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≪ さやけし君 ≫

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 翠子が宮中へ来て数日が経ったある日。西の空が赤く染まった頃に煌仁は現れた。
 今日も篁を伴っている。

 先に唯泉が教えてくれたことを思い浮かべながら、彼の衣を見た。
『彼が身につけている衣の柄を見てごらん。東宮のみが許された小葵のお留柄だ』
 葵の柄は色々あれど、よく見れば翠子が初めて目にする複雑で美しい文様である。

 宮中を歩く男性の貴族は基本的に束帯という黒い衣装を着ていて、煌仁のような直衣でいる人物は皇族やごく一部の限られた階級の人だとも聞いた。
 なるほどそんな決まりがあるのかと思いながら、翠子は扇を端からそっとふたりを観察する。

 篁は耳のところに馬の毛でできた扇のような飾りを付けている。そういえば以前朱依が言っていた検非違使の衣装だと思い出した。
 いかにも武官らしく厳つい顔をしている篁は、体も大きく頑丈そうだ。ちょっとやそっとぶつかったところでびくともしないだろう。
 それに比べて東宮は――。

 篁と変わらないだけ背が高いのに、彼はすらりとしている。線が細いわけではなく力強さはあるものの、まとう空気が華やいでいる。
 こう言っては失礼かもしれないが、篁が石だとすると煌仁はりんどうの花というくらいの違いがある。さやけし君だ。

 すうっと横に流れる涼しげな目元に通った鼻筋。凛々しく結んだ唇。それでいて広い肩幅や衣を着ていてもわかるがっちりとした体躯は、女性にはない別の美しさを感じる。

 皇族は皆このように美しいのだろうか。
 主上は御簾に隠れお姿も声も直接は見聞きできなかったけれど、やはり美しい方なのだろうと翠子は想像した。輝くばかりにきれいなこの東宮の父なのだから、そうに違いないと思う。

 とはいえまだ、彼がどんな人物なのかよくわからない。
 美しさと人柄は別だ。
 警戒するようにじっと見つめているうちに、篁と何事か話をしていた彼がふいに振り返った。
 視線が合ってしまって慌てて扇の後ろに隠れる。既に顔を見られているので今更ではあるが。

「唯泉と話をしてなにかわかったか?」

「物の怪の仕業ではなさそうだと思いました」

「なぜそう思った?」と、性急な物言いで煌仁は聞いてくる。

 まるで責められているようだと困惑し、翠子の心に影が差す。
 美しいからというだけでは心を開けない。来たくもないのに連れてこられたのだと、ふつふつと不満が込み上げた。
 この前話をした時は案外優しい人かと思ったのに、今日は邸で会った時の彼に戻っている。もともとこういう人なのだと思う。
 彼は横柄で強引な人なのだ。

「感じたのは、強い愛情だけでしたので」

「愛情も度を過ぎれば――」

「愛が憎しみに変われば、それは憎しみです」

 早く話を切り上げたくて、つい言葉を遮って剣呑な返事をしてしまう。
 たとえ相手が東宮でも、答えを変えるつもりはない。気に入らないのなら邸へ帰してくれたらいいのだと、翠子は半ば開き直っていた。罰を受けるならそれでもいいとさえ思う。

 自分は感じたままを正直に伝えたという自負がある。
 扇で隠した頬を膨らませて、翠子はつんと横を向いた。

 ここへ連れて来られて食事も衣服にも困らないが、だからといって好きでいるわけじゃない。
 煌仁が東宮だとわかった今は、歩み寄ろうとする気持ちもなかった。
 皇族という雲の上の存在だと知り、むしろ心の距離は遠くなるばかりだ。
 翠子の悲しみや辛さをわかってくれる陰陽師の唯泉とはわけが違う。

 おいしいものを食べ、具合が悪くなれば宮中にいる医師や陰陽師に治してもらう。そんなふうに生きてきた彼とわかりあえるとは思えなかった。
 物の声を聞くために命を削るがごとく緊張し、怯えながら指先を伸ばすときの恐ろしさなど彼は想像だにできないのだろう。

(あなたは命令するだけで、すべてが思い通りにいくと思っているんだわ。なにもかもが意のままにならない私とは違うのよ)
 卑屈な思いが先走る。

 翠子の気持ちを察した朱依は、あからさまにムッとして黙り込む。
 篁は眉をひそめ、煌仁はジッと翠子を見つめるという不穏な空気が漂う中、しばし沈黙が流れた。

「なるほど」
 沈黙を破った煌仁は、今度はゆっくりと間を置きながら話し始めた。

「そなたが感じた愛情とは、どのような?」

「愛情は愛情でございます」
 憮然としたまま、それきり翠子は横を向いたまま口を閉ざした。

「愛情にも色々あると思うが」

 煌仁は言葉を続けるが、翠子は口を開かない。
 仮にも東宮に対してこんな態度は不敬だろう。世間知らずの翠子にもそれはわかる。けれど気持ちに嘘はつけない。

 翠子は愛想笑いというものを知らない。罰したければ罰すればいい。もとよりこの世に未練はない。正直でいられないくらいなら、いつ死んだって構わないとさえ思った。

「ちょ」
 なんだその態度はと、眉間にしわを寄せ腰を浮かせたのは煌仁ではなく篁だった。

 頑として口を閉ざしたままの翠子をにらみ、腹立たしげに片膝を立て「おい」と声を張ったが、東宮の手に遮られた。
「よい」

「ですが」
 微かに振り返った煌仁に睨まれて、篁はため息をもらし、立てた膝を元に戻す。

 その篁を朱依がきりきりとにらむ。噛みつかんばかりの視線に気後れしたのか、篁は、ばつが悪そうに瞼を閉じた。
 少し離れたところで、まゆ玉が成り行きを見守るようにジッと見ている。

「姫よ。そなたは何が好きか? 今度持ってこよう。衣? 唐果物か? それとも紙が良いか?」
 好きな物でも与えれば言う通りにすると思っているのだろうがそうはいかないと、翠子は心で反発した。

「何もいりません。一日も早く邸に帰していただきたく思います」

 そう言い放ち、形ばかり深く頭を垂れてから立ち上がった翠子は、衣を翻し部屋の奥へ入っていった。チリンチリンと鈴を鳴らし、まゆ玉が走って翠子の後を追う。
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