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≪ 鬼 ≫

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 その後、宮中に戻った篁は、唯泉の指示で左大臣家から連れ出した女性の親族である女官や女房たちを一か所に集めた。みな翠子のところに文を持って行った女性である。

 寺に母や姉がいると伝え、篁はまず無事を告げた。

「皆無事だ。薬を飲んで養生すればすぐに元気になるであろう」

 彼女たちは一斉に泣き出した。

 そして喜び、人知れず牛車に乗って寺に送り届けられた。

 それぞれが、左大臣から戻れずにいるのは自分の家族だけだと思っていたらしい。

 抜け目のない左大臣は、横の繋がりを持たせなかったのである。



..***



「片付けが遅れて申し訳ありません」

 申し訳なさそうに女官が頭を下げる。

「いえいえ、お気になさらず」

 翠子は首を傾げる。

 なにかあったのだろうか。燈台の油やら食事やらと世話をしてくれる女官たちの動きがいつになく慌ただしい。

 それとは関係ないはずだが、朱依もぱたぱたと忙しそうに小走りに来た。

「姫さま、大変ですよ」と声を落として息を切る。

「蝶の扇の人と衣の人、文で悩んでいた方たちのご家族、左大臣家から救出されたのですって」

「え、それじゃあ……」

 朱依が聞いた話は、実は少し違う。

 簀子を行き交う女官のひとりを捕まえて聞いたところ、彼女は『左大臣さまのお屋敷で何人もが一緒に物の怪に憑りつかれていたそうで。白の陰陽師さまがお祓いのためにどこかに連れ出されたそうですよ』と言っていた。

 家族が呼び出されたらしく、宮中の女官も大勢いて一斉に宿下がりをしたのだという。

 どうやらそれで人出不足となり、皆忙しいらしい。

「噂なので人数は定かではありませんが、例の方たちも宿下がりをしたそうです」

「そうなのね」

 ひとまずよかった。

 いったいなにがあったのか、早く唯泉から直接話を聞いてみたいと思っていると、唯泉ではなく頭中将がふらりと現れた。

 彼は左大臣家の御曹司だ。つい視線が冷たくなる。几帳を背に翠子は斜に構えた。

「本日はしばしお別れのごあいさつに参りました」

 頭中将はにっこりと微笑む。

「このところ体調が思わしくなく、しばらく明石に行こうと思いましてね」

 言われてみればいくらか顔色が悪いような気がするが。

 疑わしそうに目を細める翠子を、頭中将はクスッと笑う。

「夜になると熱が出るのですよ。ぶるぶると寒気がして」

 だからと言ってなにをしに来たのだろうか。

 話をしたのは丹波の栗をもらった以外に一度だけ。別れのあいさつを交わすほどの仲ではない。

 翠子は無言のままだが頭中将は気に留めるわけでもなく話を続ける。

「あなたに、これを差し上げようと思いましてね」

 頭中将は扇をすっと差し出した。

 ふたりの間に座っている朱依が受け取り、ぱたぱたと音を立てゆっくりと扇を広げてから、翠子の前に置く。

 扇には春を思わせる桜の舞う美しい絵が描いてある。桜の花びらの間を縫って飛び交う蝶が、ひとつふたつ……。

 やはり蝶がいると思って扇を見ている翠子の気持ちを知ってか知らずか。

 頭中将は呟くように「私は蝶が好きでね」と、言う。

「儚くて、美しくて。まるであなたのようだ」

 瞼を上げて頭中将を見ると、彼は口もとに薄い笑みを浮かべ、感情を見せない瞳で翠子を見ていた。

「いただく理由がありません」

「理由など考えずどうぞ受け取ってください。美しい女人に美しい物を贈るのが好きなだけですから」

 熱量のない淡々とした声だ。

 相変わらずとらえどころのない表情を浮かべ、空を見上げた彼は「あなたはいつまでここに?」と聞く。

「わかりません。帰っていいと言われたら、すぐにでも帰ります」

「そうですか。ではいずれ、会いにうかがいましょう」

 頭中将は「あなたはあのとき」と翠子を振り返った。

「もし丹波の栗に毒が入っていたら、どうするおつもりだったのです?」

 しばし見つめ合った。

「さあ、どうでしょう」

 あのとき篁が言ったように淡々と毒を盛る人物がいたとしたら、どうなっていただろう。

(たとえば頭中将に毒を盛られたら……)

 気づかなかったかもしれないと翠子は思う。それくらい、目の前にいる頭中将の心が読めない。

「死んでもいいと思ったのではないですか?」

 頭中将はジッと翠子を見る。

 心は見えないけれどほかの人と彼とはなにかが違う。

 感情のない傀儡のような暗い瞳に吸い込まれそうになり、無意識のうちに胸もとに手をあてた。

 忍ばせてある輝く石を感じ、煌仁の言葉が浮かぶ。

『姫の輝きは、私の希望だ。見果てぬ夢だ』

 じわりと込み上げてくる熱い思いのまま翠子は答えた。

「いいえ――。私は生きていきますよ」

(死んでもいいと思うのは、あなたのほうではないですか?)

 心でそう答えた。

「それは失礼いたしました」

 ハハッと顎を上げて楽しそうに笑った頭中将は、立ち上がり、甘い香りだけを残し、簀子へ消えていった。

 残ったのは蝶の扇。

「なんなのでしょう」

 顔をしかめて朱依が睨む扇に指先を伸ばし、翠子はそっと触れた。

 蝶の扇はひんやりと冷たいだけだ。悪意も愛情も、悲しみも、なにひとつ感じない。

「何も感じないわ……。怖いくらいに」

 強いて言うなら虚無か。

 彼の瞳のように闇のようながらんどうの世界。

 手に取ってみると、頭中将の香りとは違う蜜のように甘い香りがふわりと立ち上った。

「おかしな人ですね」と朱依が首を傾げた。

 扇に意味があるのかないのか、翠子にも皆目見当がつかない。さりとて使う気にもなれず、扇は厨子棚にしまい込んだ。

 ときを置かずして今度は唯泉が顔を出した。

 開口一番、「皆助かったぞ。安心するとよい」と笑う。

 彼女たちから物の怪を祓うために連れ出したというのは建前で、女性たちは信用できる寺で治療を受けていると、唯泉はひと通りの説明をしてくれた。

 物の怪を連れて行って、押し込まれていた部屋を探させたというあたりは翠子も驚いた。

 さすがこの国一番の陰陽師である。物の怪を使役させるなど、彼にしかできないだろう。

「では皆さんやはり本当に病でお倒れに?」

「ああそうだ。病に倒れ、狭い小屋に閉じ込められていたのに、自分たちは左大臣の好意で手厚く治療を受けていると思い込んでいた。事実飲まされていたのは薬で毒ではない」

「それは一体どういう……」

 翠子は首を傾げる。

 それが本当なら、左大臣はいい人になる。

「最初だけ毒を使い、弱らせたところで薬を使い、巧妙に心を操っていたのだろう。どこまでもずる賢い男だ」

 唯泉が救い出した者は赤虫が治療にあたっている。症状を見てすぐに思い当たったらしい。彼女たちが飲まされていたのは、赤虫が渡した毒のうちのひとつだったのだ。

「毒そのものは? 左大臣家から出てこなかったのですか?」

 頷いた唯泉は「わからぬ。邸を片っ端から調べるわけにもゆかぬしな」と言う。

 今の話では、捕らわれていた者たちはまるで左大臣に感謝していたような口ぶりである。毒が出なければ、左大臣を罪に問えないものなのだろうか。

「おまけに脅されていた側の女官たちは、事件と直接は関わっていないようだ。あくまで間接的な関わりゆえ、今回の件だけで左大臣を暴くのは難しいかもしれぬな」

 唯泉はそれ以上なにも言わなかった。
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