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≪ 可惜夜(あたらよ) ≫
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しおりを挟むひと息ついて、ちょっと休もうと茶屋に入った。
朱依と篁はまゆ玉がいるので外の椅子に腰を下ろし、煌仁と翠子は店の中に入った。
麦茶で喉を潤しほっと息を吐く。
「どうかな? 市場は、楽しい?」
「はい、とても」
「そうか、よかった。疲れただろう?」
翠子はいいえと首を振る。
本当は少し疲れていたけれど、それ以上に楽しいから。
話をしているうちに家族の話になった。
「そなたの母は?」
「母は、私が子供の頃に。――母は孤独な人でした。火事で私を助けるために髪を焦がしてしまって、父に捨てられて」
不思議だった。
誰にも話したくないはずの母の悲しい思い出も、煌仁になら聞いてほしかった。
「私が初めて物の声を聞いたのは、亡くなった母の衣を手に取った時でした。『大丈夫、大丈夫』って、衣が訴えたんです。とても優しくて、だから寂しくはありませんでした」
「母の声でか?」
「はい」
顔を上げて煌仁を見ると、彼は苦しそうに目元を歪めている。
「そうか、――そうか。それは……すまない。辛いことを思い出させてしまって」
「あっ、すみません、余計な話を」
「いや、よく話てくれたな」
彼は翠子の手をとり、両手で包みこむ。
「その悲しみは私が受け取った。ほら、わかるか? そなたの手から私の手へと移っているぞ」
――え?
そんなはずはない。彼がそのような力を持っているはずがないと思うのに、包みこまれている手が彼の温もりで温かくなるにつれて、本当に消えていくような気がした。
「煌仁さまの母君の声も、とてもとても優しい声でした」
翠子の母のように。
「そうか」とうなずいた煌仁は、懐かしむように束の間遠くを見る。
「さあ食べよう。ほら、この焼き餅は美味しいぞ、ほら、口を開けて」
「え?」
「手袋が汚れてしまうから、口を」
恐る恐る口を開けると煌仁はにっこりと微笑みながら、翠子の小さな口に餅を入れる。
焼いた餅は醤が塗ってあるようだ。香ばしくて、少し苦くて、噛むほどに旨味が広がってくる。
「とてもおいしいです」
「だろう? こっちの餅は甘いぞ? さあ」
また口を開ける。
次に差し出された餅は艶めいていて、口の中に広がる甘葛はうっとりするほど甘く疲れが消し去ってゆく。
「どうだ?」
「こんなにおいしい餅は初めてです」
「そうか、それは良かった。喉も渇いただろう」
今度は麦茶が入った器を差し出す。
それくらい自分でできるのに、せっせと世話を焼く煌仁がなんだかおかしくて頬がほころぶ。
東宮にこんなふうにしていただいていいのだろうか?
殿下ではなく煌仁と呼んでほしいと言われても、最初は戸惑った。
煌仁さまと言うとうれしそうに微笑んでくれるので、そうさせてもらっているが、彼が心を開いてくれているのは翠子にもわかる。
なんとはなしにうれしかった。
笑顔の裏にあったはずの臆病な心が影を潜めはじめる。
豊かな包容力と深い優しさに溢れる煌仁の微笑みを前に、翠子の心の厚い壁がぽろぽろと剥がれていくようだった。
「煌仁さまは、東宮の地位をお譲りになったら、それからどうするのですか?」
「まず宮中を出て、大陸に行ってみたいな」
「え? 大陸って、唐へですか?」
「ああ。唐の国には、あらゆる国から人々が集まってくるそうだ。肌の色や目の色も違うらしいぞ」
「すごい、すごいです煌仁さま」
唐の国へ行くなんて、考えついたことすらない。
彼と話していると、翠子の小さな世界が無限に広がっていく。まるで自分まで外国の人々の中に入っていくような気さえした。
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