その緑色の目には、激情が渦巻いていた。

「私は貴方を信じていない。だが、私の妹は信じている」

 ほとんど怒鳴るような口調で、キキは続けた。

「だから、私は貴方を必ず守る」

 そう吐き捨てると、キキはさっさと身をひるがえして歩き出した。迷いを消し去ったように真っ直ぐに伸びたキキの背を眺めていると、何とも言えない苦々しい気持ちが込み上げてくるのを感じた。雄一郎は舌打ちを一つ漏らして、再び足を踏み出した。


 森の中を散々歩いた後、ようやく高い木の上に建てられた大量の住居が見えてきた。まるで鳥の巣のように、木で組まれた家が縦横無尽に建っている。家と家の間には細い橋がかけられており、それぞれの家からは長いつるが地上へ垂らされていた。
 密集した鳥の巣のような住居を見上げていると、一本のつるつかんだキキが呼んだ。

「こちらに」

 近付くと、雄一郎につるつかむよううながしてくる。雄一郎がつるつかむと、キキの片腕が雄一郎の腰に回された。まるで非力な女を抱き留めるような、力強い腕だ。

「しっかりつかんで。落ちないで」

 そうつぶやかれるのと同時に、ぐんっとつるが勢いよく上へと引き上げられた。どうやら滑車か何かでつるを巻き上げているらしい。木の上までロープが巻き上げられると、広いバルコニーのような場所に身体を下ろされた。目の前には、枝の隙間を縫うようにして建てられた大きな屋敷が見える。

「どうぞ中へ」

 口早に言い放って、キキが先導する。雄一郎は歩を進めかけて、ふと立ち止まった。辺りから、雄一郎を見つめている何百もの視線を感じる。振り仰ぐように視線を巡らせると、木々の上に建てられた家の窓からこちらをのぞき見ている朽葉くちばの民達の姿が垣間見えた。皮膚にまとわりつく視線に、雄一郎はかすかに頬をゆがめた。視線を振り払うように、大股で歩き出す。
 屋敷の中に入ると、天井は吹き抜けになっており、木漏れ日がそのまま屋敷内に降り注いでいた。視線を上げれば、数羽の鳥が空を横切っていくのが見える。
 大きな扉の前でキキが立ち止まった。扉の前には、門番であろう一人の朽葉くちばの民が立っている。視線を滑らせたキキに門番は素早くうなずくと、扉を数度叩いてから唇を開いた。

「アオイ様、よろしいですか?」

 問い掛けると、すぐに部屋の中から間延びした声が届いた。

「はぁい、どうぞー」

 扉が開かれると、部屋の中央に大きな円卓が置かれているのが見えた。その円卓の前に、紺色のセーラー服を着た少女が座っている。
 ストレートの黒髪を肩上まで伸ばした、どこにでもいる平凡な女子高生という印象だ。鼻は低いが目はパッチリと大きく、小さめの唇はぷるんとうるおっている。どちらかと言えば可愛らしい容姿をしているが、突出しているほどではない。雑誌の読者モデルとして一度だけ起用されそうな見た目だな、と思った。
 雄一郎が無遠慮に視線を送っていると、少女はパッと人懐っこそうな笑みを浮かべた。

「あ、初めまして! わたし、葛城かつらぎあおいっていいます!」

 屈託のない無邪気な声だった。葵と名乗った少女は、慌ただしく椅子から立ち上がると、小走りで雄一郎に近付いてきた。身長は百五十センチ台半ばだろうか。
 黙り込んだままの雄一郎を見上げて、葵が不安そうに眉尻を下げる。

「あの……黒髪ってことは、おじさんも日本から来たんですよね」

 おどおどと問い掛けてくる声に、雄一郎はようやく唇を開いた。

「俺は日本人だが、この世界に飛ばされた時には南米のジャングルにいた。きみは?」

 え、ジャングルぅ⁉ と葵が頓狂とんきょうな声をあげる。

「わたしは、学校の屋上にいたはずだったのに、気が付いたらこの世界に来てたんです。助けてくれた人が言うには、わたしは川を流されてたみたいで……」

 川を流されていた、という葵の言葉に、雄一郎は片眉を跳ね上げた。
 もし何らかの間違いで、異なる場所にいた二人が同時にこの世界へ飛ばされたのだとしたら。そして、一人は地下神殿に現れ、もう一人は地下神殿から続く川に流されたのだとしたら――どちらが本当に女神として呼ばれた者なのか判らない。
 雄一郎の険しい表情に気付くこともなく、葵は迷子の子供のように雄一郎の袖口をきゅっと指先で握り締めた。

「あの……ここ全然知らない人ばっかで怖くって……おじさん、名前なんていいますか……?」

 心細そうな葵の声に、雄一郎は眉尻を下げた。どうしてだか葵を見ていると、自分まで元の世界が恋しいような気持ちにさせられる。

「尾上雄一郎だ」

 答えると、葵はぱちぱちと大きく二度ほどまたたいた。それから、頬をほころばせて「雄一郎おじさん」と嬉しそうにつぶやいた。
 部屋に二人きりになると葵は更におしゃべりになった。時々テーブルに用意された花の香りがするお茶を飲みながら、身振り手振りを交えて、この世界に来てからのことを口早に説明していく。
 葵は都内の高校に通う十六歳の少女で、学校の屋上で友達と昼ご飯を食べていた時に、突然こちらの世界に飛ばされたということだった。

「わたし泳げないから、溺れて気を失っちゃって……。そしたら、川岸に倒れてたわたしを見つけてくれた人が、ここなら安全だからってアム・イースに連れてきてくれたんです」

 葵のつたない説明を聞いた後、雄一郎は気になっていることを口にした。

「悪いが、一つ聞いてもいいか?」
「えっ、あ、はい!」
「先日、反乱軍がアム・イースにかくまわれたという事実がある。きみはそれを知っているか」
「はいっ、もちろん。あの、なんだか困ってるみたいだったので、ここに隠れててもいいですよって言ったんですけど……」

 悪気はないが結果的に最悪となった葵の行動に、溜息ためいきも出なかった。雄一郎はひたいを片手で押さえて、込み上げてくる頭痛に耐えた。雄一郎の様子を見た葵が慌てたように声をあげる。

「あのぉ、ダメだったんですか? わたし、みなさんを助けられたらと思って……」

 つまり反乱軍とは思いもせずに、人助けのつもりで手を貸したということか。その浅はかさにまいを覚えるが、ただの女子高生にそこまでシビアな判断を求めるのもお門違いというものだろう。

「きみは、この世界について誰かから説明を受けているのか?」

 改めて問い掛けると、葵は唇を真っ直ぐに引き結んだ。

「ええっと……たぶん教えてもらったと思います」
「どういうことを?」
「あの、わたしはこの世界に呼ばれた女神で、正しい王様を勝たせて、それから……」

 そこまで言ったところで、葵の頬がかすかにピンク色に染まった。両拳りょうこぶし膝頭ひざがしらを押さえて、もごもごと口ごもっている。そのさまを見て、雄一郎はゆるく息を漏らした。

「王の子を身ごもるところまで聞いたのか」
「は、はい……」

 雄一郎が言葉を続けると、葵は恥ずかしそうにか細い声で答えた。

「でもっ、それでこの世界の人達が救われるなら、わたしやります! 頑張れます!」

 無邪気な綺麗事に雄一郎は一瞬頬をゆがめそうになった。頑張れます、という言葉の意味を葵は本気で考えているのか。子供を産むだけではなく、自分自身が戦争に加担し、それが殺戮さつりくに結びつくかもしれないということを。

「頑張るのか」

 苦虫を噛み潰したような雄一郎の声音に、葵は更に意気込んだ声をあげた。

「はいっ。わたし、こんなこと言うのも格好悪いんですけど……元の世界では全然目立たなくて、いるかいないか分からない透明人間だったんです……。でも、この世界ではわたしにやれることがある。誰かの助けになれるって分かって、すごく嬉しかったんです。だから、わたし、この世界で自分にできることなら何でもやりたいって思うんです」

 前向きな葵の気持ちを聞けば聞くほど、雄一郎の心は冷めていった。
 人のためを思って女神の役割を果たそうとする少女と、金のために自らを女神とうそぶき人を殺していく男。どちらが女神として相応ふさわしいのかなんて考えなくても判る。
 葵がおずおずと言葉を続ける。

「あの……テメレアさんに聞いたんですけど、わたしがいなかったせいで男の人が女神だと勘違いされて、わたしの代わりに色々してくれてたって……それって雄一郎おじさんのことですよね?」

 勘違いという言葉に、一気に引導を渡された気持ちになる。しかも、それを言ったのはテメレアなのかと思った瞬間、ずんと腹の奥に重いものがかった。

「そう、だな」

 った声が漏れる。こんな自分の娘ほどの年齢の少女の言葉に、いとも簡単に狼狽うろたえている自分が情けなかった。
 葵がくしゃりと泣き出しそうな顔になって、小さく頭を下げる。

「わたしのせいで、雄一郎おじさんに迷惑かけてごめんなさい」
「別に、大したことはしていない」

 そうだ、大したことはしていない。いつも通り見知らぬ誰かを殺して、二人の男に抱かれたことぐらい大したことではない。元の世界に戻れば、きっと雄一郎はすぐに忘れることができる。今までずっとそうやって、忘れてあきらめて生きてきたのだから。
 押し黙った雄一郎を見つめて、葵はふと思い出したように両手をぽんと合わせた。

「あっ! よければ、おじさんだけ元の世界に戻してもらえるように神様にお願いしましょうか?」

 ガタッと椅子が揺れる音が聞こえた。大きく見開かれた葵の瞳に、椅子から勢いよく立ち上がった自分の姿が映っている。雄一郎は両手をテーブルの上に置いたまま、葵を見据えた。

「元の世界に戻れるのか」
「え、はい。たぶん、神様にお願いすれば……」
「その神様っていうのは」

 上擦うわずりそうになる声を抑えてたずねる。葵は、えーっと、と間延びした声をあげて続けた。

「そっか、おじさんは会ってないんですね。わたしがこの世界に飛ばされた時に、夢の中みたいなところで神様とお話ししたんです」

 再び血の気が引くような感覚を覚えた。もしそれが真実だとしたら、雄一郎がこの世界に呼ばれたのは完全に間違いということになる。雄一郎は、神などには会っていないのだから。

「ファンタジー漫画に出てくるみたいな真っ白なおひげをはやしたおじいさんで、今でもたまに出てくるから、たぶんおじさんのことをお願いすれば大丈夫だと思うんです。雄一郎おじさんは、元の世界に帰りたいんですよね?」

 問い掛けられた言葉に、雄一郎はどうしてだか素直にうなずくことができなかった。
 本当はどうすればいいかなんて解り切っている。女神の役割を葵に任せて、自分はこの世界から消えればいい。軍事方面では頼りないが、ゴートや小隊長達が上手く葵をフォローするだろう。
 ノアだって嫌々こんなオッサンを抱くよりも、葵のような少女を妻に迎える方が嬉しいはずだ。テメレアも、こんな暴力的な男に仕えるよりも、葵の世話をする方がずっと幸せになれる。
 雄一郎は、元からこの世界に未練などない。これ以上、この世界に残る理由はない。それなのに、どうして唇が動かない。

「……テメレア」

 強張こわばった唇から、助けを求めるようにぽつりと名前がこぼれた。そんな自分自身がひどくみじめに思えた。葵がゆるく首を傾げる。

「テメレアさんですか?」
「テメレアを、呼んでもらえるか」

 雄一郎のぎこちない声に、葵は気まずそうに眉尻を下げた。

「それが……テメレアさんは、もう雄一郎おじさんに会いたくないって言ってて……おじさんのことが怖いって……」

 一瞬心臓に杭が突き刺されたかと思った。身体が軽くって、首を絞められたかのように咽喉のどからかすれた呼吸音が漏れる。
 自分は傷付いているんだと自覚した瞬間、ひどく泣きたい気持ちが込み上げてきた。今まで散々テメレアやノアの気持ちを足蹴あしげにしてきたというのに、いざ自分が見限られたら傷付くなんて調子がいいにもほどがある。雄一郎に傷付く権利などない。悲しいなどとは思ってはいけない。
 唇を鈍く動かして、そうか、と答えようとする。だが、言葉を吐き出す前に、不意に幼い声が聞こえた。

『うそつき』

 最初、その声がどこから聞こえてきたのか判らなかった。

『うそつき。テメレアがそんなこと言うわけないだろう』

 再び、幼いがりんとした声が響く。雄一郎はその声に聞き覚えがあった。

「ノア?」

 雄一郎が宙へ向かって呼び掛けると、葵は慌てたように椅子から立ち上がった。

「ノアって、王様のこと?」

 せわしなく辺りを見渡しながら、葵は泣き出しそうな声をあげた。

「わたし、ウソなんかついてないよ」
『それもウソだ。お前はウソばかり言ってる』
「なんで? なにがウソだって言うの?」

 葵の目は、すでに涙でぐずぐずにうるんでいた。だが、少女の悲痛な姿に哀れみの欠片かけらも見せず、ノアははっきりと答えた。

『お前は女神じゃない』

 その時、気付いた。ノアの声は、雄一郎の左手首にある金のくさり、その中央にはめ込まれた白い石から聞こえてきている。その金のくさりは、先日ノアから大事なものだから絶対に失くさないように、と言われて贈られたものだ。石の中から、確信に満ちたノアの声が響く。

『雄一郎がこの世界の女神だ』

 その瞬間、ひゅうぅう、と空っぽの洞穴に風が入り込むような音が聞こえた。葵が目を見開いたまま、咽喉のどをひゅうひゅうと鳴らしている。

「ちがうよ、わたしが女神だよ。だって、みんなそう言ってるもん」

 子供が駄々をねるみたいな口調だ。だが、その声は、どこか空虚さをはらんでいるように聞こえた。

『ちがう、お前じゃない』
「そんなことない。だって、普通に考えておかしいじゃない。女の人ならともかく、おじさんが女神だなんて変だよ。それを受け入れてる人達もみんな頭おかしいよ。みんな、みんな、おじさんよりわたしの方がずっと女神に相応ふさわしいって、きっと思ってくれるよ」

 ショックからか、葵の言葉には隠された本音があふれ出ていた。だが、その言葉は正論だと思った。中年男が女神だなんておかしい。雄一郎自身もそう思えたからこそ、息が苦しくなった。
 石の中から、苛立いらだったノアの声が聞こえてくる。

『みんなとは誰のことだ。雄一郎は、民からもう十分女神として認められている』
「そんなの他の女神がいないから仕方なくじゃない。この国の人達だって、女の子の方が良いって思うに決まってる。王様だって、わたしに会ったら、絶対、絶対にわたしの方がいいって言ってくれるよ」

 強気な言葉に反して、その声音は自信に満ちているようには聞こえなかった。私はそう信じたいと、どこか自分自身の言葉にすがり付いているような口調だ。
 葵の口元に薄笑いが浮かんでいる。明るい少女には似合わない、どこかびを含んだ卑屈な笑みだ。
 その時、石の中から雷鳴のような鋭い声がとどろいた。

『僕の気持ちをお前が勝手に決めるな! 僕はもう雄一郎を選んだ! 雄一郎以外の者を女神と認めることはない!』

 ノアの叫び声に、雄一郎は思わず自身の左手首に視線を落とした。その言葉に、どうしてだかこごえ切っていた心臓が柔らかくほどけていくのを感じる。
 葵が一歩後ずさる。だが、その唇はなおも足掻あがくように動いた。

「おかしいよ。絶対に、こんなのおかしい。だって、赤ちゃん作らなきゃなんないんだよ。男同士なのに、おじさんと……」

 葵の身体がわなわなと震えている。そして、大きく見開かれた葵の瞳が雄一郎を真っ直ぐに捉えた。まるで気味の悪い化け物でも見るような、怖気を含んだ眼差まなざしだ。

「雄一郎おじさん、おじさんは女神なんかやりたくないよね? 元の世界に帰りたいんだよね? そうだよね?」

 そうだと言って、と祈るような葵の問い掛けに、雄一郎は一瞬言葉を失った。
 女神なんかやりたくない。劣勢の戦争に巻き込まれるのなんて最悪だし、男に抱かれるのなんざ反吐へどが出ると思っていたはずだ。それなのに、なぜ自分は迷わず帰りたいと答えられないんだろう。
 雄一郎は、じっと自身の左手首を見つめた。どうしてだか、今すぐノアの顔を見たいと思った。

「ノア……俺で、いいのか?」

 俺でなくてもいいはずだ。俺じゃない方がいいはずだ。そう思ってきたはずなのに、なぜこんな矛盾むじゅんした質問をしているのだろう。すると石の中から、はっきりとした声が届いた。

『雄一郎がいいんだ。雄一郎じゃなきゃ、ダメなんだよ』

 ノアの迷いのない答えに、心が震えた。嬉しいとも悲しいとも区別がつかない。ただ、鼓動が出鱈目でたらめに跳ねる。雄一郎は、左手で自身の胸元を押さえた。
 葵が呆然とした表情で、雄一郎を見ている。雄一郎は葵を見返すと、静かにつぶやいた。

「……悪いが、今は戻らない。まだ、この世界でやることがある」


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