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夢から覚める

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 マコトが狼と呼んだその生き物は、本来であればもう手遅れの段階だった。
 ざっくりと切り裂かれた腹部から流れる血の量からして、助かる見込みはない。けれど、フェリクスの高度な治癒魔法をもってすれば、その命を繋ぎ止めることができた。

「……この狼は、お前にとって特別な存在なのか?」

 静かな問いかけに、マコトの黒く澄んだ瞳が揺れた。

「特別というか……目の前に弱っている動物がいて、助けたいって思っちゃダメですか?」

 答えを聞く前から頭のどこかでは分かっていた。この男はどこまでもお人好しで、どこまでも善人なのだ。

「……高くつくぞ」

 魔法は万能ではない。大きな犠牲を払うことになると知っていて、フェリクスはマコトの望みを叶えることにした。
 手のひらをかざすと同時に、カッと眩い光が溢れた。
 マコトの黒曜石のような瞳に光が乱反射する。夜空に浮かぶ星のような輝きを最後に、フェリクスの記憶は途絶えていた─



 夢を見た。まるで恋人のようにマコトに触れ、時には子供のように甘える。フェリクス自身ですら戸惑うような言動も、全て夢なのだから致し方ない。
 長い眠りから目覚めた時、一番に見慣れた天井が目に入った。視線を横へ滑らせれば、マコトが心地良さそうに寝息を立てている。
 その穏やかな寝顔とは裏腹に、マコトの素肌には情事を彷彿とさせる痕が幾つも残されていた。

「な……」

 何故、と言葉が続く前に、全てを理解してしまった。
 現実だったのだ。夢だと思い込んでいたここ数日の記憶は全て、実際に起きたことだった。

「ん……」

 マコトの睫毛がふるりと震えた。ゆっくりと瞼が持ち上がり、フェリクスの姿を視界に映す。

「あれ……殿下? おはようございます」
「……ああ」

 困惑を滲ませたフェリクスに、パチクリとマコトが瞬きする。その顔に後悔も恨み言も見られないことに、密かに安堵した。

「朝には早い。まだ寝ていろ」

 もう少し、頭を整理する時間が欲しかった。半ば強引に寝具をかけ直してやるが、マコトは不思議そうに首を傾げるばかりだった。

「殿下? どこか具合が悪いんですか?」
「……何故そう思う」
「いつもと様子が違うからです」

 小さな違和感を感じ取れるほどには、数日間で二人の距離は縮まっていた。
 その事実に内心で動揺しながらも、フェリクスは平然と答えた。

「夢見が悪かっただけだ」
「……そうですか」

 深掘りせずに引き下がったマコトから視線を逸らした。不自然にならない程度に距離を取り、沈黙を貫く。
 それを破ったのはマコトだった。

「あの……僕、何かしてしまいましたか?」

 核心を突く問いに、再び動揺が走る。正確に言えば、何かしてしまったのはフェリクスの方だ。けれど、それをおくびにも出さずに首を振って否定した。

「いや」
「……ならいいんですけど」

 探るようなマコトの視線から逃れるように顔を背ける。
 これ以上追及される前に、とフェリクスは重い腰を上げた。

「あ、殿下……っ」

 何か言いかけたマコトに構わずベッドから離れようとするが、それは叶わなかった。
 マコトの手が、控えめに夜着の裾を掴んだのだ。

「なんだ」
「……いえ、あの……すみませんでした!」

 勢いよく頭を下げられ、フェリクスは目を丸くした。予想外の謝罪の言葉に動揺しつつ、意味もなく水の入ったカラフェに手を伸ばしていた。

「何故お前が謝る」
「その、殿下を怒らせてしまったので」
「気のせいだ。それより水は飲むか」
「え?」
「水だ。喉が渇いただろう」
「あ……はい」
「飲め」

 水を注いだグラスを差し出せば、マコトがおずおずとそれを受け取った。
 探るようにチラチラとフェリクスの顔色を窺い、意を決したようにグラスに口をつけた。そのまま喉を鳴らしてグラスを一気に傾ける。

「もう一杯いるか?」

 空になったグラスに水を注いでやれば、マコトが首を横に振った。水はもう十分ということらしい。

「落ち着いたか」
「……はい」

 どちらかと言うと動揺しているのはフェリクスの方だ。
 気まずそうに俯いたまま、マコトが小さく頷く。綺麗に渦巻き模様を描いたつむじを眺めているうちに、気づけばマコトの髪に手を伸ばしていた。

「安心しろ。お前は何もしていない」

 ぎこちない手つきで髪を梳きながら言う。マコトが驚いたようにフェリクスを見上げた。

「なら、どうしていつもと違ったんですか? いつもは起きたらすぐ、あま……くっついてくるのに」

 甘える、という単語をかろうじて飲み込んだマコトに、ぐっとフェリクスの眉間に皺が寄る。

「嫌なのか?」
「いえ! 嫌とかではないんですけど……」

 歯切れ悪く言ってから、マコトがじわじわと頰を赤らめた。

「……少し恥ずかしくて」

 思い出すだけで照れてしまうのだろうか。みるみる赤くなる顔に、思わず舌打ちしそうになった。
 それは決してマコトを疎ましく思ったからではない。
 可愛い、そう思ってしまった自分自身への苛立ちだった。
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